俺と妹と義弟の話11
俺の通う剣術道場は厳しくて、兵官を目指しているやつばかりなのに、中には変わり者のお坊ちゃんもいる。
彼らがこの道場を選んだ理由は様々だ。
デオン先生に憧れた、兵官にはならないけど才能があるから質の良い場所で稽古をしたい、厳しいところで好きな剣術を習ってみたいなどなど。
お坊ちゃん先輩の中には、単なる趣味なのに兵官よりも強い人もいるから世の中は不公平。
お金持ちで立派な仕事もあるのに、好きなことでも優秀で試合に勝って幸せとはうらやましい。
父や母は「無いものは努力で掴め」「運も実力のうち」「お金持ちに生まれるかどうかは運だからそれも実力」みたいに言う。
俺が持っているもの——健康な体や仲良し家族がなくて不幸になる人間はごまんといるらしい。
根は上げていいし、悲しんでも悔しがっても泣いても構わないけど、自分が恵まれていること、幸福なことを忘れてはいけない。
「何も無い」と思っている俺が、誰かから見ると「持っている人」かもしれないという。
よく分からん。
★
最近入門したやつが稽古前の準備運動の腕立て伏せの規定回数を終わらせることができなくて、デオン先生に「終わるまで竹刀での稽古はしない」と言われた。
あいつは道着も防具も新品で、入門時の挨拶で「ロイ・ルなんとか」と言っていた。つまり、お坊ちゃんってこと。
色白で細くて、どこからどう見ても弱々そうなロイは今にも倒れそうなくらいゼーゼーしていて、先生に向かって「はい」と小さな声を出した。
「あいつ、腕立てもろくに出来ないのかよ。すぐ辞めるな」
カワキに話しかけられたので、俺は「そうかもな」と答えた。
これから素振りの時間なので楽しみ。
いつも通り素振りをして、次の稽古の前に少し休憩。
素振りの仕方が甘いやつが注意されていく。
ふと見たら、カワキが腕立て伏せを続けているお坊ちゃんのすぐ近くに立っていた。
「金持ちって貧弱なんだな。そーんな細い腕だから腕立てもろくに出来ないんだぞ」
俺は耳がわりと良いので、カワキが笑顔でロイに手拭いを差し出しながら、嫌味を言ったことに気がついた。
カワキの言う通りだけど、一生懸命、自分の限界を超えるくらい頑張っているやつに言う台詞ではないと思う。
俺はああいう、イジメみたいなことは大嫌いだ。
「おい、カワキ! 同門生は兄弟なんだぞ。弟弟子を応援しろ。けなすな」
「ん? 応援しているからこうして手拭いで汗を拭こうとしたんだ。けなしたってなんだ」
「そこ! 何を言い争ってる!」
デオン先生が俺とカワキに「向上心がないなら帰れ!」と怒鳴った。
「無駄口を叩いてすみませんでした!」
「休んでないで素振りします!」
俺とカワキは謝って素振りを開始。
カワキは真面目な顔で謝って、元の位置へ戻ったけど、デオン先生が見ていないところで軽く舌を出した。
師匠を尊敬できないなら辞めればいいのに。
この日、新人お坊ちゃんは準備運動で終わり、一度も竹刀を手にすることはなかった。
俺は忙しいのでさっさと帰ろうとしたら、カワキが仲の良いやつら数人と共に、「帰れるのか?」というくらい疲れて見えるお坊ちゃんに近寄った。
あまりええ予感はしないので、「忙しいのに」とため息混じりでそちらへ移動。
何もしないどころか、「立つのも大変だろう?」と手を貸して、支えるようにしてあげたり、荷物を持ってあげたからホッと胸を撫で下ろす。
「みんなで帰ろうぜ」と言うと、カワキたちは「ああ」と笑った。
歩きながら、俺はお坊ちゃんに「坊はどこから来てるんだ?」と尋ねた。
「俺はトト川沿いの長屋。蛙はうるさいし、蛇もわらわら出るし、夏は蚊だらけ。強くなって立派な兵官になって大豪邸を建てるんだ」
「……」
話しかけたのに無視されてムッとしたけど、喋れないほど疲れているのだろう。
「悪かった。こんなに疲れてたら喋れないよな。今度さ、元気な時に教えてくれよ。俺、お金持ちのお坊ちゃんがどんな生活をしてるとか知らなくて。あれこれ気になる」
「……じゃないです」
「ん?」
「別にお金持ちじゃないです」
「うちは貧乏だから俺からしたらみんなお坊ちゃんで金持ちなんだ」
道場を出て、正門へ向かおうとしたら、お坊ちゃんが「ありがとうございました。父が迎えに来ますので自分はここで」とカワキから離れた。
「そうか? 心配だから一緒に待っててやるよ。根性があるやつなのにからかって悪かったな」
カワキに「お前はいつも急いでるから帰るか?」と聞かれたので「ああ」と返事をしてみんなに手を振って走り出した。
しかし、正門を出てしばらくして、俺はカワキというやつが好きではないので「変だな」と思い、一応確認だと戻った。
悪い予感というのは当たるもので、カワキたちはお坊ちゃんを連れて川の方へ向かっていた。
