未来編「リル、付き添い人になる5」
幕が降りると同時に、ユラが立ち上がって出口へ向かって行ったので思わず追いかける。
劇場を出たところで彼女が立ち止まったので、何かと思ったら、ジミーが既にそこにいて、袖に腕を入れた体勢で微笑んでいた。
「絶対、すぐに逃げると思ったらやっぱりですね」
「あら、どうもこんにちは。お得意様のシシド様。こんなところで奇遇ですね。急いでいるので失礼します」
他人行儀な台詞を吐いたユラが歩き出して、ちょっとというように片手を伸ばしたジミーが、突然吹き飛んだ。
人にぶつかられてふっとんで、地面に転がったジミーに慌てて近寄る。
「っ痛……」
「鈍足バカ兵官共! この税金泥棒! 捕まえられるものなら捕まえてみやがれ!」
ジミーにぶつかったほっかむり男が叫んで、ひょいひょい建物を登り、屋根を走り出したので唖然とする。
風呂敷包みを背負っているのでおそらく泥棒だ。
「待て!」
「路地から向こう側へ回れ!」
兵官数人が二手に分かれて泥棒らしき人物を追いかけていく。
「痛てて……。最近はついていたの……」
そう口にして顔を上げたジミーの鼻に、鳥の糞がべちゃっと落下。
空を見上げたら、何鳥か分からないけど、鳥の群れがすいーっと通り過ぎていったところ。
大丈夫なのか気になったらしいユラが彼に近寄っていたので、目の前で今のを目撃した彼女は大きな目をさらに見開いて停止した。
「運がついたようだから今日はこれからずっと幸運かな」
ふふっと笑ったジミーは、大慌てすることも、騒ぐこともしないで、地面に膝立ちになり、懐から出した手拭いで自分の鼻を拭き始めた。
「今月ずっとかもしれませんし、なんなら今年……」
今度はジミーの上から魚と氷がどさどさ落ちてきた。
彼の後ろで棒手売りが転んだからだ。
「あんた、本当に運が悪いのね。この間、店前で見た時と似たことになっているわよ」
「店前で見た? ああ、見られていたんですか」
立ち上がったジミーは、謝る棒手売りに笑いかけながら、魚を拾うのを手伝った。
私も手伝い始めると、ユラも無言で魚を拾って桶の中へ。
「本当にすみません。どうしよう……。まだ働きだして数日なのに、クビにされちゃう……」
何度もジミーに謝って、私達に拾ってくれてありがとうと何回も告げた若い棒手売りは涙目になり、はっぴの袖で目元をぬぐった。
「売り切れたって思ってもらえるように自分が買い取りましょうか。一番近い保護所へ届けて下さい。場所はここです」
さらっと懐から矢立と紙を出したジミーが、さらさらと文字をつづっていく。
「すみません、すみません、ありがとうございます」
「少々傷んだものを子ども達にはアレですが、かなり良い品のようで、表面しか傷ついていないようですので」
早くしないとせっかく残った貴重な氷が溶けて、魚が腐るのでとジミーが促したので、棒手売りはぺこぺこ頭を下げながら、感謝しながら去っていった。
「うわぁ。魚臭いです」
ジミーが自分の着物の臭いを嗅ぐように動いた。
「あんた。なんで、最後にあんなことを言ったのよ。自分が買いますなんて」
私が手拭いを差し出そうとした時とほぼ同時に、ユラがそうしたので手拭いを引っ込める。
「困っていましたし、あんなに魚が売れなくなるなんてもったいないので」
「ふーん……。バッカじゃないの! あんたのその、ウィオラみたいな目が心底嫌。なんなのよ。殴られても、蹴られても、平気平気みたいに笑って!」
「ウィオラさんみたいな? なんですか急に。殴られたら痛いし、蹴られても痛いし、全然平気じゃないですけど」
袖を引っ張られたので振り返ったらロカだった。
「二人ともすぐ居なくなって慌てたよ。お姉さん、ユラさんとジミーさんは喧嘩? どうしたの?」
「えっと……あのね、ロ「それなら、なんでそんなにヘラヘラ笑っているのよ!!!」
私の声がユラの叫び声でかき消された。
「鳥に怒っても無駄だし、怒りたい泥棒っぽい人はもういないし、あの棒手売りさんはわざとではありません。でも、代わりに怒ってくれてありがとうございます」
「……——っ!!!」
ニコッと笑いかけたジミーに対して、ユラは何か言いたげだけど、何も言わずという様子。
「魚臭いけど羽織りだけっぽいし、顔だけ洗えばなんとかかな。顔を洗いたいんで、そこそこのお店へ行きたいです。リルさん、ご馳走するんでどうですか? そちらの雅屋の兄妹さんも良ければ」
