未来編「テルルとレイの話」
私の家は公務員家系の豪家で、跡取り息子が生まれ無かったので、私と姉は女学校講師になって公務員と結婚するように望まれている。どちらか一人は婿取りをして、家を続けていくようにということ。
卿家を目指していたのに、我が家は肝心の三代目で男の子に恵まれなかった。卿家になってしまえば養子でも良いのに、拝命前までの三代の間は直系のみという規定は運任せでもあるから酷いなど、両親の愚痴を聞きながら育った。
立派な婿が欲しいので、と私達姉妹は国立女学校へ進学するように育てられたけど姉は受験失敗。
姉は公務員家系の豪家の娘なら、お金を払えば誰でも入学出来るような区立女学校へ。三年後に私が国立女学校へ合格すると、姉の私へのあたりが厳しくなったのは自然な事だ。
姉の方が美人なので、手習などは姉に注いだ方が良いと根回ししてみたり、勉強以外の習い事ではわざと姉よりも劣っているように演じてみたり、時々息が詰まりそうになる。
しかし、国立女学校には格上の家だと華族のお嬢様がいるからもっと息苦しそうに見えるし、親しくしている老舗旅館の跡取り娘のセイラも大変そう。私の家はむしろ自由な方だ。この視野を得られただけでも、私は国立女学校へ入学出来て良かったと思う。
私の通う国立女学校の近くには、国立中等校、国立高等校、各種高等専門学校などが集まっている。この辺りは教育と学生の街だ。
「ねぇ、セイラさん。それで例の方とはどうなったんですか?」
「コソコソしています。少し話しているだけでも怒られるんですもの。旅をした話を聞きたいだけなのに。跡取り娘はいずれ女将になるのに、奉公人と会話をするなって、箱入りに育ててどうする気なのかしら。商家の娘で跡取りなのに区立女学校に入れなかったし、ズレているのよ」
セイラの頬が少し赤いので、私は揶揄いつもりで軽く体当たり。
「セイラさん、お顔が薄紅色ですよ」
「もうっ、テルルさん。あっ、そろそろ。せーの、で行きますよ。せーの」
「はい」
お嬢さんは家に見張られるもの。私もそうだけど、我が家には働いている父しか男手がいないので、最初は母が私の登下校についてきたけど、学年が上がっていって友人が増えると、家が近いので一緒にお願いしますと友人の家に私のことを頼んだ。
一番親しいセイラの家は老舗旅館なので、女性奉公人が毎日彼女の登下校に付き添っている。なので、来年元服する私の見張りはセイラの付き添い人である。
私と彼女はちょこちょこ、その付き添い人の目を盗んで逃亡して「私達は自由よー!」と街を散策する。お気に入りの場所は色々な物が集まる市場だ。
今日もそのように二人で付き添い人から逃亡。私達は茶道が好きで、料理が好きで、食材を見たり、お店のお品書きを見たりすることが好きで、文学好きで、とにかく気が合う。
大商家のお嬢様と付き合って、彼女の家で勉強——実際は料理をしている——をすることは、親に大歓迎されている。私にとってセイラは親友であるだけではなくて、好きなことを楽しむ隠れ蓑だ。
セイラといると自然と商家の友人が増えて、そうなると豪家の大人しめで良い子ちゃん系の友人達とは異なり、様々な文化や知識が入ってくる。それはいわゆる、お嬢さんにとって悪の道と呼ばれるものだ。例えば今みたいに、見張りなしでプラプラすることもその一つ。
「今日はまず、いつものヤイラ小神社へ行きましょう。我が家の奉公人から、とんでもないものを借りました」
「何か気になります。そろそろ紫陽花が見頃でしょう。あの紫陽花、咲いたかしら」
私達はヤイラ小神社へ向かい、社の裏に回って紫陽花が咲いているとルロン物語の話をして、かたつむりを捕まえて、先日図書室で見つけた題名が読めなくなっている、中身もあちこち虫食いの本で知った万病を治す奇跡のカタツムリであるリマクスの見分け方は何か議論して、切れ目縁に腰掛けた。
「陽舞伎に行きたい。テルルさんとアサさんとって頼んだんです。秋の催し物に新作陽舞伎の内容を取り入れたいって言うたら許可されました」
