特別番外「雲外蒼天物語2」
薬師所は病院と似たようなところで、怪我は医者で腹痛や熱などは薬師だっただろうか。おぼろげな知識はあるので、あまり無い金が更になくなるから困ると呻いたけど俺は薬師所へ連れていかれた。
「おそらく四日間も食べていなかった所に急に食べたからでしょう。他の症状が出たらまた来て下さい」
それで終わり。俺が金が無いと言い過ぎたからか支払いはセイラという中年女性が払ってくれたので、薬師所の前で俺は三人に頭を下げた。
「すみません。全く金がない訳ではないので払います」
「それならまた倒れると困るのでうどんでも食べるんですね。飯屋で粥でも良いですけど」
「四日間も食べていないなんてどうしたんだ。まあ、見た目もアレだが」
「どう見ても貧乏そうだ。仕事は? 市場で何をしていたんだ。名前が似てるよしみだ。困っているなら少しくらい手伝うぞ」
ノブが俺を上から下までジロジロと観察した。監獄で貰ったおさがり着物は汚れているからアレとはその通り。セイラとレイにも見られていると気がついたら急に恥ずかしくなった。特にレイの視線が針みたいでチクチクする。
(風呂に入ってないから臭いかも。いや、昨日川に入ったしな)
「節約です。元々暮らしていたのもあって都会で暮らすか悩んで、下見と思って奉公先を一度辞めて南西農村区の村から荷運びの日雇いをしながら上京してきたところです」
「それならこれから職探しですか」
セイラは俺の荷物を確認するように顔を動かした。
「はい。屯所で聞いて住み込みで雇ってくれるところか、家を借りられるまでどこかで野宿です」
「貴方、身分証明書はある?」
「はい」
身分証明書は盗まれないように、失くさないようにと教わったので着物の懐に紐で結んである。不審がられたら見せるものらしいので、セイラは俺を不審者だと感じたのだろう。手を出されたので身分証明書を紐から解いてセイラへ差し出した。
「あら、まだ元服前なんですね。もっと上に見えました」
「はい。月末で元服らしいです」
「らしい? らしいとはなんでしょうか」
口を滑らせたと思ったけど、こう言う時はこう説明すると良いと教わっているのでそこまで動揺はしなかった。
「物乞い浮浪児から兵官に保護されて奉公人になりました。若い方が同情されるから二歳若く設定されたんで、多分俺は十七か十八です」
「保護って親に捨てられたの貴方」
全員に同情の眼差しを向けられて、口を滑らせなかったらこうならなかったのにと後悔。
俺は俺の人生をうんと不幸だとは思っていない。母ともっと暮らしたかったし、変になった味覚や頻度の多い悪夢は嫌だけど、長年色々な人が配慮してくれた。監獄に保護された男児の中には悲惨な被害者などもいたので自分だけが辛い、という感情はとっくの昔に消えている。
「捨てられていないです。身寄りのない母が亡くなって母の恋人に部屋を追い出されただけです」
「追い出されただけ、ねえ。……ケルン村の農家の奉公人ですか。とりあえずどんな仕事でも良くて日雇いなら紹介先がありますけど、仕事の希望はあるんですか?」
「どんな仕事があるか分かっていないので特に職種の希望はないです。選べる立場ではないです。紹介状はあります。屯所の相談所で尋ねるように言われました」
口利きに騙されると安くこき使われたり変な仕事に行き着くから荷運びみたいな日銭稼ぎの仕事以外は屯所の相談所へ行きなさいと教わっている。
「ユミトさん。紹介状を見せてもらえますか?」
「はい」
俺は懐から文を出して女将に渡さないで広げて見せた。
「……。市場で買い物をしたら荷運び役を雇う予定だったの。前払いでうどん、その後に平均的な日銭を払うので今日雇われませんか? 私は旅館の女将です」
そんなこともあるのかと驚く。これなら俺は彼女達に少しはお礼が出来そうだ。
「日銭は要らないので診察代分働きます」
「そう? そうね。払えるのなら払ってもらいましょう。レイさん、ちょっと」
女将に手招きされたレイが彼女についていった。女将は俺達に背を向けているので表情が分からないが、レイは驚き顔で頷いている。話が終わった二人が戻ってきて、レイが帰ると告げたのでお別れの挨拶が飛び交う。