「言っておくけど、私は帰るからね!」
でも、ユラは先程のイノハの白兎にちなんだ絵をジミーに贈ったんだよなぁと、私は歩き出した彼女の前に思わず移動していた。
ロイが引っかかっているのは、多分あの絵の白兎が持っていた黄色い花が、福寿草らしき花ではなくて、菊芋っぽかったからではないだろうか。
私も何かが引っ掛かっていたけど、ロイが分からないことが、自分に分かる訳がないと思考停止していた。
菊芋はちび向日葵に似ていて、向日葵は太陽の花だ。
もうそこまで流行っていない花言葉は、確かあなたを見つめていますとか、憧れていますである。
叶わぬ恋だと思い込んで、陰から相手を見ることしか出来ない妖精が向日葵になったとか、ならないとか、そんな話を随分前にロイと美術館に飾られていた異国絵の説明で読んだことがある。
あの絵は、決して結ばれることはない、慕っている相手にどうか幸あれと願った絵ではないだろうか。
結ばれる可能性はあるけど、先程の白兎と同じように、ユラは自らを否定して、踏み出す気はないということだ。
「なんですか?」
「絵の花はちび向日葵もどきですか?」
「なんの話ですか?」
冷めた目で見下ろされたので、とぼけられたのか、本当になんの話なのか分からないのか判断出来ず。
「ジミーさんをお断りする手紙に添えてあった絵です」
「へぇ、見たんですね。自分のような女にはとても勿体無い方ですので、普通の古典のイノハの白兎にちなんで彼の良縁を祈りました」
「あの花は福寿草っぽくありません」
「福寿草の中に紛れている花ですから、意匠が異なって当たり前です」
「太陽の花ですよね」
「そうだとしても同じです。他人との良縁を祈って贈る花ですから」
俯いて私から目を背けた彼女が歩き出す。
結良花と太陽の花では、込められた想いが違うと思うし、わざわざそうしたのなら、何か含みがあるというのに、ここで何を言えば良いのか頭が回らない。
「リルさん。放っておけばええです。天邪鬼でかわゆいだけですから。百夜通いして欲しいんですよ」
のんびりとした口調で笑ったジミーに対して、ユラが足を止めて振り返り「本当にバカ!」と叫んだので驚く。
「またお店で」
ヒラヒラと手を振ってニコニコ笑うジミーに対して、ユラは彼を睨みつけて、何も言わずに背を向けて歩き出した。
「ちょっと、ユラさん! 今日は私と西風料理店ですよ! シシド様のご馳走も魅力ですけど! 高くない化粧や小物を教えてくれるって言うたじゃないですか! 嘘つき!」
振り返ったユラが不機嫌顔で「あんたと出掛けないとは言ってないでしょう!」と足を止める。
コトリはのたのた走ってユラに追いついて、彼女の隣に並びわユラの両手を取って揺らし始めた。
「ご馳走されたいですぅ! あのいつも気前の良いシシド様ですよ! 絶対に美味しいお店ですよ! 鳥のうんち顔のままは可哀想ですよ!」
「うっさいわね。それならあんたと兄はついていけば良いでしょう。私は行かないから」
「私とユラさんでお出掛けなんですから、やだぁ」
「いつもは大人しいのになんなのよ」
「私は内弁慶ですぅ!」
「ここは家の外よ!」
駄々をこねたコトリに折れたユラが戻ってきてジミーの前に立った。
「バカ過ぎてイライラした慰謝料を求めるわ。同じ部屋では食べないから」
「そうですか。そう……ふふっ。あはは。押し……押しに弱いですね」
クスクス笑うジミーを、ユラが思いっきり睨みつける。
「私は押しじゃなくて、これまでいなかった友人って存在に弱いだけよ!」
「そうですか。コトリさん。何を食べたいですか?」
「シシド様のおすすめ店ならきっとなんでも美味しいですぅ」
「あんた、図々しいわね」
「遠慮してええことって少ないですもん」
つんつんと袖を引っ張られたので、またロカだろうと見たらそうで、彼女は笑いながら「ユラさんにウィオラさんみたいな友人が増えて嬉しい」と告げた。
「ユラさんってちょっと強引な人じゃないと、仲良くしようとしないから、コトリさんはええね」
「うん。仲良しそうでええね」
「この間ね、ユラさんは親しくないけど、お世話になっている同僚のお見舞いに果物って普通? って聞いたの。コトリさんのことだよ。風邪を引いて、ユラさんが代わりに働いた」
「そうなんだ」
険悪な感じから若干丸い空気になり、皆でわりと近くのお店へ行き、半個室で分かれることに。
