未来編「クルスのとある日常」
生まれて初めて、ここまで不運な人間を目撃した。
彼はまず、俺が入ろうとした店から出てきて、通りを走ってきた無邪気な子どもを避けようとした。
そうしたら、急いで走っていた棒手売りが「そこのおじさん! どいて、どいて! 夕方の売り出しに遅れちゃう!」と叫んだので、彼は避けたけど、棒手売りの桶が揺れて、彼の股間に直撃。
あれは痛そう、ひぃいいいいい! と縮み上がっていたら、桶から飛び出た貝が彼の体のあちこちにぶつかり、目にも直撃。
「っ痛……」
「ごめん、お兄さん! 貝を慰謝料代わりにするから! 本当にごめんね!」
美人だけど口調は上品ではない下街娘が、非常に愛嬌のある笑顔で遠ざかっていく。
大丈夫ですか? と彼に近寄ろうとしたら、道の真ん中でぼさっとするな! と感じの悪い中年男が彼を突き飛ばした。
よろめいてうずくまった彼を「飛脚は急に止まれない!」と叫ぶ飛脚が飛び越えて、足が彼の頭にぶつかる。
「この食い逃げ男! 止まれ! 地の果てまで追うから、絶対に逃さんぞ!」
「このうすのろ兵官、捕まえてみなー!」
「悪いな、兄ちゃ……食い逃げ犯だと!!! 兵官! 足なら飛脚だ! 俺に任せろ!」
頭を押さえて地面に転がった彼を心配した飛脚が、食い逃げ犯に意識を持っていかれて走り出す。
俺が彼に近寄ったら、犬が駆け寄ってきて、彼に向かって「ジョー」っとお小水をかけ始めた。
「……」
「ぷっ。わ、わら、笑っちゃいえけねぇが……」
「あはは。あははははは。なんつう不運男だ」
「金持ちそうだけど、どれだけ悪どい生活をしているんだ?」
「天罰か? 天罰だな。奉公人を大事にしないとかだろう」
俺以外の者も彼の不運さを目撃していたようで、人が集まって笑いが起きていく。それも、大笑いだ。
「あの……だ、大丈夫ですか?」
これは天罰で彼は悪人かもしれないけど、そうでなかったらあまりにも可哀想なので、俺は彼に声を掛けて手を差し出した。
「……が、自分が何をしたって言うんですか! 天罰って、真面目に生きているのに!」
俺の声は聞こえていないのか、彼は地面に突っ伏したまま、嘆き始めた。
「家を追い出されるし、便利屋だと出張させられまくりで、お金をあげるからと婚約破棄されて……」
「不運男だ。不運男だこいつ」
「気の毒だけど、龍神王様に嫌われているなら不運がうつる」
「兵官か火消しに任せようぜ。火消しだな。火消しなら水の副神様が不運から守ってくれる」
「実際は真面目じゃないとか、性格が悪さ過ぎて金で解決されたんじゃないか? 有償婚約破棄って、金に釣られるってことだぞ」
俺のところまでは匂わないけど着物はお小水臭そうだし土だらけ。
「……まぁ、ええか。自分がこれだけ色々あった分……何人か助かった訳だし……」
こんな目に遭ってそういう感想を抱けるとは驚く。
笑われ続けるのは可哀想なので、もう一度彼に声を掛けて、我が家へどうぞと伝える。
「風呂や着物をお貸しします」
「……お貸りします」
ゆっくり立ち上がった彼は着物の汚れを軽く払い、羽織りを脱いで、お小水をかけられたあたりを内側にして折りたたみ、周りの者達に「お騒がせしてすみません」と美しい会釈をした。
「笑わずにご親切にどうもありがとうございます。自分はこういう者です」
身分証明書を提示されて、卿家で衛生省本庁勤務と書いてあったので驚く。
雅屋から出てきたので、食品販売店に対する抜き打ち調査か何かだろう。
「自分はこういう者です」
自分も身分証明書を提示して、彼の所作は美しかったなと真似をしたけど、ぎこちなく、不恰好にしか出来ず。
「この番号は小物屋さんの息子さんですね。小物屋に用事があるので丁度ええです。風呂に着物も貸して下さるそうですので、不運男から幸運男です。ありがとうございます」
