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傷の理由




爽やかな風が頬を撫でる。さわさわと揺れる草花が殊更に穏やかさを強調し、ふわりと漂う花の香りが心を落ち着かせてくれる。太陽に照らされたさらりと揺れる藍色の髪が、眩しい程の光をやわらかく遮り美しく輝いた。


「まるで芸術作品を見ているようですわ…!人の手による光にあたる髪も幻想的で美しかったですけれど、こうして陽の光を浴びたユアン様の髪はまるで太陽の祝福を受けたかのように煌めいていらっしゃいます」

「この髪が祝福を受けたようだと?本当に君は変わっている」


恍惚とした表情で見つめるエミリーの言葉に未だ慣れる様子を見せないユアンは、眉を顰めて茶を一口啜った。

一見怒っているようにも見えるその表情が怒っているわけではないことを、エミリーは知っている。正確には、彼の従者であるルイスが教えてくれたのだ。


「ユアン様のあの表情は、照れているお顔でございます。幼い頃より共に過ごした私が言うのですから、間違いありません」


そう耳打ちしたルイスの言葉に顔を赤らめてしまい、「エミリー様は照れているのも分かりやすくていらっしゃいますね」と揶揄われたのはつい昨日の晩餐後のことだ。恥ずかしい思いはしたものの、ユアンが自分との会話を嫌がっているわけではないらしいということを知れたのはエミリーにとって嬉しい情報である。

初めて会った時から、ユアンはエミリーに対して優しい。勿論これはエミリーの主観であるが。そんなユアンと結婚できるかもしれない立ち位置にいるということは、エミリーからしてみれば本当に夢のようだ。

これまでは食事のときしか二人で過ごせる時間はなかったというのに、昨日は名前呼びを許され、今日はこうして食事以外の時間に美しい庭園で一緒にお茶を飲む時間を作ってくれている。

正確には誘いに来たのはルイスであるのだが、ルイスの言うことが正しいのであれば、ユアンもこの時間を望んでくれたのだという。


「君は、…その」

「はい?」


言い淀む様子を見せたユアンを、エミリーが覗き込む。まっすぐ見つめるエミリーにたじろいだユアンは一度咳払いをして、それから覚悟を決めたようにエミリーを見つめ返した。


「君は俺の髪や瞳を美しいと言うが、……この傷は怖くないのか?」

「……!」


エミリーは息をのんだ。ユアンの少し太くて骨ばった男らしい指が、額から鼻へとかかる傷跡をなぞる。

鬱陶しそうに細められた瞳が何かを諦めたように力を失くし、少し下げられた眉尻がエミリーの胸を締め付けた。

――初めてこの傷を見た時は、その背景にある物語を想像して心が沸き立った。けれども、今はどうしてもあの弾むような感覚にならない。

どくどくと嫌な音を立てて心臓が軋んで、言いようのない悪い予感に身が震える。理由を知りたい。聞いてはいけない。相反する思いで、くらくらと眩暈がするような心地だった。


「その傷が出来た理由を……聞いても、良いのでしょうか」


それは自分に対する問いでもあった。ユアンはこくりと頷いてから、瞼を下ろしてぽつりぽつりと話し出す。


「…俺は生まれてすぐから、この髪と瞳の色の所為で母親から嫌われた。世話をする気もなかったようだったが、父親である当時の公爵は俺のことを正式な息子だと認めてくれていたから、俺をダシにして金を強請ってたんだ。金を寄越さないと、会わせないし世話もしないで捨ててやるって言っていたらしい」

「そんな……」

「父親と母親は、俺を妊娠したことが分かる少し前に離婚してな。当時は親権は母親にあったから、父親にも手出しができなかった。母親は気に入らないことがあると癇癪を起こして、その度に鞭やなんかで俺を痛めつけて発散してた」


エミリーはユアンの話を聞きながら、彼の幼い頃の境遇を想像した。

生まれた瞬間から自分を嫌う母親。味方がいると分かっていながらそちらに行くことができない状況。子供の柔らかい肌を、鞭で叩かれる痛み。どれ程つらかっただろう。苦しかっただろう。悔しかっただろう。何不自由ない家庭で育ったエミリーには想像もできない悲しみを、幼い彼はどうやって耐えていたというのか。


「8歳の頃だったか……その日母親はそれまでにないくらい機嫌が悪かった。俺を見るなり、『あんたがそんな髪と目じゃなきゃ私だって愛せた』と叫んで、俺の顔目掛けて鞭を振り下ろした」

「……っ!」


エミリーは思わず口を両手で覆った。そうしなければ、悲鳴にも似た声が出てしまいそうで。声を抑えられた代わりに、エミリーの瞳からぽろぽろと涙が溢れた。

目を瞑って話すユアンは、エミリーが泣いていることには気づいていない。


「それまでは父親に会っても気付かれないように服で隠れる範囲しかやられなかったのに、顔面だったからな。流石に命の危機を察して、初めて家を飛び出した。…ルイスには、そのとき会ったんだ。匿ってくれて、公爵家の――父親の元まで連れて行ってくれた。それからは二人で公爵家で暮らしたから、ルイスとももう長い付き合いだな」


懐かしむように緩められるユアンの口許と相反するように、エミリーの表情が歪む。留まることの知らない涙が次々と大きな瞳から零れ、堪え切れない嗚咽が聞こえて初めて、ユアンはエミリーを見た。


「っ、どうし…」

「うっ…、ひぐ、っも、申し訳ありません…!」

「……は?」


エミリーの突然の謝罪に、ユアンは意味が分からないという顔でただエミリーが泣く様を見ていた。

暫くしてエミリーの嗚咽が収まった頃、今度はエミリーが話し始める。


「私、ユアン様のお顔を初めて拝見したとき、傷を見てどんな過去があったんだろうと想像しましたわ。どんなことがあったんだろう。もしかしたら、誰かを助けたときに負った傷かもしれない。日常の些細なことで負ってしまった傷かもしれない。…そんな、そんな何の捻りもない想像です」

「……がっかりさせたか?」

「違います!…どうして、誰かに一方的に傷つけられたのかもしれないと思いつきもしなかったのだろうと、その傷の背景にユアン様の辛い過去があったかもしれないと考えられなかったのだろうと、……そんな自分が恥ずかしく、申し訳ないのですわ」


そう言ってから、再びエミリーは嗚咽交じりに泣きじゃくった。エミリーがこれ程までに泣いたのは、エミリーが記憶する限り初めてのことだ。

何を夢見ていたのだろう。目の前にいるのは物語の登場人物ではなく、これまで生きてきた人間だというのに。どうしてその傷の痛みを想像しようとしなかったのだろう。跡に残るほどのそれが、痛くなかったわけはないのに。


「……泣き止め。別に、謝ってもらおうと思って話したわけじゃない」

「ですが…っ、私は最低ですわ……!」

「ふ…、このように泣く貴族令嬢など、君以外にはいないだろうな」


ユアンは既に空となった手元の茶器の中を見つめた。涙でぼやけるエミリーの視界の中で、ユアンが困ったように笑う。エミリーのことを責めても当然なのに、ユアンが怒った素振りはない。


「…茶どころではなくなったな。戻る」

「はい……私は、落ち着いてから戻りますわ」

「ああ」


ユアンはゆっくりと立ち上がり、何事もなかったかのように庭園を後にした。その後ろ姿を見送ってから、エミリーは半分ほど残っていた茶を一気に飲み干す。

微かに感じられる塩味が、エミリーの胸を余計にきつく締め付けるのだった。






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