未来編「レイの恋」
かつて貧乏だったからなのか私は食べること、作ること、野菜などの食料を見ることがとても好き。二ヶ月前の八月の末に、老舗旅館の料理人見習いから正式に料理人になれたので心底嬉しい。
今日は休みの日だけど、交渉や目利き練習や珍品探しのために女将と先輩二名と共に外周行交道市場へやってきた。
私は住み込みで、本日は休みだからこの後実家へ帰るので家族に料理披露のための材料探しでもある。
活気のある市場はとても楽しくて大好き。
「たらこが売っているなんて得をしました」
「レイさんの、姉が旅行で食べたたらこおむすびの値段はいくらでしたって発言は助かりました。何年も前の旅行のことなのに良く覚えていましたね」
女将に褒められたのもずっとお世話になっているお店の役に立てたのも嬉しい。
「私は守銭奴ですし、食べ物関係の記憶力は良いです」
「言えてる。レイさんは食べ物の事だと本当に覚えてる。五年前のあの料理とか急に言い出すよな」
「なのに興味がないと本当に覚えていない。昨日のことでさえ忘れていたりするもんな。この悪いところは中々直らないねぇ」
「レイさん、自分の連絡用筆記帳に書き付けするのをサボらないようにしろよ」
「はい。父にも母にも姉にも兄にも親戚にも言わて育ったので気をつけています」
「レイさん関係は家族から言ってもらうのが一番なので告げ口して下さい」
「はい女将さん」
「元服したように見えないよな、レイさんは」
先輩ノブもミトも息子しかいないからか、子どもの頃から厨房に出入りしている私を娘みたいに扱ってくれるけど、成人になったのにまだ子ども扱い。
褒め会になると思ったら叱られ会みたいになってしまった。叱られるのは嫌い、と周りの露店を見渡して何かワクワクする野菜はないか探していたらふらふらしている若い男性がいた。
(顔色が酷く悪い)
この国に多い地黒系だし結構日焼けもしているので青白い顔、ではなくて土気色の顔色だ。
(兵官は……いない)
私の兄は兵官で、困っている人がいたら兵官に言えと教えられて育っている。
区民の手助けをしない兵官がいたら名前を聞いて密告するし、しっかり助けてくれたら逆の意味で密告だ。
顔色の悪い若い男性はよろめいた後にしゃがんでしまった。視界に入らなければ気にならなかったけどこれを見てしまったら放置は無理。
「大丈夫ですか?」
しゃがんで目元を押さえている男性に声を掛けたけど返事がない。
(ああ。こういう手口のひったくりもいるって言うていたから……。少し離れていればええか。ひったくりやスリ対策はしてあるし)
少し距離をとって腰を落とした。自己防衛方法を両親と兄にガミガミ教えられて、守らないと姉も加わってネチネチ躾られて育ったので私は幼馴染女性達よりも警戒心が強くなったと思う。
とびきり美人の姉の防犯意識が高過ぎるから、家族は私は呑気だとか何も考えてないとか言ってもっと気をつけろとうるさいけど。うるさいのは家族の方だ。
大丈夫ですか? と再度声を掛ける前に男性はゆっくりと顔を上げた。何回か瞬きを繰り返して目を丸くしてその後は固まったように動かない。やはり彼の顔色は悪い。
「具合が悪いんですか?」
ぐうーっ! という大きな音が私の耳に飛び込んできた。
返事が腹の虫!
彼はお腹をおさえて俯いた。具合が悪い上にお腹も減っているなんて辛い。私は空腹が続くのは嫌い。
家族仲は良くて楽しかったけどあちこちでバカにもされた貧乏時代を思い出すから。
「おむすび食べますか?」
私は斜めがけの鞄から箱を出して蓋を開けた。これ今日の私のお弁当。市場で女将達と買い物をして、終わったら実家に帰るので川へ寄り道をして河原で食べるつもりだった。
まだまだ残暑が厳しい季節なので足だけ川に入って涼みながらと思って。
ゆかりおむすび、枝豆おむすび、おかかおむすびと私の好きなおむすびが揃っているから名残惜しい。
お客が残したおかずが多い翌日に休みだとこのようにお弁当を豪華に出来るからとても嬉しい。
「っ痛」
軽く蹴られたと思って振り返る。手に持っていたお弁当が揺れたので中身が散乱した。
(あっ、おむすびにたくあんが落ちた!)
