特別番外「雲外蒼天物語5」
監獄の中で聞いた話と、街の中で実際に暮らすのでは雲泥の差である。俺は現在、日雇い奉公人で部屋の狭い長屋のさらに狭い部屋で一人暮らし。
早くお金を貯めたいので、沢山仕事をしたいとかめ屋の旦那に頼んだら、担当をつけるから顔色や様子を見て倒れない程度にするけど目一杯こき使うと笑われた。よって、俺は遅めの朝から夜中過ぎまで休日無しで働いている。
仕事内容は主に力仕事で荷運び、薪割り、それから掃除。それから若くて体格が良くて他の男性従業員よりも威圧感があるから夜は警備、防犯係という仕事を得られた。市場で喧嘩を売られた相手にしっかり言い返して、喧嘩はしなかったところを評価されてその仕事も獲得出来たのである。
酔っ払い客の対応で、俺はやはり理不尽な奴は大嫌いだと怒り心頭だったけど、暴力に出たら俺は他人よりも破滅するという理性がしっかり働く。脳裏にネビーの言葉が過るから、深呼吸をする余裕が生まれて拳を握って耐えられる。
時間帯はバラバラだけど、ネビー達担当者はかなりの頻度で会いに来てくれるし、長屋の扉にしょっ中ネビーからの手紙が挟んである。
かめ屋には女性従業員が沢山いて、家がそんなに裕福ではない女の子達は十二才から住み込み奉公をして、あれこれ学んでお金を貯めて、それなりの人と結婚して辞めて行くかこの店の従業員と縁結びして残って働いているという。
なので俺は毎日天の原にいる気分。かわゆい生物達が、かめ屋の制服——俺は日雇いだから羽織りかどてら——を着ている俺に向かって「おはよう」とか「おはようございます」と笑いかけてくれる。
優しく笑う年配女性は母を思い出すし、同年代の女性は全員天女のように見えるし、幼い子に対しては「何かあったら俺が助ける」と気合が入って癒されまくり。
最初は遠巻きだった男性従業員達も、挨拶をする仲になり、中には「食べているか?」とか「顔色が良くないから少し働く時間を減らせ」など気にかけてくれる親切な人もいる。
そんな、ある日のこと。
「こんにちは、ユミトさん」
昼を食べて、次の仕事が薪割りだから薪割り場で空を見上げてぼんやりしていたらかわゆい声がして、これは女の声だぞと心臓がブワッてなってうるさくなった。
ギギギギギギと顔を動かして振り向くと、かわゆい生物中のかわゆい生物で、おまけに距離が近いから驚いて尻餅。
「えっ。そんなに驚きました?」
「……あっ、はい」
「着物、いつも同じものを着ていますね〜。このつんつるてんの寒そうな藍色の無地と、最初に会った日の紫紺色の波柄だけ」
「他に持っていないので」
誰だっけ、なぜこんなに親しそうに話しかけてきたと動揺しながら俺は体勢を立て直して、ぶち猫を撫で始めた。
「この猫はネズミを取ってくれるから、かめ屋は飼ってはいないけど、ある意味飼っている野良猫です。誰かに聞きました?」
「はい。俺に指示を出す人から」
カラカラの喉から少ししわがれ声が出た。ぶち猫を見つめながらチラッと顔を確認して、まともに顔を見て誰だったか把握。ネビーの妹レイだ。彼とは顔立ちが全然似ていないので、妹という情報がないと二人が兄妹だとは誰も思わなそう。
「私も猫が好きだけど、実家では飼えないんです。昔、長屋に猫オババがいて、猫を飼いすぎて悪さをする猫を止めないからオババごと追い出されたんですよ」
「……追い出されたって、その後どうなったんですか?」
俺は自分の家から追い出される辛さを知っている。それで今の俺は変な噂が出たら長屋を追い出されるから気をつけなさいと言われている。猫を飼いすぎたら追い出されるなんて発想は無かったから、自分の中の辞書にこれを加える。
オババということは年寄りだ。その後、彼女に新しい家はあったのでろうか。
「犬猫だらけの長屋に猫ごとお引越しして、猫と仲良く暮らしていたけどある日ぽっくり。お母さんが元気? って会いに行って元気だーって言うていたけどその二日後。そう聞きました。おばあさんだったので寿命です」