「また、私をこき使う気ですね」
「こき使われる気満々でしょう? テルルさんは本当、料理人になった方がええです。それか我が家の奉公人。もちろん、私の秘書というか最初はお母さんの秘書です。それで厨房担当」
「本当、女学校講師なんてなりたくないです。箱の中からまた箱の中。しかも腰掛けなんて嫌。私は家守りは男性か使用人に任せて、自分は外で働きたいなぁ」
「花嫁修行の話はどうでした?」
「かめ屋で各種手習をさせてもらいながら専属寺子屋の講師補佐はええ話って、両親は乗り気です」
家の為に生きるなんてつまらない人生は嫌だ。料理や色彩感覚、美的感覚が優れていると評価されているし、私自身も好きな世界なので飛び込んでみたい。そう、私は料理人になりたい。
私が作ったもので、何百、何千、上手くいけば何万という笑顔が生まれるなんて、うんと素敵だ。
上級公務員の妻になって家守りとして生きるなんて真っ平ごめん。ましてや男の子を産んで育てて上級公務員にして、孫の代で卿家になるなんて親の願望を詰められた道を歩くなんて嫌。上級公務員は争奪戦だから、あれをしないと、これをしないと、早くからお見合いしないとと両親の圧は凄い。
私は女将セイラと看板女性料理人テルル、というような未来が良い。その為にコソコソ頑張っている。
「ねぇ、セイラさん。とんでもないものってなんですか?」
「コホン。なんと、噂の春画をついに手に入れました。しかも前のような偽物ではなくて本物です」
前のものはセイラが手に入れて、同じ教室の友人達と回し見したら、これは春画ではなくて色画だと言われた。上半身裸でキスしている絵は「お子様の範囲」らしい。しかし、そう口にした友人も、春画が何かは知らなかった。兄の部屋を探ったけど見当たらないらしい。
元服したら教わるらしいけど、年頃の私達は文学作品に見え隠れする色春事に興味津々。誰々はどこどこの学生さんとキスをしたとか、婚約者とキスをしたとか、女学校の高学年になるとそういう話が増えてくる。
「どうやって手に入れたんですか?」
「夜、薪割り場でぎゃあぎゃあ言うていた奉公人達のところへ行って、何がそんなに面白いんですか? と聞いて、見つけて、奪いました。ハレンチです。
お父様に言いつけますって言うて。言いつけていません。夜、プラプラしたと知られたら大目玉ですもの」
「お主も悪よのぉ〜」
「そちも悪よのぉ〜」
「ふふっ」
秘密に包まれている大人の世界をいざ鑑賞、と思ったら、セイラが鞄から浮絵を出そうとした時に強風が吹いて、浮絵が飛んでいった。
「うわっ。なんだ⁈」
これまで、私達がここで遊んでいても誰も来たことがないのに人が登場。それも男性だ。
浮絵が彼の顔にぶつかったので顔は見えないけど、裾の短いボロボロめの着物に日焼けした素足に下駄という姿なので男性だ、ということは確か。
「おおっ。ええもんが飛んできた……」
浮絵を掴んで顔からどかしたら、やはり現れたのは男性の顔で、彼は私達とそんなに変わらなそうな青年で、私達を見て日焼けしている顔を赤黒くした。
「えーーーっ! これ、お嬢さん達の⁈」
「きっ、きゃあああああ!」
「ちが、違いまっ……。きゃあああ! いやああああ!」
こちらに突きつけられた浮絵は上半身どころか全身ほぼ裸で、男女が着物をはだけさせているし、男性が胸を触っているし、下半身が想像した事もないようなことになっている絵だった。
なので私は顔を隠して固まって大絶叫して、セイラはセイラで「私達のものではありません!」と叫んだ。
どこの誰か分からないけど、こんなの死にたい。
☆★
左足が焼けるように痛いと飛び起きて、さすっていたら徐々に良くなり、それから昔々の夢を見たとぼんやり。今の夢は五十年近く前のことで、しかも昔話なので、そんなこともあったなと苦笑い。
昼食後にやたら寒いから昼寝をしたんだったと思い出した。孫達と寝たはずだけど二人は居ない。体を起こして寝室から居間へ移動したら、親戚のレイが蒸した野菜を切っていた。
