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3話

 とんとん、と肩を叩かれて目を開く。顔を上げると目の前にロイの顔があった。自然と目が大きくなる。

 黒豆みたいな瞳が私をジイッと見ている。


「リルさん。疲れました?」

「すみません」


 正座したまま寝ていたらしい。布団に寝っ転がって眠っていた、ではなくて良かった。

 ロイは私の前に胡座をかいていた。手を膝の上において、私の顔を覗き込んでいる。

 あんまり近いし、見つめられているし、父や兄以外の男性の顔がここまで近いのは人生で初めてなので視線が泳ぐ。

 膝の上で重ねている自分の手を見つめる。左薬指に細い銀色の結婚指輪。長屋の嫁だったら多分なかったもの。きれいで好き。指が美しく見える気がする。


 ドクン、ドクンと胸の真ん中から音がする。うるさいから、ロイにも聞こえているかもしれない。

 ロイは私から離れた。机の上の光苔の灯籠(とうろう)に覆いをして戻ってきた。

 覆い越しに少し明かりが漏れているけど、これで部屋はほぼ真っ暗。


「こちらこそ。遅くなってすみません。つい」


 しばらく沈黙。視線を感じる。話しかけられたから、返事をしないといけない?

 ペラペラ話し続ける父や兄、お喋りニックとは違うみたい。


「つい……。楽しかったですか?」


 顔を上げたら、ロイは少し目を丸めた。ほぼ暗闇に目が慣れてきたから見えた。涼しげな一重と思っていたけど奥二重。


「はい。祝われてつい」

「友人達からのお祝いは嬉しいものです」


 私も早く祝われたい。次の日曜日に、長屋で宴会を開いてもらえる。

 長屋で不人気なぼんやり娘でも、嫁にもらってくれる家があったと自慢したい。でもしない気がする。自分から喋るのは苦手。聞かれたら答える。


「はい」


 ロイの無表情が微笑みに変化。行ってらっしゃいと見送った時と同じ顔。とても優しそうな笑い方。少し気が楽になった。彼はこの結婚、嬉しいのか。

 跡取り息子だから、無事に嫁をとってホッとした?

 きっとそうだろう。私も同じ。長屋で評判が悪かったらしいので、歳ばっかり取って、誰ももらってくれなかったかもしれない。それが、親の期待通り16歳でお嫁に行けた。

 私も笑う。自然と笑った。

 そうだ、と思い出して3つ指ついてお辞儀する。


「よ、よめ、嫁入り道具は、す、全てにいなでございます」


 緊張と恐怖が襲ってくる。私、大丈夫?


「そうですね。自分が贈りましたから」


 ん? と顔を上げる。「そうですか」と服を脱がされるんじゃなかったっけ?

 ロイは微笑のまま。私を見つめて微笑んでいる。少し怖さが減った。


「リルさんは今日から自分の嫁ですから、足りないもの、必要なものは自分が何でも買います。遠慮せずに言うて下さい」

「はい。ありがとうございます」


 他にも何か言われるかと思ったけど、他には何も言われない。そして何も始まらない。

 ぼんやりしていたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。


「リルさん」

「はい」


 私の頭を撫でた手が右頬を包んだ。父や兄より小さいなんて思ったけど、やっぱり大きいかも。

 分からない。こういう風に触られたことはない。比較できない。ロイの手は温かい。熱いくらい。


「リルさん」

「は……」


 い、の前にそうっとキスされた。これがキス。柔らかい感触に……お酒臭い。歯磨きの葉の匂いとお酒の匂いが混じっている。

 はて。キスは聞いていない。寝かされて、脱がされて、ちょこちょこ触られて、あれがこうなるらしい。最初は痛いらしい。そのうち慣れるらしい。

 とにかく従順に、とにかく旦那様に任せれば良い。跡取りを産む嫁だから、基本は夜の勤めを断ってはいけないと習った。


 キスは街中、特に建物の影で時折見かけたもの。恋人同士がするもの。

 夫婦も? 両親はしていたっけ? 私達が夫婦でキスをしたってことは、両親も私の知らないところでキスしていたのだろう。


 1回、2回、3回、4回、5回……終わらない?