柔らかく笑いかけられて、俺は男なのに少し見惚れてた。
うんと美形ではないけれど、わりと整っている顔立ちだし、さらにこんなに優美なので男の色気とは多分これだと感じる。
近くにいる者達、特に女性達がヒソヒソし始めて「雅なええ男だから、声を掛けたら良かった」という者まで。
「家はどちらでしょうか」
「こちらです」
雅屋に用事があったけど、人助けすると決めたのは自分なので、雅屋はとりあえず後回し。
「その前に、どちらかへ用事でした? 今日は土曜ですから、学生さんが夕方にこの辺りを歩いているとなると何かの用事です。学校からの帰宅時間とは異なりますから」
「いえ、あの。少し知人に会おうとしていただけです。約束していた訳ではないので今度で構いません」
「まさか。優しい君の貴重な時間は大切です。その辺りの端で待っていますので、君の用事が終わってからにしましょう」
なんでこんなに気遣い出来る男性に、龍神王様や副神様は先ほどのような不運を与えたのだろう。
そこのお店で少しなのでと伝えて、一人で雅屋へ入り、背筋を伸ばして咳払いをして、店員のユラに挨拶をしてから話しかけた。
「あの、いつもの物をお願いします」
「いらっしゃいませ、クルスさん。お菓子ばかりは太るから、素直に喜べなくなっていきますよ。手紙はいつものようにお預かりします」
「……えっ? 太る? あの、ロカさんが太るから嫌だって言っていました?」
ユラは俺と文通してくれている女学生ロカの義姉と親しい女性で、この店の奉公人。
前にロカが暮らす長屋で知り会って、ロカの母親と共に彼女と会話したら、話の流れで文通は彼女経由でも良いと言われた。
郵送費が浮く分、そのお金を何かに使えるからと。
その時にユラが、自分はお菓子屋で働いているので、手紙に購入したお菓子を添えるのも有りと提案してくれたので、たまにこうして来店している。
「あの子は照れ屋で私に君の話を全くしません。今のは一般的な女心です。ねぇ、コトリさん。お菓子ばかり貢がれるよりも、ちょっとした小物の方が嬉しいですよね?」
「気になる人に贈られたらなんでも嬉しくて、興味の無い人からなら高い物がええです。それが乙女心ですぅ」
コトリは俺と同年代に見える地味な奉公人。
きびきび働いていて、かわゆい喋り方をすると、前に友人が気にかけていた。
おさげなんてオババ髪型なので、身持ちもしっかりしているはず、恥ずかしくて手紙を渡すなんて無理無理無理、でも……とぶつぶつ言っている。
「高い物……ですか」
「そうです。貢がせ女の気配がしたらやめた方がええですよ。深い仲なら記念の時に高級品は心底嬉しいけれど、高い物しか喜ばないのは、相手に気持ちが無いようなものですぅ」
「私もコトリさんに同意です。そちらに茜屋さんの小物が売っているので、よければご検討下さい」
「はい」
何か良いだろうと悩みかけて、人を待たせているし、茜屋は商売敵! と慌てて手を引っ込める。
「き、今日もお菓子にします。小物なら自宅で買います」
「こちらの手紙を渡せる日の季節のおすすめを一つでございますね。かしこまりました。予約として承ります」
「お願いします。季節のおすすめを二つにしていただけますか? 一つは今日持ち帰ります」
「かしこまりました」
支払いをして、わらび餅を受け取って退店。待たせていたジミーに声を掛けて出発。
歩き方も、あれはどう見ても華族と感じるような人達と良く似ていて、身近だとロカの義兄ロイがこうで、彼も卿家だったと思い出す。
「どうしました? 不審者に話しかけてしまった、怖気付いてきたーって感じですか?」
「ま、まさか! 身分証明書の卿家って肩書通り、雅な歩き方だなぁと感心していました」
「そのお世辞はとても嬉しいです。ありがとうございます。多少、厳しく育てられました」
