特別番外「目」
雑魚寝部屋で熱のある女がゲホゲホ咳をしていると他の遊女にうつすと、狭くて埃っぽい折檻部屋に放り投げられた。
前の店での借金ごと移店したのだが、値段相応の物を与えられた結果の借金ではないので、実費にするともっと安い。
なので私が早々に死んでもこの店はそんなに損をしない。
だから医者も薬も自分で頼むしかない。それで店を通すと高くされる。
なにせ手持ち金で医療費を払えなければ借金加算。それは「長く店で働け」という事だから、私が助けを求めるのを、手ぐすね引いて待っているだろう。
「失礼致します」
扉の向こうから女性の声がして扉が横に引かれて開く。
鼻から下を布で覆っているけど、着物や目元などで講師兼芸妓と紹介された遊霞だと分かった。
喉が痛いし熱でボーッとしているので返事をしないでいたら彼女は私の横に腰を下ろした。
視界がぼやぼやするけどお盆を持っているのは分かる。
「お医者もお薬も頼んでいないと聞きました。もうすぐ来ますので安心して下さい」
はあ?
なぜそんな勝手なことを。
文句を言おうとしたら咳き込んだ。遊霞の悲しげな目が私を見据えている。
「お水とお食事です。一人では難しそうですが仕事があるのですみません。でもお水くらいは」
はあ?
大変そうに体を起こされて膝の上に頭を乗せられた。手拭いで顔の汗を拭かれてその手を振り払いたくなったけど体が動かない。
湯呑みを傾けられて喉が渇いたと思っていたからつい飲む。
「きっと良くなります」
頭を膝から下されて寝かされて布団を掛け直された。
ぽんぽん、と布団を軽く叩かれて既にボーッとしているけど茫然。
不意に冷たいものが額に乗った。
食事ってなにと思って確認したらどうやらお粥。黄色いのはたまごだろう。そこに菜葉も入っている。
食事代に薬代に医者代、その全てをこの遊霞にふっかけられてむしり取られる。
そう慄いた私は怒りに任せて遊霞の頬をぶち、突き飛ばし、お粥の入った土鍋を掴んで彼女の横へ思いっきり投げつけた。
素手でまだ熱い土鍋に触れたので、手が痛かったけどそれは無視。
投げた土鍋は遊霞の手前、右前方でひっくり返って割れた。
「偽善者の顔を被った押し付け屋! この性悪女! あんたに払う金は一末銅貨もないからね!」
「お代は要りませんよ。うつされて辛い思いをしたくないだけです。なので早く治して下さい。食べないと元気になりませんから、後でまたお待ちしますね」
枕も投げようとしていたけれど、困り笑いを浮かべて片付けを始めた遊霞に戸惑って腕を下ろす。
彼女は無言でお粥や土鍋を綺麗に片付けると、そのまま何も言わずに部屋から出て行った。
私は間も無く折檻されるだろう。花魁と同格の芸妓遊霞も、この遊楼の職員達の教養を高める講師遊霞も、部屋持ちですらない私よりも価値があるから傷つけたと水責めだ。
しかし、水責めは起こらなかったし、無料の医者が来て薬も置いていったし、お粥や水もまた運ばれた。
運んだのは幼い遊楽女で「ウィオラ姉さんからで、お代は要りません」と一言告げて去った。
私は恐ろしくて、恐ろしくてならなかった。
動けるようになって帳簿を確認したらごっそり自分の取り分が減っているかもしれない。
せっかく稼いだのに風邪なんて引いて、つけ込まれたから大損する。
立場の弱い私は遊霞に決して勝てない。今の状態だと死ぬから、元気になった時に磔水責めなのだろう。
気を許した時に裏切られるのが世の常なので、絶対にあの女に気を許すものか。私は私しか信じない。
信じない、信じない、信じない——……。
熱で朦朧としながら、あんなに優しくてキラキラした目は初めてだったと考えていたら、その目が目の前にあって、額が冷たくなった。
「大丈夫、きっと治りますよ。具合が悪いと心細くななりますよね」
布でそっと涙を拭われて、自分が泣いていたと気がつく。
意識がはっきりした時にはもう彼女はいなくて、いつも子供達と一緒だったり、他の遊女達に囲まれているので、お礼を言いそびれて、ずっとそのままだ。
☆ 現在 ☆
手紙の返事を書かずに約一週間が経った。
地味ジミーは私が売り子の日にまたしても来店して、先週と同じように注文。
返事をしない非常識な私に対してジミーは愛想の良い笑顔である。
コトリに接客を押し付けようとしたら、彼にこう告げられた。