「あの、握り飯。いやおむすび? 母の料理みたいで久しぶりに美味かったです。ありがとうございます。気をつけて帰って下さい」
その時、どこからともなく真っ赤に染まった紅葉の葉がひらりと俺達の横を通り過ぎた。
気になって一瞬レイの顔を見ていなくて、視線を戻したら彼女はとても嬉しそうに微笑んでいた。紅葉なんてそこらにあるのに感激した、という様子なので彼女は紅葉好きなのだろうか。
紅葉なんて食べられなくて腹は膨れないし、色は血の色だし、おまけに手の形みたいだから血染めの自分の手を思い出して大嫌い。なのに彼女が好きならそんなに悪くないものな気がしてくる。
「……。ありがとうございます」
俯いて、小さな声を出して微笑んだレイは俺とはまるで別の生き物のようで、改めて女ってかわゆい生物だなと少しボーッとしてしまった。
こうして俺達はレイと別れて、女将に「書面で簡単に契約を交わして前金を払います。けど、その前にまずは食事ですね」と言われて移動。日雇い代を払うから、その後に薬師所でかかった費用とご馳走したお金を払うように告げられた。
「日雇いを連続はどうでしょうか。信用するまで任せる業務の幅は狭めます。その分は給与も下げますが、勤務を続けて、私達の信用を勝ち取って、うちの旅館で住み込み奉公人になるのはどうですか? 先程教えたように私は旅館の女将です。先週は故郷に帰る。昨日は他の地区の旅館で働きたいと二名辞めたんですよ」
こういうのを渡に船と言うはずだけど、うまい話には裏があるとも教わっているので、これは疑った方が良いだろう。
「君。はっきり言う。手前味噌だけどかめ屋は人気の働き先で奪い合いです。女将さんの気紛れと、たまたま空きが出た幸運に感謝してとりあえず日雇いになるとええ。屯所の相談所にはまず出ない雇用先だ。女将さん、彼の何を気にいったんですか?」
そのような都合の良い話がある訳がない。俺はいきなり詐欺に遭うのか、と訝しげる。
かわゆい若い女で釣ってお金を巻き上げることを美人局と呼ぶ。いや、ここまでの流れは全て偶然の上に成り立っている……はずだよな?
(困った。世間知らずな俺一人だと判断出来ない。福祉班! そうだ。俺は身寄り無しだから登録に行けって言われた。よしな紹介状持ちだから登録出来るか微妙だけど行くだけ行けって)
セイラは肩を揺らして微笑んだ。優しそうだけど怖い女性なのだろうか。
「レイさんの話と紹介状の総合評価です。捨て奉公人から勤労態度最優良。これはうんと難しい事ですよ」
「捨て奉公人ではないです。物乞い浮浪児から奉公人です」
「あら、正直者ですね。兵官が保護だから飢えて盗んで捕まったとかですか?」
「腹が減ってもうろうとして、世の中的には盗むというようなことをしました」
「あら、また正直者ですね」
その逆で、大嘘つきである。経歴を軽く語るとこう言われるだろうからこう答えなさいと教わった通りに話が進んだ。
「まだまだ若くて少しは貯金させてあげられたので広い世界を見てきて欲しい。困ったらいつでも帰ってきなさい。こういう紹介状に奉公を辞めた後も自分がこの子の身分を証明して責任を持ちますなんて、とてもええ紹介状ですよ」
「女将さん、読んでもええですか?」
「もう返しましたから、彼に頼んで読ませてもらいなさい」
「ユミトさん、ええか?」
「何を考えているか分からない感じだけど真面目に働いてくれればかめ屋は助かる。死にそうなくらい飢えた子どもは盗みくらいする。女将さん、そうですよね?」
「ええ。家族がいないならかめ屋一同の家族になればええです。捨て奉公人みたいな女の子の見習いもいるし、似たような男性奉公人もいます。但し、信用ならないと思ったり、悪さをしたら追い出しますよ。大事なのは、辛さに押し潰されずにこの紹介状を得られたという励んだ過去と今後の働きぶりです」
「女将さん。苦労人は根性があるからええ奉公人になるって言うから拾い物かもしれませんね」
「私の日頃の行いが良いからかしら」