「あら、いらしていたの。おはようございます」
「お邪魔しています。お姉さんが母のお見舞いに行くから代わりです。今日、ウィオラさんは神社に長くいるそうなので、事前に休みをもらいました」
「そうでしたね。忘れるなんて、年か寝ぼけね。レイスとユリアは……お父さんと出掛けました?」
「はい」
夫は現在、週四日勤務にしているので、水曜の今日は休みだ。世帯が異なる親戚の娘、レイと二人きりになることはほとんどない。
カラコロカラ、カラコロカラと玄関の呼び鐘の音が鳴ったので「はーい」と声を出したら、予想外の声主が返事を返した。
「あの俺! かめ屋で働くユミトって言います! レイさんはいらっしゃいますか!」
この発言に私は目を丸くして、レイを見たら彼女も目を丸くしていた。
「すみません! 突然お店を辞めたって、辞めさせられたって聞いて、寮も出てて、実家に行ったら居ないって言われて! あとはここしか知らなくて、レイさんはいらっしゃいますか? 俺、彼女にお世話になったのにお礼を言えてなくて!」
近所迷惑、と思いながらレイに向かって「隣の部屋で襖越しに聞いてなさい」と告げてから、私は玄関へ行って、ユミトを家にあげた。
彼と会うのは二度目だ。一度目は夫が呼び出して、親戚の娘に近寄るなと牽制した時。義理の息子が後輩や彼の教育のために罠に嵌めただけなので、彼と一緒に来た地区兵官に最後はネタバレして終わり。
この間行われた、義理の息子のお披露目公開稽古の際にユミトを見かけて、彼はレイを見つめて何か言いたげだったけど、あの時はまだ彼女の退職を知らなかったってこと。
彼を居間へ通して、体が痛いのに来客対応はなとため息混じりで台所へ向かったらレイがいて、すぐ近くまで運びますとお茶とおしぼりを用意してくれていた。
彼女は家族親戚の四方八方からヤイヤイ言われてお灸を据えられたけど、その前からこのように気がつくように育っている。
私の為にすみません、お願いしますと告げられたので「親戚管理はまだまだ私の仕事です」と伝えてお盆を受け取って居間へ戻る。
サッサとユミトを帰したいので、挨拶後に直接的な言葉を伝えた。
「ご近所迷惑ですし、親戚の娘が仕事を辞めたのなんのという話を他人が聞ける場所でしないで下さい」
「あっ、つい。すみません……」
「育ちには同情しますけど、保護されて育ったということはそれなりの常識を教えられて育ったはずです。わざわざうちの息子が担当していますから尚更。しっかりと礼儀を覚えて下さい。かめ屋の女将は私の幼馴染です。報告しますからね」
「……奥さんって、女将さんの幼馴染なんですか⁈」
前回会った時と同じく頭が悪くて、頭が痛くなってくる。親戚付き合いを始めたばかりの頃の、レオ家族を彷彿とさせる。
家柄格差はそのまま教養、礼儀作法の差というけれど、何十年も生きていてもそうだとしか思えない。環境が与える教養が異なるから当然である。
「ご自分の身を守る為に、何も調べないで誰かと交流するのはやめた方が良いですと教わったのに、これとは先が思いやられますね」
「は、はい。はい! あの、それでレイさんはいますか?」
「仮にいたとして、貴方に会わせる得は何一つありません」
「えっ、あの……。俺はただ、さっき嫌な噂を聞いたのもあって、元気なのかとか、お礼くらいとか、それでその……」
さっき聞いたということは、彼は今日、かめ屋でレイに関する噂を耳にしたという事である。
中途採用者の鼻をへし折りたいけど、経営者達が関与したら鼻を折ると辞められてしまうから、代わりに小芝居をと頼まれた結果、息子のロイが前に出た。
経営者と役員が少し揉めて、これから励んで欲しい看板料理人候補と喧嘩もしたんだから、少し頭を冷やして欲しいという事でレイは一時的にかめ屋を去る。
表向きはそういう事になり、裏では奉公人のまま、かめ屋と本人の意向で提携店へ出向。給与はかめ屋が出すので修行させてもらうという話である。