「旦那さんか女将さん、それに準ずる方はいらっしゃいますか? 大量注文の相談があります」
「かしこまりました」
彼と話さなくて済むと考えていたら逆で、女将に応接室で私が対応するようにと指示された。
「上客さんを紹介してくれて助かるわぁ。後はよろしくお願いね」
「はい」
「お茶を運ばせますからごゆっくり」
ジミーの実家のある町内会で女学生が中心になるお茶会が行われるので、今回のお菓子はこの雅屋にするという。
いつもと同じお店だと変わり映えしないからというのがその理由で、ジミーが雅屋を提案して自分が手配すると引き受けたそうだ。
「年頃の女性と二人きりになるとは予想外です。それに関してはすみません」
ジミーが困り笑いを浮かべた。しめしめ、二人になれたから口説くぞではなくて困るとは。
困ったふりで心の中で舌舐めずりかもしれないが、目が腐っていた私が騙されたクズ男とは、やはり全然違う目をしているから信じたくなる。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「桜吹雪は楽しめました?」
これは「自分の手紙を破って楽しめました?」という軽い嫌味だ。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「一閃兵官が贔屓にしているお店って言うたら頼みたいってなったんですよ。今日注文、次は支払い、その次は試作品の確認、最後は受け取り……納品してもらおうかな。仕事がそこそこ忙しくて」
返事を寄越さない私と接点を持つ為に、知恵を働かせて、金を使うとは。
しかも金は自分の懐から出すのではなくて町内会行事としての費用。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「文通お申し込み相当とはいえ、晴れの日に酔っ払ってナンパしたことに、そんなに腹を立てていますか?」
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「あの結良花は見事だったでしょう? 昔からの友人がとても絵が得意で、たまに趣味仲間と個展を開催しています。友人達と共に、見に行ってみませんか?」
それは気になる話だけど、ウィオラに聞けば彼無しでその個展に行けるので無視。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「明日から幸せ区に出張なんですが、何か欲しいものはありますか? 知人未満からは消費物がええだろうから、やっぱりお菓子かなぁ。幸せ区に何店舗もある老舗カナリア屋の銘菓ふくふくって知っています?」
知らないから気になるけど無視。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「独り身だからあっちへ行け、こっちへ行けと、中央所属なのに地方公務員状態です」
「ご注文内容と数をおうかがいします」
同じ台詞を淡々と繰り返していたら、彼は肩を竦めて正座からあぐらになった。
「数は三百個、大きさ一口大でお願いします。予算は一つ三銅貨程度で、梅雨の終わりに相応しいものを。茶会の主題は月下そうそう草子です」
「かしこまりました」
有名古典ではないので、月下そうそう草子が分からない。そうそうは送葬だとお茶会には相応しくないので、蒼々だろうか。
「町内会のお嬢さん達に今月中に第一草案を渡したいので来週の土曜に取りに来ます」
「はい。そのように女将さんに伝えます」
「仕事関係なら喋ると。その死んだ魚のような目をした愛想笑いはあまり。また、怒られて睨まれた方が本当の君との逢瀬になるので……自分は君を怒らせたら良いのでしょうか」
逢瀬とは恋愛感情を持った男女同士が周りの目を気にしながら会うことなので、私達には当てはまらない。
図々しいというか神経が図太い男なのは明白。
「それでは失礼致します。また来週」
「君の態度が悪いので、注文は取りやめます。そう言ってもええんですよ。せっかくルーベルさんの紹介で来たんですが話が違いますって」
立ちあがろうとした瞬間こう告げられたので、私は中腰から再び正座になり、イライラしながら笑顔を作って彼を見据えた。
「おっ。少しは素が出てきましたね」