「いよっ! かめ屋の女将は自慢屋だ!」
「あはは」
辻褄の合っている、良くある話で固めた嘘は俺を守ると言われたけどその通りのようだ。
しばらく歩いてうどん屋へ到着して、女将は天気が良いからと外席を選択。
かめ屋はどのような店なのかとか、素性の分からない何度も勤務を依頼する日雇い奉公人にはこういう仕事やこのくらいの給与など、女将に色々と話をされた。
職員寮や職員食堂など、一部は立ち入り禁止にするので鍵は渡さないけど、身寄り無しだしこの紹介状なので近くの安い長屋を用意して、多少は生活支援もすると言われた。
「あれっ。女将さん。こんにちは〜」
話しかけてきたのは俺と同い年か少し年上に見える地区兵官で、彼と同じくらいの年齢の地区兵官も一緒にいる。十才くらいの子どもも一緒にいて、その彼も兵官と似たような格好をしている。
女将に話しかけてきた地区兵官は鉢金をしていて、羽織りの色が異なり朱色でだんだら模様。なんだっけ、教わった気がすると考えたけど思い出せず。
「丁度良かったです。そろそろ昼飯にしようと思って、今日は弁当ではなくて。未来の後輩候補にご馳走するからここの味はどうですか? と尋ねられて嬉しいです」
一人だけ服装の異なる地区兵官は黒目がちで少し釣り目だけど、とても優しそうな顔立ちをしていて、どこかで見たような、誰かに似ているようなと心の中で思案。
「あら、ネビーさん。丁度ええのはこちらです」
「……えっ。ネビー?」
南三区六番地にいる地区兵官でネビー。俺は慌てて荷物の中から十年前に貰った手紙を出して、内容を確認して、三つの名前を確認。
三人目にひくらし奉公人レオの長男、南三区六番隊地区兵官ネビーと書いてある。おぼろげになっていた顔や声も少し蘇ったので、目の前にいる兵官はかつて俺を気にかけてくれてとても親切にしてくれた三名の兵官の一人だと確信。
「あら。ユミトさん。ネビーさんをご存知ですか? 彼は定期的に南西農村区へ出張するので、もしかして彼の噂を聞いたことがありますか?」
「えっ。あっ、はい……」
人前で身の上話をしない方が良いのは明らかなので、そういうことにしておく。
「ネビーさん。この方はレイさんを市場で助けてくれたんですよ。少し目を離してしまって、その際にレイさんが難癖に絡まれて睨まれたり怖い目に遭ってしまって」
「どうせ注意力の足りないレイが女将さん達とはぐれたんでしょう。いつもすみません。君、妹がお世話になりました。それなら彼の食事代は……なんてケチな事を言うてはいけませんね。日頃の感謝も込めてこの席の支払いは俺がします。味の感想を聞いていないけど、昼食はこの店にします」
妹という単語に俺は耳を疑って、しばらく固まった。彼が十年前にお世話になった兵官の一人だとして、それが今日市場でたまたま出会ったレイの兄なんてそんなことがあるのか。
「ええ出汁ですよ」
「つけうどんって何かと思って頼んだら美味いです」
女将が「レイさんのことで相談です」と隣の机の方へ行って、ネビーの向かい側に移動。なので俺はノブとミトと三人になった。
二人がかめ屋はこういうお店だ、という話をしてくれるけど、俺は約十年振りに再会した地区兵官ネビーが気になって仕方ない。
「そんなにルーベルさんが気になるのか?」
「え、ええ」
「記名か握手だろう。両方かい? どれ、俺が頼んでやろう。なにせ俺はレイさんの師匠だからな」
「何を言うているんですか。それなら俺だってレイさんの師匠です」
「あはは。他の見習い同様に、レイさんも皆で育てたから師匠だらけだよな」
ミトが「ルーベルさん」と声を掛けた際に、苗字がるから平家ではないと判明。奉公人レオの長男、南三区六番隊地区兵官ネビーという書き方は平家。つまり、二人は別人ということになる。
「どうしました? 何か相談ですか?」
ルーベルが移動してきて俺の前に着席した。
「こいつ、ルーベルさんと握手をしたいそうです」
「おお。それはどうもありがとうございます」
違います、と言う雰囲気ではないので握手してもらってから「あの」と話しかけた。
