父なる生き物
アリーチェとヴィオラの父視点です。
自ら死を望む表現が出てきます。
苦手な方は回れ右をお願いいたします。
誤字、訂正しました。
誤字報告ありがとうございます。
見上げると真っ青な空だった。
抜けるような、とはこういうことか。
空の奥行きは果てしなく、どこまでも青かった。
ああ……こういう空の下で、咲き誇る花に囲まれながら、庭を妻と娘と歩いたのは、いつの日だったか。
今は一人テラスで椅子に腰掛け、気持ちを落ち着けてから、便箋にたった一言書いて、小さな封筒に入れて封をした。
それだけのことが、震える手では一苦労だった。
いつからか、思考が濁るようになった。
最初の頃は疲れているのかと思うだけだった。
何かがおかしい。
そう思っても、思考は泥に沈んでいき、与えられたかのような感情が心を占めた。
すべてはヴィオラのために。
少しずつ少しずつ心を浸食し、ついには征服されたのだろう。
アリーチェの存在は覚えていても、ただ「知っている」だけで、自分の存在意義は全てヴィオラのために生きることだと疑わなくなっていった。
魅了。
我が娘に知らずにかけられ続けていた心を蝕む魔術。
しかし、ヴィオラだけが悪いのではない。
伯爵という地位の責任から、自分が望んだ妻との間に後継ぎが生まれなかった重圧から、もうずっと逃げ出したいと思っていたのは、他ならぬ自分なのだから。
婚姻して十年近く経ち、子に恵まれず養子を取ることを妻と話し合っていた時、妻が懐妊した。
夫婦でどれだけ喜んだか、今でも……今なら覚えている。
一日一日をじれったい思いで大切に過ごし、月は満ちてアリーチェは生まれた。
世界が光り輝いたようだった。
男でなかったことを口さがなく言う親戚どもを黙らせ、本当に可愛くて可愛くて、こんな宝のような赤子が自分たちの子どもなんて、愛の女神に感謝を捧げた。
アリーチェは愛らしくて利発な子だった。
「おとーしゃま」
そう呼んで抱っこをせがむアリーチェが愛おしくて、胸が張り裂けるかと思う毎日だった。
あくびをした。
くしゃみをした。
目が合った。
笑った。
泣いて愚図って眠らせてくれない。
かと思えば、ふとした瞬間に眠っているその寝顔。
寝返りをした。
這いずり出した。
立ち上がった。
歩き出した。
転ばずに走れるようになり、力強くどこまでも駆ける姿。
すべてが愛おしい。
子を抱いた妻の美しさにも目を細めた。
アリーチェが五歳になり、教育を始めた。
楽しく学び、成長していく姿を見るのは喜びしかなかった。
魔術の素質もあり、辺境伯に嫁いだ妹のフラヴィアと同じく、火の魔術と相性の良い魔力を持っていた。うちの家系には時折そういった魔力を持ち、魔術に長けた者が生まれることがある。
アリーチェは細かいコントロールが苦手なようだが、このまま才を伸ばしていけば、宮廷に仕えることも夢ではないと家庭教師に言われるくらいだった。
しかし、アリーチェはこの領地を継ぐ者である。
アリーチェの婿を内々で探し始めた。
国境を挟んだ隣の侯爵家とは良好な関係を築いており、その侯爵家の娘、アリーチェの友人でもあるその娘が嫁ぐ予定の家に次男がいた。
侯爵にアリーチェとの縁を繋いでもらい、アリーチェが八歳になってすぐの頃、王都で顔合わせをした。
なんというか……子犬のような子で、娘を大切にしてくれると直感で思い、無事に婚約は結ばれた。
喜ばしいことが重なった。
妻の懐妊が分かったのだ。妻も体調不良を妊娠しているとは思わなかったようで、既に腹が膨らみ始めていた。
もう次の子は諦めていた。
アリーチェが生まれてくれただけで、これ以上はもう望まないと、望んではいけないと戒めていた。
どんどん膨らんでいく妻のお腹がこれ以上なく愛おしかった。
しかし、この子が例え男の子でも、後継ぎをアリーチェから変えるつもりはなかった。
この国は余程でなければ長子が家を継ぐのである。
可愛く優秀なアリーチェが領地を継ぐことに何の不安も不都合もない。
アリーチェの婚約者の家にもその旨を伝え、婚約に影響はないことを確認した。
この頃から、アリーチェの領主教育に力を入れ始めた。
そしてヴィオラが生まれて。
もう後継ぎはいて、領内に目立った問題も無くて、諦めていた次子にも恵まれて。
緩みと油断は、楽な方へと自分を流し、負うべき責任や義務から目を背けてしまったのだろう。
弱い心はあっさりと魅了の術にかけられた。
全てはヴィオラのために。他のことを捨て置くことに、なんの疑問も持たなくなっていった。
けれども、覚えていないわけではない。
自分の行いを。
自分と妻の行いを。
自分と妻と娘の行いを。
忘れたわけではない。
治療の成果か、正気に戻る時間が増えてきた。
ただ、もう、完治はしないと宣告されている。
アリーチェにした仕打ちは、虐待である。
どんな気持ちで何を言ったのかも、覚えている。
自分が、愛しい娘に、何を言ってしまったのか、はっきりと覚えている。
「うあぁぁぁ……ああああああああっ!!」
正気に戻る度、壁や床に頭を打ち付けて、悶えて回る。
死んでしまいたい。死んでしまいたい……っ!!