雅屋から俺の家まではあまり遠くない。
いつものように店からではなくて自宅の玄関へ行き、使用人の名前を呼んで、ジミーには外で待ってもらった。
というよりも、彼が「予定の来訪ではありませんので、こちらで待っています」と自主的に玄関前で待つと告げたのだ。
トオルに事情を説明して、二人でジミーを家に招すと、彼は「この汚さなので玄関で」と口にした。
「風呂は流石に図々しいので、着替えと拭くものをお願い出来ますか?」
「トオルさん、彼にお茶をお願いします。お茶菓子は買ってきました。俺、父上の着物と桶と手拭いを持ってきます」
「全て自分がしますので、坊ちゃんはお客様のおもてなしを」
「遠慮なく申しますが、着物ではなくて浴衣でお願いします」
それは遠慮していないのではなくて遠慮だ。
トオルに任せてジミーのおもてなしって、何を話して良いのやら。
俺が話題を探す前に、彼が話しかけてくれて、なんてことのない内容だけど会話が弾む。
少し話すと、それで? と促されるので気がつけば俺ばかり話していて、全て用意し終えたトオルが「人見知りの坊ちゃんがこんなにお喋りだなんて」と笑った。
「人見知りなのに自分に声を掛けてくださりありがとうございます。人見知りだと、普通の人よりも倍近い勇気が必要です」
「いえ、あの……そのようにありがとうございます」
「こちらで失礼します」
そう告げると、ジミーは着物を脱いで、トオルが用意した手拭いで体を拭き始めた。
「ひゃあ〜、すっきり。犬が来て、まさか縄張りにされるとは」
背中は俺が拭きますか? と提案したら、お願いしますと頼まれた。
ロイよりは白いけど、俺とは異なりほどほどに日焼けしている。
広くて大きな背中で筋肉質め。卿家は凖兵官でもあり、戦時は王都警備に参加するから多少は鍛えるものと学校で教わっている。
ジミーは褌一丁にはならずに体を拭いていき、上手いこと素肌に浴衣という姿に着替えた。
着替えただけなのに実に雅な動きで目を奪われる。
彼は汚れているので、と玄関で着物を畳み、帯でまとめて吊るすように持った。
「これからちょっと役所に顔を出さないといけなかったので助かりました」
「えっ。それなら浴衣ではなくて着物の方が良かったですよね?」
「また不運に見舞われた時に、浴衣の方が弁償額が安いです、なんて」
こうして、ジミーは丁寧なお礼の言葉と会釈を残して去った。
数日後、とても美しい文字で綴られたお礼文と共に、とても良い香りになった父の浴衣と帯に、新しい浴衣と帯、それに雅屋の菓子折りが送られてきた。
「一つの親切には三倍の恩を返しなさいと言いますので、残り二つは息子さんにツテコネです。就職でも、縁談でも、何かありましたらご相談下さいだそうだ。人見知りなのに、良く彼に手を差し伸べた。偉いぞ」
「父上。偉いぞって、そんな子供扱いをして」
「それにしてもとても礼儀正しい方だなぁ。これが卿家なのか。ロカさんのご親戚は卿家だから気をつけないと」
「気をつけます!」
翌週、十五時頃にジミーが来店して、店員に俺がいるか尋ねたというので、作業の手を止めて店に顔を出した。
「お礼はわりと終わっているので単に客として来ました。でも恩人に挨拶も無しではなぁと。先日はお世話になりました」
「いえ、こちらこそ。大したことはしていないのに色々とありがとうございました」
「物や食べ物はお金で買えますが、真心はそうではありません。大したことですよ」
にこっと笑いかけられて、目の光が温かいのもあり、きっと良い人だと感じたので、またしても龍神王様や副神様はなぜ彼にあのような不運を与えたのだろうと考えてしまった。
「こじんまりしたお店だけど、変わった品や凝った物があって楽しいです。この間、帰る前にチラッと確認して、ええなぁって」
