第3話 出発は土曜の早朝に
毎年この時期になると、常連のマダムから言われることがある。
「そろそろ社員旅行の季節じゃないのかしら? 今年はどこへ行かれるの?」
毎年この時期には1日か2日店を休んでいるので、何も告知しないでいると、かえって常連さんからは心配されるようになった。
「ご配慮、ありがとうございます。お察しの通り、先日オーナーからのお達しがありまして、今年は神戸方面へ行こうかと思っています」
「まあ、神戸。素敵ねえ」
「一千万ドルの夜景に中華街に、……もう何年も行ってないから、ずいぶん変わっているでしょうねえ。帰ってきたらぜひお話を聞かせてちょうだい」
静かに微笑むシュウの横から、元気な返事が聞こえてくる。
「はい! また店を休んでご迷惑かけますが、いっぱいお土産話を仕入れてきます!」
「ほほ、頼もしいこと」
「楽しみにしているわねえ」
ニッコリ頷いた夏樹が足取り軽くカウンターを出て、椅子から立ち上がる気配を見せたマダムの後ろへまわる。
「それでは、あちらでデザートをお出しします。今日はどの席にしますか?」
丁寧に椅子を引きながら言う夏樹に、マダムは嬉しそうに微笑んでぐるりとソファ席を見回した。
その次の土曜日。
皆であれこれ相談した結果、日程は土曜日からの二泊三日。
今回は一番に「北野天満神社」へ行きたいと言う由利香の意向を汲んで、早朝に★市を出発することになった。
何故早朝?
土曜日なので、観光客がなるべく少ない早い時間に到着して、ゆっくりとお参り〈お話をするとも言う〉をしたいからだ。
「別に早く来なくても、時間はどうにでもなるのに」
と、《てんじん》さんは仰ってくれたのだが、由利香は、「そんなずるしちゃいけないわ」と、人時間に合わせてもらうようお願いしたのだ。
そんな経緯を経て、『はるぶすと』の面々が今、まだあたりの店も開店していない、観光客もほとんどいないような時間に、北野天満神社の鳥居前に到着したところだ。
とはいえ、ここへたどり着くまでにもひと悶着あるのが彼らの彼らたるゆえん。
神戸には元町や神戸など他にも賑わう街はあるが、その中でも代表的な繁華街のひとつに、三ノ宮がある。
そして北野は三ノ宮からは徒歩圏内なのだが、なぜか冬里が、
「ここからタクシー使ってもいいよ~」
と優しい提案をしてきた。
「なに? 冬里。槍が降ってくるんじゃない?」
由利香が失礼な言い方をしたあと、地図を確認しつつ言う。
「なあんだ、徒歩で充分いける距離じゃない。歩きましょ」
「良いんだね?」
「もちろん!」
胸を叩いて宣言した由利香だったが。
「ゼエ、ゼエ……、な、なによこれ。神戸ってこんなに坂が多いのお~、聞いてないわよお」
いかんせん、神戸と言うところは海と山に挟まれている土地で、北に六甲山、南には神戸港があり、その先に海が広がっている。
なので、北に行くに従ってかなり急な坂道になっていくのだ。
地図で距離だけを見れば、なんてことはないのだが、実際に行ってみるとどんどん勾配が上がっていく。
「だからタクシー使おうって言ったのに」
可笑しそうに言う冬里に、由利香はハアハア言いながらも、まだ文句は言えるようだ。
「訳を言ってなかったでしょ! こんな坂道だって知ってたんなら、先に言ってよもう!」
「ふふん」
「でも、それにしてもあんたたちは、なんでそんなに平気なの? ……ああ、清水寺に行ったときのことを思い出す~。あのときもけっこうな坂道登ったのに、鞍馬くんも夏樹も、全然息切らしてなかったのよ」
「え? けっこうきてるんだけどな~」
「嘘ばっかり! ゼエ、……で、なにこれ、いったい勾配何度あるの? ゼエ」
北野天満神社にたどり着く最後の坂は、急に険しくなる。とは言え、そんなに距離はないのだが。
「あ、鳥居が見えてきたよ。頑張れ、由利香」
前を行く椿が、彼も息を切らしつつ由利香を励ましている。
「ホントだ~。やったあ、やっと到着~、……、……、え?」