レイはこれまでしっかり働いてきて、気立ても良いから厨房の料理人達が「辞職させるなんて」と不満噴出となるだろう。それを理由に彼女をまたかめ屋へ戻す、という算段になっている。
このままでは、彼女はコネで試験無しで見習いになり、実力もないのに料理人として働いているという話が付きまとうから、そろそろ先手を打ちたかった。なのでセイラに「厨房にちょっと厄介な人がいる」と相談された時に渡りに船だと考えた。
「ネビーさんに言われていませんでしたっけ。この裏切り者の薄情者。頼まれたとはいえ、楽しく出掛けていると思っていたら裏では彼女の兄と組んで罠に嵌めていたなんて、レイさんからしたら大変不愉快ですよ」
義理の息子達が関与していなくて、事前に根回しされた男性でなければ、我が家の娘を二人きりで連れ回して、と叩き潰していただろうし今も家にあげたりしていない。
「……ですから、そんな風には思っていなくて、あの。だからレイさんに謝りたいし、怒っていないかも知りたいですし……。手紙は誰も渡してくれないし、近寄ったらダメって言われていますし……」
懐かしすぎる夢を見たので、目の前の青年があの日の彼に重なって嫌な気分。
「先日、貴方の担当さん達が説明したように、格上の独身女性と友人関係は成り立ちません。謝罪ならレイに伝えましたので、それで良いですね。お引き取り下さい」
「あの、なんでですか? 俺、やっぱり納得いかないです。レイさんは美人だから危なくてあちこちをふらふら自由に歩けないけど、本当は歩き回りたい人です。俺はお世話になったお礼に護衛して、たまにお店で喋って、そういう事だけなのに……」
説明したのにこれとは、ますます頭が痛くなってくる。
「説明されたから理解はしたんですけど、でも感情が追いつかないっていうか。レイさんは悪くないのに、こんなの理不尽ですよ。でも俺、レイさんの人生に邪魔なんですよね……。邪魔にならないのはどういう存在なのか考えろって言われたけど……」
押しかけてきて、他人どころか敵対相手の私にこのようにブツブツ言って、助けて下さいみたいに縋るとはある意味肝が据わっている。
「同情を誘っても、娘とは会わせませんし、文通もさせません。女性の友人が欲しいなら、他を当たって下さい。身分相応で、お互い足を引っ張らない方。かめ屋になら沢山候補者がいるでしょう」
「……」
かつて親が彼に言ったような台詞だから余計に頭が痛くなってくる。どこの馬の骨だとリルを拒否しようとしたのは失敗だったから、今目の前の彼を一蹴するのもあまりだけど、男女の仲ならともかく、ちょっとした友人関係なので話が違う。
花街で会った家出人。身分証明書は大豪家という訳の分からない娘であるウィオラを義理の息子が連れてきた時は「この義理の息子の目を担保に受け入れるか」と考えた。
しかしその義理の息子がユミトのことは「兄としてではなくて、地区兵官として、彼は卿家の親戚の娘と縁結びは難しいと判断します。なので二人の縁は切って良いです」と私達夫婦に告げたので突っぱねる。
無自覚だったレイの淡い恋は、自覚した瞬間にバキバキに破壊された。仮のお見合いはさせたらしいから、彼女にはこの経験を糧にしてもらう。
「身分相応って、レイさんも自分と同じ平家です……」
「ええ。卿家の親戚を持ち、父親は所属店の看板職人で兄は番隊幹部。義理姉は奉巫女。一方、貴方は身寄りのない、得体の知れない平家男性です。貧乏平家から裕福平家まで、同じ平家でも格差は存在します」
「それはそうなんですけど……」
「娘の評判を下げてまで、友人でいさせて下さいなんて我儘を受け入れる得がこちらにありますか? 要求があるのなら手土産を持ってきなさい」
「あの、レイさんがいるなら直接謝りたいんですが、それも難しいんですか? 人が沢山いるところで挨拶くらいは平気みたいに言われたのに、家に裁判所からの接近禁止令書がきました」