「そのようにありがとうございます」
「雨が降りそうなので傘を一ついただきます。絵に一目惚れしました。自分は絵心が壊滅的なので、こちらの絵師さんを紹介していただけますか? 手紙に添える絵を依頼したいです」
いつもは旧友に頼んでいるが、今は速度感が欲しいので、この辺りの絵師を探しているという。
「あの、えっと、そちらの絵は……自分です……」
「そうなんですか。それでは君に、負担にならない範囲と適切な値段で依頼をしたいです」
商談ならと、応接室に案内して、一応父に声を掛けた。
褒められたし、もう間も無く成人だから初の顧客に対する商売を上手くやり遂げなさいと背中を押されたので背筋を伸ばす。
まず傘の販売をしてお金を受け取って商品を受け渡し。
俺は父や兄の真似をしたのだが、彼は扇子を出して、とても丁寧に傘を受け取った。まるで気まぐれで華族が来店した時のようだ。
「……なんでしょうか」
「いえ、あの。華族のように雅だなぁと」
「それは良かったです。三男はお家繁栄の為に尽くしなさい。格上のお嬢様の隣に立っても恥ずかしくないようにと躾られましたので」
「そうでしたか」
「失敗して肩身が狭いです。就職までは親の期待以上だったはずですが、どこで間違ったのかな……」
彼は開け放たれている障子の向こう、庭を眺めて目を細めた。
ポツリ、ポツリと雨が降り始めて、あっという間に土砂降りになっていく。
「あはは。つい、すみません。君にはこの間酷い姿を見せたので少しくらい愚痴を言っても許されるかなと」
「あの、えっと……。家の格が上がるほど縁談は不自由だと言います。その人がええだけでは済まないと」
「大した家ではないのに高望みしているからです。年も年だから世間的が悪いので、無難な相手と好きになさいなんて今更掌返し。でも、好き勝手したら怒られて面倒そうです」
君は柔らかい雰囲気をしていて優しいから、ついつい口が滑りますね。
ジミーはそう言って笑い、注文話を始めた。書いて欲しい絵はこの季節なので紫陽花だそうだ。
「元気が出るような、彩豊かな紫陽花でお願いします」
「どなたかを励ましたいんですね」
「ええ。触れたら溶けて消えてしまいそうな、儚げでとても寂しそうな方です。そう言ったら怒鳴りそうなくらい元気で勇ましいんですけど」
熱を帯びた優しげな微笑みで察する。相手は絶対に女性だ。
父や知人が妻を眺める時、彼女について語る時と、とても良く似た眼差しだから。
こうして、俺は十日間で三枚の絵をジミーに納品することに。
最初は紫陽花で、次はちょっと口説き文句でもある末の松山を混じった海岸と山。その次は七夕祭りの様子と天の川だ。
我ながら良い絵が描けたと自信があったけど、一つ目、二つ目の絵の時の手紙に返事は無かったそうなので自信喪失。
ジミーは「自分が疎まれているので」と言ってくれたけど、俺の絵に力があれば「あの絵はどなたが描いたのですか? それだけは知りたいです」と返事がある。
俺は天の川の絵を持って、雅屋へ行くことにした。
ユラはここらで最近大人気の看板娘だし、一区で働いていたことのある目の肥えた元芸術関係者だから、何か意見をくれるかもしれないと。
ロカへの手紙を預けにいくついで。
土曜にはジミーに納品なので、水曜日の放課後に雅屋へ行ったけど、土日しか店員をしていないという噂のユラは居ないはずでお菓子職人修行中のはず。
なので、後で少し時間を作ってもらえないかと伝言……いる。
彼女は愛想笑いを浮かべて接客をしていた。その客が帰ると店内にいる客は俺だけに。
「いらっしゃいませ。いつものでよろしいですか?」
「いえ、あの……。手紙はそうなんですが、お菓子その他は、意見をうかがいにきました」
「マオさん。お得意様なのでそちらへ案内します」