「追い出されても家があって誰かが気にかけてくれていたんですね」
どうやら、彼女の母親は優しい人のようだ。汚くて臭い身なりの俺に大丈夫ですかと声を掛けてくれたレイや、うんと優しいネビーは母親似のようである。
「誰も……、しばらく助けてくれなかったんですよね? ごめんなさい。私、考えなしに追い出された人の話なんてして」
「えっ? いや。俺は助けられてここまできたんで全然。あっ、鐘。働かないと。午後は風呂掃除って言われているんで」
真面目に働く。認められる。信用される。それが俺の新しい人生の第一歩なので立ち上がって走り出したが、ふと思いついた。それで俺は足を止めて振り返った。
「あの!」
「なんですか?」
しゃがんで猫を撫で続けているレイは、俺に対して上目遣いで首を斜めに傾けた。胸がグオッと痛くなった。若くてかわゆい生物を見ると大体こうなる。こういう事を男の本能と呼ぶ。オルオに聞いたらそう教わった。
そんなことは監獄では教わらなかったと言ったら、「君に福祉班は不要だと思っていたけど、ルーベル先輩の言う通り必要だった」とオルオは真面目な顔で紙に書き付けしていた。必要だと思った時に、どんどん書き付けするようにという課題を出されているという。
「ネビーさんにお礼って言うても無駄だから、何か困っていることとか、力仕事とか、何かあればするんで言うて下さい。俺、何か返したくて。ネビーさんはそうじゃないって言うけど、両方したいんで!」
俺はもらってばかりなので、少しでも返したい。妹が困っている時に手助けをしたらきっとネビーは「ありがとう」と喜んでくれるだろう。
さっそく困ったことがあるのかレイは翌日も俺の前に現れた。予想外だし、かわゆい生物の接近には毎回驚いてしまう。その俺の反応はレイに「この間といい、なんですかその顔。私は化け猫か何かですか?」と言わせてしまった。
「ま、まさ、まさか」
「どてらが無くて、寒くないですか?」
「動いた後だから大丈夫です」
「あっ、かめ屋のどてら。これは暖かいですよね」
衝撃的な事にレイは俺の隣に腰を下ろした。ふわっと良い香りがして、さらさらと細い髪が揺れたので、俺の心臓は止まりそうになり、これは死ぬと彼女から遠ざかる。女と物の受け渡しをする時も結構こうなる。
「……。えっと、袖が破れているなぁと思って。仕事でクタクタなら難しいだろうし、そもそも裁縫が出来るのかなぁって。でも、馴れ馴れしかったですか?」
「えっ? 裁縫? うわっ、せっかく貰ったのにすごい破れてる!」
袖の後ろだったからか気がつかなかったが、宝物の着物が破けていた。ネビーに貰った——ほぼ奪った——藍色の無地の着物の左袖の裏が、何かに引っ掛けたように破れている。
「……あれっ。このつぎはぎ。それにここの縫い目。ん?」
レイは俺の着物の左袖を持ち上げて観察し始めた。
「これ。もしかして私のお兄さんの着物ですか?」
「はい。浴衣を返しに行ったら返えさなくて良いって譲ってくれて、一枚じゃ困るだろうから安い着物を買ってくれると言うてくれたんです。その時に、棚にこれが見えたんでこれでって言うて貰いました。職場で寝る時に浴衣代わりにすることがあるって言うていました」
買うから、これがよしです、買うから、これが欲しいです、このオンボロはやめろ、これがよしですという押し問答の末にジャンケンで勝って獲得した俺の宝物。これを着ていると怒りを我慢出来る気がするし、頑張ろうとやる気も出まくりだ。
「これ、私が半元服する前にはもう着ていたものです。うわぁ、まだあったんだ。さすが、家族一番の貧乏性。こんなのを人にあげるなんて」
「流石にそろそろ売るつもりだったからってためらっていましたけど貰いました。新しいものを買ってもらうなんて、どんどん返せなくなります」
「そうそう、返せなくなるってなんですか? あと両方って何かなぁって」
