31話
結婚2ヶ月目ですっかり仕事に慣れた。でも夜のお勤めと同じでまだまだ序の口だろう。
急なお客様対応のように、知らない何かは必ずやってくるはず。
エイラとはしばらく遊ばない。大人しくしたエイラが旅行出来るように。なので文通をするようになった。
エイラの母が「お裾分けのお礼に食事をごちそうします」と言ってくれて、今度エイラと一緒にバトラー家へ招かれる。
エイラの母が義母に声を掛けてくれて、ブラウン家にもその話を上手く伝えてくれたらしい。エイラとはその時にまた遊ぶ予定。
次の土曜日、朝早くから義父と義父の同僚2人と山に行って栗といくら沢山の鮭を手に入れた。幸せ。
義父は「特大だ!」と大きな鮭に目を輝かせて魚拓をとった。
なお私の格好は義父の同僚に大笑いされ、義父に「もう少しかわええ釣り用の服を仕立てよう」と言われた。
翌日、ついに実家へ行った。
両親も兄も姉夫婦も仕事。
妹達しか居ないのは分かっていたので鮭といくらの醤油漬けを渡し、一緒に少し家事をして、少し遊んで、五角たとうに入れてきた金平糖をあげた。
姉ちゃんあれして、姉ちゃんこれして、姉ちゃん遅い、姉ちゃん嫁に言っても喋らんね、とにぎやかに動き回るので、義母の古い着物——はんてんにする予定のもの——を借りてきて助かった。
長屋のご近所さん達に「お金持ちんとこに嫁げたのにもう出戻りかい? あんたは昔からぼんやりしていたからそもそも」とか「たまたまええ家の嫁になれたのに出戻りなんて親不孝になる。しがみつかんとあかん」と歩くたびに説教。
早口でまくしたてるし、人が増えて同じ事を言い出す。声を出そうとすると被せられる。
「少し顔を出しただけです」と何とか逃げた。
背中に「帰ってきたいけど帰れんのかねえ?」とか「まああの家は出戻りはねえ」などの言葉がぶつかった。違うのに。
父、母、姉の順で少し顔を見に行き「お義父さんと釣りに行ったので鮭のお裾分けをしました」と挨拶をして帰宅。
父は「元気にやってるか? 元気そうだ。金持ちの家だから全く心配していなかったがええ服を着て贅沢をしているかと思ったらそない着物で釣りなんてさせられているのか」などとペラペラ、ペラペラ喋り続ける。
「汚すと困るから古い古い着物を借りた」と言うのがやっと。
母も「元気そうで良かった。しかしまあええ服以下同文」で「釣りは趣味。趣味は遊びで楽しかった」と言うのがやっと。
姉も「元気そうで何よりだけど皇女様のような以下同文」で「よくお菓子を食べてる」と何とか言えた。
私はお喋りになれたのではなく、周りの人にお喋りにさせてもらっていたのだと実感。
追い出されるのは心底嫌だけど、万が一ルーベル家を追い出される時は、かめ屋に頭を下げてうんと働くから雇って欲しいと頼もうと思う。
長屋よりかめ屋での方がまだ喋れていた。お喋りも料理も楽しい。お喋りや会話は楽しいと知った今、あまり喋れない長屋暮らしには戻りたくない。
その週の水曜日にクララと西風甘味処、カフェというところへ行った。
大きなチョコレートケーキに感激。紅茶はミルクティーが好きと発見。牛乳を初めて知った。
クララはお喋りだけど、私もちゃんとお喋り出来る。うんと楽しかった。
私と義母が教えてくれたから、天ぷらで嫌味を言われなかったと言ってくれて、義母が私にそのうち茶道を教えるだろうから困った時は助けてくれることになった。
その次の土曜日はロイとお芝居観劇。
お芝居とは、物語を人が演じることらしい。ワクワクしている。
アンソニーが約束通り観劇券をくれた。お芝居は中央区の劇場で15時から18時まで3時間。
夕食の支度をほぼ済まして義母に任せ、ロイと中央区へお出掛け。中央区は南1区と似ていて、端の方からでは皇居は見えない、自分達の身分では近くに行けないと言われた。
ただ、皇居が見える場所に今度散歩へ行きましょうと言ってくれた。ロイも久々に見たいそうだ。
義父母の分の観劇券は別の日。来月。義父母が先だと思うけど、2人は先にどうぞと言ってくれたのでロイが「お言葉に甘えて」と私達が先になった。
ロイは「芝居の日に合わせてどこかお店を予約して招待するからこれでええです」と言った。そういう気の遣い方もあるのか。
「旦那様。ロメルとジュリーはどういう話です?」
「紅葉草子みたいな話らしいです。自分は職場で少し聞いただけなので詳しい内容は知らんです」
紅葉草子も知らない。ロイに聞いたら身分格差のある2人が恋に落ちて駆け落ちをする話らしい。
有名で人気の古典文学。古典は昔々からあるということ。
駆け落ちは2人で家を出て、家族を捨てて2人だけで暮らすこと、と説明してくれた。
親不孝というか家不孝——そんな言葉あるの?——だけどいいのかな。
「恋狂いのお芝居なんですね」
「そうですね。悲恋ものというやつです。悲恋は悲しい恋のことです」
「悲しい話は人気があるのですか?」
「人によるかと。自分は紅葉草子はよお分からんです。中心にいる男が好かなくて」
エイラに紅葉に関する素敵な龍歌を教わったけど、紅葉の歌は良くない気がしてきた。
「そうですか。何がです?」
「他にするべきことがあるだろうとイライラします。ああ、終わりもあんまり。女性人気があるのはまあ分からんでもないです」
立ち乗り馬車に乗ったので無言。ロイもイライラしたりするのか。まだ見たことがない。
私はあまりイライラしたことがない。モタモタしてイライラされる側だから。
ロイはモタモタしていないけど私のように滅多にイライラしない。きっと優しいからだろう。こんあつ、だからだ。
立ち乗り馬車を降りてしばらくしたら手を繋がれた。
「今日の着物にはリルさんが沢山いますね」
指で示されたのは着物の柄。葡萄栗鼠文のリス。
「リスですか?」
「ええ。似ています」
「ありがとうございます」
リスは小さくてかわゆい。小さいから私と同じ。
かわゆいは嬉しい勘違いとして喜んでおく。
かわゆいです? と聞いたら自分はかわゆいですか? と同じ意味。それはずうずうしい。
「どういたしまして」
ロイは何が楽しいのか肩を揺らしている。何だろう?
