朝日と山桜姫
宿屋エドゥロンからのお迎えの赤鹿に乗った。私を乗せてくれた赤鹿操者は義母より少し若いくらいの女性。女性客に配慮だろう。
彼女は代々赤鹿と暮らしてきた一族だという。せっかくなので、と軽く駆け足。
楽しいよりも怖かった。風も冷たくて痛い。全力疾走されたら気を失いそう。
「男性のお客様には概ね好評で崖を登って欲しいとか全力疾走は? と聞かれることもあります」
「女性客は私のようですか?」
「はい。ただ……昨日珍しく自力でというか、私を放り投げて赤鹿に乗って見事に乗りこなした女性のお客様がいて驚きました。赤鹿は初めてだと」
宿屋ユルルの宿泊客で特別赤鹿観光を申し込んだ凛々しい美人だったそうだ。何その人。
宿屋ユルルは赤鹿車、宿屋無限塔は船、宿屋エドゥロンは特別赤鹿観光が売り。他にもあるのかな。
時間があるのでと高台へ連れて行ってもらえ、1度赤鹿から降りた。
街の周りが雲で覆われている。日によって街自体が雲に埋もれるらしい。
白い海の中に浮かぶ輝く街に川に朝日が注がれている。
「リルさん……。この街は絶景ばかりですね……」
「はい……」
「朝リルさんに抓られて脅されてよかったです。接待で苦労したおかげで思いがけず宿屋ユルルを楽しめたし、本館大浴場からの眺めは素晴らしい。なので後払いだから最悪ええかなあなんて」
「そうだったんですか⁈」
「あはは」
ロイは「すみません」と軽く謝った。
2人きりなら手を繋いで、軽いキスをしたくなるくらいの素敵な景色。
「この街の景色を描いた絵を見られる美術館を探します。思い出を語りながら眺めるのはきっと楽しいです。ああ、父や母がしてそうです。多分2人で出掛けた時にそういうことをしているでしょう」
「私、昨夜の様子でロイさんは絵画を好んでいるのかと思いました」
「いえあまり。国営、区営の美術館や博物館は卿家は無料です。もともと安いですけど、その分パッとしないというか……。いや、外で遊び回りたい子どもの時にしぶしぶ見た記憶のせいかもしれません。しかしシホクのあの色紙絵には震えました。無視してきた特別招待券を狙っていきます」
「それも卿家は華族に劣るけど時に優るですよね」
「ええ。華族はその家の格や事業の風向きにツテなどの偏りが出るけど、卿家はどこの家もまんべんなく小さなコネがあるものです」
取り合いだけど職場に私設美術館の特別招待券が回ってくることがあるらしい。美術館以外でも色々。
贈られたロメルとジュリーの観劇券もその1つだった。買ってくれたのだと思っていたら、あのお芝居は人気が高過ぎて一般販売はとっくに全公演売り切れ。
私が嫁友達を増やして趣味などを共有すると、彼女達の嫁ぎ先や実家から融通してもらえる。つまり逆もしないといけない。
無料竹細工講座を開くのは喜ばれるだろうとロイが教えてくれた。竹とんぼ作りはどうかと聞いたら「怪我をしないように注意しないといけないけどすこぶるええです」という返事。
花カゴも勧められた。子どもから母親へ贈って「我が子が作ってくれました」は自慢になると。
そういうことなら父は得意。うちばっかり悪いと言いそうだから私と一緒に働いてもらおう。
「2人の時間ばかりだと色々新しい発見がありますね。いやあ、景色もええけど乗馬訓練好きなので軽く走ってくれるとは楽しかったです。宿屋エドゥロンでは特別赤鹿観光があるそうです。残念ながら外客にはないと。人数が厳しいそうで。まあ高くて無理でしょう」
ロイは興奮気味に見える。これも新しい一面な気がする。乗馬訓練なんてあるんだ。そうか。もしもの時の兵役の為か。
私は宿屋ユルルの女性客の話をした。
「権力、コネ、お金などがあれば外客でもということですね。しかし信じられません。赤鹿は馬よりもうんと難しいというか、気難し屋らしいのにお嬢様が初回で……」
いきなり目の前に人が乗った赤鹿が着地。さらにもう1頭。
……昨日宿屋ユルルで会った金髪美人。兵官の格好をしている。
もう1頭には初老の男が乗っていた。私達を乗せてくれる赤鹿操者と同じ格好。
「いやあ、やはり欲しい! 父上に言って持って帰ろう! なんて偉大な生き物なんだ! そこらのアホな人よりうんと格上! 名前を付けるからな!」
