お部屋と着替え
本館は橋を渡った向こう側。渡った廊下は橋の上の建物。上の階はお食事処。夕食、朝食はここでとる。
本館は塀で囲まれた庭園の中にあった。庭は石や木に植物に小さな池まである。その池には牡丹が浮かんでいる。まるで小さな公園の中みたい。
朱色の柱。屋根付きの廊下に囲まれた庭とは華やか。
晴れているから見上げた空の美しいこと。光苔の灯籠は牡丹柄。
まんまるが3つ連なった提灯にも上から赤、青、黄色の牡丹の絵が描かれている。
3階建ての建物が本館。その周りにある個室の平屋が特別本館。屋根付きの廊下であちこち繋がっている。外だけど歩いてきた道より温かいのはなぜなのか。
これが噂の天の原とか桃源郷?
右手側へ進むと大浴場があると説明された。
部屋は本館2階。奥から2番目。1番奥正面は厠。
1階は衣装部屋と係台があると説明された。左右に5部屋で2階3階が部屋だから全部で20部屋だ。
扉の位置が均等でないから部屋の大きさが違う。手前2部屋が広いみたい。
私達の室内は受付部屋とほんの少し似ていた。
脚なしの背もたれ付きの椅子や机が同じような色と形で御簾が同じだから。
その御簾から床まで白い布——模様みたいに見えるから織物——が垂れている。それでそこに3色の牡丹が並んだ細い反物? が左右対称に3つ飾りについている。
布の向こう側が寝る場所と屋根露台らしい。露台って何?
押し入れの中にお布団。それは夕食中に敷いてくれるそうだ。その下は荷物置き。荷物を運んでくれた従業員が背負い鞄と笠をしまってくれた。
隣の細い押し入れには浴衣を掛けられるようになっていて衣服掛けが並んでいた。それから金庫がある。鏡台もある。
着席したらお茶を淹れてくれた。湯たんぽを四角くしたようなものに木を組み合わせた薬缶を使用。
おくつろぎください、の間に運んでくるんじゃないんだ。
蓋付きの湯呑みの中にお湯を注ぐだけ。梅昆布茶と言われた。
机の上に黒くて丸い蓋付き菓子器——牡丹柄——が一段置いてあって「お好きな時にお召し上がり下さい」と説明された。
共同手形は共同店へ入れる制度。内容はお店によるのでそれぞれの宿について観光案内本に記載。
それで小さな丸い板を1つ渡された。華の文字に赤い牡丹が描かれている。
この手形は本来は明日旅館を出る時に返却だけど、私達は明日も1日使えるように持って帰ってよいそうだ。
お祝い旅行の記念で、もしもまたこの宿へ来ることがあって、その時にまだ共同手形制度があれば使用して下さい。贔屓だそうだ。
夕食、朝食の希望時間を書く紙を渡された。
「ご質問や何かお手伝いはございますか? 後から何かございましたら従業員、受付、係台、館内案内本をご利用下さい。こちらがお部屋の鍵でございます」
それで部屋の南京錠の鍵を渡され「ありがとうございました」で終了。部屋の内側はかんぬき。
「別館から本館に移動なんて。ここは明らかに庶民の部屋ではありません」
「はい。心付け禁止されましたね」
「あれも嘘な気がします。かめ屋の旦那さんや女将さんへ食事をご馳走では済まないです。まあ父や母に任せます。ここまでくると自分には判断出来ません。宿は両親からの贈り物なので話をして丸投げします」
「はい。私なんてもっと分かりません。観光もしたいですけど、この宿も部屋も満喫したいですね」
「もちろんです」
とりあえず菓子器の中身確認。小さい桃色の牡丹の練り切り、黒文字、おせんべいが入っていた。1つずつ。
「ロイさん、もしかしてロイさんが甘いものを食べないって知られていませんか?」
「そうですね。かめ屋の旦那さんなら細やかな気配りをしそうです。そもそもこの宿の跡取り息子。両親が立派な旅館でしたと言っていましたけど想像を超えていました」
「私もです。アデルさんが華やぎ屋さんですか、と知っていたのも納得です。共同手形は9店だけです」
