16話
ロイが深夜1時に寝た翌朝。いつも通り起きて、いつも通り家事をして、7時の鐘が鳴る前に朝食。今日も間に合った。それなのにロイが現れない。
いつもは私が起きてしばらくするとロイは居間にいる。ロイは新聞を読み、その後走りに行き、素振りをし、庭で上半身を手拭いで拭いて着替えて朝食。
庭ではち合うと、筋肉質な上半身を朝日の下で見てしまって、なんだか夜のことを思い出して恥ずかしいことになるので、会わないように気をつけている。
義父はいつも朝食の少し前に起きてきて、その時にはもう着替えていて、朝食までか朝食中も新聞を読む。
「なんやあの子は。土曜に遊び呆けたり、しっかり起きるならならまだしも、日曜に遊び呆けて寝坊とは。リルさん、ロイを起こしてきて」
「はい」
遊び呆けるの意味を知りたい。いや、知りたくない。
結婚して約1ヶ月。ロイが朝起きてこなかったのは祝言の翌日だけ。しかしあの日のロイは休みだった。
ロイは8時の鐘が鳴る前後に家を出る。朝食をとって歯磨きをして出勤。
確かにそろそろ起きないと、朝食を食べて出勤が難しくなる。
寝室に入ると、ロイはいつも通り大の字で寝ていた。そろそろ寒くなったからか布団はかけている。でもはみ出てる。
夜のお勤めがご無沙汰なので、最近重たい思いや暑い思いをしない。
暑いのも腕が重いのもなんだかしんどいなと思っていたのに、無くなってみたら寂しい。また胸がキュッてなった。
まず雨戸を開ける。朝日で起きるだろう。しかしロイは起きなかった。微動だにしない。
(起こす……)
長屋では、寝坊すると誰かに蹴飛ばされて起きていた。
時間を知らせる鐘の音が聞こえる場所ではなく、いつもやることが終わったら寝て、早く起きた誰かに起こされる生活。
私はほとんど蹴飛ばされる側だった。基本は皆より先に起きていたけど、寝るのが遅くなると起きるのが辛くて。
私は蹴っ飛ばすなんて嫌いだから誰のことも起こさなかった。それでよく怒られた。なので、長屋でも人の起こし方を学んでない。
(旦那様を蹴飛ばしたらいけないよね……。そもそも蹴飛ばしたくないし)
卿家における人の起こし方を学んでいない。とりあえずロイの腕と体の間に腰を下ろす。
「旦那様、朝です」
起きない。
「旦那様、おはようございます。朝食の時間です」
起きない。
(触るの……恥ずかしい……)
立ち乗り馬車でロイの腕を掴む時と同じで胸の真ん中がドキドキ、バクバクする。ロイの浴衣がはだけているから余計に。
胸に手を置いて揺すろうと思い、ひとまず浴衣の前を合わせる。
(子どもみたいな寝顔……)
気持ち良さそうに眠っているから、起こすのが可哀想になる。
しかし、このままではロイは仕事に遅刻する。好きな時間に好きなだけ——貧乏だから本当は早起きするべき——働く竹細工職人の父とは違う。
ロイは決まった時間から決まった時間まで働く人。残業するのは仕事が出来ない証拠らしく、ロイがいつもよりかなり遅く帰宅すると義父が説教をする。つまり、遅刻も絶対に良くない。
私はこの重大な仕事を義母に任された。働くぞ。
「旦那様、朝です」
意を決して胸に両手を添え、体を揺すってみる。起きない。
「旦那様、おはようございます」
もう少し強めに揺すってみる。起きない。
「旦那様、朝食の時間で……」
「ん……」
起きた! と思ったらこちらを向いて横になっただけ。耳が上になって気がつく。大声は苦手だけど、耳の近くで声を掛けたら大きく聞こえるだろう。
「旦那様、朝です」
効果なし。肩に両手を置いてまた揺すってみる。またゴロンと動いたけどロイは起きなかった。また大の字。よほど深く眠っているみたい。
(起きない……)
義母に「すみません」と助けを求めよう。
(起きない?)