「ルーベルさんのお父さんってレオさんですか?」
「ええ。へぇ、それも知っているんですね」
やはり、同一人物なのだろうか。
「レオさんはひくらしというお店の奉公人ですよね?」
「そうです。ひくらしか彩り屋のレオです。女将さんに南西農村区育ちって聞きましたけど、父の名前まで知っているんですね」
「いやあの、はい……」
手紙をここで見せるのもなぁ、どうしたものかと悩んでいたら彼に「この後、屯所に来ませんか?」と告げられた。
「女将さんに君は天涯孤独って聞いたんですよ。上京先の屯所へ行って、福祉班に相談をしなさいって教わっていませんか?」
「は、はい! 教わっています」
「かめ屋の名前を使う親切ぶった詐欺師かもしれないのでしっかり確認をしてから契約をしましょう。向こうも偽造書類ではないかと疑っています。君は騙されないか慎重になった方がよかです」
「はい。地区兵官さんに間に入って欲しいです」
「たまに制服を真似した偽兵官がいるし、ろくでもない兵官も稀にいるんで盲信しないように。悪い兵官がいたら屯所や役所に密告して下さい」
ネビーは俺から視線を逸らしてミトやノブと会話を始めて、そこに彼が注文したうどんが運ばれてきて、うどんの器を置いた従業員の若い女性がそわそわした様子で頬を染めた。
「あっ……。あの。ルーベルさんって聞こえましたしその羽織りなので一閃兵官さんですか?」
「ん? はい。そう呼ぶ方もいます」
「う、うき、浮絵。女将さんの持っている浮絵に記名って……してもらえますか?」
「業務中はしないんですけど、今は休憩中だからよかですよ」
「あり、ありがとうございます。わた、私のにもええですか?」
「もちろんです」
「おか、女将さん! 女将さん、ええって言われました!」
両手で持っているお盆で半分顔を隠した従業員は俺の目で見える範囲の肌全てを赤く染めた。レイよりも美人ではないなんて思ったけど、かわゆい生き物がますますかわゆくなったので衝撃的過ぎる。
「なんか、どんどん声を掛けられる頻度が増しています。あの浮絵は似ていないから、ガッカリされそうなのに」
「そうですか? ルーベルさんと会うと必ず誰かしらに声を掛けられていますよ」
「そうそう。話しかけられないルーベルさんを知らないです」
ほどなくして先程の従業員と中年女性——このお店の女将だろう——が来て、ルーベルに絵と矢立てを差し出した。それから「お礼です」と煮物の入った小鉢を追加。それは同じ机を囲っている俺達にも配布された。
浮絵とは何なのかと隣に座るミトに尋ねたら、これは彫った板を使って同じ絵をどんどん作る技法で作られた絵だという。
浮絵はルーベルとはあまり似ていない男性の腰から上の絵で、今にも刀で何かを刺しそうな姿勢だ。一閃兵官という文字は大きく書かれていて枠で囲われている。その近くに、南三区地区本部六部隊ネビー・ルーベル、と小さめの字が二列で書かれていた。
これを見て、だんだら羽織りは本部所属の地区兵官で羽織りの色で、その色でどこの地区の本部所属か分かるという知識を思い出す。
「俺みたいな凡人なら画家に絵を描いてもらって皆で眺めたり飾るけど、ルーベルさんみたいな有名人だと皆が欲しがるから浮絵屋が作って売るんだ。景色や美人画ということもある。しゅ……お嬢さんの前で話す内容ではなかった」
ノブが言いかけた「しゅ」とはなんだろう。記名が終わったルーベルが順番に浮絵を返すと、このお店の女将が「ご結婚しているんですね」と話しかけた。
「いえ。春に祝言の予定です」
「それは結婚指輪ではないんですか? 金属ではないなぁと思って気になって。あと、一閃兵官さんの奥様ってどんな方かなぁと。気になったのは私じゃなくてこの子だけど。若い女の子達はそういう話を好むでしょう?」
「ちょっ、女将さん。それは言わないで……」
淑やかな仕草でお盆で顔を隠した従業員はますますかわゆくて、俺はまたしても衝撃を受けた。
俺は監獄行きになってからは男としか接してきていなくて、遠くに女がいるなぁと眺めて育って、監獄から出てからは毎日毎日女がいるとドキドキしている。
