特別番外「ロイの知らない話3」
失恋した直後に今度はなんだか怖い気配とは厄年ではないのに厄年なのだろうか。
「すみません! 母です! 親子ですので気にしないで下さい!」
男性は母親の手を私の袖から離させた。
「助けて! どなたか助けて!」
母親だという女性は怯え顔で私の腕にしがみついた。
「あの。大丈夫です。大丈夫ですから落ち着きましょう」
歳の離れた親子なのか嘘なのか分からないので女性の背中に片手を添える。騒ぎを聞いている人達の誰かが見回り兵官に声を掛けてくれるだろう。
「何事ですか!」
若い地区兵官が駆けつけてくれたのでこれでホッと一安心。
「すみません。親子なのですが母は最近気迷いで」
「助けて下さい兵官さん! 家に泥棒がいて追いかけてきたんです!」
「母さん。ほら、俺だ。息子のセイだ」
男性は懐から身分証明書を出して兵官に見せて母親に向かって困り笑いを浮かべた。彼の顔色はとても悪い。
「兵官さん、彼は嘘つきです! 私の息子はこんなに小さいんだから。お日様がこんなに高い時間は小等校へ行っています」
今日は日曜日なので区立、国立、私立も小等校は全て休みだ。
「それなら悪い泥棒は連行しますし、お母さんからは事情聴取をします。お嫁さんが一緒なら安心ですね」
地区兵官はセイという男性に何か耳打ちして私とセイの母親に笑いかけた。
「お嫁さん?」
セイの母親は私を見つめて何回か瞬きをして小さく頷いた。
「兵官さん、違います。幼馴染のテアさんが娘のニナさんと地元に帰ってきて助けてって言われていたんです。その人は泥棒じゃなくてニナさんの暴力夫だったわ。会ったことがないけどいきなり家に入ってきたからそうよ」
「それならなおさら事情聴取をしないといけません。この通り捕縛したので安心して下さい」
セイは大人しく両手を縄で縛られている。年配兵官がもう一人駆けつけて、私達は近くの小屯所へ移動することになった。若い兵官は私の腕にしがみつくセイの母親に「もう大丈夫です」みたいに笑いかけて、私には「その大根で重そうな荷物を持ちます」と言ってくれてさり気なくカゴを持ってくれた。
「兵官さん、今日はイカと大根の煮物にしようって話しをしていたんです」
「おお。それは美味そうです」
「手がね、ほら。震えるし指も伸びないの。今日は特にそう。泥棒も現れるし悲しいわ。だから息子にお嫁さんがきてくれて嬉しくて」
セイの母親は両手を胸の高さで開いてジッと見つめて小さなため息を吐いた。泥棒ではないとか、私はお嫁さんではなくてニナさんだという話は彼女の脳内から消えてしまったようだ。
「石化病ですか。お辛いですね。家に泥棒が入ったと息子さんに連絡をしたいのですが息子さんのお名前やお勤め先はどこですか?」
「息子はセイと言って磨というお店で職人をしています」
「おお。磨ってこの通りの刃物屋、鍛冶屋ですね。この刀は磨屋製です」
「刀? こちらは木刀ではないのですか?」
「木刀としても使う仕込み刀です。草刈りとか害獣退治とかで使うんで持っててええと許可されています」
……地区兵官が草刈り?