遠ざっていく髭面の中年男性がこちらをチラッと見て私を睨んだ。
「道の真ん中で邪魔だ!」
(邪魔って状況を見れば分かるだろうしそこまで混んでないから避けられるのに。わざわざ近寄ってきて軽く蹴っ飛ばすって嫌なことがあった八つ当たり? しょうもない)
心の中であっかんべー。蹴られたお尻が少し痛いのでいっそ傷害罪で訴えてやりたい。
(あっ、兵官! わざと近寄ってきて蹴ったって言ってやろうかな)
若い女性に何かすると男性は悪くなくても不利になりがちなのに変な男。
「待てよお前! わざわざ蹴るなんてどういう事だ! 邪魔なら避ければええだろう!」
顔の向きを戻したら顔色の悪い若い男性が立ち上がっていた。眉間にシワを作って私を軽く蹴った男を睨みつけている。
「はあ? 難癖つけるなよ。単にぶつかっただけだ」
(こう言われたらそうだけど、ぶつかった当たり方じゃなかった。代わりに怒ってくれるのはええけど本当に具合が悪そう……)
「それならそれで手を貸すとかあるだろう! 謝れよ! 人ならそれが礼儀だ! 人でなしで犬以下だな!」
その通りで、悪気がなくてこちらに少し非があってもぶつかったのは向こうなんだから「すみません」とか「大丈夫ですか?」って言うものだと思う。
その上で道の真ん中で邪魔ですよ、って伝えれば良い。いや、私達の様子というか彼の具合の悪そうな様子を気にかけるのが人としての礼儀だ。彼はふらりと少しよろめいた。
「はあ⁈ やるのかテメェ!」
兵官がこちらへ向かってきているけど喧嘩になるのはちょっと怖い!
そう思ったけど若い男性は拳を握っただけで動かない。中年男性は喧嘩するのは愉快、みたいな表情を浮かべて戻ってくる。
(とりあえずおむすびとたくわんを助けて、あのオジジが来たら叫んで兵官につきだそう)
たくあんを拾いながら様子見していたら、若い男性はこちらを向いてしゃがんだ。彼は地面に置いたお弁当箱の蓋の上に乗せたたくあんを眺めている。
(注意はして、喧嘩はしないんだ……)
「ははっ、軟弱かよ」という捨て台詞が背中にぶつかった。
かなり年下の女性と具合の悪そうな人に八つ当たりみたいなことをして高圧的なあんたこそ弱虫軟弱だ、と言い返したくなるけど無視。相手を刺激して激昂させたら危ない。
私を庇ってくれた若い男性は周りに迷惑をかけないように、喧嘩なんて無意味と思ったようだから、私も無視だ無視。
(これで喧嘩を売ってきたら私は権力の傘に入るぞ)
私の兄はわりと出世した兵官で義兄は裁判官なので犯罪系に巻き込まれたら強い。困った時は名前を出して身を守れと言われている。
絶対わざとだったけど、わざとではなくても謝罪出来ないロクデナシだから、きっと龍神王様の天罰がくだる。
「すみません。俺のせいです。痛かったですよね」
「だい——……」
ぐうーっ!
彼の腹の虫がまた盛大な音を鳴らした。大丈夫です、と言おうとしたところだったのでつい笑ってしまった。
「地面に落ちなかったおむすびをどうぞ」
私は無事なおみすびが残っているお弁当箱を彼に差し出した。
「……あの。この握り飯がおむすびですか?」
(そうだった。おむすびはわりと知られていない呼び方だ)
彼は箱の蓋の方に乗っけた土のついた枝豆混ぜおむすびを掴んで口に運んだ。
「あっ!」
「美味いです。ありがとうございます」
「洗って食べようと思っていたのに。お腹を壊しますよ」
止める前に彼はおむすびを全部口の中に入れてしまった。
「美味いから腹を壊してもええです」
目が合ってナスのように少し紫がかった黒い瞳をしていてこれは珍しい気がすると観察してしまった。
この国の人は皆黒い目だけどこんな種類の瞳ってあったっけ?
