嵐の後
動揺と、軽蔑と、怒りと、哀しみと。
色々な感情が入り交じって、エミリーは目尻に滲んできた涙をぐっと堪えた。
人を叩いたのは初めてで、まだ手の平がじんじんと鈍く痛む。
「お、ねえ、さま、どうして」
「どうしても何も、ローザこそどうしてそんなことが言えるの?禍々しいだとか、醜いだとか、たとえ照れ隠しにしても酷すぎるわ!」
「…………え、」
エミリーとしては激情を極限まで抑えた心算であったが、それでも全員の驚くように見開かれた目の行く先がエミリーへと集中した。
刺さるほどの視線に、今更ながらにローザを叩いてしまったことを後悔する。
いくらローザが間違ったことをしたからと言って、手を出すべきではなかった。淑女として、姉として、人として。
隣のユアンからも勿論視線を感じて、けれどそれが侮蔑の表情だったらと思うとどうしてもそちらを確認することが出来ない。
手をぎゅうと握りしめて、エミリーは俯いた。
「ごめんなさい、ローザ。思い切り叩いてしまって」
「………」
「でも、ダメよ。いくらユアン様が好きだからといって、傷付けるようなことを言っては」
尚も沈黙は続く。
これ以上エミリーは何を言えば良いのか分からない。
ローザは、ユアンと結婚したいと言った。妻の座を譲ってほしいと。
これまでも、ローザは度々エミリーのものやエミリーの周囲の人を自分の手元に置きたがることがあった。
隣の芝は青々として見えるもの。
物欲のないエミリーは、これまではローザの願いはある程度叶えてきた心算だ。
それは単なるエミリーの自由意思であって、奪われたとも、自由のない生活を強いられたとも思っていない。
前にメイにも話した通り、エミリーが望んだものだけは手元にあったから。
けれど、ユアンを譲ってほしいと言われたとき、エミリーはすぐに頷けなかった。勿論、伯爵家の体裁もあるが、そうではなく。
ローザの言う通り、ユアンがローザの方が好みだからローザと結婚したいと言えば、エミリーは否とは言えない。
けれど、――出来ることなら、このまま。
「ユアン様。この度は、妹が大変失礼致しました。けれど、どうか誤解なさらないでくださいませ。妹は、私に代わって妻になりたいとこうして会いに来てしまう程ユアン様のことが好きなのです。だから、照れてしまってこのような失礼なことを――…」
「……は、ははっ…!なるほどな、そういうことか」
謝罪の言葉を述べながらユアンに対して頭を下げると、ユアンが珍しく大きく口を開けて笑った。とても可笑しそうに。
エミリーは、あれ程ローザが酷いことを言ったのに傷付いていないのだろうか、と不思議に思い首を傾げる。
しかし、エミリーの目には、ユアンがショックを受けているようには感じられなかった。
ひたすら穏やかに、エミリーを見ている。
ユアンは暫くエミリーを見ていたかと思うと、ふと視線を外してローザの方を向いた。
ローザは未だに呆然とした顔をしている。
「……確かに最初は長女だろうが次女だろうがどちらでも良いと思っていたが、今はエミリー以外を娶る心算はない。分かったら、さっさと伯爵から預かった婚姻届を出せ」
ユアンは冷たい声でそう言い放つと、書類の催促のためローザに手を差し出した。
目の前で震えるローザからユアンへと恐らく婚姻届等が入っていると思われる封筒が手渡されるが、エミリーの心境はそれどころではなく。
(……ユアン様が、エミリー、エミリーと!)
エミリーに向けてではないが、ユアンが自身の名を初めて呼んだことに、心臓が暴れまわっていた。
勿論夫となるユアンがエミリーの名前を憶えていない等と思っていたわけではないのだが、それでもこれまで呼ばれなかったから。
その上、「エミリー以外を娶る心算はない」など、エミリーにとってはこれ以上ないくらい嬉しい言葉であった。
◇ ◇
その後恙なく書類を受け取ったユアンは、殆ど無言を貫いていたローザを丁重に送り返した。
――丁重にとはエミリーの主観であって、実際にはユアンはローザと関わろうとはせず、ルイスを筆頭とした屋敷の使用人たちとメイが「さっさと帰れ」と言わんばかりに強引に馬車に押し込めたのだが、それはさておき。
騒がしい嵐の去った応接間で、ユアンとエミリーは二人きりで隣り合わせのまま座っていた。
「あ、あの、ユアン様」
「なんだ」
「先程は、本当に妹が失礼致しました。妹の発言で、さぞ不愉快な思いをされたかと…」
「良い、君の所為ではない。それに、元々はこれを届けに来たのだろう」
これ、と言って、ユアンは封筒から婚姻届を取り出した。
そこには紛れもなく伯爵家の印が押されている。
「これを役場に出せば、晴れて俺と君は夫婦となるわけだが」
「ええ」
「……君自身は、本当に良いのか?」
ユアンが不安げに揺れる夜色の瞳にエミリーを映す。
――君自身は、とは、きっと家柄等関係なくエミリーの意向を確認してくれているのだろう。
婚姻届を渡されたときも、ユアンは「君の自由意思で決めてもらいたい」と言っていた。
ユアンは今まで顔合わせに来たどの令嬢とも、顔合わせなく無理矢理にでも娶れる立場だ。
それでもこれまで決まらなかったのは、きっと、ユアンが一生を共にするかもしれない相手の意思を確認してきたからで。
(――ああ、やっぱり、なんてお優しい方なのでしょう)
ユアンがエミリーを見つめている。その内面を、窺うように。
綺麗な顔を普段よりも間近で見て、エミリーは顔が熱くなるのを感じたが、ここで目を逸らしてはいけないと思い至りユアンの瞳へと意識を集中する。
ユアンの身体が少し強張った。
「私は、ユアン様のお傍にいられたら、幸せです」
「――そうか」
ユアンは一際嬉しそうに微笑んだ。
頬を桃色に染め笑みを象るその様は、エミリーには言葉にし難い程美しく。
日頃あれ程すらすらと出て来る言の葉が今は何一つ思い通りにならず、ただゆっくりと近付いてくるユアンの顔を無言のまま見つめることしかできない。
「ずっと傍にいてくれ」
ユアンの少し掠れた声が鼓膜へ溶けるように沁み込み、言葉を発するときに漏れ出た息があと数ミリの距離しかないエミリーの唇へと掛かる。
少しでも動けば唇同士が触れてしまう距離。
エミリーは咄嗟に目を瞑った。
「――……?」
てっきり唇へのキスをされるものだと思っていたエミリーには、一向に何の感触も訪れない。
エミリーが思わず目を開くと眼前にはユアンの顎があり、その後すぐ額へと柔らかいなにかが当たる。
ユアンがエミリーと距離を置いて初めて、エミリーは額へキスされたのだと理解した。
「あ…、」
「……婚姻届は、結婚式の当日に提出する。明日からは式の準備で忙しくなるから、今日はゆっくり休むように」
「は、はい……」
エミリーは茹でたての蛸のようになってしまった両頬を手で包む。
(…私ったら、おでこではなく唇にキスしてほしかったなんて…、なんて恥ずかしいことを)
ユアンが立ち上がり部屋から出ていく後ろ姿さえも、エミリーは見ることも出来なかった。
後ろからでも分かるほどユアンの耳が真っ赤に染まっていたことを、勿論エミリーは知らない。