立ち上がったけど再び腰を下ろした。今度は少し離れた位置。
揺すっても声を掛けても、耳元で少し大きい声を出しても起きない。それなら……。
深呼吸をしてドキドキうるさい自分の胸の真ん中の音を無視し、そうっとロイの右手に触れる。
(起きない、よね?)
両手で右手を持ち上げる。それから少し強く握りしめる。胸がきゅうっと痛んだけど嬉しい。
(また手を繋いで散歩はしないのかな……)
昨日は誰を触ったのだろう。美人だろう。男の人は美人が好き。嫁は美人より他の条件?
自分は料理が得意なのと、義母と似て細かいことが好きなのを理解してきたので、ロイの嫁探しの条件の1つは「料理上手で友人知人に褒められる」ことだろうと思っている。
結婚お申し込みの日に調べたと言っていたから何をどうかは知らないけど調べたのだろう。
(それにしても起きない)
ロイの手を持ち上げて、頬に当てる。この手はいつまた私の頬を撫でてくれるだろう?
「リルさん?」
「……!」
慌ててロイの手を離す。起きた。全然起きなかったのに起きた。これがタイミングというやつ。このタイミングで起きた!
夜の最中くらい顔が熱くなる。
「おは、おはよ、おはようございます。朝です。もう朝食です」
少し震えて立てない。目がロイに釘付け。ロイは不審そうな目をしている。そうだよね。というか、私は一体何をしていたんだ。
ロイを起こす仕事をサボり、勝手に手を握り……狂った? これが恋狂い? やっぱり私はロイに恋してる?
手首を掴まれた。体を起こしたロイにグイっと引っ張られる。抱きしめられて、よいしょと言うように体をすくいあげられ、あぐらの上。この体勢や場所は初めて。
立てない。すっぽり抱きしめられ、足は畳や布団から浮いていて、まるで立てる気がしない。
頬を撫でられた。手が頬を包んで止まり、親指ですられる。嬉しい……。
「リルさんは頬を撫でられたいんです?」
耳元で囁かれて、身を捩る。吐息がくすぐったい。そう思ったら耳を舐められた。
「ひゃっ……」
「リルさんは耳が弱いですよね」
これは夜と同じ。いつもと順番が違うけどきっとこのまま耳を好き勝手される。
と、いうことは……と思ったら頬に当てられていた手が離れて着物の裾を捲って中に入ってきた。足に手が這う。
これが色狂いだ! ロイは仕事へ行くことを忘れている!
あっと思ったらキス。キスが1回、2回、3回……終わらないどころか、夜と同じ感じになって数えられなくなる。
やはりそうだ。ロイはなぜだか分からないけど色狂い中。仕事がありますよ、と伝えないとならない。それが嫁の仕事だ。キスは嬉しいけど、今は仕事をしないといけない。
「旦那さ……」
さま、を言う暇がない。キスが激し過ぎる。「旦那様朝食です」と「お仕事」と言いたいのに息すら大変。
「だ……」
膝の上で後ろ向きに座らされた。これも初めての体勢。ロイの両手が身八つ口から侵入してきた。
「旦那様、ちょう……。んっ……」
口を閉じないと変な声が出る。「朝食です」と言えなかった。胸も耳も好き勝手にされているから余計に。
「こっち向いて」
言われたら従……ってはいけない。色狂いなら夜のお勤めとは違う。することは同じだろうけど、いつもと何だか違う。
優先順位はロイの出勤。それから朝食。ご飯を食べずに出掛けて仕事なんて疲れるだろう。
「だ、旦那様……お仕事……」
追いかけてくる唇から逃げる。唇は逃げられても耳や首は逃げられないので無意味。
グイッと手で顔を動かされてキスされた。1回では終わらない。
「おし……ごと……」
「ん。まだ平気」