そんな話は聞いたことがない。
「息子さんはお母さん似ですか?」
「そう言われるけど私としては父親似です」
「旦那さんも磨屋の職人さんですか?」
「そうでした。春に倒れてそのまま……。長男にお嫁さんも来たし私も早く黄泉の国へ呼ばれないかしら。時々頭が変になるのよ……」
彼女は顔をしかめて俯いて大きなため息を吐いた。
「年を取ると忘れっぽくなりますし、ましてや石化病だとそうなる方は少なくないです。今はどうですか?」
石化病は年を取ると発症する体が少々不自由になったり痛むという病気、と思っていたけど気迷いみたいな症状が出る者もいるようだ。それともこの若い兵官は彼女の様子に話を合わせているだけなのだろうか。
「今はお嫁さんも分かるし、この通りを向こうに行くと磨屋があるとか、長男の名前はセイで次男はエンジだと分かるから大丈夫です」
私は彼女の息子のお嫁さんではないので、全然大丈夫ではない。
「大丈夫そうですね。自分のお名前はどうですか?」
「私はルキアです。あらやだ。大丈夫ではないわ。兵官さんに身分証明書を見せていなかったもの」
「ご協力ありがとうございます」
ルキアが若い兵官に身分証明書を提示して「お嫁さんもお願いします」と言われたので私も身分証明書を彼に見せた。
「すこぶる美人なお嫁さんでこのように泥棒から逃げられるように助けてくれるとはルキアさんも息子さんも果報者ですね」
若い兵官は私に軽い会釈をしたので、「少しこのまま協力して下さい」という意味だと感じた。
身分証明書で私がこのルキアとは関係ないか、関係があっても嫁ではないと分かっただろうし、兵官は最初から全て理解しているような気配がしている。
「そうなのよ。お母さん、逃げましょうって勝手口から早かったわ。兵官さんもこういうお嫁さんを探すと良い……小屯所なんて一年振りかしら。去年、息子が迷子になって来たのよ」
ルキアは到着した小屯所をしげしげと眺めた。
「息子さんは幼いんですか? このようにお嫁さんがいるのに」
「あらやだ。病気と年で気迷いでたまに息子が小さい気がしてしまうの。本当、困ったわ。困っているのは息子夫婦ね」
「こちらで休んでいて下さい。詳細はお嫁さんに尋ねますから」
奥にある小部屋へ案内されてルキアだけが座布団のところへ促された。
「ありがとうございます。貴方、笑顔がすとてときね。優しい兵官さんが駆けつけてくれて良かったわ」
「家族想いの美人にそう言われたらますます頑張れるんでありがとうございます!」
若い兵官に「こちらへお願いします」と告げられたので手前の部屋へ一緒に戻る。
「気迷い品良しオババさんが息子さんを泥棒と間違えて怯えていました。とりあえず息子さんを逮捕したということにして保護しました。こちらの卿家のお嬢さんは巻き添えです。お嫁さんと間違えられたようです」
彼は室内で書類を書いていた別の兵官に声を掛けて軽く状況説明をした。
「オババさんって年配者とか言い方があるだろう。気をつけろ」
「はい、すみません!」
「息子さんは先に来た。面談室で事情を聞いて必要があれば福祉班の担当をつける。ネビー、お前はそろそろ屯所だろう。屯所へ向かったのに戻ってくるとは」
「ああっ! ついです。たまたま彼女達を見かけて。行ってきます! 向こうで退勤なのでお疲れ様でした!」
「一昨日はスリと戻って来たし、前からちょこちょこそうだから上に相談しとく。お疲れ様は二度目だな。行ってこい」
「お嬢さん、保護の協力をしてくれてありがとうございます! 頼れる先輩達が家まで送るとか何かすると思うんで失礼します!」
ネビーという若い兵官は私にピシッとした会釈をすると飛び出すように部屋から出て言った。どこかで聞いた名前だなと思ったけど、ネビ、ネービ、ネビーという名前はありふれているので文学でたまに出てくるからそれだ。なんの物語だったかなと少し現実逃避。
「騒がしい若手ですみません。迷子保護の事情聴取をさせていただきたいのですが時間や都合は大丈夫ですか?」
「あの。平気のですが先程の兵官さんは私の買い物カゴを持ってくださって……そのまま」
「……あのド忘れバカ。ケン! ネビーを追いかけてこちらのお嬢さんの買い物カゴを預かってこい! あいつは足が速いからすぐに行け!」
「は、はい! はい!」
部屋の隅に座って書き物をしていた若い兵官が慌てて立ち上がって走り出した。
「協力していただいたようなのに本当にすみません。では聞き取りさせていただきます。すぐお帰ししますので」
「はい」
身分証明書を提示するように言われたので見せて何があったのかと問われたので簡単に説明をしていたら「お嬢さんの大根カゴを忘れていました!」とネビーが部屋に駆け込んできた。
「自分で気がついたのか。お遣いにケンを出したんだけど会わなかったか?」