追いかけて、追いついた時にはお坊ちゃんの道着袋は川の中。
おまけに河原は石だらけなのにお坊ちゃんは思いっきり背中を押されて転ばされた。
「赤ちゃん野郎、もうすぐお父ちゃまが迎えに来るぜ〜」
来るもの拒まず、相応しくない者は追い出すというこの道場で、弟弟子を虐めたら破門なのにカワキたちはなぜこんなことを言うのだろう。
「おい、やめろ。頑張っているやつをくさすな」
カワキの肩を掴んだら、「うるせぇ!」と突き飛ばされた。
俺は剣術は得意で素早いけど、父親譲りで細くて小さいから力はない。
助けようとしたのに、後ろに吹っ飛ばされるなんて情けない。
「こーんなもやし坊ちゃんでも通える道場だなんて俺らの格も下がるだろう? っていうわけでお坊ちゃんはさっさと辞めろ」
「この道場の格を下げるのはお前のような思いやりのないやつだ! お前が辞めろ!」
兄弟喧嘩は御法度だけど知らね。
親父が作ってくれた正義の竹刀を袋から出してカワキに向けた。
俺は親父に「兵官になるってことはみんなを助ける人になるってことだ。似合うぞ」と言われている。
その前、火消し見習いになる時も似たようなことを言ってもらい、頭を撫でてもらった。
だからここで知らんぷりを選ぶことなんて出来ない。
「お前も辞めろ、ちょっと筋がええからってちやほやされて調子に乗ってる貧乏人」
一対五だからボコボコにされて、竹刀を折られそうになったから遠く——まだ咲いていない紫陽花が沢山あるところに向かって思いっきり投げた。
見えないところばっかり殴るクソ野郎たちめ。
「密告したらお前らの家を燃やすからな。あはは、だせぇやつら」
イビリに飽きたのかカワキたちはいなくなった。
転んだように怪我をさせられたお坊ちゃんが、痛くて辛いというように立ち上がり、黙って俺に手を伸ばした。
「そんな助けは要らねぇよ。最悪だ」
自分が弱くて何もできなくて情けなくて涙が出て恥ずかしい。
自分で起きて川の端にあるお坊ちゃんの道具袋を広い、彼の前に置くと今度は自分の竹刀を拾いにいった。
俺は早く家に帰って寺子屋の宿題、それに復習と予習、さらに自主鍛錬もしないといけないのに何をしているんだか。
「じゃあ、また来週。あんな卑劣なやつらから逃げんなよ」
お坊ちゃんは何か言ったようだけど声が小さくて聞こえなかった。
体のあちこちが痛いけど、胸の方がもっと痛い。
弱いと何も出来ないということを、誰も助けてあげられないと言うことを、こうして時々、嫌というほど思い知らされる。
『立派になれよ』
親父がいう立派な大人になるには、誰かを助けたり守るためには強くならないと。
兵官はあらゆる悪人を成敗して捕まえる人のことだから負けてはいけない。
絶対に強くなる。
お坊ちゃんはいびりなんて嫌だろうから辞めるかもしれないと思ったけど、ロイは辞めなかった。
カワキたちがコソコソいびっているのに「この野郎!」と親が現れることもなさそう。
ただ、カワキたちの様子が変になったから、デオン先生はきちんと気がついて何か対処したっぽい。
しばらくしたら、カワキたちは辞めて、ロイはお坊ちゃんたちと仲良くなった。
おぶった時に賢い話を面白く教えてくれたから俺も彼らの輪に混ざりたかったけど、何回か近づいたら、話している内容がちんぷんかんぷんだったので毎回、回れ右。
俺は滅多に人見知りしないけど、一人だけ分からない、教えてと言うのは恥ずかしくて。
格好悪いところを見せて兄弟子らしくなくて恥ずかしかったから、これ以上はと考えてしまう。
とある夜、ふと、父にロイのことを話したら、「その坊は強くて逞しいんだな」と言われた。
「苦手なことや辛いことから逃げずに立ち向かえる人間は立派だ」
「うん、俺もそう思う」
だから俺はロイと話してみたいと言おうとしたら、父がこんな話をした。
俺はちまちまの竹細工なんて嫌だと逃げた。
剣術は筋がええから頑張れているようだけど、いつか何かで辛くなる時が来るだろう。
そんな話をされたので居心地が悪い。
「弟が立派だと奮い立つから、ええ弟弟子ができて良かったな、仲良くしなさい」
「うん、まぁ、分かった」
「はい、分かりましただろう」
「立派になれよ」と頭を撫でられたので嬉しかったから、素直に「はい、分かりました」と返事をした。
「りっぱになれよ」
父にくっついて竹細工の真似事をしていたリルにまで、なぜか頭を撫でられた。悪い気はしない。
★ ★
自分の腹から内臓が飛び出ているようだし、生温かい血はぬめり、体がどんどん冷えていく。
奇跡のような薬はどこまでこの死にかけの傷を癒してくれるだろうか。
あまりの激痛で気が狂いそうだ。
痛さを紛らわして力を出すために大絶叫して、近くにある掴める瓦礫を投げ飛ばし、化け物狼の気を引いた。