先に宿に来て良かった。街観光ではなくて宿観光するべきかも。この宿が平家も相手にしているのすごい。
ここの簡易宿所はそら宿の大部屋とは全然違うだろう。しかも別館の1部や共同大浴場に入れるらしい。
母に話そう。そうすれば長屋中や母の勤務先に広がる。それで皇女様みたいになる人が増える。
その結果お喋り達がさらに広げ、別館客や本館客に繋がるだろう。
華やぎ屋とこの街も儲かる。私もきっと褒められる。
ロイと私は練り切りとおせんべいを食べながら梅昆布茶でほっこりし、観光案内本と間に挟まっていた地図を広げて作戦会議を開始。
「リルさん。御三家は宿屋ユルル、宿屋無限塔、宿屋エドゥロンだそうです。街の上を占拠しています」
「宿屋ユルルは赤鹿車にジュリーでしたからね。皇族の方も泊まる宿でしょう」
「華やぎ屋の特別本館の中の特別室ももしかしたら、ですかね? 御三家は18時まで外客用の場所を見学出来ます。有料で一部のお風呂に入れるそうですが受付は15時までです」
御三家は全部行く。宿屋ユルルと宿屋無限塔の間に滝がある。
アデルへのお礼で宿屋ユルルにお金を払ってお風呂に入る。
入浴料でレストランミーティアのランチ代2回分程度吹き飛ぶ。来月、自分達は外食禁止に決定。
御三家の手前には上温泉広場がある。無料の足湯、地獄蒸し体験小屋などがある。
簡易宿所が集まりお風呂屋がいくつかあり、その中に泥風呂温泉ありというところを見つけた。
義父母からこの上温泉広場には絶対に行くべきと聞いている。なのでまずここへ行き、お昼を食べて御三家へ行く。
予定は滝、宿屋ユルル、宿屋無限塔、宿屋エドゥロンの順で、それでまた上温泉広場。他は地図と観光本を見ながら考える。
17時には戻ってきて館内散策をして18時夕食。疲れてお風呂、寝る。元気なら夜の街を人力車で散策してお風呂、寝る。
元気いっぱいなら夜中にもお風呂に入る。なにせ本館宿泊者は3つある大浴場を全部使える。
温泉広場は兵官がいても夜はスリなど事件がかなり増えるそうなので近寄らない。
温泉広場は他に2箇所ある。明日はその2箇所か1箇所とその近くの共同手形店を観光。
お出迎え広場の滝見学は明日に回す。御三家近くの滝を見たら見たくなくなるかもしれないから。
浮かれてお出迎え広場で散財すると、3箇所ある温泉広場で遊べなかったから危なかった。
お出迎え広場には観光案内所があった。気がつかなかった。あれこれ教えてくれるみたい。
御三家へ行くから今日はもう着替える。
人力車の乗り放題は、相場表によれば今朝の客引きが持っていた紙より安かった。値切るの大切。
勧誘された人力車屋とは別のお店が共同手形の9店全部に停留所を配置しているので明日まで乗り放題を利用する。
人力車屋は2店舗みたい。値段はそう変わらない。停留所がずれているから競いつつも両店使わせようかもしれない。
なんと人力車は夜22時まで動いている。凍えないのかな。でもこの街はあちこちの石畳から湯気が出ていて今回通ってきた道や堺宿場よりあたたかい。山の上なのに。
「リルさん、明日はお風呂で入って温まってから牛車がええかもしれません。特別扱いで明日も共同手形を使えますし、8店以外、温泉広場のお風呂屋も気になるので、そっちでもええかもしれません。今日観光しながら決めましょう」
「今日の昼と夜。元気なら夜中も。それで明日の朝と昼。街の中で足湯。温泉三昧ですね。明日もしも雨が降っても共同手形店散策でしっかり観光出来ます。人力車に屋根がありましたから乗り放題は便利です」
よし、作戦会議終了。あとは楽しむ。その場その場で対応。2人で話し合う。
ロイが矢立を出してアデル宛のお礼の手紙を書き始める。龍歌も添えると少し唸っていた。