じゃりっという音が聴こえてきたのに随分と美味しそうな笑顔だなと感心してしまう。
「こっちを食べて下さい」
私は落ちた食べ物が乗せた蓋を少し遠ざけてお弁当箱を差し出した。
「ああっ! ダメです!」
彼の腕は長くて私が遠ざけた蓋に乗るゆかりおむすびを奪われた。
「美味いです」
やはり彼はとても美味しそうな笑みをうかべた。
「レイさん。居なくなったと思って心配した。どうしました?」
「おお、いたいた。レイさん。良かった。近くにいて見つかって」
振り返ると女将達が立っていた。
「具合が悪い方がいました。お腹がうんと鳴ったので腹減りもです」
「そうだったのですか」
「君、顔色が悪いな。大丈夫か?」
ノブがしゃがんで土つきおむすびを食べた男性の顔を覗き込んだ。
「いえ、あの。その。節約と思って四日間食べていなかった——……。いてて。痛っ」
お腹を抱えて痛みを訴え始めた彼を病院か薬師所へ連れて行こうという話になり、ノブとミトが彼に肩を貸して私達は市場を後にした。
彼は腹痛に呻きながら途中途中あまりお金がないとこぼした。着古したつぎはぎもある着物姿と身なりがあまりよくないから貧乏人なのかもしれない。
近かったのが薬師所で急な腹痛なので少し割り込みで薬師に診察してもらえた。
「おそらく四日間食べていなかった所に急に食べたからでしょう。他の症状が出たらまた来て下さい」
それでゆっくりお腹に負担のないものから食べるように、というような助言を与えられて診察終了。
彼、ユミトは運ばれる間呻きながらお金が無いと何度か言ったので診察代は女将が支払った。薬師所の前でユミトは女将に頭を下げた。
「すみません。金が全然ない訳ではないので払います」
「それならまた倒れると困るのでうどんでも食べるんですね。飯屋で粥でも良いですけど」
「四日間も食べていないなんてどうしたんだ。まあ見た目もアレだが」
「どう見ても貧乏そうだ。仕事は? 市場で何をしていたんだ。名前が似てるよしみだ。困っているなら少しくらい手伝うぞ」
女将もノブもミトもユミトを上から下までジロジロ確認。貧乏そうとか、見た目もアレとは失礼だけどそう言いたくもなる姿だ。
身なりが悪いだけではなくて丈の足りない着物だし、見える部分の肌や着物はわりと汚れている。
ユミトは私達から目を背けて右手で髪をかいた。その髪も寝起きみたいにくしゃくしゃ。私の兄と違って猫っ毛ではないようで短めの髪はあちこちの方向にツンツンしている。
「節約です。元々暮らしていたのもあって都会で暮らすか悩んで、下見と思って奉公先を一度辞めて南西農村区の村から荷運びの日雇いをしながら上京してきたところです」
「それならこれから職探しですか」
女将がユミトの荷物を確認するように顔を動かした。彼は中身がさほどなさそうな風呂敷を斜めがけに背負っている。身一つで上京してきた、というよう身軽さだ。
「はい。屯所で聞いて住み込みで雇ってくれるところを探します。それまではそこらで野宿します。人に聞いて、川とか野宿によしな場所を探そうかと」
よし、は南西農村区で使われる方言。喋り方でもそうだと感じる。以前南西農村区へ旅行したことがあるから分かる。
「貴方、身分証明書はある?」
「はい」
身分証明書は盗まれないように、失くさないように衣服につけた紐に結ぶもの。彼もそのようにしているようで懐から身分証明書を出して紐を解かずに女将へ見せた。
「あら、まだ元服前なんですね。もっと上に見えました」
それなら私よりも一歳以上年下ということになる。私もそうは見えないなと彼の顔を確認してしまった。
太めの眉に濃いめの顔で無精髭。背もわりと高い。なので実年齢よりも年上に見えるのは当然な気がする。元服前は元服前でも、十五歳でもうすぐ元服のように見える。
「はい。月末で元服らしいです」
「らしい? らしいとはなんでしょうか」
らしいって何、と思ったら女将が問いかけてくれた。
「物乞い浮浪児から兵官に保護されて奉公人になりました。若い方が同情されるから二歳若く設定されたんで、多分俺は十七か十八です」
この内容なのにユミトの声も表情も淡々としているので驚いてしまった。
「保護って親に捨てられたの貴方」
「捨てられていないです。身寄りのない母が亡くなって母の恋人に部屋を追い出されただけです」
追い出されただけって、そうなの。ユミトはほんの少し暗い顔をしたけど無表情に近い。
「追い出されただけ、ねえ。……ケルン村の農家の奉公人ですか。とりあえずどんな仕事でも良くて日雇いなら紹介先がありますけど、仕事の希望はあるんですか?」
「どんな仕事があるか分かっていないので特に職種の希望はないです。選べる立場ではないです。紹介状はあります。屯所の相談所で尋ねるように言われました」
今までの仕事は?