縫うと言われて、俺は裁縫は出来るけど裁縫道具を持っていないから頼むことにした。彼女に背中を向けて、袖を縫われる間、落ち着かないので俺はひたすらネビーにどうお世話になっているのかを話し続けた。俺に用意された経歴に沿った内容で隠し事はするけど、最近のことは全部真実だ。
「えっ。ユミトさん。子どもの時にお兄さんに会っていたんですか⁈」
「そんなこともあるんですね。俺、びっくりしました。昔、三人から手紙を貰ったんで上京するなら、向こうは覚えていないかもしれないけど会いに行こうと思っていたら市場で妹に会うし、うどん屋でネビーさんと再会しました」
話し出したら止まらなくて、俺はそのままネビーがどう俺の世話をしてくれているのか喋り続けている。
「稽古や勉強ってなんですか?」
「俺なんかでも……。自分を下げるなだった。えっと、俺でも? 俺でも地区兵官になれるって教わったから、ここでうんと働いて貯金して、剣術道場に通える余裕が出るまでの間は自主稽古と勉強です。ネビーさんが方法も教えてくれて」
「ユミトさん。地区兵官になりたいんですか?」
「墓参りくらいしたいなってほとんど何にも考えずに上京してきたけど、こういう道もあると色々提示されたらそれが一番って思いました」
「お兄さんに憧れて兵官さんになりたいって人は多いけど、ユミトさんもそうなったってことで……あっ、鐘。もしかして休憩は終わりですか?」
「あっ。はい」
「それなら縫うのはここまでで、また明日」
「えっ、また明日?」
「だって途中ですよ?」
世話になっている人の妹は嫌なのかと問いかけられたので、女に慣れていないから変な感じで、どうしたら良いのか分からないと返答。
「かわゆい生き物達が歩きまくってて街は怖いです。すこぶる目の保養だけど。ありがとうございました」
この日を境に、レイは時々俺の前に現れるようになり、俺達は時々あれこれ話しをするようになった。
彼女の趣味は市場へ行くことだけど、市場は人が多くて、特に男性が多いので一人で行くことは家族に禁止されている。自分でも一人では危なそうなので行かないと決めているし、俺と出会った日も改めて決心したそうだ。
なので、同行者が居ないとレイは休みの日に市場へ行けないという。あまりにも悲しそうに話すので俺は「お兄さんへのお礼も兼ねて護衛します」と口にしていた。
旦那に休むのも仕事と言われていたので俺はレイの休みや長い休憩時間に自分の休みや休憩を合わせて、彼女と友人に付き添い。レイの他に誰も居ないと彼女と二人でも出掛るので、少し女という生き物に慣れた気がする。
普通の男とは素晴らしい、と毎日俺は俺を助けようと証拠を集めたりしてくれた兵官達や温情判決をしてくれた裁判官に感謝している。それてふと、その裁判官が誰か気になり、調べ方が分からないので担当のアラタに質問。
持ち帰ると言われて、分からなくてルーベル先輩に怒られたと愚痴られて、調査方法を考えるという課題に悪戦苦闘中という返事が来た。
アラタは苦戦しているというのに、ネビーはあっさり調べ終わったのか俺に「君の恩人を見つけました。会いに行きたいですか?」と告げた。
「行きたいです!」
「地区本部へ行く仕事が出来て、裁判官だけではなくて当時の先輩にも会いに行けます。その分、休んでもらわないといけません。手続きを踏んでお金を払うと一日地区兵官の職業見学が出来ます。そうしたら自分は仕事を休まずに、君を一日連れ回せますがどうですか?」
「手続きもするし払います!」
その結果、小難しい手続きをさせられて「また一つ賢くなりましたね」と言われた。それで支払いは彼が持ち。
「この代金は君への信頼と期待です。遠慮する気持ちがあるのなら、同じ額をいつか誰かに返しなさい。自分はそうやってここまで来ました。このお金は君への投資であり、自分の恩人へのお礼です」
「俺への信頼と期待……。それでお礼ですか……」
「ええ、そうです」
