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特別編「リルと甥と未来の話」


 

 レイスとユリアは最近、とにかく義父母と遊びたいらしく、たまに「母上じゃないの」と寂しいことを言う。

 ただ、四六時中「母〜」とまとわりつく中での出来事なので寂しさはそこまでてはない。

 本日は日曜日。家族が全員家にいて、レイスとユリアが「おじいさまと遊びたい」と言うので、居候のルルを見守りに残して家を出た。

 みんなが「たまには息抜きしなさい」と言ってくれたのもあり。

 ロイは試験勉強で忙しく、デートでないのは残念だけど、一人でぷらぷら気ままに散歩は伸び伸びできそう。


 息子も娘も可愛いけど、三才になった二人はよく喋るし動き回るから疲れる。

 朝から晩まで目を離せないのに、家事だけではない嫁仕事もあるからなおさら。

 義母が手伝ってくれるし、嫁仲間たちと交代で子守りをするなどの工夫もしているけど、私には居候して手伝ってくれるルルもいるが、自分のことだけを考えて動ける機会は少ない。


 日曜ということは父やルカ、ジンはおそらく仕事。しかし、学校が休みのロカは家にいるだろう。母もいつも家にいて、甥のジオも同じく。

 実家だ実家、楽しい実家へ帰ろうと軽い足取りで歩き始める。

 手土産は何が良いだろうと考えていたら、大通りにかなりの人だかりがあり、なんだろうと近づくと大道芸をしている様子。

 兵官が二人いて、大通りを塞がないように交通整理をしていて、それとは別に女性兵官もいる。

 女性兵官は芸人から少し離れたところにいて、柔らかな雰囲気で区民を見張っている。


 芸者の一人は女性の旅装束姿で笠についている垂れ衣で顔がほとんど見えない。

 彼女——もしくは女装している彼はカクカクした不思議な舞を披露している。

 もう一人はロカくらいの女の子で三味線を弾いて歌っていて、その歌詞から踊っている芸者は人形だと分かった。


 あの人が造ってくれたこの体は固く、固く、軋んで嫌な音を立て、迷惑ばかりかける。

 ただお役に立ちたいだけなのに。


「私は人形、あなたの(しもべ)。何の役にも立てないデク人形。さぁ指よ動け、手首よ動け」


 衝撃的なことに芸者は人間とは思えない、骨折してしまうような動きをしていく。扇子を使った錯覚だと分かっても真似できなそう。

 思わず拍手をしたら、観客たちも同じように拍手をしたので大きな音になった。

 その時、目が隠れている芸者と確かに目が合った。目は見えなかったけど確かに目が合った。

「ありがとう」というように柔らかく微笑む美しい紅色の唇が確かに私に向けられたので、目が合ったと感じてときめく。

 ドキドキ、ドキドキしていたら、芸者はバラバラと崩れるように倒れた。

 今、ここには本当に人形がいて、バラバラになって壊れてしまったと涙が滲む。

 泣いたのは私だけではないようで、すすり泣きがあちこちから聞こえてきた。


「これにて第一幕は終了となります。続きをご所望でしたら是非こちらへ観劇料をお願いいたします」


 三味線を弾いて歌っていた女の子が立ち上がり、風呂敷を敷き、その上に箱を置いた。

 開いた扇子でひらしらと箱を示されたので、吸い寄せられるように近寄る。

 銅貨を箱に入れようとして、「銅貨は何枚?」と考えて手を止めたその時、恰幅の良い中年男性が「お二人はどこの店の者ですか」と、大きくてゆったりとした声を出した。


「流れ者ならうちの店へ来ませんか? お二人には素晴らしい才能があります。特にお姉さん」


 勧誘だ勧誘、どこの誰だと観客たちがザワザワし始める。

 壊れた姿のままずっと動かなかった芸者が、どこかのお嬢様というような可憐な動きでスッと立ち上がった。

 彼女は何も言わずに兵官を見て、命令するように顎と手を軽く動かした。

 女性兵官が中年男性の身分証明書を確認し、「交渉の価値がありますよ」と告げる。


「それでは、あんみつの美味しいお店で商談を致しましょう」


 そんな、と残念がる声が上がる。続きを観たいから当然だ。私もそう言いたい。


「ご観覧して下さった皆様、大道芸は一期一会でございます。また出会えますようにさようなら」