その時、スパーン! と襖が開いた。怒り顔の義母が仁王立ち。義母は腕を組んだ。
「遅い!」
ロイの手は止まったけど、まだ同じ場所。義母の前でこの姿。どこかに隠れたい。
「リルさん、来なさい」
「は、はい……」
初めて見る恐ろしい雰囲気の義母に固まる。ロイは無言。さすがに私の身八つ口からは手を離した。
「母上、2階にはあまり来んで下さい」
「ええ、そうしていますけど? そんなら出勤くらい自分達でしなさい。遊び歩いて寝坊して、朝から遊んで遅刻や無断欠勤など、そんな道楽息子に育てた覚えはありません!」
大きくないのに、静かなのに恐ろしい声。ロイは私を立たせながら、自分も立ち上がった。
「遊んでなんていません。少し飲み過ぎただけです。鐘が鳴ったら支度するつもりでした」
その時、カンカンカン、カンカンカン、カンカンと鐘の音が鳴った。8時だ。
「嫁が起こさなかったら深酒で寝坊ではなく? そんで、その鐘ですね」
入室してきた義母に手首を掴まれて連れていかれる。義母は衣装部屋に入ると「正座」と低い声を出して私の手を離した。慌てて座る。
「す、すみません。なかなか起こせず、起こせたのですが……」
頭を下げる。追い出されるかも。
「うちは卿家です。仕事こそ家。蹴り飛ばしてでも仕事に行かせなくてどうするのです」
蹴って良かったんだ。いや、いいの?
それにロイを蹴りたくない。でもそれが卿家の嫁の仕事。
「まあ、嫌々、待て待て言うても無駄だったんでしょう。ロイへのお灸です。リルさんはしばらくここで正座していなさい」
「はい」
衣装部屋の襖もスパーンと閉まった。怖い。嫁姑問題がついに勃発した。追い出される訳ではなさそうなので、それはホッとした。
「母上、リルさんに落ち度はありません」
「連帯責任です。ここんとこ何に拗ねたり不機嫌だったりしていたのか知りませんけど、喧嘩や仲直りは休みの日に終わらせるか仕事に影響しないように性根を鍛えなさい。1回目の出世も終わらん半人前なのに、もう1人前だと主張して嫁をとる言うたのは貴方ですよ」
「はい。すみません」
「嫁が早起きしてせっせと作った朝食をいらんとは可哀想ですね。いらん嫁ならかめ屋の次男に譲りますからね!」
譲りますからね! は雷が落ちたみたいに大きな声で恐ろしい声だった。祖母や母の怒鳴り声とはまた違う種類の怒鳴り声。
「早う仕事に行きなさい。以後気をつけるように」
「はい。母上。すみませんでした」
「もたもたしていると遅刻しますよ」
「はい」
かなりしばらくして、階段を降りる音がした。トトトトトと階段を降りる音。この速さはロイだろう。義母はこんなに早く階段を降りられない。
(喧嘩や仲直り? 私達、喧嘩していたの? 旦那様が拗ねたり不機嫌? そうだっけ? いつから? 昨日? 昨日私が何かした?)
昨日は一緒に出掛けて、ヨハネと合流して、楽しくお喋りして帰ってきた。
ロイはいつものように優しくて「季節物で栗もありますよ」とすすめてくれて、沢山お礼を言った。
(1回目の出世も終わらん半人前なのに、もう1人前だと主張して? 結婚の時期が合ったんだよね?)
頭の中で疑問符がくるくる回る。
怒らせたり機嫌を損ねるようなことをした記憶はない。でもそうか。拗ねたり不機嫌だから出掛けて夜中まで帰ってこなかったんだ。
遊んでなくて飲み過ぎた。お酒を飲んでいた? どこで誰と?
(かめ屋の次男に譲りますからね? そうなの? かめ屋の次男って……)
ギルバート。厨房で料理や飾り細工を教えてくれたかめ屋の板前。
義母は優しいから私を家から追い出すか、ロイや義父に追い出されることになった時の働き先を根回ししてくれている?