「知り合いのお嬢さんと良い仲なんでしたっけ。閉店前の駆け込みに備えて少し休憩するからお願いね」
「はい」
他の店員に俺のことが知られているとか、ユラと店内に二人きりとは予想外。
案内されたので窓際の椅子に腰掛ける。
「お菓子はやめて小物にしたいけど、何が良いか分からないということですか?」
「えっ? いや、はい! はい。そういうことを考えたことが無かったし、女性の知人は全然いないです」
元区立女学生であるイオの妻ミユがいるけど、それは一先ず横に置いておく。
「きっと生まれて初めてそういう意味で異性から贈られる物だから、しょうもない物よりは多少気合いが入った物が良いと思いますよ」
「そうですか? あの。売り子としては土日勤務って噂なので、後で少しお会いしたいと伝言にきたんですが、平日も店頭にいらっしゃるんですね」
ユラは釜のお湯を使ってお茶を点ててくれて、干菓子まで出してくれた。
「二日前からコトリさんが熱を出しているので、彼女の代理勤務です」
「そうなんですか。お大事にして下さい」
「……。学校の教室という同じ空間にいることが多いだけで親しくはないけど、たまに助けてくれる人が風邪で休んだ時って、軽いお見舞いをするものですか? 家族がいるから別に平気でしょうけど……」
ユラは複雑そうな表情を浮かべている。
これは多分、コトリのお見舞いに行くか悩んでいるということだ。
「……自分なら、普段のお礼も兼ねて、ご家族に見舞いの品、果物なんかを届けるかもしれません」
「そうですか。果物……そうなんですね」
俺も質問と口にする前に、ユラが続けた。
「あなた、確か絵が得意でしたよね。家業の役に立つくらい」
「いや、あの。一応、画家に師事していますし、自分が関与した商品も少しばかり売っています」
今、とても落ち込んでいて自信がないですとは言いたくないから言わない。
「このくらいの紙に絵を描いて欲しいんですが、頼んだ意匠でとなると、おいくらですか? 内容や納期によりますね」
「えっ? はい。その通りで内容や納期によります」
急ぎではないから遅くなって構わないけど、人に渡すものなので、三ヶ月以内だと有り難い。
意匠はイノハの白兎より、白兎が福寿草を渡そうとしているところ。
「……お申し込みをお断りするけど、とても良い人なので、どうか良縁や幸福がありますようにと伝わる絵が欲しくて」
「……良い人なのに断るんですか?」
「私には家族がいないし、育ちも悪いから、同じような人が良いと思っているんです。男なんて大嫌いって気持ちが減った時に。育ちも性格もうんと良い人には、似たような素敵な女性が似合うでしょう?」
とても寂しそうに微笑んだユラを眺めて、複雑な気持ちになっていく。
俺が彼女にお申し込みをして、そんな風に遠慮されたら悲しいし、そのような手紙を受け取っても複雑な気分になる。
「……それでも、またお申し込みしてくれたら考えるって事ですか? 単に断らないで、未練があるみたいに振る舞うのは」
余計な口出しな気はするけど、キッパリ断るなら依頼の意匠に自分なりに含みを持たせるし、逆ならそういうような暗喩を施す。
それが代理で縁談用の絵を引き受けるということだ。多分。前に絵の師匠や父からそう教わった。
「少し前に、三区立美術館でイズミの作品を題材にした展覧会がありました。絵師さんなら行かれました?」
「ええ。とても勉強になりました」
「では、イズミ作のイノハの白兎をご存知ですか?」
「飾られている絵で、あのイズミは自作以外に古典も扱っていたと知りました」
「私がイノハの白兎を好んでいると知った知人が、いくつか送ってくれて、その中の一冊がイズミ作の隠れ名作でした。隠れ名作というのは私視点です」
少し待っていて欲しいと頼まれて、ユラはその本を持ってきて、俺に渡した。