 芸者は非常に色っぽい声で軽く舞った。

 そのまま、とても優雅な足取りでゆっくりと歩き出し、「皆様に出会えて幸せでございました」と言い、私たちの胸を打って去っていった。

「あの笠衣の下には絶世の美女がいる」という、鼻の下の伸びた男たちの会話が聞こえてきて、私はうんうんと首を縦に振った。

 観劇が短かったのは残念だけど、実に良いものを見た。しかも、私は末銅貨一枚すら払っていないとほくほくしながら実家へ向かう。


 早歩きをしていたけど、途中でかわゆい猫を見つけて、人懐こいから撫でていたら、手提げからはみ出ていた手拭いを奪われた。

「待てー」と心の中で叫びながら追いかけて、よく分からない路地を進み、魚屋があったので素早く小魚を買い、全速力で猫を追う。

 猫は青年に撫でられてご満悦になったから止まった。


「ほれほれ、魚ですよ。私の手拭いを返しなさい」


 小魚で猫を釣り、見事、手拭いを取り戻した。

 青年は猫の飼い主で、「すみません」と謝ってくれたけど謝る必要なんてない。


「いえ、うちのがご迷惑をおかけしましたから。そうだ。甘い物は好まれますか?」


「本当に大丈夫ですので」


「妻の実家がお菓子屋でして、すぐそこなんです。手前味噌ですが美味しいのでぜひ」


 それは食べたいので遠慮するのはやめた。

 猫を抱えた青年と大通りへ出ると、彼は雅屋のお嬢様と縁結びした幸せ区の老舗お菓子屋の息子だと判明。

 ジミーが出張時に買ってきてくれた、幸せ区銘菓「ふくふく」を売っているお菓子屋の息子!

 

「ふくふくをご存知とは嬉しいです」


 彼ら夫婦は娘と共に遊びに来ていて、手土産の一つは「ふくふく」で、彼は「まだあるはずです」と微笑んだ。


「雅屋は家族親戚で贔屓(ひいき)にしているので……妹と甥を連れて遊びに行きます!」


 ロカとジオを連れてお菓子を選ばせたら二人は喜ぶだろうし、上手くいくと二人が「ふくふく」を食べられる。


「あの、それでしたらこちらから……」


 善は急げと走り、「話しかけられた?」と思ったけどまぁいいや。

 実家に到着したら家族は母とジオしかいなくて、二人は合間机を使って竹細工の練習をしていた。


「もうやだ。ぼくは勉強がええ」


「んもう、見た目と一緒で不器用さはジンそっくりね。それでこの投げ出し癖はネビーだわ。私かあの人の隔世遺伝ってやつね」


 呆れ顔の母が「苦手なことも頑張れるのがジンの息子よ」と孫を促したけど、ジオはやだやだ、勉強がええとぐずっている。

 

「あっ、リルおばさん!」


「叔母上よ、ジオ。言い直しなさい。あと飛び出さない」


 合間椅子から素早く動こうとしたジオの衣紋が母の手でがっちりと掴まれた。


「リル叔母上ですよ」


 両手を広げて「ゆっくりですよ」と言いながらジオを近くに招き、きちんと出来たから頭を撫で撫で。

 ジオはユリアとレイスよりも二歳もお兄さんなので、会うたびに「レイスやユリアもこうなるんだな」と楽しくなるし、甥っ子自身の成長も嬉しい。


「ちょいと聞いてくれよリルの叔母上。勉強をさせてくれって言うのにするなっておかしいよな?」


「ジオ、その話し方は火消しさんというかテオ君でしょう。真似しないで真似してもらいなさい。卿家(きょうか)男児なんですからダメですよ」


「リル叔母上もダメダメ怪人〜。そんなことでへこたれる……っ痛!」


 母がジオの背中をバシンッと叩き、「ルーベルさん家に泥を塗ったら海に捨てるって言うてるでしょう!」と雷を落とした。

 母はそのまま説教を開始して、どんなに腕が良くても職人は作品を見つけてもらえなければお金にできない、ジオの祖父も両親もルーベル家が盛り立ててくれるから大金を稼げるようになっていると話し始めた。

 貯金は順調であと少しで大きな家に引っ越せるし、ジオは我が家のおかげで無試験で小等校にも入れる。

 ジオが大好きなルルも我が家にお世話になっている、ジオが大好きなレイも、ロカもと続く。

 お行儀の良い、立派な大人にならないとルーベル家に顔向けできない、家族が泣くと四才児に迫力のあるお説教を続けていく。

 かなりお世話になっている兄話はしないの?