「ド忘れバカだけど気がつきました。ケンとすれ違いました。見回りかと思って無視しました」
「ならケンは戻って来るか」
「お嬢さん、夕飯のイカ大根が無しになるところですみませんでした」
「いえ。ちなみに我が家はこの大根を今夜味噌大根にします」
立ち上がって会釈をしてネビーから買い物カゴを受け取る。
「そうでした。イカ大根はあのオババさんでした。いや年配女性でした。それでは失礼します。先輩、今度こそ行ってきます」
「さっさと行け」
「はい!」
私と兵官はこれまで見回り兵官と挨拶や落とし物を渡すくらいしか接点が無かったけど、彼らはこういう感じなんだなと少しぼんやり。
「うるさいしそそっかしくて本当にすみません」
「いえ。怖かったので優しい雰囲気の方が来てくれて気が楽になりましたし小屯所内に初めて入って緊張していたので和みました」
「そうだとええです。そそっかしさは彼の欠点ですがそのように取り柄でもあります。ここにはたまにしか来ないのに存在感があるというか、今みたいだから悪目立ちしていて。仕事はわりと出来るんで見かけたらしっかりしろと応援してやって下さい」
「はい」
事務官らしき兵官とは服装の異なる勤務者がお茶を出してくれてその後彼はルキアのいる部屋へ向かった。ケンという若い兵官が戻ってきてお遣いの報告をしてまた書類仕事らしきことを始めた。
ルキアにお茶を運んた事務官が彼女は横になって寝ていたと私と話す兵官に報告。そこから事情聴取の続きで話すことはほとんどないからすぐに終了。
「ご協力ありがとうございました」
「あの。先程の息子さんはとても顔色が悪かったです。お母上があのようですと仕事も家のことも大変そうです。私……日雇い仕事を探しているので役に立てるなら立ちたいです」
まだどこからも聞いていなかったけど、ロイの結婚話は町内会で噂になって私の耳に届いて聞きたくないお嫁さん話や馴れ初め話を知ることになる。思い出したら涙が込み上げてきて一気に溢れて膝の上で重ねている手の甲にぽたぽたと落下した。
(お嫁さんの世話とか仲良くなんて嫌だ。祝言前に町内会を出て行きたい……。どこへ……)
父の弟の家は同じ町内会だし母の弟の家には従兄弟が二人いて、従兄弟は結婚出来る相手だから年頃の男女が同じ屋根の下になるのは反対されるだろう。
叔母は三人いるけど嫁入りの身だから姪っ子を引き取ります、は無理そうだし同じく従兄弟がいる。そうなると早急に町内会以外の家に嫁入りするか、住み込み仕事を見つけるしかない。
(卿家の長女が住み込み? 男性従業員も居るとかなんとか反対されそう。華族の家で使用人! そんなツテコネは無さそう……)
私は町内会行事に参加してロイの結婚を祝ってお嫁さんのお世話話をする運命ということだろうか。なぜ住み込み仕事なんて、と言われて失恋話をするのは嫌だ。話が広がるとロイの嫁は新婚早々とても気まずくなるから、私の恋心は知られていないのでこのまま誰にも言いたくない。
「どうされました? 本当はいざこざの時に恐ろしい事がありました? 話し難いことならこの時間なら女性兵官を呼べます」
「すみません。私的な事で今回のこととはまるで関係無いです」
「年頃のお嬢さんが泣きながら歩いていると変な男に絡まれたりしますので落ち着いてから帰宅しますか? それか部下に家まで送らせます」
「すみません。送迎は仕事の邪魔になるので落ち着いたら帰りま——……」
奥の部屋へ続く扉が開いてルキアが入室してきた。
「ここはどこかしら。家で寝ていたのに……あら、兵官さん?」
「おはようございます。ここは小屯所です。暑くなってきたので立ちくらみ後に具合が悪くなったと言うのでお連れして休んでもらっていました。少し横になれば大丈夫と言うので」
「そうでした。最近忘れっぽいし理解も遅いし困ったものです。嫁と買い物をしていたらそうなってしまって。優しい息子にすとてときなお嫁さんが来てくれたのに母親がこんなだと離縁されてしまうわ」
ルキアと目が合って「ごめんなさいね。帰りましょうか」と苦笑いを向けられた。
「奥さん、こちらのお嬢さんはお嫁さんなのですか?」
「ええ。帰りましょう……あらやだ。お嫁さんの名前も分からなくなるなんて。失礼だけど教えて下さる? それで帰りましょう。洗濯物を取り込んだり夕食を作らないと」
私は今のところ、こういう方と接したことはなくて。父の同僚の父親について軽い世間話で聞いたことくらいしかない。
「お嫁さんは買い物の続きがあると言っていました。息子さんが迎えに来ていますよ。少しお待ち下さい」
「買い物の続き? 何を買う予定なの? カゴはいっぱいに見えるけど」
近寄ってきたルキアは立ったまま私が手に持つカゴの中を軽く覗いた。
「イカ大根のイカです」
