宿に入る
ここ全部玄関?
広い。道から見えた建物の幅分の広さで、同じくらい奥まである。その先は扉が閉まっていて、玄関前と同じ暖簾で見えない。男女の従業員が並んでいる。
10時開店で今は10時を少し過ぎたところだけど1番乗りではなかった。
右側の長椅子に1組私達より年上に見える夫婦らしき男女。旅装束の身なりは良い。
左側には4人家族。平家に見える。子どもはルル達くらいの男の子2人。大人しく座ってきょろきょろしている。
どちらにも従業員がついていて、しゃがんで話しかけていた。
奥の方でピシッと背を伸ばして、手を前で合わせてニコニコ笑う従業員が私達にすぐ気がつき満面の笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶をしてくれた。
姉と同じか少し年上くらいのかわゆい従業員が近寄ってくる。他の客を対応している従業員も全員女性。
年はバラバラで全員薄桃色の生地の着物に朱色の前掛けを腰から下に結んでいる。大きなポケット付き。髪にはお揃いの牡丹の簪下駄は黒で鼻緒は赤。
「おはようございます。本日完全予約をお願いしている者です」
「当旅館を選んでいただき誠にありがとうございます。どうぞこちらへお掛け下さい。お荷物も椅子の上へどうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ロイが背負い鞄を下ろして1番端に置いた。私はその隣に座りロイが上座側に腰掛ける。
ほぼ同時に新規客来店。平家らしき夫婦と娘の3人家族。
「宿泊予約書と身分証明書をお預かり致します。受付で帳簿と確認致しますのでこちらで少々お待ち下さい」
「はい」
ロイは懐にしまっていた宿泊予約書と身分証明書を取り出した。
新規客の父親が「こちらの旅館は自分達のような者でも泊まれる簡易宿所があると聞きました。値段や空きを知りたいです」と従業員に聞いた。
「かしこまりました。お部屋の種類やお値段のご説明を致します。まずはどうぞこちらへお掛け下さい」と私達と反対側の長椅子へ案内。
荷物は長椅子手前の棚。入り口から見て左側が上座な気がする。そしてやはりここはまだ玄関。
草鞋のままだし「受付で確認」なのにその受付らしき所がない。受付は暖簾の奥。とてつもなく大きな宿な気配。
何せ背中側に噂の足湯みたいなのがあって、とても気になっている。上座側にも下座側にもある。
「お預かり致します。その間よろしければ後ろの足湯をご利用下さい。こちらは足拭き用の手拭いでございます。脱いだ足袋などは椅子の下の荷物置きをご利用下さい」
やはり背後は足湯。室内は温かいし、浅いお風呂のような作りでほんのり湯気がのぼっているからそうだと思っていた。正解だ。
「大部屋ならこの値段。それで別館の1部に入れて共同大浴場が利用できるんですね。はああ……噂は本当でしたか。門構えからして格式が高い宿で恐ろしかったのですがそうですか。空きがあれば泊まります。ぜひ泊まりたいです」
「それは誠にありがとうございます。ご案内の準備を致します。その後は受付で対応させていただきますのでこちらで少々お待ち下さい」
「……リルさん? 早歩きで疲れました?」
顔を覗き込まれてハッとする。平家4人家族がうんと笑いながら足湯の案内を聞いたので幸せな気分になっていた。
「旦那様。兄と姉夫婦に貯金して両親とここへ来るとええと教えようと考えていました。ルル達は嫁ぎ先次第です。簡易宿所は早く到着しないと満室になりそうですけど」
これまでにさらに2組の新規客が来て向かい側の席へ案内されている。
ほぼ同時に来た3人家族が少し悩む姿を見せると従業員は「足湯をしながらこちらの説明書を読んでお考え下さい。半予約も出来まして12時までお待ち致します。観光がてら宿を比べてそうする方も多いです。お決まりになりましたらお声掛け下さい」と案内して彼等から離れた。
つまり泊まらなくても足湯をどうぞということだ。代わりに手拭いはない。
少ししたら「お決まりになりましたか?」とそれとなく追い出すのかな。
「ああ、他のお客さんを見ていたのですね。吊るし飾りを眺めていたのかと」
そう、それだ。私達の背後それから前に吊るし飾りがある。
「はい」
大部屋に泊まると決めた4人家族にも手拭いは渡さないみたい。
朱色と黒に塗られた壁に吊るし飾りに足湯。天井には四角い灯が複数あって、扉側の角には机の上に花瓶が飾られていて牡丹が生けてある。
この豪華な造りの玄関に足湯に格上の人達と似たような対応。
これは絶対に嬉しい。無料で半予約。12時までが固定なのか今から2時間か不明だけど「考えます」と帰れる。きれいな吊るし飾りを眺めて足湯してから。
かめ屋に少し似ている。飛び込みで他の宿と検討するような客や、泊まらなそうな宿の入り口内観光だけっぽいお客にもおもてなし、お茶を出すところはこの店から持ち込んだ気がする。
「リルさん、自分は足湯はしません。街中の足湯の方が気になります。気が変わってもこの玄関は何度か通ります」
「はい、そうですね。私も旦那様と同じで噂の街中の足湯が気になります」
そんなに時間が経たないうちに来たのは先程の従業員ではなかった。義母くらいの年齢の女性。
女性は白地に牡丹柄の訪問着で帯留めも牡丹。髪飾りも赤、青、黄の牡丹が連なったものに銀細工がついている。明らかに女将だ。
彼女は他のお客に挨拶回りをしてから私達のところへ来た。
つまり今いる人達の中で私達が1番格上ということ。
隣の夫婦達は「本館に泊まれるなんて」みたいな話をしていたけど。私達は別館の客だ。
「ルーベル様、ようこそいらっしゃいました。この店の女将を務めているリュシーでございます。兄がお世話になっております。受付へご案内致します」
そっか。義父がかめ屋の旦那に頼んで予約してくれたからこうなるのか。
ロイが立ち上がってピシッと挨拶と会釈をしたので私も続く。かめ屋での修行を忘れないように時折鏡台の前で練習している。
後ろに男性従業員がついて、背負い鞄と私達の笠を持ってくれた。
始まった。夢のお客側。もう贅沢死はしなそうと知っているし、義父母が日頃の行いに好評価をつけてくれたということだからしっかり楽しむ。
「ようこそおいでくださいました。こちらでございます」
「よろしくお願い致します」
暖簾の先はまだ草鞋で歩ける玄関で左右に細長く伸びた。
左右の建物も華やぎ屋だったみたい。左手側に受付があって1組対応している。平家に見える。
正面は左右にまた玄関扉と暖簾。私達は左手側に案内された。
ここで本館、別館、簡易宿所に分かれる?