「旦那様?」
「いや、こんなに沢山リルさんがいたら楽しそうだなと」
とても愉快そう。
ロイが沢山いたら……楽しそうだけど大変。
ロイは沢山食べる。お米が足りなくなる。代わりに沢山のロイは全員働いて稼いでくる?
帰ってきたロイ達とトランプは楽しそう。寝る前に皆でジョーカー抜きゲームや大富豪。昨夜教わった7並べもしたい。神経衰弱は勝てないからしない。とても楽しそう。私もクスクス笑った。
しかし、ふと気がつく。遊び終わったら寝る時間。寝る前……ロイが沢山……。
「私も旦那様も1人ずつで良いです」
「そうです? ジョーカー抜きゲームも大富豪も7並べも花合わせも出来ますよ」
「それは楽しそうです」
「それにこない小さかったら懐か鞄に入れて持ち歩けます」
ロイはさらに楽しそう。私を持ち歩いてどうするんだろう。何の役にも立たない。
「小さくなって運ばれたら嫁の仕事が何も出来んです」
「そうですね。リスを探して持ち歩きましょうか」
「リスを捕まえるんです?」
「捕まえてもリルさんのようにすぐ逃げようとしそうですね」
ますます楽しそうなのはどういうことなのか。家出なんてしたことない。
「家出なんてしたことないですし、せん……」
昨夜ロイから逃げた。お勤めじゃなくて色狂いな気がして、恥ずかしい事から逃げようとした。そして捕まった。
「リルさん、紅葉のように赤いですけど、まだ日が高いのに何を思い出したんです?」
悪戯っ子ぽい笑い方。これ、分かっていて質問をしているというか、そうなるように話をされた気がする。
私はついそっぽを向いた。
「何も思い出していません」
「そうですか」
「はい」
「最近リルさんは拗ねたり怒ったりええですね。仲良うなれたようで安心します」
私の手を握るロイの手に少し力が入った。
「私も旦那様が色々な表情をするのでそう思います」
「あそこが劇場です」
そうして私とロイは、最近華族の女性の間で流行っているという「ロメルとジュリー」を観劇。
ロイが冊子を買ってくれた。浮絵もある薄い本。
絵はロメルとジュリーが手を取り合って、今にもキスしそうな程見つめ合う美しい浮絵で、綺麗だけど恥ずかしくなる。
ロイは勉強を続けたら読めますね、と言いながら「最近の華族では比喩も好まれるそうです」と指をさしてくれた。比喩は例えること。
「月が……ですね」
見たことある難しい漢字。何だっけ。
「きれいと読みます」
月が綺麗ですね。これか、ロイが言っていたのは。
続きに漢字でもひらがなでもカタカナでもない文字の後ろに「あいらぶゆ」と記してある。
「旦那様、らぶゆです。アンソニーさんが言っていたらぶゆです」
「常人の恋ふといふよりは余りにてわれは死ぬべくなりにたらずや。これは古典龍歌です。全部似たような意味です、と書いてあります」
「調べます」
「ええ。少し失礼します」
ロイは厠——多分——へ行った。
続きは……あの北・・のようになりたいです。
2つ並びの北・・は西の国では恋人の北・・や真心や夫婦の北・・。
その続きは龍歌。戻ってきたロイに聞いたら・・は極星だった。あの北極星のようになりたいです。2つ並びの北極星。
北極星は知っている。迷子になった時に探す動かない星のこと。
「西の国では北極星は2つみたいですね。この話は知りませんでした」
「動かない星が2つで恋人、夫婦はええ意味ですけどまごころは何ですかね?」
「調べてみます」
「私も調べてみます」
2人で冊子をもう少し読んでいたらお芝居開始。