「こっちこそ、ウィオラとネビー・ルーベルさんに脅迫男が来て困っていますって泣きつきますよ?」
「つまりお互い対等ですね。なんでか分からないけどかなり気になるんで、何をしたら文通してくれるとか、少し付き添い付きで出掛けられるとかありますか?」
「私は遊び回るようなお坊ちゃんが大嫌いなので無理です。この世の誰にも過去は変えられませんから無理なので来世で会いましょう」
「まだその誤解が続いているんですか? 知っているはずのネビーさんが違うって言うてくれてないってことは、彼の中で自分の印象が悪いのでしょうか」
手紙を貰ったとウィオラ夫婦に伝えていないことを、彼は知らないようだ。
彼女に会いに行って手紙を渡しましたと報告していないということだろう。
「さあ? そうなんじゃないですか? とにかく私は貴方と交流する気はありません。断りの返事というものでも」
再び立ち上がったら今度は呼び止められなかった。
女将にこうなったと伝えて売り子業務に戻る。ジミーはその後お店の方に出てくることはなかった。
夕方、仕事が終わる頃にネビー・ルーベルが訪ねてきてコトリとマオが「一閃兵官が来てくれた」と大騒ぎ。
彼は制服姿ではなくて私服で、カゴを持っている。
コトリが私の後ろに半分隠れて両手で顔の下半分を覆っている。
「……。ユラさん、一閃兵官さんが私に笑いかけました!」
「そうね。彼は大抵の人には笑いかけているわよ」
「こんにちは、皆さん。ユラさん、ウィオラさんが蛤を沢山いただいたので、夕食を一緒にどうですか? と誘いに来ました。こちらは雅屋の皆さんへお裾分けです」
「ユラさん、一閃兵官さんが喋りました」
「そりゃあ普通の人間だから喋るわよ」
「ユラさん、一閃兵官さんが私服です」
「仕事中や仕事帰りじゃないってことよ」
「ユラさん、あ、あく、握手したいですぅ……」
コトリは相変わらず甘ったるい語尾を伸ばす話し方をする。
「お世話になっています、ルーベルさん。この照れ屋なお嬢さんと、握手してあげて下さい」
「握手会が始まると困るので、今度行われる握手記名会にいらして下さい。雅屋さんには招待券を用意します」
「握手記名会ですか?」
「何年も経ったからそんなに騒ぎにならないと思うって許可したのに、大狼兵官って凄い勢いで、老若男女押しかけてくるから上から命令されました」
有名になることも、褒められても嬉しくないのか、彼は困り顔をしている。
「ユラさん、招待券だなんて嬉しいですぅ。お礼を言って下さい」
「自分で言いなさいよ」
「浮絵兵官と目を合わせたら恋穴落ちするかもしれないじゃないですか。色男は見てはいけないんです。ましてや奥様のいる方ですぅ」
「あはは、色男じゃないから平気でしょうけど、あの噂のって思い込みや先入観があるだろうし、一理あるからそのまま自分を無視して下さい。それで、ユラさん。どうしますか?」
蛤は口実で、昼間ジミーが来たことが関係あって、家に来いという意味な気がしたので素直に従うことにする。
「お邪魔します」
「それなら、練り切り……は二つであとはこの抹茶羊羹をいただきます」
「かしこまりました」
カゴを受け取って、マオに女将さんへと任せて、ネビー・ルーベルから入れ物を受け取り注文の品を準備。
旦那と女将が来て彼にお礼を告げて、店の奥へ三人で消えた。
しばらくすると三人は戻ってきて、女将が私に「残りは他の人に任せて良いです」と退勤を促した。これはネビー・ルーベルと帰って良いという意味。
「ユラさん、奉巫女様によろしくお伝え下さい」
「はい」
「では、行きましょうか」
ネビー・ルーベルとお店を出てると「前を歩いてもらえますか?」と言われた。
「いつも通り二人で並びたくないってこと」
「もちろん。前にも言いましたよね。俺はウィオラさん以外の女性と二人で歩きたくありません。家族は別として」
「はいはい」
ここは彼の地元で彼は中々目立つ人間で、最近はそれに拍車がかかっている。
なにせ彼は数年前の王都大狼襲撃事件で活躍した兵官の一人で、家族に心配をかけたくないからと隠していたのにバレたから。
そこそこ知られていた「一閃兵官ルーベル」の名前は更に認知度が上がっている。
私が蛙長屋へ向かって歩き始めると、ネビー・ルーベルは数歩後ろを歩き始めた。
夕暮れ時だから私を誘いに来たのはウィオラではなく彼だったのだろう。