「リルさん。半個室でこことそこの席にしたら斜めから見えるから、妹さん達は二人でええですか?」
コソッと耳打ちされて、ロカの初デートは? と思っていたから二つ返事で了承。
「会話が弾まなくても思い出です」
ジミーのその発言に小さく頷く。
こうして部屋を分けたら、ロカもクルスも戸惑った様子を見せたけど、二人とも嫌そうではないし、嫌とも言わないのでそのまま。
私達は五人一部屋で、女性と男性で分かれれば良いとジミーが促したのでそうなった。
一人で食べると言ったユラを説得したのは、またしてもコトリだ。
「お兄さんはユラさんと一番遠いところですぅ。でないとデレデレ気持ち悪いから」
「お前はその口の悪さを直しなさい」
「お兄さんにだけですよ」
ジミーが「少々失礼します。店先のお品書きなら何を頼まれても構いませんので、お好きに選んで下さい」と席を外した。
多分、事情を説明して顔を洗わせてもらうのだろう。
「お好きにって、高い物ばかりですぅ」
「気ままな独身で、おまけに中流層のお坊ちゃんだからお金が余っているんでしょ。高い物って、彼くらいの家だと平均的よ」
全然平均的じゃなくて、我が家だとお祝いの時の値段そうだけどと思いながらお品書きを眺める。
お金がかかる趣味がないというか、仕事漬けだからとジミーはたまに我が家にもご馳走してくれる。
代わりに、寮だと食べられないのでと私や義母に少し手間のかかる料理を頼む。
泊まると家族全員喜ぶし、ジミー本人も楽しそうだから、このお返しはお金関係や贈り物よりも、また我が家に誘うのが良いだろう。
「そうなんですか? シシド様は下街にも来る庶民的な下流華族ではなくて、中流華族ですか?」
「卿家よ卿家。衛生省、それも中央所属にお勤めのお坊ちゃん。狙えば玉の輿だけど、おじさんは嫌なんだっけ」
「きょうか……ってなんでしたっけ」
「役人家系。役人は役人でも、お偉いさん。役人豪家の上で、監査や仲裁役が多い役人達」
「へぇ。やっぱりユラさんって物知りですよね」
「無知で少しだけ苦労したから、ちょっと勉強したのよ」
どれにする? とユラが尋ねたけど、コトリは料理名でどんな食べ物か分からないと困り顔。
「お兄さんは分かる?」
「同じ家で育って、こんな店とは縁がない俺に分かる訳がないだろう」
「だよね。ユラさん、難しい、この崩した漢字が読めません! うどんは分かります。てんなんとかなんとか焼きうどん。これは釜飯だからお釜のご飯。お釜でご飯って当たり前なのになんでしょう」
「天麩羅鍋焼きうどん。一人分、炊き込みご飯を提供してくれるんでしょう。これは牡蠣、こっちは蟹、それから雲丹」
「全部高級品ですぅ! てんぷらうどんにします」
「ふふっ、うどんなら安いから? よく見なさいよ」
「これがかきならこっちもかきうどんで、かにうどんで、そうするとこれも多分高級品ですぅ!」
「それは特製海鮮だから牡蠣も雲丹も乗ってるわね。それに帆立、鮭ですって」
「ひゃぁ〜! それは絶対に頼みません!」
あっ、ユラが笑った。
優しい微笑みでコトリと話す彼女は、とても可愛らしい。
たまに見かけるけど、愛想のあまり良くない、嘘っぽい笑顔を貼りつけていることの多い美人が、こんな風に自然に柔らかく笑うとすこぶる良い。
「私達ばかりすみません。リルさんはどうされますか?」
ユラからお品書きを受け取り、これは昔だと読めなかったなと懐かしむ。
「今日は曇りで冷えるので、おうどんにします」
「どのうどんですか?」
「味噌煮込み牡蠣うどんにします。どんな味噌味なのか、気になります」
この中ではあまり高くないし、私は牡蠣が好きだ。
ここへジミーが戻ってきて、顔がさっぱりしましたと笑いながら着席。
手に持っていた羽織りがない。
「親切な女将さんが、羽織りを軽く洗って干してくれるそうです。捨てる副神様がいれば、拾う副神様ありですね」
「ええことをしたからです」
「リルさん、そうかもしれません。嫌な目に遭うと、大体とても良いことがあるので。皆さん、食事は決まりました?」
「コトリさんは特製海鮮鍋焼きうどんで、お兄さんは特製海鮮釜飯。二人で分かち合うから取り皿も。リルさんと私は味噌煮込み牡蠣うどん」
ユラがさらっと告げたので、決まらないと悩んでいたコトリが驚愕顔になり、兄と一緒にぶんぶんと首を横に振る。遠慮だろう。