「分かりました」


 ジオは母に素直に謝った。ぶーたれ顔ではなく、心の底からという表情で。


「よろしい。反省したならリルと遊びに行ってええよ。リル、礼儀作法を教えてきて」


「分かりました」


 母の迫力あるクドクド説教を聞いたからか、息抜きに来たことを忘れて子守りを引き受けてしまった。

 飴と鞭なのでジオを甘やかしてきてという意味なのは分かるけど、多分、母は昼寝をしたいのだろう。

 大家族の大黒柱妻はご近所さんの頼れる人で、私も困った時に頼るから息抜きが必要だ。


 ロカは友達の家に遊びに行っていなかったので、ジオと手を繋いで街へ。

 ジオは「レイスとユリアと遊びたい」と言ってくれたけど、雅屋へ行くんだったと思い出す。

 

「遊ぶなら泊まりがええですよね?」


「泊まりがええです! 泊まる! ガイさんと将棋する! あっ、します!」


「泊りならルカたちに許可を取らないといけないから、まずはお菓子を食べに行きましょう」


 お菓子!と喜ぶジオと共に雅屋へ。


「そういえばさ、お母さんとお兄さん、ネビーは喧嘩したんですか?」


「してた。おばあちゃんが兄ちゃんに結婚しない親不孝者。長男なんだから孫を見せろ、早ようしろって言うてた」


 祖母上、お兄さんと言葉遣いを注意しつつ、それで? と話の続きを促す。


「おじい様もそうだそうだと言うたらネビーの(あに)さんはすねもうして、みんなとご飯を食べませんです」


 直しているからか言葉が変だけど、可愛いから放っておこう。

 どうせ家族親戚総出で直すから、息抜きをしにきた私はしばし嫁の仕事を放棄する。

 

「ジオは忍者だから偵察に行ったんだ。家が建ってからか、その前に絶対にこの人だって人が現れるまでは結婚しないというきみち情報を手に入れたのです。えっへん」


 それは機密情報ではなくて、兄がいつも言っている台詞だ。そこに「ルル達が嫁にいってから」も加わることが多い。

 ルルはそろそろだし、レイも遠い未来の話ではないだろうけどロカの嫁入りはまだまだ先だ。そりゃあ、両親は息子のことを心配する。


 雅屋へ到着したのでお店へ入り、顔見知りの売り子がいつものように女将さんを呼んでくれたので、今日は甥っ子とお菓子を楽しみたいと伝えた。

 接客されたいので、夫の剣術道場関係の注文もあると添えて。

 娘さんが帰省していると聞いた、旦那様と猫と会ったと話していたら、その旦那——ハルキさんから聞いた「足の速い奥様」は私のことだったのかと笑われた。

 足の速い奥様がいらしたらもてなすと聞いていて、ルーベル様ならますますと座敷へ案内された。

 ここでは息抜きのことは忘れて、ジオに礼儀作法を教えようとしたけど、彼は拙いながらもあれこれできている。

 私の可愛い甥っ子がますます立派になっている!

 ジオはレイスやユリアがいるとお世話してくれるし、本当にええ子だと改めて感激。

 そういえば、先週も感激したな。

 ジオを孫のように思っている義父母は、このジオを見たらまたほんのり泣くな。私はそれに銅貨を賭けるけど、賭けをする相手がいない。


 座敷で「ふくふく」と初夏の新作練り切りとお茶を振る舞われ、女将さんとハルキさんだけではなく、嫁いでなかなか喋る機会が減ってしまったお嬢様と、初めましての娘さんも来てくれた。

 若く見える夫婦だけど、二人は私よりもかなり年上なんだよな。

 上の息子たちは学校があるので一緒に帰省せず、今頃お店で和菓子職人修行中だそうだ。

 ユリアと同い年に見える娘さん——ナナミに「こんにちは」と挨拶をしたら、うんとかわええ笑顔が返ってきた。


「ナナミはふたちゅよ」


 小さな手だし、指で二歳と作れなくて可愛い。

 今年で三歳ということはレイスとユリアと同い年だ。

 