あと、彼は私の担当兵官の一人なので、雅屋の旦那と女将に勤労態度その他を確認しただろうし、握手記名会とやの話もしただろう。
たまに彼と二人で街を歩くとこうで、別に不満はないので、若干ぼんやりしながら足を進める。
前後で歩いているので、ネビー・ルーベルと特に会話無し。
ジミーの話は街中で話すようなことではない。
そして彼は私と雑談したいという欲を有していないし、私も彼に興味が無いから、お互い一人みたいに歩いていく。
土手から長屋へ降りる階段まで来ると、長屋と長屋の間の机にいくつも七輪が乗っていて、他にも色々乗っているのが見えた。
「今夜は浜焼き会です。色々買ってきたんで堪能して下さい。匂いがつくから風呂は食後です」
私達の周囲に人がいないのでネビー・ルーベルは私の隣に一瞬並び、護衛はもう必要ないというように駆け出した。
「ウィオラさん! ユラさんが来てくれましたよ!」
「お帰りなさいませ。ユラ、いらっしゃいませ」
お互いしか見えないという笑顔で近寄った二人に呆れるというか胸が痛む。
私もかつて、きっとあのような顔で「お帰りなさい」と言ったのに、ウィオラとは異なり酷い目に遭った。
ため息混じりで階段を降りて、ほんの僅かな別れからの逢瀬を果たした浮かれ夫婦を無視して、ウィオラの新しい家族達と挨拶。
ウィオラの姑エルに、ネビー・ルーベルがお菓子を買ったので、自分も手土産はやめて夕食代を払いますと伝えたら、今夜は要らないという返事。
「ほとんどウィオラさんと息子が貰ってきたり格安で買ってきたものだし、大宴会の気配だから、またウィオラさんと芸で楽しませて欲しいわ」
「夕食代より高いです」
「でしょうね。でもお願い。ネビー! あなた、ど忘れしないで、ユラさんは明日は遅出って頼んできたわよね?」
叫んだエルに、ネビーが「ユラさんに言うてなかった! ユラさん、明日は休みで、次の土曜は職人修行日になりました!」と私に向かって大きめの声を出した。
疲れているのに、私は芸妓仕事をさせられる気配。
「ユラさん、こんばんは。向こうへ行きましょう」
ひょこっと現れたロカが、ためらいもなく私の手を取って、手を引いたので驚く。
「お兄さんとウィオラさんは二人の世界で、近くにいたら痒み死しそうになるから離れた方がええです」
「百年振りに会ったみたいな感じで、既にそうだからそうして欲しいわ」
ウィオラ夫婦の家の前の机とは少し離れたところに案内されて固まる。
「ジミーさん。こちらはユラさんって言うて、ウィオラさんの友人です。ユラさん。こちらはジミーさんって言うて、ロイさんの友人です。お兄さん達とも仲良くしてくれているけど、ロイさんとはうんと昔からの仲です」
長椅子からスッと立ち上がったジミーは、ロカに合わせるのか「初めまして」と微笑んだ。
「ロカさんが説明してくれた通り、ロイ・ルーベルさんの友人でジミーと言います。仕事で幸せ区へ行ったので、いつもお世話になっているロイさんのお嫁さんの実家にお土産と思ったら、浜焼き会に誘われて幸運です」
「ふくふくって言う幸せ区で大人気のお菓子を買ってきてくれたんですよ! あっ、リルお姉さん達も来ました」
「ロカさん、ロイさん達もここへ呼びますよね?」
「もちろんです」
姉家族を迎えに行ったので、周りにわいわい人はいるけど、この机辺りには私とジミーだけになった。
「偶然誘われて、そちらも誘われることになったので、出会いをやり直してみましたがどうですか?」
ここはかつて母と暮らしていたカビ臭いボロ長屋とは異なり活気があるけど、長屋は長屋だ。
そこに身なりの良い、立ち姿だけで絵になる、ウィオラみたいに優しい目をした男——……。
「ご注文内容と数をおうかがいします」
「……ここは雅屋ではないですよ! あはは、冗談を言うて笑わせてくれるとは。張り切って接待しますよ。何から食べたいですか? やっぱり蛤かな」
爽やかな心地良い風が吹き抜けた。彼はきっと、女性を殴ったりしないだろう。
見た目で釣れたって、良い男は良い女に惹かれる。卿家という立派な家は私のような人間を受け入れたりしない。
なのになんで、ネビー・ルーベルやウィオラ、関係者達はジミーに私がいる場所を教えたのだろうか。
逃げようとしたら、ロカの姉家族が来たので挨拶会になり、ここで私も食事みたいになってしまった。