何歳の時に兵官に保護されて奉公人になれたのか分からないけど。十二歳から奉公人になれるので、そうだとして、そこから何年も働いて元服前に追い出されるなんて変だと思う。
「ユミトさん。紹介状を見せてもらえますか?」
「はい」
ユミトは懐から文を出して女将に渡さないで広げて見せた。
「……。市場で買い物をしたら荷運び役を雇う予定だったの。前払いでうどん、その後に平均的な日銭を払うので今日雇われませんか? 私は旅館の女将です」
「日銭は要らないので診察代分働きます」
「そう? そうね。払えるのなら払ってもらいましょう。レイさん、ちょっと」
女将に手招きされたのでついていった。ユミト達に背を向けた女将は私にこう告げた。
「覚えたことを書き付けするからお兄さんにユミトさんの今の話と身分証明書と紹介状の統合性について尋ねて欲しいわ」
「統合性ですか?」
「雇って大損しそうですか? くらいでええわ。夫も私も人を見る目はそれなりにあるから」
「彼を雇いたいってことですか」
「判子とかで分かるけど紹介状は本物なようでその内容がええのよ。たまに偽造するバカがいるけど本人の雰囲気とかと乖離しているし内容もおかしくて偽物って分かる。ほら、レイさんの為に怒ってくれたけど喧嘩しなかったのも高評価。ちょうど人が減ったところだし、日雇いからなら雇いたいわ」
分かりましたと返事をした。
(雇われたら同僚ってこと)
旅館かめ屋の従業員は多くて名前を知らない人もいるのでそれがなんだ、という訳ではないけど私はユミトを少し眺めた。
(元浮浪児……。嘘かな。でも婿に来た頃のジン兄ちゃんに少し雰囲気が似てる)
私は昔々、出会った頃は長女の夫ジンが苦手だった。余り笑わないし縮こまっているような様子だったから。しかし優しいし笑顔が増えていったので慣れていった。
ジンは捨て奉公人で家族の愛情をあまり与えられずに育ったから、貧乏だけど和気あいあいの仲良し家族に最初は戸惑い気味だったと後から聞いた。
女将は書き付け用紙に鉛筆でサラサラと何かを書くと私の手に紙を握らせた。
それから口頭で紹介状の内容と彼の印象、彼の言葉で引っかかったところを告げられた。
ユミト達のところへ戻り、私は帰ると告げてお別れの挨拶。
「あの、握り飯。いやおむすび? 母の料理みたいで久しぶりに美味かったです。ありがとうございます。気をつけて帰って下さい」
その時、どこからともなく真っ赤に染まった紅葉の葉がひらりと私達の横を通り過ぎた。気になって一瞬ユミトの顔を見ていなくて、視線を戻したら彼は無表情だったけど、紅葉が私の目線を奪う前は笑った気がする。あれは幻だった、というようにユミトは笑っていない。
「……。ありがとうございます」
土つきで味なんて分からなくなったようなおむすびだったのに変なの。母親の料理みたいで久しぶりに美味しかったって、その間は何を食べて生きてきたのだろうか。私は女将に言われた内容や書き付けを見ながら、ぐるぐる考えつつ実家へ帰宅した。
☆ ★
私の世界は姉の結婚で大きく変化したけれど、この出会いで再び自分の世界が変化するとは、この時は全く知らなかった。