「この通りもう元気で魚屋なら帰り道だから息子は職場へ帰しましょう。ほら、なんだっけ。ほらほら。新しい注文が大変って言っていたでしょう?」
「息子さんは送りたいと言っていたので待っていて下さい。ケン、聞いていたよな? 第二面談室へ行って軽く説明をして呼んできてくれ」
「はい!」
少ししてルキアの息子セイが彼と一緒に去った兵官と共に部屋へ来た。
「母さん、帰ろうか」
「酷い顔よセイ。散歩なんてしたから具合を悪くして仕事中に呼び出しなんてことになってごめんなさい」
「大旦那さん達はずっと父上や母さんに世話になってきたからって言うてくれているから大丈夫。そんな顔をして謝らなくてええよ」
セイはとても優しい笑顔で母親の両手を取って軽く揺らした。
「私ったらせっかく優しいお嫁さんが来たのに名前を忘れてしまったの。私のせいで離縁されたらどうしましょう。長くないからって言って。それかほら、一度実家に帰って亡くなったら戻ってきてとか。大根が重そうだからカゴを持ってあげて」
「母さん。忘れてるんじゃなくて俺にお嫁さんがいるって方が間違いだ。長くないなんて誰も、お医者さんも言ってないよ。大丈夫。母さんには俺が居るから」
「……。いいえ。そんなことないわよ。私、お店で話しをしているのを見たことがあるもの」
「俺は作業場にいるからお店には出ないよ」
「……。そんなはずないわよ。あれよ。私のせいで離縁されてしまったのね。心配して来てくれるなんてうんと優しいけど……。ねえ、息子を見捨てないで助けて」
泣き始めたルキアに見据えられて私は途方に暮れつつ「助けて」という言葉に胸を打たれた。私こそ今誰かに助けて欲しくて悲しくてならない。
「あの、何を助けて欲しいですか?」
「見てこの手。私は疲れている息子にほとんど何も出来ないの。洗濯も裁縫も遅くてお金ばっかりかかってご飯も作れない。お手伝いさんは良い人だと思ったらあれこれ盗んだのよ!」
「行こうか母さん。泥棒した手伝い人は兵官さんが捕まえてくれて着物もお金も戻ってきただろう? 次はもっと慎重に選んで雇うから。母さんは家事も金も気にしないでええんだよ。家で好きな本を読むとええ。ほら、ルロン物語を読みかけだろう?」
「そうね。三人で魚屋に寄って帰りましょうか。今夜はイカ大根なのよ。お嫁さんが来てくれたからいつも私の味だったけど新しい味で嬉しいわね」
ルキアは私の買い物カゴを持ってセイに差し出した。
「そうですね。三人で魚屋へ行って帰りましょうか」
私はセイに近寄って目配せしてルキアから少し離れると、セイと共に兵官もついてきた。
「時間があるので家までお付き合いします」
「ご好意に甘えると良いです。相談の続きは家で聞きます。家の状況も知りたいですし近所の方々とも話がありますから」
「それはお願いします。しかしこちらのお嬢さんに迷惑は掛けられません」
「帰りたくなくてぷらぷら散歩していたところなので理由が出来て嬉しいくらいです」
「……そうなのですか?」
「お母上は私とルロン物語の話をしていたら落ち着いて座っていたりしそうですか?」
「ええ。ご近所さんにそのように頼んだりしていますので。そのように頼むので家までで大丈夫です。いえ、家までも……」
「ルキアさん。行きましょうか。魚屋の安売り前は値切り交渉に有利な時間です」
遠慮されそうなので私はルキアに話しかけて買い物カゴを受け取った。彼女は中をごそごそ確認したりはしないようだ。
「そうそう。そろそろそういう時間ね」
「今日のイカは高いでしょうか」
「高かったら味噌大根にして安売り魚のなにかかしら」
「そうですね」
こうして私はルキアと彼女の息子セイと「見回りへ行くので」と嘘をついた兵官二名と共に小屯所を後にした。
☆
彼女の母親が私をお嫁さんだと思い込んでいるし、息子のセイ・フルゲンは弱りきっているので私は自分の為にそこに漬け込むことにした。
隠れて文通していた元国立男子校生は華族で、縁談を始めた彼は家と家を結びつけるのに相応しい相手と心を通わせるようになったので私は失恋。そういうことにして、幼馴染が新婚だらけだから嫌だ嫌だ、辛くて死にたくなる、トト川の深くて流れが速いところへ行って入水するとゴネて、私は「住み込み使用人だなんて」と渋る親を泣き落として、フルゲン家の住み込み使用人仕事をもぎ取った。
世間体があるので親戚関係の家へ住み込みで手伝いに行く、という話になったけど町内会で私はお嫁にいったという人もいると幼馴染からの手紙で知ったけどそれならそれでも良い。
私はもう、ロイ・ルーベルがいる町内会へは極力帰らない。お嫁さんに嫉妬して既婚者に迫ったり、お嫁さんに意地悪なんてしたら最悪だから。
もしも、もしも他の誰かを慕うことが出来たら今度はもっと勇気を出すし、幼馴染にも相談して、誰にも知られずに終わるなんて事は無いようにしたい。