「じゃあ自分も味噌煮込み牡蠣うどんで。飲みたいんで海鮮盛りと海鮮天麩羅盛りを頼みます。食べきれないので、リルさん、ユラさん、一緒にお願いします」
多分、遠慮しているコトリと兄や、安めのものを選んだ私達への配慮。
先程までジミーを見ていなかったユラが、彼が店員に注文をする時は、渋い顔で彼を見つめた。
「お兄さんも飲みませんか? 一人では寂しいので」
「あっ、はい。ありがとうございます……」
「どうしました?」
「いやぁ、同年代なのになんか凄すぎて……」
「同年代? そうなんですか? 自分はもう三十路を越えましたよ」
「……十才くらい違いました!」
ジミーがコトリ兄の顔を見る時、ユラは俯いて彼から顔を逸らして、女将さんにお酒を注文する時はまた彼を渋い顔で眺めた。
レイと喧嘩したらしいし、こういう態度だし、あの絵だから意識しているってこと。
周りを良く観察しているジミーなら、色々察するから「天邪鬼でかわゆいだけ」と笑うのだろう。
「リルさん。あちらの二人は多分遠慮で決められないから、女将さんにおすすめって頼んでおきました」
「ありがとうございます」
食事会は和やかだけど、ジミーは私とコトリ兄と話してばかりで、ユラは私とコトリとしか会話しない。
でも、自分は帰ると去ろうとしたユラが今ここにいるから、今はこれで良いだろう。
食べ終わって少し休み、そろそろ行きましょうというジミーの合図で退店。
ロカとクルスは強張った顔で、それぞれ私とジミーのところへ移動してきた。
「お姉さん、次からは一緒がええ……。なんか食べるのが大変だった。あと厠に行きたい……。少し失礼って、恥ずかしくて言えなかった……」
それは緊張と照れだよと、心の中で呟いてほっこり。
クルスはクルスでジミーになにやらヒソヒソ話しかけている。
「甘味はリルさんにご馳走してもらおうかな。男一人では、どんな甘味処でもお店に入りづらくて。散歩して少し小腹が減った頃にどうですか?」
私に向かって笑いかけられたので、そうしましょうと返事をして頷く。
「コトリさん、ロカさん。姪っ子に小物をって思っているんで知っているお店に連れて行って欲しいです。見栄を張って予算が減りましたし、姪っ子に高い物は義姉に怒られるんですよ。贅沢を覚えさせないで下さいって」
まるで子供の引率者みたいに、おいでおいでと二人を招て、そこにクルスとコトリ兄も加えて歩き出したジミーは、昔から知る気配り上手な彼そのまま。
ユラと共に後ろを歩いていると、彼女は「帰るって言いそびれた……」と小さな声を出した。
「つまらないから帰りたいですか?」
「……コトリさんとお出掛けだったんで、これは違います」
「二人がええですか?」
「目の前の彼が居なければ他には誰が居ても構いません」
ユラはまた、渋い顔でジミーの背中を見つめた。
話しかけられないので無言で歩き、ユラは彼から目を逸らさないなぁと、気づかれない程度に眺める。
そこへ、そそそっとクルスが来て、ユラの隣に並んだ。
「あの」
「何? ロカさんなら緊張しているだけですよ。嫌とかではなくて」
「……そうですか?」
「意識していない相手には緊張なんてしませんよ」
「ありがとうございます。あの、それじゃなくて、あの絵のことです」
「絶対に縁のない、自分すら反対する格差のある相手には、あの話のあの花が相応しいです。そういう意味で本を渡しました」
「あの。そこには……ないですか? 俺、あるのかなって思って描いたんです。それであの、ジミーさんへって知らなくて。それでそのジミーさんに、少し前に友人達と頑張れって言うたんです」
微笑んでいたユラは俯いて無言になり、小さく首を横に振った。
「白兎だってあれこれ知っていたら……何も悪いことなんてしなかったわよ……。帰ります。コトリさん、今日はごめんなさい」
走り出したユラを追いかけようとしたけど、即座に反応したジミーが追いかけ始めたので任せることに。
今日の私はロカの付き添い人だから。
コトリも「ユラさんとはまた別の日にお出掛けしますぅ」と口にした。
どんよりどよどよした曇り空に雷の音が混じる。
雨が降るような予感がしたので、行き先を我が家に変更。
ロカが緊張し過ぎてクルスと上手く話せないようなので、コトリ兄妹も誘って、途中にお茶菓子を買って帰宅。
家に着いた直後にザーザー降りになり、視界さえ朧げになる程の激しさになった。