「ナナミちゃんは何遊びが好き? ぼくが遊んであげるよ」


「ナナミはねぇ、お花がええのよ」


「この子、最近花札を並べたり眺めるのが好きなんです。あとお絵描きをしたり。ジオ君、無理して遊んでくれなくてええですからね」


 ナナミに「遊ぼう」と手を取られたジオが立ち上がると、お嬢様はそう言ってくれた。


「僕、子守りは得意です。お兄さんなので。えっへん」


 腰に手を当てて胸を張り、えっへんと言うのは最近のジオの流行り。

 みんながかわええという目をして、「ご立派な甥っ子さんですね」と微笑んでくれた。


「どれ、父も加わろうかな。ナナミ、父もジオ君と遊びたいのでええですか?」


「やぁよ。ナナミもおにいちゃまがほちいからいやぁ。シホちゃんみたいにあそぶの」


「ナナミちゃんにはシホちゃんってお友達がいて、シホちゃんにはお兄ちゃんがいるんだね」


「うん!」


 もうすぐ五歳児がもうすぐ三歳児と手を繋いで大人から少し離れて優しく遊んであげる図。

 レイスとユリアがジオに遊んでもらう時もこうなるけど、うんとかわええ。お菓子がますます美味しい。

 帰る時にナナミはジオと帰ると騒ぎ、泣き、母親と父親に説得されたけど「それならおよめさんになる」とますます泣いた。


「ずっといっちょはおよめさんだもん!」


 ナナミは離れるのは嫌だ、もっと遊ぶとジオの片手を両手で握って泣き続け、ジオが「可哀想だよ」と言うので、我が家——ルーベル家に泊まるのはどうかと提案。

 こうして、ハルキさん家族は我が家へ遊びに来ることになり、友達が増えたユリアとレイスは大喜び。


 翌日、今度はユリアがナナミと離れたくないと大暴れして、私は息子と娘、それからジオを連れて雅屋へ泊まりに行った。

 ナナミはユリアに感化されたのかジオを「おにいちゃま」と慕い、ジオはジオで妹が増えたと喜び、涙目のハルキさんの近くで花で作った指輪を交換。

 ジオではなくレイスだったら私は発狂して指輪を奪って投げ捨てる気がしたので、この指輪はルカには秘密。

 

 ☆


 それから二年と少しして、何度か会ったことのあるナナミが幸せ区のお祭りで迷子になり、川で遺体となって発見された。

 私たち家族親戚は幸せ区で行われたお葬式に参加して、とても悲しみ、何度かしか会っていないとはいえ、とても懐かれていたジオはしばらく塞ぎ込んだ。

 ただ、それもそんなに長いことではない。

 なにせ幼い子供は病気でも死ぬし、ひょんなことでも亡くなる。

 幸いにもジオとユリアとレイスは成長できたけど、その間、三人の友人達やその兄弟姉妹は容赦なく黄泉の国へ連れて行かれた。

 たがら私達は、ジオは、誰かの不慮の死を受け入れ、悲しみを乗り換えて前へ進んでいく。

 悲しすぎると大切な記憶を忘れてしまうこともあり、ジオは雅屋に近寄ることを「なんか今日は嫌です」とたまに避ける。

 それはいつも、名前を口にしなくなったナナミの命日付近の時だけだ。


 ☆

 

 ジオは体が弱めのレイスとは異なり、ほとんど病気にならず、小等校、中等校、高等校と順調に進学し、卿家跡取り認定に必要なこともほとんど成し遂げ、ついに成人となり、立派な公務員になった。

 家族親戚はかめ屋で大宴会をして大盛り上がり。

 二年後はレイスとユリアの元服で同じように騒ぎ、その後も甥っ子たちと、末の妹ララがいて、彼らの元服も今日のようにお祝いできるだろうと幸せ気分。

 ただ、お酒を飲み過ぎたのか、寝る前に亡くなった知り合いの子供達を思い出して悲しくなり、しくしく泣いて、気がついたロイが抱きしめてくれた。

 

 ☆


 さらに月日は過ぎ——……。


 彼女は昔々、夏祭りで親と兄達とはぐれてしまった。

 声をかけてくれた優しい雰囲気の女性に手を繋がれて、家族を探していたはずなのに、気がついたら眠っていた。

 そうして、彼女は女の地獄、花街へ売られた。

 近所でも評判の美少女ナナミは、そうして朝露花魁の遊楽女(ゆうらくじょ)ヒナとなった。


 彼女は店の人間に「借金のカタに売られた」と聞かされたけど、違うので違うと告げ、「二度とそんなことを口にするな、喋ったら殺す」と水責めをされた。

 この世は理不尽で残酷で不平等で悪意に満ちている。

 姉妹のように育ったアイがボロ雑巾のように働かされて死ぬと、彼女はこの地獄から逃げる決心をした。

 花街から足抜けは死罪である。


 逃亡しなくてもこのままでは自分の心は死に、そのうち自ら命を断つことになる。

 それなら自由を求めて逃げて、一縷(いちる)の望みに賭けたい。

 因果応報なんて説く神は大嘘つきだ。

 この世界には、悪者ばかりがのさばっている。

 都合が悪いからと、輪廻応報なんて言葉を作り出して、何も悪くない現世の者達への不幸の理由をはぐらかしている。

 良いことをすれば幸福になり、悪いことをすれば不幸になるけど、過去世にもよるなんて教えには反吐が出る。


 殺せ、殺せ、さあ殺せ。殺してみろ。殺せるものなら殺してみろ。

 この世の全てを呪ってやる。


 彼女はそう考え、大嫌いな血の繋がらない妹に、その妹が欲しくて欲しくて仕方がないという自身の衣服を貸し、あらかじめ盗んでおいた下女の制服を着て、何食わぬ顔で店を出た。