「謝罪とは自己満足です。娘を自己満足の道具にしないで下さい」
私が夫や息子なら力尽くで帰れ、となるのだろうけどあいにく私は非力で、更に今は足が結構痛むから無理。居座られるのは迷惑だけど、追い出す手立てがない。
「あの。顔色が悪いですが、具合が悪いですか?」
その通りだけど、そう言って弱いところを見せる気はない。
「貴方のせいで気分が悪いだけです」
「……」
「生まれも育ちも、親も自分では選べません。世間とは時に理不尽で残酷で不平等です。我が家は義理の息子が貴方を利用して評価を上げる、という理由以外ではお付き合いしたくありません」
ここで「謝罪くらい」とレイが飛び出してきたらお説教だけど、彼女は居間へ現れないようだ。
「ネビーさんは、そんな理由で俺に良くしてくれている訳ではありません!」
「個人的感情で動くのは彼の立場からしたら悪手です。そんなことも分からないで、そのように言いふらされては迷惑です!」
威嚇になるか、と考えて少し語気を荒げて扇子を掌にパシンと当ててみる。ユミトは今日、初めて顔色を悪くした。
「……」
「彼は全部理解して、貴方を選んだ理由は個人的感情だけど、そこでは終わらせないで全体の話にすると職場に根回ししたし、その分仕事を増やしましたし、我が家にも頭を下げています。それを台無しにする理由は自分は番隊幹部、一閃兵官のお気に入りだと誇示したいからですか?」
「いや、あの、違います。俺、知っているのにすみません……」
「お引き取り……」
番隊幹部の義理の息子が、支援が必要なさそうな目の前のユミトにかなりくっついている。そこがずっと気になって、引っかかっている。個人的感情で世話している、個人的にちょっと、ということのみで理由を言わない。
嫁のリルが、ネビーの嫁から探り出すという気働きが出来ていないのが歯痒いというかイライラする。私は明日死んでもおかしくない年齢なのに、ぼんやり嫁はいつまで経ってもぼんやり嫁だ。
リルが嫁いできた時は、ぼんやりではなくて、ぼんぼんぼんぼんぼんやりだったと思う。だから私は彼女よりも長生きしないとならない。そんなの目眩がする。
ため息を吐いてから、大きく深呼吸。ユミトは先程、今の攻撃的な私に対して気遣いの台詞を投げた。
私は人を見る目はそこまでないから、まぁまぁと怒らなかった夫や「ネビーさんがやたら可愛がっているんで」と言う息子の目を信じるべき。
「お引き取りしなくて構いません。レイさん。お別れの言葉くらい交わしなさい」
「えっ? レイさん⁈」
私はゆっくりと立ち上がり、自分達夫婦の寝室へ続く襖をゆっくりと開いた。レイは正座して、しかめっ面で俯いていた。
年頃の男女を二人きりにする気はないので、席は外さない。レイが何も喋らないから、ユミトが私に言ったような台詞を彼女へ告げた。
「ユミトさんの頭は私と同じで空っぽ傾向だから、悪気はなくて、私の為になると思って、お兄さんに協力しただけ。お兄さんにそう聞いているから怒っていないし、謝罪もいらないです」
「そうなんだよ! 俺、レイさんの為になると思って」
「その結果学んで、私の背中には色々乗っていて、私は家族親戚にすこぶるお世話になってここまで育って、うんとええものを沢山得ているから、家族の足を引っ張ることはしたくないです。どうしてでもなければ。だからユミトさんとはもう、友人ではいられません」
目から涙を流したものの、レイは真っ直ぐユミトを見据えて、とても上品なお辞儀をした。
数年前の正座は嫌いとか、礼儀作法は面倒と言っていた姿は、今の姿からは予想不可能だろう。
「今までありがとうございました。楽しかったです。お兄さんがまだまだお世話するそうなので、頑張って兵官さんになって、自分も皆も助けて、沢山笑って、笑いかけられて下さい。これからは、お兄さんを応援する事で応援します」
「……あの、レイさん」