カールは屈託ないかわゆい笑顔で赤鹿に頬ずり。あの毛は固いけど気にならないのかな。
「あ、あの。カール様。特別赤鹿観光は……」
「このようにご心配なく! 怪我をしてても私がしっかり説明しますから! やはり朝焼けは山の上からがよさそうだな。よし、行くぞアエトス! 羽根はないが崖を駆け上がり、岩から岩へと跳ねられる脚力があるから赤鹿の鷲だ! 私の主人にして親友を乗せたいから私に慣れて仲良くしてくれ!」
駆け出した赤鹿はトンッと跳ねてかなり遠い岩の上へ登った。そのままどんどん岩山へ向かっていく。
「ひいいいいい! 説明しますからって、大怪我をしたら責任問題なのに何てお嬢様だ! なぜあの暴れヤルクが別の名前で呼ばれても怒らずにむしろ懐いているんだ!」
2人共去ってまた静かになった。
ロイと顔を見合わせて肩を揺らして笑う。
「リルさん、世界は色々と広いですね」
「はい。あの方、昨夜お風呂で会ったお姫様です。多分ですけど。皇子様を叱るみたいな話をしていました」
「美麗さはお姫様ですけど、言動は夢も希望もないお姫様でしたね」
そろそろ、と告げられて赤鹿へ再度乗った。素晴らしい景色を見せてくれたお礼。
チラッと先程のお姫様について聞いたら「国外で育った皇族に近しい華族のお嬢様です」と教えてくれた。
「祖父は皇帝陛下の関白のお一人。父親はフィズ様の宰相。ご本人は西の小国でその国の国王陛下や姫君の相談役。あのように予想外の方で私の担当ではなくてよかったです。本当によかった……」
関白、宰相は分からないけどルシーよりうんと雲の上の人なのは理解した。
「昨夜お風呂で隣に並んでしまいました。共同手形でなぜ外客が隔離されるのかうんとよく分かりました。粗相をしなくてよかったです。あの方は優しかったですけど、転んで頭突きしてしまったとか何かあったらとんでもないことになっていました。この赤鹿観光で大満足なので帰るべきな気がします」
私にしては珍しく一気に喋った。宿屋エドゥロンでの入浴が怖くなったからだろう。
「ご本人が優しくても孫が怪我をした責任を取れとか、娘の顔に傷が出来たとか、そのようなことになったら恐ろしいです。この仕事はいつもヒヤヒヤなので今日は気楽と思ったのに、卿家の方とはどこのお役所の方なのかとヒヤヒヤです」
彼女——ノン——はクスクス笑った。自分が働けているから安心して下さいという意味?
昨夜すっ転んで頭突きとか、たまたま爪が顔に引っかかっていたらとんでもない事態。身震いした。
「夫は裁判所勤務なので難癖をつけたら手本ではないので重い罰とか酷いとクビです」
「それは安心いたしました。当宿は宿屋ユルルさんや宿屋無限塔さんより大商家や大豪家に好まれていてその方々は卿家には何かと弱いかと。外客の方々もあの方はどこぞの偉い方やその子息子女か? とあれこれ考えて避けるのでご安心下さい」
「それは安心材料です。お気遣いありがとうございます。夫と相談します」
「自慢の珍しいお湯ですので、旦那様と相談して恐ろしさが薄れたら是非お楽しみ下さい」
「はい。ありがとうございます」
こうして宿屋エドゥロン前へ到着。お礼を告げて赤鹿と赤鹿操者が去るとロイと相談。
「ぶほっ。あれが噂の山桜姫。男の夢ぶち壊しです」
「夢……」
「天女のように美しく愛くるしい、中央西の両方の教養を兼ね備えた淑やかで慈悲深いお嬢様。次皇帝陛下の正妃候補とかなんとか……。あれが……」
「天女のように美しく愛くるしいのと優しいは本当ですね。男の夢って……」
妬きもちよりロイの落ち込みように呆れた。背中を丸めてうなだれている。
男性は美人が好き。美人な上に性格よしの教養ありがよい。欲張り中の欲張り。噂の山桜姫だって。
「リルさんだって例えば年始に見たフィズ様が蟻が怖いと泣く男だったらどうですか?」
「そんなことはあり得ません」
「自分もそのくらい信じられません」
そんなに衝撃的なんだ。
「それよりお風呂です。事件、事故、接待が怖いから散歩しながら帰りますか?」