 しかし、変装したって大門は通り抜けられない。

 治安を守るはずの兵官達が、地獄の住人を閉じ込めているからだ。


 なので彼女は大門を使用せずに川を利用することにした。

 それも綺麗な川ではなくて、糞尿処理用、時に最下層の遊女の死体や水子が投げ入れられる川である。

 そこの皮の水を飲んだら即座に病気になるなんて言われているので、死にたくなった者が近寄ったりする場所。


 病気で死ぬ覚悟を持たなくて足抜けが出来るか!


 彼女は心の中でそう叫び、人目を忍んで川に飛び込み、用意していた皮袋を使ってなるべく空気を持たせて、少しでも遠くまで泳いだ。

 外街がどうなっているのか不明だが、とにかく遠くで浮上して、ひたすら遠くへ逃げて、後のことはそれから考える。

 我慢出来るだけ我慢して息を止め、皮袋に溜めた空気も使い、自分としてはかなり遠くで川から上がった。

 天候が悪そうな日を狙ったので、近くの草むらに隠れてジッとして、雨が降り出したので歩き出した。


 雨の中、彼女は初恋の人を思い出した。

 こうして無事に、清い体のまま地獄から逃げられたから、あの人と出会い直せたらいいのにと。

 見た目だけならもっと良い男性はいるが、あの優しげな目やうんと誠実そうで堂々とした雰囲気の者はきっと他にはいない。


 ジオという男性について彼女が知っていることは、朝露花魁の贔屓(ひいき)客が呼んだ芸者の連れということだけ。

 初対面のあの日、彼は彼女のお酌を拒否し、話しかけてもこちらを見ないであまり返事をせず、名乗らず、お酒どころかお茶も飲まず、何も食べなかった。


 朝露花魁も彼女達(らく)も魅了した訳アリらしき芸者夕霞(ゆうがすみ)の付きは、店番によれば、夕霞(ゆうがすみ)を引きずるように、逃げるように遊楼を出て行った。

 少ないけど食事代、少ししかないけれど(らく)さん達にお菓子をと、わずかな現金と絵飴(えあめ)の入った年季の入った缶を残して。

 

 彼女はその日、隙をみて、「返事はなさそうだけど」と思いながら彼の袖に手紙を入れたけど、あれからずっと返事はない。

 今後、もし返事があっても足抜けした彼女はその手紙を読むことはできない。

 中身を全て配って捨てられそうだった古ぼけた缶を彼女は今、荷物として持っている。

 使い古されて表面が削れてしまっている缶は青色で、模様は銀で描かれており、絵は鬼灯(ほおずき)だ。

 着ていた着物の質は良かったし、そのような缶だから、「彼は多分どこかのお坊ちゃんだろう」と空を見上げる。

 大雨に打たれながら、雷の鳴る中、彼女は「彼は芸者の付き人だから、経営関係者の息子だろう。身元不明の下街女と出会うことはないし、縁結びなんてさらに」と泣いた。

 あのような人は遊楼の客にはならない。あのまま遊女になっても縁がなかった、今と同じだとさらに泣いた。


「私だってお嬢様だったのに! 私だって、私だって……あのまま育っていたら……」


 彼と出会った場所が実家のお菓子屋で、お嬢様のままなら大好きな両親に「手紙を贈りたいです」と頬を赤らめながら、照れながら頼めたのに。

 彼女はおいおい泣きながら、捕まって正体がバレたら死罪か花街に連れ戻されて自ら首吊りだと、必死に足を動かした。

 その手に鬼灯の缶を握りしめて。


 ☆


 それからほどなくして、ジオとナナミはよく晴れた日に再会した。

 初対面だと思っている夜こそが再会日で、街中での出会いは二度目の再会であるが、二人はそれをまだ知らない。


 煌国では三という数字は特別だと言われている。

 ジオとナナミは幾人もの行動によって三度出会ったのだが、三度の出会いに必要だったものが何だったのか、その全てを知ることは決してない。

 けれども、誘拐事件がなければ「自分たちは幼馴染だった」ということは、まもなく知ることになる。


 足抜け遊楽女を発見してしまったジオは彼女を兵官に突き出すことは殺すのと同じ意味だと悩み、見なかったフリ、知らなかったフリを選択。

 その上で偶然を装って彼女を福祉支援に繋げるはずが……それは別の機会で語ることにする。



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