死ぬことも出来ず、気が済んだら、机に座り手紙を認める。
自室の机だったり、出ることが許されているテラスのテーブルだったり、行動を見越して至る所に便箋が置かれており、それを手に取り、震える手でペンを握る。
謝りたい。
会いたい。
今どこにいる?
何している?
誰といる?
辛いことはないか?
ご飯は食べているか?
幸せに笑えているか?
『アリーチェ』
震えの止まらない手で書く文字は読めたものではないだろう。
でも、書かずにはいられない。
たった一言書いた紙を封筒に入れ、封をする。
何回繰り返しただろう。
この手紙を娘に届けて欲しい。
そう言う前に、決まって心が空白になる。
空白になった後は。
「……なんでアリーチェに手紙など……」
泣き叫ぶ心は奥底に沈んでいき、魅了された心が表に出てくるのだ。
それすらも覚えているのに!
「……」
無言で封筒ごと手紙を破り捨てた。
いつものことなので、従僕たちが静かに部屋に入って来て、打ち付けて血を流す額の手当を始めた。
長年に渡り魅了の魔術でねじ曲げられた精神の傷は深く、癒えることはない。
完治出来ない者は、魅了されている思考と正気の狭間で、その差に苦しみもがき続ける。
一生。
魅了された心ではもちろん、正気でも、ヴィオラを恨む気は無かった。
弱い魅了は気を強く持っていればかからない。
最後に受け入れたのは自分であることを、知っているから。
もう取り返すことの出来ない過去に縋る自分もいる。
言い訳を喚き散らして時が戻ることを望む滑稽な自分もいる。
それでも、心の大半が叫んでいるんだ。
自分はもう治らなくても許されなくてもいいから、どうか、共に悔いて苦しむ妻と、愛しい娘たちの人生が笑顔で満ちますように。
守り継いできた領地と民に、責めが行きませんように。
全ては自分が背負いますから、どうか、そう祈ることを許してください。
愛しい人たちの安寧を願う心をどうか奪わないでください。
すべての神よ。
すべての精霊よ。
どうか、どうかお願いします。
床に額突く自分に気が付き、自分は何をしているのか……と、立ち上がった。
もう、何を願い祈っていたのか、どうでもよかった。
「……旦那様方にとって、正気に戻ることは幸せなのでしょうか」
手当てをした従僕の一人が呟いた。
年若い従僕は、給金の高さから最近雇われた者である。
ここは療養施設として運営されている屋敷だ。
入所者は、元伯爵とその妻、伯爵家の元家令や元侍女たちである。
魅了された精神状態の時は落ち着いており、屋敷内で自由に過ごすことも許されている。至って普通に会話をし、仕事すら出来る状態なのである。
しかし、一度発作のように正気に戻ると、自傷行為を行ったり泣き叫んだりするため、皆から隔離され、正気が沈むのをひたすら待つのである。
完治はないと宣告された彼らは、この屋敷から自由に出ることは出来ない。
ずっと、ここで過ごす人生であることを、本人たちも薄ら認識していた。
この屋敷の維持は、伯爵家を暫定で預かる分家当主と、元伯爵の妹の夫である辺境伯が担っている。
権力に守られて、ある意味幸せなのだろう、か。
手当ての道具を片付けていると、屋敷の奥の方から女性の甲高い悲鳴のような声が聞こえてきた。
「アリーチェ、アリーチェはどこ!? 私の可愛い娘はどこにいるの!? ……ドレスを、ドレスを作らなきゃ……あの子のためにあの子のドレスを……!!」
若い従僕はため息を一つ吐き、今度は奥様の発作に付き合うため、静かに奥へと向かった。
幸せとは、愛情とは何か、考えさせられながら。
読んでくださり、ありがとうございました。
取り返せないこと。
それを人それぞれに抱えながら、それでも、それなりに人生を進んで行かねばなりません。
だからこそ、人は強くなり弱くもなり、愚かにも賢くもなるのだと思います。
これにてアリーチェ編は完結です。
また、別の作品でお目にかかれたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。