その間に私は鏡台で髪型を簡単に変えて持ってきた椿柄の帯揚げをうらら屋風に結んだ。
出掛ける前には受付で声を掛けて、華やぎ屋の女将に会えたら手土産は何が良いか相談予定。
手土産もちもち白饅頭ではお礼が足りないから追加だ。
代わりに自分達用のお土産代を減らして昼食代などを削る。
こうして私達は1階の衣装部屋へ移動。私はロイと別れた。衣装部屋以外や下に降りる階段は倉庫や従業員通路だろう。ここで働いてみたい。
貸衣装は着物ではなく浴衣だった。肌触りや生地からして高級浴衣。これはもはや着物じゃないのかな。
白い生地の綿かなんかをつめたもこもこした浴衣に赤い細い帯。その上からもこもこのお洒落な腰より下まで長いどてら。
浴衣の柄は色々あって統一性なし。季節もバラバラ。
早く観光したいしロイを待たせたら悪いのでサッと選ぼうとして、あっ! と発見した葡萄栗鼠文にした。
秋の柄だけど、この柄を着るとロイがからかってきて楽しくなる。旅がさらに楽しいものになるだろう。
どてらの色は桃色と水色から選べて牡丹柄。
浴衣もどてらもこもこだからか、肌着は胸で巻いて膝下まで隠れる1枚だけ。
温泉に入りやすい脱ぎ着しやすい格好。それに着物に色打ち掛けの簡易版みたいでかわゆい。
背中に華やぎ屋と書いてある。つまり私は歩く宣伝屋。これはちゃっかりしてる。
「そちらは帯揚げですか。南地区での流行りでしょうか?」
「他は分かりませんが南3区ではちょこちょこ見かけます。帯揚げで髪飾りなのでお得です」
という会話をした。ハイカラですねと褒められたのでうらら屋に感謝。
うらら屋ときらら屋を宣伝しておいた。近くにかめ屋、それから父のお店もさり気なく伝えておく。
華やぎ屋と書いてあるどてらを着ていると、あいつら金を持ってるぞって襲われないか怖くて係の人に聞いたら、兵達が逆に優先して見張ってくれるそうだ。
この店は定期的に兵達を接待しているかもしれない。世の中は不平等だけど貧乏人はお金がないから襲われにくい。
単に襲うことが好きな人もいるらしいけど、それはもはや金持ち貧乏関係なく運だ。
怪しい人に近寄らず、あとはロイの木刀が活躍することを祈るしかない。
日傘兼雨傘は赤に黒い縁取り。手拭い入りのカゴの鞄。足袋は丈が長かった。
下駄は黒くて丸く鼻緒は赤。大きさがなかったら使えなくて早い者勝ちかもしれない。草鞋も置いてあったからそう思った。
脱いだものは全部従業員が部屋へ持っていってくれて、肌着は洗って明日の朝食後に持ってきてくれる。
着替えは簡単だったので、ロイとほぼ同時に衣装部屋前の長椅子で再会。
どてらの色が青色で柄無し。下駄の鼻緒は黒。浴衣は黒に朱色の帯。
「リルさんは水色ですか。赤か青のどてらで、青を選んで良かったです」
「桃色と水色がありました。浴衣の柄は色々でした」
「自分は選んだのはどてらだけです。リルさんはリルさんを沢山連れてお出掛けするんですね」
ロイがリスを指でいくつかツンツンした。最後にキョロキョロしてから胸元をツンツン。
ペシッと叩いておいた。人がいなくてもダメ。
「財布を貸してくれて、どてらの内側の紐に繋げられて内側のポケットに入れられます」
「私もそうしてもらいました」
「浴衣の内側にもポケットがありました」
「そうなんですか?」
「お金を小分けにして運べるようにみたいです」
使いそうな荷物は持ってきてあって、脱いだものは全部従業員任せでよいので、特に部屋に戻る理由は無い。
アデルへの手土産は女将に会えて「卿家のお方ですからご両親や職場の方にうんと宣伝するとよいです。そうそう、通われている剣術道場には華族の方もいらっしゃるとか。それが商売人の親切の裏にある下心というものです」と言われた。
つまり、今回の特別待遇もそういうこと。なにせ女将はこの時悪戯っぽい笑顔だった。
エドゥアール温泉本街の観光開始!