でもロイは余程のことがない限りと言ってくれて……。襖がスッと開いた。
「リルさん、あなたロイが出掛けてしばらくしたらいつものように家のことをしなさい」
「はい」
「それでロイが帰って来る前にここに戻って正座しなさい」
「はい」
「それから、朝から座っていましたと言いなさい」
「嘘をつくのですか?」
「そうです。厠と食事は許されましたと言っておきなさい。少しは反省するでしょう。なので夕食は私が作ります」
「はい。すみませんがお願いします」
また襖が閉じた。今度も静かでホッと胸を撫で下ろす。
いってまいります、というロイの声と玄関扉が開いたり閉まったりする音を聞いたので立ち上がる。
1階に降りて居間へ行く。朝食の続きと後片付けがある。
「リルさん、ゆっくり食べなさい。ロイは慌ててかき込んで、それから伝言を残していきました」
ロイの朝食がほんの少しだけ減っていた。
「伝言ですか?」
「夕食とは別に全部食べるのでこのままにしておいて下さい、ですって。嫁の作った朝食はいらん、では無いようです。夜の片付けを増やしたので手伝うと言わなかったら、しばらく離れに放り投げます」
「あの……」
「なんでいびりたい嫁を庇わんといけないのですかね。全く。しっかり育てたつもりだったのに、これだから男は」
はあ、とため息を吐くと義母は「今日は調子が良いから家前の掃除をしてきます」と居間から出て行った。
台所へ行って手拭いを濡らしてロイの朝食にかけておく。
いつもと違う朝からいつもと同じ日中へ。
夕方、義母が夕食を作るのを手伝い、お風呂の準場を済ませた後に衣装部屋へ行って正座。
今日の帰宅は義父の方が早かった。その後ロイが帰宅。いつもの「ただいま帰りました」はなくて「帰りました」の大声とドタドタという足音に階段を駆け上がってくる音。
「リルさん!」
「旦那様、おかえりなさいませ」
衣装部屋の襖がスパンッ! と開いたのでびっくりしたけど、3つ指ついてご挨拶。
ロイは鞄を畳の上に放り投げて、私の前に滑るように膝をついた。
「リルさん、朝からこのままです?」
「はい。厠と食事は許されました」
本当は午後から義母がトイング家に行き、15時頃迎えに来てと言われて迎えに行き、なぜかお邪魔することになり、一緒にお饅頭を食べた。おまけに孫の2人にカルタ遊びを教わって楽しんだ。
「すみません。自分がしっかりせんからこういうことに」
「いえ。蹴り飛ばしてでもお仕事へ行っていただくべきでした」
これも義母の指示。
「気を引き締めてリルさんに迷惑をかけないようにします。半人前と言われないようにします。仕事も同期より早く出世します」
そう言うとロイは「母上と話してきます」と部屋を出ていった。
(旦那様、お義母さんの言ったとおりの事を言った。母親ってすごい? うちのお母さんは特にこういうことは何にも言わなかったけど。これが卿家の母親の指導法……)
また勉強ということだ。しばらくして義母とロイが来て、義母は「もうよろしい」と私を立たせた。足が痺れたフリをしとけと指示されていたけど難しい。
この夜、ロイは「今夜のリルさんの仕事は全部自分がします」と言って、離れに放り投げられることを免れた。本人は知らない話。
そして……反省したようでしてないのか、ロイはこの夜私を抱いた。同じことをするから、色狂いなのか夜のお勤めなのか分からない。
結局何に拗ねて、不機嫌で、どこで誰と深酒したのか謎のまま。
旦那様に恋しているかもと自覚したからか、まるで痛くなくて、暑くても重くても朝まで抱きしめて寝て欲しいと思った。
ただ、色々なことが少しずつ長かったので疲れて眠い。