だが、由利香がそこに見たものは、そびえ立つ階段。
まさに、そびえ立つと言う形容がぴったりな、急勾配で一段一段も高く造られた階段がそこにある。
「う……、嘘。この上?」
「そうみたいっすよ。けど、清水寺だってけっこうな坂道のあとに階段だったじゃないっすか。同じっすよ」
唖然とする由利香に、夏樹が当然のように言う。彼もまた、ひとつも息を切らしていない。
「苦労してこそありがたいってか? けど夏樹、お前なんでそんなに平然としてられるんだよ」
あきれたように言う椿に、夏樹は「さあ、なんでだろ」などとこちらは不思議そうだ。
「でも、ここを登らなきゃ《てんじん》さんには会えないって事よね。……じゃあ、頑張るしかないわね」
少し回復した由利香が、気を取り直して言った時だ。
なぜ今まで気づかなかったのか、階段の左右に見目麗しい好男子が笑顔で立っていて、こちらに手を差し伸べていたのだ。
「ようこそお越し下さいました」
「こちらの階段は急で危ない。お手をどうぞ」
いきなりの展開について行けない由利香と椿の後ろから、冬里が2人に聞く。
「君たちは《てんじん》の眷属かな?」
「「はい」」
仲良く答える2人は、さあさあ、と言うように由利香に手を差し伸べたままだ。
だが、それを遮るように椿が由利香の手を取った。
「由利香には俺がいるから大丈夫です」
「あれ? さすが由利香ひとすじの椿。他の男には手を触れさせないって訳?」
冬里が面白そうに言うと、椿は慌てたようにそちらを見ながらも、しっかり頷いていた。
するとイケメン2人が、あ、と顔を見合わせたかと思うと。
次の瞬間、彼らは美しい乙女に変身していた。
「さあ、どうぞ」
そして今度は椿に手を差し伸べてくる。
「ありがとうございます。でも、由利香の気持ちを考えると、やはり遠慮しておきます」
ここでも椿のナイト精神が発揮される。由利香はしばしぽかんとしていたが、そのあとは嬉しそうに微笑んで椿の腕に腕を絡める。
すると、顔を見合わせた乙女たちが。
次の瞬間、椿の横にはイケメンが、そして由利香の横には乙女が現れて、2人の手を取り階段へと誘導して行ったのだった。
一部始終を眺めていた3人の千年人は、肩をすくめたり、微笑んだり、また楽しそうに笑ったりしながら、そのあとについて階段を上っていった。
急な階段を上ると、そこは雪国だった……、
いやいや、そうではなくて。
急な階段を上り切った先には開けた場所があり、そこに独立した拝殿が鎮座している。奥にはもう一つ階段があり、どうやら本殿はそちらにあるようだ。
振り返ると、風見鶏の館の尖塔が下に見え、その向こうに神戸の街並みが広がっている。
「わあ、素敵ねえ」
由利香が思わず手すりのある所まで行って景色を眺める。
椿が隣へきて、同じように景色を眺めていると、ひゅう、と爽やかな風が吹いてきた。
と思った途端、くるりと何かが入れ替わった気配がして……。
「え? わっ」
拝殿前の広場には、カップとソーサーがセッテイングされた美しいテーブルが現れ、『はるぶすと』ご一行様は、いつの間にかこれまた美しい椅子に着席している。
「失礼します」
そこへポットを持って現れたのは、先ほどの美男子と乙女。彼らは慣れた様子で各々の席をまわっていく。
注がれたのはコーヒーだ。
「日本で初めてコーヒーを販売したのは神戸やったそうや。まあ楽しんで」
同じように席に着いているのは、このシチュエーションにぴったりなダブルのスーツを粋に着こなした紳士だ。
「あ、あの……」
由利香が聞くより先に、冬里がソーサーを持ち上げながら言った。
「今日はずいぶんおめかししてるじゃない? 《てんじん》」
「当たり前や。今日は特別なお客さんが来る日やからな」
「ふふ」
察するに彼が《てんじん》らしい。
さすがは学問の神さまと言われるだけあって、端正に整った顔立ちが彼の優秀さを物語っている。