特別本館は本館の中にありそう。
左手側が上座な気がするけど私達は別館の客。となると右側が特別本館と本館か。
「祝言と出世祝いのご旅行とうかがっています。節目のお祝いに当旅館を選んでいただき誠にありがとうございます。遠路はるばるようこそいらっしゃいました」
「とても楽しみにしていました。無事に到着して良かったです」
左手側の暖簾の先で従業員にお出迎えされた。
草鞋を脱ぐとそれを竹細工のカゴへ入れてくれて、私とロイの分を若い女性従業員が持ってくれた。
なんかもうすごい。龍神王様を描いたような屏風がお出迎え。
牡丹柄の反物? で飾られた御簾。立派な花瓶に生花や、背もたれ付きの椅子に机に牡丹の咲く花壇。
天井は組み木で格子になっていて、大きな丸い灯がある。灯の中には牡丹柄になるように何かが入っていて、他は青白く光っている。明るさからかなりの光苔の量。
四角い箱が連なったものも天井から吊るされていて、それも青白く光っているからこれも灯。
一部、左右対称に茶色く塗った竹の柱が並んでいてその先が受付。
倒れそう。無表情気味だけどロイも困惑しているように見える。
「到着が早くて驚きました」
「中央北境宿場で偶然宿屋ユルルさんの関係者と出会いまして、大変親切なことに赤鹿車に乗せていただきました」
「まあ宿屋ユルルさんの赤鹿車に乗られたのですか」
この後ロイは軽く経緯を説明。その間に背もたれのある椅子へ着席。
「お祝い旅行とうかがっていましたので別館のおすすめの部屋の予定でしたが、本日は空きがございましたので本館のお部屋をご用意させていただきました」
それは衝撃的な話。
だから左手側の暖簾をくぐり、このような立派な受付部屋に案内されたのか。
義父母がここへ来た時はまだかめ屋の旦那と先代の仲が微妙だったので、個人的に予約して別館に宿泊したという。
今回はかめ屋の旦那が自分が予約すると言ってくれて、義父母が「別館の少しええ部屋かもしれない」と言っていたので心付けをしっかり準備してきた。
……本館になっちゃった。用意した心付けがいくらか知らないけど足りる?
「それでしたら本館の代金との差額分をお支払い致します」
「お代は既にお支払いしていただいている分で結構です。心付けも受け取らない店なのでお気持ちだけいただきます。送金郵送の手間がかかりますのでなにとぞお願い致します」
困惑しているロイに女将はニコリと笑いかけた。
女将は近くに来ていた従業員から本を2冊受け取るとロイへ差し出して表紙を見せ、従業員へ返した。
「館内案内本、観光案内本でございます。これから従業員が館内とお部屋をご案内致します。ルーベル様、今回の特別待遇の代わりにお荷物になりますが、手紙や土産などをかめ屋に届けてただきたいです。重たいものはございません」
「はい。重たいものでも運びます。むしろ運ばせて下さい。手紙を預かっていますので後で荷物から出して受付へ持ってきます」
「それはそれはありがとうございます。特別本館、本館にご宿泊の方々には御三家との共同手形をご用意致しています。御三家以外ですと華やぎ屋の他に5店のみの制度ですので是非ご使用下さい」
詳しくは後で従業員が部屋で説明してくれるそうだ。それで従業員経由で身分証明書を返却された。
「何から何までご親切にありがとうございます」
「もし心苦しければ、先程お話に出た片栗料理の本を貸していただけますか? 当旅館は平家の方々にも親しんでいただき愛されるように励んでいますが、それだけではございませんので流行りをどう取り入れるか常に研究しています」
「もちろんです。出掛ける前に受付へお渡しします」
「ありがとうございます。普通のお客様にはお話をさり気なく聞くことしか出来ないので助かります」
その後軽く挨拶をして女将と従業員が交代。
この旅は良いことばかりだけど、この後や帰りに事件や事故にあうとかないよね。
旅行したいせいか架空旅館を考えるのが楽しくなり玄関受付で1話……
ほのぼの暇つぶし系小説なのでフラグはへし折れ今後も2人に悪い大事件や事故は起こりません