 唇が離れたと思って目を開こうとしたらまたキスをされるので目をギュッと閉じる。その繰り返し。

 12回、13回……今度こそ終わった?

 そろそろと目を開く。鼻と鼻はくっついたまま。

 ジッと見つめられていている。バクン、バクンと胸の真ん中が凄い音。またしても目が泳ぐ。

 

「リルさん」

「はい」


 また頭を撫でられた。と、思ったら両手を取られた。ロイの親指が手の甲を撫でる。


「リルさん、なるべく優しくします」

「はい」


 始まるらしい。教わった問答と違った。キスも聞いてない。

 この後は教わった通りのようで、全然違った。


 ☆


 全く眠れなかった。ちゅんちゃんとか、ミンミンとか、鳥やセミの鳴き声がするし、雨戸の隙間から太陽の光が入ってくる。もうあと数日で9月なのにセミは元気だな。

 もう朝みたい。全然寝てない。一方、ロイはすやすや寝てる。寝る前と別人。ギラギラした目をしていたのに、今は子どもみたいな寝顔をしている。


(途中から優しくなかった……)


 最初はふわふわ触ってくれて優しかった。でも気がついたら優しくなくて激しかった。

 何か変な感じがして、従順を忘れて「少し待って下さい」と言っても待ってくれないし、手とか足とか押さえつけられるし、息が出来なくなりそうなくらいずっとキスされ続けて窒息するかと思った。

 彼も苦しそうだった。特に最後の方。私から離れた後にぐったりして、そのあと少し色々してくれて、あっという間に寝てしまった。


(なるべくだから、嘘つきではないか……。それとも本当はあれより優しくないことなの?)


 お母さんの嘘つき。ちょこちょこ触られるじゃなかった。色々長かった。

 あれがこうなる、も説明と違う。それも長かった。


(痛い……)


 時間が経って少し良くなった気がするけどまだ痛い。だから眠れなかった。

 と言ってもロイが眠ったのも、そんなに前ではない。

 

(腕が重いし暑い……)


 体に回された筋肉質な腕が重い。冬は妹達が湯たんぽ。だから人と一緒に眠ると暑いのは知っている。残暑なのにくっつくなんて暑い。


 カンカンカン、カンカンと5時を告げる鐘の音が聞こえた。朝ごはんの支度時間だ。ロイは鐘の音で起きないみたい。

 よいしょと重たい腕をどかして体を起こす。

 部屋を出て、衣装部屋で嫁入り道具として貰った家着を出して着る。同じく嫁入り道具の割烹着を身に着けて1階に降りる。

 

(えーっと。先に火かな。その間に雨戸を開けて……)


 ザッと家の説明は受けてある。私の新しい生活。自分で考え、分からないことは聞いて、この大きなルーベル家で暮らしていく。


(夜のお勤めって、月に1回くらい? 痛いし疲れるし眠れないなんて大変な仕事)


 台所で炭に火をつけながら考える。月のものがこなかったら子が出来た証。産むまで、それからそのあと少しこなくなる。それも教わった。

 毎月の辛いことにそんな意味があったとは。だから女は子を産むのだろう。

 いつも月末だからそれを確認されて次回のお勤め?


(んー、でもお勤めの必要のないお母さんは子どもが6人。そんなに欲しくなかった。多いって愚痴っていたような……)


 火がついたので片方でお湯を沸かし、もう片方でお米を炊く準備。

 共同かまどを使って、玄米、稗、粟、麦などを混ぜて炊いていたけど今日からは自宅で白米を炊く。

 

(雨戸、雨戸)


 太陽の光が寝不足の目に痛い。寝不足。不足どころか寝てない。


(お水、お水)


 朝食作りで減る分を井戸から汲んで、台所の水瓶に足す。ついでなので洗濯の準備もする。


(白米、大根の葉のお味噌汁、煮豆、漬物。朝から豪華)