そこにレイとの距離や会話だったので衝撃的だったのにまたしても衝撃的。世の中の普通の若い男は天の原で暮らしているようだ。
「これは竹製で、たけのこが竹になるように、婚約者から夫婦になれますようにと願いと祈りを込めたものです。二人で職人の父に頼んで作ってもらった婚約指輪で婚約指輪としても売っていますが、簡易結婚指輪としても販売していますよ」
これ、と口にした時にルーベルは左手を軽く掲げたので、彼の左手薬指に朱色のものが巻きついていると気がついた。
「……うわぁ。うわぁ! 女将さん。聞きました? すとてときです。どこで売っていますか?」
「あら、恋人に買ってもらうつもり?」
「それはその……」
「高くないですよ。あちらの女性が知っているので彼女に聞いていただけますか? 休憩時間が短いので食事をさせていただきます」
ますますかわゆい若い女と、爽やか笑顔のルーベルに圧倒されて放心状態。これが世の中の普通の男女の会話で、こんやくってなんだか分からないが、ゆびわというのは指につける輪っかという意味だろう。すとてときって聞いたことがない単語だ。
この後、俺はルーベルに「日雇い仕事は薪割りに変更でその前に屯所で。後でかめ屋に送りますからどうぞ」と誘われて、女将達とは別れた。
具合はどうかと確認されて、次は簡単な身の上話を問われて、そこから紹介状や身分証明書を見せて欲しいと言われて全て素直に返答したり書類提示。
市場からどんどん街中へ。市場には女は少なかったけど今はかなり増えているし、見覚えがまるでない賑やかな世界に目が回りそう。
それでハッとする。すれ違う人達の大半は俺を見て避けるように歩いて嫌そうな顔をする。
何かしらとか、何の犯人だ?とか、一閃突きでまた逮捕してくれたのか? とちょこちょこ耳に入ってきたので、なぜ自分が避けられたり嫌悪の表情を向けられているのか察する。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「いえ、はい。平気です」
急に気持ち悪くなってきて、ふらふらしてしまった。あの日の夜、兵官達に逮捕された俺は長屋では気がつかなかったけど、このように人が多い場所を歩きながら、建物に吊るされている光苔の灯りで照らされた自分の両手がドス黒かったと知って、崩れるようにしゃがんで大泣きした。その後は駆け寄ってきた地区兵官……。
隣を歩くルーベルに背中をそっと撫でられて「あまりにも辛いならおぶります」と告げられて、記憶の扉が少し開いた。
『その子、どうたんですか⁈ 病気ですか⁈ 血を吐くなんて死にかけじゃないですか! すぐに医者へ連れて行きます!』
『おい、見習い! そいつは……なんつう、足の速さだ!』
『あのバカ。すみません。そそっかしくて話を聞かない奴なんです! おいこらネビー! 待て!』
そうだ。十年前にネビーは見習いだった。同一人物なのか不明だけど今俺の隣にいて、優しく優しく俺の背中を撫でてくれているネビー・ルーベルは地区本部所属の地区兵官でどうやら有名人。背中に感じる手の大きさや温かさは、過去のネビーの手の温もりととても似ている。
優しくしてくれた人は何人もいるけど、母がしてくれたように優しく背中を撫でてくれたのはあの日のネビーと、今隣にいるルーベルだけである。
『大丈夫だからな!』
「顔色が良くなってきました。空腹から急に満たされたから、腹がびっくりしているんでしょう。大丈夫ですからね」
『俺は足が速いから医者まであっという間だ!』
「ありがとう……。ございます……」
自然と込み上げてきた涙が歩き続ける足元に落下して、それは全然止まらなくて、俺は十年振りに涙を流した。
生きる場所が変わって、それはまるで夢の世界に迷い込んだようで、色々なことが他人事だったり見える世界が暗めだったけど、今の俺の目には空が青く青く高く見える。
何度も寝て起きても実感が乏しかったけど、これは悪夢ではなくて現実だということを、母とはもう二度と会えない現実を、俺はようやく受け止めたようだ。