「テルルさんは今日、具合いが悪いです。気にかけてくれてありがとうございます。ユミトさんは見た目や雰囲気からは分かりづらいけど優しいから、これからも友達がどんどん出来ると思います。テルルさんに休んでもらうので、お引き取り下さい」
レイはさぁ、とユミトを促して、彼は無言で立ち上がり、私達三人は玄関へ移動。
レイは「さようなら、ユミトさん」と小さな声を出して、困り笑いで手を振った。ユミトはそれに対して、捨て犬みたいな顔を浮かべた後にへにゃっとした一礼をして、何度も何度もこちらを振り返りつつ我が家から遠ざかっていった。
「テルルさん、接近禁止令ってなんですか?」
「彼はネビーさん側について貴女を裏切った訳ですから、貴女のお父上やジンさんがかなり怒っていまして、ロイが頼まれて作りました」
「私はそれを教わっていません」
「箱入り娘はそういうものです。大事に箱にしまわれているから箱入り娘。それが嫌なら、かつてのウィオラさんを真似したらどうですか? 好きに生きる分、家出して全部捨てる」
レイは涙を拭って、首を横に振った。
「ウィオラさんは家の為に家出しました」
「母親の実家で隠居は甘いから、南地区の花街に家出は過剰行為です。言うていましたよ。私にこんなことをさせないで。私の味方になって、という当てつけだったと。そんな街に住むくらいなら、帰ってきなさいと言われたかったって」
帰宅したら、付きまといに殺される勢いだったので家族は娘をそのままにした。そこらの街中で目立つよりも、顔や名前を隠して目立たれた方が隠れられると。
何も知らない娘は、自分は捨てられたとさぞ傷ついて過ごしただろう。選ぼうとすれば実家に帰れるのに、帰らないでこの街で暮らすことを選んだのはそういう実家家族との溝も原因ではないだろうかと推測している。
それを誰も指摘しないで、息子のため、兄の為にそうしてくれたと思い込んでいるのも頭が痛い。聡いはずの息子でさえぼんやりなのは嫁のぼんやりがうつったのだろうか。
「レイさんも出来ますね。私達は貴女に一人で生きていく力を与えてしまいましたもの。ご両親の願い通り」
「……私に家出しろってことですか?」
「するそうですね。雅屋の次はオケアヌス神社へ」
「家出ではなくて、社会勉強と家族離れです」
少し、昔話をしましょうかと私はレイと居間へ戻った。それは古い話。両親亡き今、夫も姉も知らない、幼馴染のセイラしか知らない物語。
そこからはまだ存命中の人達の多くが知っている話になり、途中からはレイも良く知る話だ。
「ガイさんと仲良しのテルルさんが、本気で離縁しようとことがあるなんて知りませんでした」
「これで貴女以外、誰も知りませんよ。セイラですら知りません」
「……なんで、私に話してくれたんですか?」
「理由は色々ありますけど、私はリルさんへの恩とか、レオ家を上手に使いたいから貴女の教育にかめ屋を強く押したのではありません。セイラに頭を下げて見習いに割り込みさせてもらったこともそう」
「……自分の、自分の夢を私に託したんですか?」
「さぁ、どうでしょうね。私は昔々は自分の道を選べなくて諦めて、次は目の前にいくつも道があるのにあえてここに残りました。選べなかったと、選ばなかったでは違います」
「兵官さんのたまごとの未来を選びたかったですか?」
「その時は。でも、お話ししたように、そうしたい程慕った方は別の方でした。家や家族の為というのは時に呪いです。人生は一度きりです。さあ、夕食作りの続きをしましょうか」
私の嫌な予感はわりと当たるので、多分レイにいくつ縁談を用意しても彼女は首を縦に振らないだろう。
同じ剣術道場に入門して、恩人と言うネビーの背中を追い続けるユミトは、今はバカで他人の頭を痛くする人物だけど、そのうち他の人よりはネビーに似るだろう。
尊敬する兄に似ていく初恋の人が、視界をちょろちょろすればどうなるかは明らかだ。逆はどうか知らないし勘も特にない。レイの行動次第な気がする。
私は皮剥き器を手にして、多分十年後くらいの話になるだろうから、それまで生きているかしらと心の中で呟いた。