「かかってこい化物狼! お前の相手はこっちだ!!」
俺の目の前で弱い者を虐げるなんて許さない。
ずっと、ずっと、ずっと鍛えてきたのはこういう日のためだ。
「そっちじゃねぇ! 化物狼! こんだけ強くて弱い者虐めか! かかってこい!」
殺すなら俺を殺せ。さぁ、殺せ。殺してみろ。その間に誰か一人でも——……。
「……さん、ネビーさん」という声が聞こえてきて、自分が物思いにふけっていたと気がついた。
あの事件で自分の死を強く意識してからというものの、時々、足元に地面がない感覚がしてこうなる。
なぜか無性に一人になりたくて道場から離れて河原まできてぼんやりしていた俺に話しかけてきたのはロイだった。
今は春だから、桜を見ると落ち着くので、そうすることが多い。
「こんなところで一人酒とは。まぁ、道場内よりもよかな景色ですね」
「花見と言いつつ単なる宴会ですからね」
隣に腰を下ろしたロイは片手に大徳利を持っていて、反対側の手には盃が二枚。
「どうぞ」と盃を差し出されたのでありがたく受け取りお酌してもらった。
お礼にお酌をすると、ロイは青空を見上げて「ここ、懐かしいですね」と言いながら微笑んだ。
「ん? そうなんですか? 思い出の場所ですか?」
「昔、ここで二人ともいびられたじゃないですか。誰だっけかな。こう、目が細くて顔が四角い方に」
「……あー。そういえば。誰だっけ。あのすぐ辞めたやつ。あの頃は弱くて何も守れず、兄弟子の威厳も見せられず、最悪でした」
「あの時の最悪って自分に関わったから最悪ではなくて、そういう意味ですか。年々、そんな気がしていたから聞きたかったんですよね」
ロイは「今、聞けました」と肩を揺らした。
「もっと頑張って喋っていたらってあとから反省しても遅いことが多いけど、遅くないこともありますね」
俺ともっと前からたくさん話していたら良かったと言われた気がして唇が緩んだ。
同じことを考えることはこれまでうんと沢山あったので、彼もそう思っていたと分かるたびに嬉しい。
こういうやりとりは今日が初ではないのに、何度でも嬉しくなる。
「最近、元気がないように……」
「旦那様、お兄さん」
リルも俺、いやロイを探しに来た。
彼女の視線がまず自分の夫で、先に彼に声をかけたのでそう感じた。
「見当たらないので探しました。庭ではなくてこちらで花見にしたんですね」
ふわっと穏やかに笑ったリルは対岸にある桜の木を眩しそうに見つめた。
「自分もネビーさんを探したらここへ辿り着きました。棚からぼたもち、綺麗な桜です」
「すぐ近くなのに初めて来ました。ええ景色ですね」
ロイはさり気なく手拭いを懐から出して自分の隣に広げ、リルにどうぞというように手で示した。
腰を下ろしたリルを優しげな眼差しで眺めるロイに感謝の気持ちと腹立ちの両方が込み上げてくる。
成り上がってみんなで大豪邸に住み、同じ苗字の家族になるはずだったのに。
しかし、ロイは代わりに俺に家族を増やしてくれた。知恵も、経験も、友人も、あらゆるものも。
「入門したばかりの時に、もやし野郎みたいにここでいびられて、ネビーさんが助けに来てくれたんですよ」
「そんなことがあったんですか」とリルはようやく俺に関心を示した。
「助けに来たのに役に立てず、ボコボコにされて最悪だった。ロイさん、嫌なことを思い出させないで下さい」
「今のことで元気がないより、昔のことでそういう顔の方がよかかなと」
「あっ、そうそう、お兄さん。最近、どうしたの? どこかのお嬢さんにフラれたの? ルルたちが食べないしぼーっとしてるって心配してる」
リルの表情が「私も心配している」というように変化したので、心の中で「これは困った」と呟き、思いっきり笑ってみせた。
「フラれる前に出会いがない。そろそろ時期な気がするのに隣にいる夫婦が縁結びを用意してくれないからかもしれない。あはは」
それから俺はくだらない話を繰り返し、気がついたらロイと軽く遊び喧嘩をしていて、うんと楽しい。
今日はリルに邪魔されたけど、俺はロイにならきっとあの事件の話を出来るだろう。
話せても、話せなくても、どちらでも構わない。
言おうとして言えていないけど、「ロイさんならこう言ってくれるだろう」と確信できるから、それだけで心が軽くなる。
兄弟になってから積み上がったこの信頼と友愛は、親しい幼馴染たちに感じるものとはかなり違う。
不思議だと思う反面、同じ師匠のところで育ったから価値観を一部、共有しているからだろうと、とても腑に落ちている。
他の兄弟弟子たちも現れて、「桃兄弟はまーた二人で遊んでいるのか」と笑われた。
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