椿と由利香は、顔を見合わせると椅子から立ち上がって頭を下げた。
「初めまして、秋渡 椿です」
「同じく由利香です。このたびはお招き頂きまして、ありがとうございました」
すると、きょとんとしていた《てんじん》は、思い切り破顔して「ガハハハ」と大笑いする。
「えらい堅苦しいあいさつをしてくれはるねんなあ。まあまあ、そんなにしゃっちょこばる必要はありませんで。はい、私が《てんじん》です、どうぞよろしゅうに」
「よ、よろしくお願いします」
今度は由利香たちがきょとんとしていたが、《てんじん》の飾らない挨拶にようやく彼らにも自然な微笑みが浮かび上がる。
「神戸はな、日本初、と言うのがたくさんありますんやで。このコーヒーもそうやけど、ゴルフやマラソン、あとジャズなんかもそうですな」
「そうなんだ」
「初めて知りました」
感心する由利香と椿に、《てんじん》は楽しそうだ。
回りには人っ子1人いない。これはいわゆる「人払い」と言うのをしているのだろうか。それとも、《すさのお》の自宅のように少し違った空間にいるのだろうか。
「あの、ここって、《てんじん》さんのご自宅なんですか?」
コーヒーを一口飲んで「美味しい……」とつぶやき、またまた《てんじん》を笑顔にさせた由利香が、珍しく遠慮がちに聞いている。
「え? ああ、違うんやけど、おふたりが景色を気に入ってくれたみたいやから、しばらくここで過ごすのもええなと思て。自宅に行きたいんやったら、行ってもええで」
と、パチンと指を鳴らした。
「え? わっ」
すると、またくるりと入れ替わり、彼らはお屋敷のような洋館にいた。
大きな窓からはさんさんと日の光が降り注いでいる。明るい色調の壁紙とファブリック。座り心地の良さそうなソファとセンスの良いテーブル。
「へえ、日本の神さまなのに、洋館にお住まいしてるのね」
「和室が良かったんかいな」
また、パチンと鳴る。
「え? わっ」
本日3度目の驚き。
くるりと入れ替わって、彼らは茶室にいた。
和服に姿を変えた《てんじん》が点てた抹茶を、これまた和服姿の美男子と乙女が皆の前に運ぶ。
「あ、お手前ちょうだい致します……」
思わずお辞儀してしまう由利香を可笑しそうに眺めたあと、珍しいことに、なんと冬里が釘を刺した。
「ちょっとお、遊ぶのもいいけど、ほどほどにね、《てんじん》?」
すると《てんじん》は、ハタと動きを止めて、ポンと額を手のひらで打った。
「ありゃあ、冬里に怒られてしもた。この遊び好きに~」
「僕はここまで遊ばないって。はいはい、じゃあ元に戻してよね」
パンと手を打つ冬里。
「わかったわかった。嬉しくて、ちと遊びすぎましたかな」
テヘペロっと舌を出した《てんじん》が、またパチンと指を鳴らすと……。
彼らは最初にいた空間に帰ってきた。
「あれ? あ、帰ってきたのね」
「良かった」
ほっとする秋渡夫妻に、少し名残惜しそうなのが1人。
「帰って来ちまったんすね……。今のが本格的な茶室なんだ、いいなあ、俺も1度でいいから、ああいう所でお茶を点ててみたい……」
その言葉を聞いた《てんじん》が、嬉しそうに、なんと夏樹の頭をなでながら言う。
「おお、おお、夏樹はええ子やなあ。ええよ、滞在中に時間があったら来たらええ。いつでも使いなさい」
「え? 本当っすか? ありがとうございます! やったぜ。よおし、なんとか時間作ってやるぞお」
「俺も来ようかな。本格的な茶室でお手前出来るの、久しぶりだ」
椿の言葉に「おう、いいねえ」と片手をあげる夏樹。その手にハイタッチして、ニンマリと笑い合う2人だった。
「さて、では皆々様方、これより北野天満神社を案内させて頂きましょうかな」
しばらくして、皆の前のコーヒーカップが空になったのを見届けた《てんじん》がおもむろに立ち上がると、またくるんと空間がひっくり返る。
それを待っていたかのように、参拝客が次々階段を上ってくるのが見えた。
旅はこんな風に始まった。