これは挿絵も良い本だし、芸術に関与する者なら有名古典の色々な解釈本を知ることは大切だろうから、読んでみて下さいと頼まれた。
「君からの質問の答えはここに書いてあります」
「これを読んで、依頼の絵を描けば良いんですね?」
「読書の手間賃も増やしてしまったから、その分も上乗せして下さい。十銀貨あれば足りますか?」
「っげほげほっ! 多過ぎます! 父が適切な見積もりを出して、納品時に請求します。流用出来るように作るので、気に入らなければ買わなくて良いです」
「そう? 経営や商売のことは分からないので任せます。それ以上の値段は出しません」
俺はこの後、意気揚々と帰宅して、読書を開始し、夕食後に雅屋へは意見をもらいにいったのだと思い出した。
もう遅いのでまた明日と考えたけど、その明日である翌日にジミーが「用事があって近くまで来たので」と行って来店したので納品。
支払いの際に、ジミーは「財布が無い……」と呟いた。
「具合が悪いってスリだったかぁ。あの短時間で紐まで切るとはあっぱれです」
「えっ。大丈夫ですか?」
「昔から運が悪めなんで、この通り。財布は一つではありませんでした」
着物にポケットを作ってあって、そこにもあると彼は財布を出して俺に見せた。
「大して中身のない財布で、誰か一人スリから免れたのでええことです」
ここに、この間浜焼き会で楽しくお喋りしてくれて、顔見知りから少し親しくなった、北地区から来た火消しのティエンが来店。
ジミーと彼がまたお会いしましたね、と挨拶を開始したので、心の中で首を傾げながら眺めていたら、全員浜焼き会にいたと発覚。
俺はロカの姉に誘われてインゲ達と参加。
俺達の兄貴分であるイオは、ロカの兄と幼馴染なのでいて、そのイオの後輩がティエンで、俺と同じ手習をしているから顔見知り。
それでジミーはロカの義兄ロイの友人だった。ロカの実兄ともそこそこ親しいという。
「お二人ともいたとは。沢山人がいたので覚えていませんでした。ティエンさんは確かルルさんとお見合い中でしたよね? 彼女に何か贈り物を買いにきました?」
ジミーのこの問いかけに、ティエンはみるみる赤黒くなって「まぁ……あはは……」と曖昧な笑みを浮かべた。
俺が状況を読めずにいたら、ジミーがティエンはルルとお見合い中と教えてくれた。
ロカの姉、この辺りでかなり評判の美女ルルのお見合い相手がこのティエンとは驚き。
彼は楽しい男だけど、見た目はパッとしないし、背も低めで、容姿だけなら釣り合いが取れない気がするけど、人と人の繋がりは見た目よりも中身が大切だから気が合うのかもしれない。
「お申し込みした」ではなくて「お見合い中」ということは、一目惚れして近寄ったとかではなくて、正式に向かい合ってあれこれ交流しているはずだから。
「クルスさんもお年頃ですが、どなたか気になる女性はいますか? この間のお礼は足りていないので、自分に可能な範囲なら、何か後押ししますよ」
「クルスさんは、ロイさんの義妹のロカさんと文通中ですよ。子煩悩なお父上には秘密ですが、他のご家族は皆さん知っています」
「えっ。ご存知なんですか?」
「ルルさんが教えてくれました」
知られているなんてと驚いて照れて縮こまっていたら、ジミーは何も触れないでくれた。
数日後、ジミーから手紙が届いて、そこに「デートでどうぞ」と陽舞妓の観劇券が同封されており、親友は義理の妹を可愛がっているので、支援は内緒という文が添えてあった。
俺はまだ、ロカとは茶屋で彼女の姉妹か友人達を交えて会ったことしかない。
ロカ自身と沢山話したことはなく、文字の向こうの彼女を、この目や耳で知りたいという気持ちがつのり積もっている。
なのでこの観劇券を利用して、ロカをデートに誘いたいのだが、どうしたものだろう。