俺はネビーが優しく笑ってくれるとすこぶる嬉しくなる。誰かに話したくて、翌日会いにきてくれたのでこの話をアラタにしたら彼はこう告げた。
「嬉しいのはルーベル先輩の方かもしれません」
「えっ。なぜですか?」
「この間、私情を挟んで他の業務を疎かにして、必要無い男を支援するなと怒られたんです」
「えっ。俺のせいでそんなことになっているんですか!」
「そうしたら先輩はこう言いました」
他の業務を疎かにしているつもりは無かったけれど、それならそうなのか上司に確認します。指摘通りなら改善しますが彼の登録抹消はまだ先です。
不安定な時こそ支援が必要で、彼にはまだ心の支えも生活基盤もない。彼自身が幸せになったり区民の役に立つ人間になるのか、不幸になって腐って犯罪者になるかの瀬戸際です。
ここの支援を疎かにしているから、救われない人が出てくる。多忙や人員不足で手が回らないから、もっと悪い段階の人にしか手を伸ばせないというのは組織の問題で、彼ら区民の問題ではありません。
人が辞めるのも、多忙なのも、業務改善や教育で補えることです。まだまだより良く出来る事があるのに削除、削除、削除では組織は腐って働きづらくなって悪循環で、おまけに区民に不利益です。
「そういう訳で、効率化や教育案ですって書類がドンッて出てきたんですよ。初めて会議の見学をして俺は感激しました。他の幹部も俺ら下っ端が良くなったり楽になれるようにこんなに考えてくれているんだって知る事が出来たので」
「えっと、それはつまり俺のせいでネビーさんが悪い事になっていないって事ですね」
「君のことで非難されても、君を使って色々良くしようとしているって話です。それは俺ら下っ端にも好影響かもしれない。君が真っ直ぐ進むと先輩の後押しになる。だからきっと嬉しいと思いますよ」
出世や自分の業務に好影響だからではなくて、自分は間違っていないと俺が証明しているから自信になるし、同僚も区民の生活も良くしたいという彼の願いを後押ししているから嬉しいだろう。アラタにはそう言われた。
アラタにそう指摘されたので、この翌日にオルオにも話をしたら「ルーベル先輩と地区本部へ行けるなんて、君だけズルい」である。二人は二才違いだけど、期待の新人アラタと、どうやら落ちこぼれで要教育というオルオでは色々な面が異なる。
オルオのこの発言はアラタの予想通りだったので、一般区民と同じ手続きを踏んでお金を払ったら同じ事が出来るのでは? と提案。
「えっ。俺はもう地区兵官だから無理だと思います」
「聞くだけ聞いてみたらどうですか? 思い込みは損をするって教わっています。聞くだけは無料です」
「ルーベル先輩は質問してもあんまり怒らないから聞いてみようかな。怒る時は怒るけど、なにが悪かったのか教えてくれるからこのまま先輩の下がええなぁ。年内で終わりなのは残念」
この後、同僚はどうのという話をされた。俺はやはりオルオの愚痴聞き係になっている。
でもやはり、それさえも俺は嬉しい。これまでとは違って、現在この街には囚人や保護対象者ではなくて、俺自身の居場所がある。俺でないと違った結果になりそうな「俺」という存在の場所。だからきっと、まだまだ閉塞感や悪夢に襲われても深く、深く息が吸えるのだろう。
さらに、恩人の裁判官に会えて、ネビー以外の恩人の兵官二人にも会った、全員にお礼を言えたし応援されたのでますます意欲が湧いている。その日、俺はネビーとこんな会話をした。
「ネビーさん。空が前よりも高いです。それで前よりも綺麗な気がします」
「雲を穿ちて蒼き天に上れ、という言葉があり雲外蒼天とも言います。雲の外は晴れた空なので、努力して苦しみを乗り越えれば素晴らしい世界が待っているというような意味を持つ言葉です。希望が無ければ人は苦しさに耐えられません」
「雲外……蒼天……ですか」
「俺の好きな言葉です」
大雨や雷雨、台風の後には必ず晴れる。永遠の雨なんて存在しない。彼は君の人生もそうだと笑いかけてくれた。