 煮豆は昨日の朝に台所の使い方を教わりながら煮た。漬物は義母が漬けていたもの。これからは私が漬けることになる。

 味噌を溶かしただけの味噌汁とは違い、昆布で出汁を取るし味噌も多め。明日は鰹出汁。卿家って贅沢。

 今日のロイはお休み。結婚休暇というものらしい。義父は仕事。なので義父のお弁当作りもある。


(お弁当のご飯は冷ます。出汁を取った昆布を佃煮にして少し入れる。卵焼き。梅干しを入れる)


 卵なんて滅多に食べないし、取り合いだった。その卵をお弁当に必ず入れるという。

 卵焼き大好き。旅館で味付けを何種類か教わった。それで何回か食べられて幸せだった。

 つまり、これから毎日卵焼きの端っこを食べることが出来る。なんて素晴らしい。


「リルさん。おはよう」


 義母の声。振り返ってご挨拶。すごくニコニコしている。


「おはようございます」

「いい匂い。助かるわ」

「はい」

「あらあ、お弁当まで全部終わっているの?」

「はい」

「手際が良いですね。それとも早起き?」

「5時の鐘の音で起きました」

「それなら両方ですね。早起きにしてもこんなに終わっているなんて凄いわ。のんびり出来ます。ありがとう」


 義母が居間に移動した。


(また褒められた。嬉しい)


 嫁姑問題、とよく聞くけど義母のテルルは今のところずっと優しい。笑いしわに優しさが滲んでいる。

 長屋にはいなかったタイプの母親。

 母はよく父の母、私の祖母と大したことのない事で喧嘩をしている。大声で怒鳴り合いとか嫌味の言い合い。義母は大声を出したりしなそう。


(お義母さん優しそう。ロイさんは優しいような優しくないような……)


 眠くて眠くてあくびが出る。動いていると少し忘れるけど、止まるとやっぱりヒリヒリする。

 朝食の準備も義父のお弁当作りも終わったので、居間にあれこれ運ぶ。最初にご飯を入れたおひつを運んだら、義父が新聞を読んでいた。まだ数字とひらがなとほんの少しの漢字を覚えたところ。

 難しそうな漢字ばかりで全然分からない。くつろいでいるかと思ったけど義母がいない。


「おはようございます」

「おはよう、リルさん。新しい家でよく眠れたかい?」


 一瞬言葉に詰まった。


「……はい。布団がふかふかで驚きました」


 2つ敷いたけど、1つしか使ってない。私の布団は新しいので、もっとふかふかそう。今夜が楽しみ。


「そうかい。それは良かった」


 にっこりと微笑まれて、胸がぽかぽかする。穏やかな義父に同じような義母。

 それにしても静かな家。周辺のお家も静か。うち自体も長屋も、いつも騒がしかった。旅館での花嫁修行中もガヤガヤ、ワイワイしていた。なので変な感じ。でも落ち着く。


(ロイさんは……どちらにも似てないな。少ししか笑わないし……)


 激しかった。ふと思う。このにこやかな義父もあの義母にあんなことをしたの?

 ロイという跡取り息子がいるからそうなる。全然そんな風に見えない。不思議。


(でもロイさんもそうか。あんな感じになるとは思わなかった)


 四角いテーブルの上座は義父。左側にロイ。右側に義母。私はロイの隣。朝食を並べていく。

 つい、ふああああとあくびが出てしまった。しまった、と義父を確認すると新聞を熱心に読んでいる。助かった。


「リルさん、リルさん。足のために散歩をしていたら、隣のトイングさんの奥様がね、お裾分けをくれましたよ。お祝いもかねてって」


 いないと思ったら義母は散歩に行っていたらしい。手に栗の乗ったカゴを持っている。栗! 

 この季節になると市場で売り出している季節物。食べたことはないけど栗饅頭に栗蒸し羊羹に栗ご飯と色々売っている。栗!


「お義母さん、触ったこともありません」

「そうなの? あとで一緒に煮ましょうか」

「はい」


 義母に栗の乗ったカゴを渡された。台所に運ぶ。栗だ栗。お裾分けで栗! なんてこと!

 誰もいないし、と思って台所で万歳。栗!

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