「そうそう。それですね。やはり探られそうなんですよ。華やぎ屋のように貪欲な宿です。自分を乗せてくれた赤鹿操者の方の様子からするとそうです。あれこれ聞かれましたしお代は結構ですって。リルさんと2人で貸切風呂を諦めないと貴重な時間を失います」
「ロイさんは青い白濁風呂より貸切風呂ですか?」
「はい。当然です」
私達は「青い白濁温泉は諦める」に決定。ロイは「珍しい青い白濁温泉でしかも貸切風呂……。貸切……いや、欲を出すと何かが起こる」と少しぶつくさ。
もちろん「虹掛かり橋」も見に行かない。宿屋無限塔の「滝見崖風呂」も同じく。
宿屋エドゥロンの庭掃除中の従業員にサッと断りと謝罪を伝えて逃亡。
人力車がもうまもなく開始するので、少し朝の街を散歩して宿屋エドゥロンから近い停車所を目指すことにした。
「この旅は少々おかしかったけど、その分が押し寄せようとしています。やはり欲張りはよくないです。これで華やぎ屋の大浴場をのんびり制覇出来ますね。自分は先に全共同大浴場、帰る前に洞窟風呂かなあ。本館大浴場はまた入りたいです」
「よいことがうんとあったから気をつけていきましょう。ロイさんの言う通り時間は貴重です。えーっと、時は金なりです」
「ええ。時間は権力者でも大金持ちでも買えません」
手を繋いで歩く私達の横、少し距離があるところを赤鹿が駆け降りていった。
「地図は頭に入っているけど下見は大切だから人が少ないうちに街中を駆け巡ろうアエトス!」
山桜姫再び。風のように通り過ぎて行った。
少ししてもう少し遅い赤鹿と赤鹿操者が3組「お待ち下さい!」と追いかけていく。ロイは再びうなだれた。
「私は格好ええと思いますけど、そんなに落ち込むものですか?」
触れるどころか話すことも禁止なのに。
「リルさんをお嫁にしたら実は料理嫌いで10歳から延々と何人もの恋人がいたと言われるより、それか同じくらい衝撃的で悲しいです」
ロイが思いっきり背中を丸めて深いため息を吐いた。これも新しい姿な気がする。
「恋人は1人いたことがあります」
「んなっ!」
ロイが顔を上げてわりと勢いよく私の両肩を掴んだ。ものすごい不機嫌顔。
「嘘です。ロイさんが私の最初の恋人で夫です」
ホッとするかと思ったロイは唇を尖らせた。
「最初のって次を作るつもりですか」
「えっ? いえあの、ロイさん?」
「そんなことをしたら怒り狂って家から追い出します」
ロイはぷんぷん怒りながら坂道を割と早歩き。私の手を引きながら。
「あのロイさん。そのですね。ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、ほっ……」
「ん? リルさんまたフクロウ……じゃなくて。はい。そうですね。はい。北極星になってくれるんですもんね」
立ち止まったロイは照れ笑いしてくれた。淡い初恋はニックという男です、は封印。
顔も声もあいまいだし。こういう嘘は悪い嘘ではない気がする。
「わ、私はロイさんと同じ桔梗に……。新しい意味の桔梗に……。いつわしもとか、コウガ川淵は瀬にも結んで贈りたいです」
龍歌探しで悩んだから頭の方と解説を覚えている龍歌。すぐ覚える賢さはないので全文は覚えていない。
「新しい意味にその龍歌って……」
その後ロイは無言の無表情といつか少し険しい顔で私の手を引きながらゆっくり歩いた。
その横顔は気のせいかほんの少し涙目。ちはやぶるを贈った時と似ている。ロイはあまり照れないと思っていたけど龍歌には弱いのかも。
「ロイさん」
「はい」
「もっと龍歌の勉強をします」
「はい」
「不恰好でも龍歌を作れるように勉強します」
「はい」
「ロイさん」
「はい」
「停留所は地図だと向こうです」
「はい」
「リルさん」
「はい」
「……さっきの書いて贈って欲しいです」
「はい」
「リルさん、桔梗は誠実の他に永遠だそうです」
「ヨハネさんから聞きました?」
「はい」
ロイはずっと小さい声。なんだかいつもと逆。私達は今日もきっと1日幸せだろう。
永遠……ヨハネはクリスタに一目惚れ?
ロイが贈ってくれた花の花言葉をうらら屋などで調べ直そう。金木犀のように何か隠されているかもしれない。
フィズは蟻で泣きはしませんが勘違い皇子。