15話
結婚3週目の日曜日。ロイとヨハネと3人で南1区の西風甘味処へ行き、私とヨハネはパンケーキを食べた。ロイはコーヒーだけ注文。
パンケーキは素晴らしい。ふかふかした食べ物で、バターのほんのりしたしょっぱさと、シロップの甘さが絶妙。
しかもロイが「季節物で栗もありますよ」とクリームと栗が乗ったパンケーキを頼んでくれた。ヨハネも同じものを頼み、彼も初めてパンケーキを食べたと言うので、パンケーキの褒め合いで大いに盛り上がる。
その後はトゥルンバやチャイの話に花が咲いた。知っているかと思って聞いたけど、ヨハネは東風菓子を食べたことがなかった。
「少し失礼します」とロイが席を立った。厠だろう。品のある人は厠へ行く、とは言わない。かめ屋で習ったし、嫁いでから何度も見た。
「ロイさんは甘いものを全く好まんのに、よくこの店を知っていましたね。というより、よく予約が取れました。自分は諦めていましたのに」
「友人に聞いたと言っていました。甘いものを全く好まんのです? 金平糖は食べて……いえ」
あれは多分キスの悪戯ついでだ。それも色狂い?
キス、と心の中で呟いて気持ちが沈んだ。ロイは私に何もしなくなった。これがクララの言う、最近ご無沙汰というやつ。
抱かないとキスやらなにらやも無いらしい。すこぶる残念でならない。立ち乗り馬車で、倒れないようにロイの腕を掴めたのは嬉しかった。
「金平糖ですか? ロイさん、アメやら絶対に食べんのに」
「そうなんですか? 祝言の翌日に買ってきてくれて……一緒に食べました」
あんな風に食べたとは思わないだろう。思い出したら顔が熱くなってきた。それに、唇もなんだか歪む。
「ほう。ええですね。苦手なものより縁起担ぎですか」
「縁起です?」
「ええ。金平糖は作るのに時間がかかりますでしょう? 月日を重ねて夫婦円満、良い家庭を築きましょうとか、棍棒みたいなので鬼祓いの意味もあるので、この祝言が穢れませんようになんて言うそうです」
それは知らなかった。嬉しかったけどさらに嬉しくなる。なんて素敵な贈り物。
ヨハネがふふっと肩を揺らす。それから「あのロイさんが、そうですか」とさらに笑った。
「良いことを教えていただきありがとうございます」
「他にも良い意味があるので、誰かに聞いてみると良いですよ」
「そうなんですか? 聞いてみます。金平糖はどこで売っています? お店の方に聞きます」
「茶菓子屋なんかですね。南3区だと……そうだ。さっき話していたランプいう店に案内してくれません?」
「はい」
「来月頭に母上が茶会をするので、差し入れか手土産に良いお茶菓子を探していまして。いつもこの辺りの店ばかりなので、たまには別のところへ行きたいです。かめ屋の近くに茶菓子屋が何軒かあったかと」
「はい」
来週の日曜日に行く、という話になった。14時に停留所で待ち合わせ。
自分で時間を作りなさい。用事が出来たら事前に知らせる、だから約束出来る。
「そしたら都合が悪くなったらロイさんを通して教えて下さい」
「はい」
「ああ、来週はロイさんは出稽古日ですね。奥さんと2人はアレですし……、どなたかご近所の女性を誘ってくれますか? 甘いもの好きの知人はいないので」
ベイリーは? と言いかけて「女性か」と口をつぐむ。クララに声を掛けてみよう。それかジル。私には女性の知り合いはそれしかいない。
妹達にごちそうしたり、身なりを整えて連れて行くお金はない。そういうことをしないように義母に言われている。私はルーベル家の嫁で、格の違う実家とは縁切りに近いかららしい。
確かに「帰ってくるな」と縁切りされている。
「はい。誰かお誘いします」
「そうですか。ありがとうございます。いやあ、楽しみです。トゥルンバか。東風菓子について下調べしておきます」
「お品書きを見てもサッパリでした。私も時間があれば本屋で……」
テーブルに影が落ちたので顔を上げる。無表情気味、少し眉間に皺を寄せたロイがパンケーキを眺めている。
「うお、ロイさん。戻ったなら席に座るなり声を掛けて下さい」
「いえ。楽しげだったのでこう、タイミングが」
タイミング。今日の新しい言葉。間とかそういう意味だろう。
「次はトゥルンバを食べに行くんです?」
ロイが着席した。自分は甘いものを好まないから気が乗らないのだろう。
「大丈夫です。旦那様、来週の日曜日に行きます」
「来週の日曜日です?」
「ロイさんは出稽古ですよね。14時に迎えにいきます。夕食前にはお帰しします」
「ヨハネさん、それなら家で夕食をとっていかれます?」
「久々にロイさんのお父さんやお母さんとお話したいですし、お願いします」
「父や母に伝えておきます」
ロイは無表情になった。コーヒーを飲むだけで感心してしまう。伸びた背筋とか、動きとか、手や腕の角度だろう。
その後ヨハネと再びパンケーキの良さを語り合い、どうやって作るのか首を捻り、食べ終わって店を出た。
ヨハネと別れて帰路につく。今日のロイはあんまり喋らない。行きの立ち乗り馬車と同じように、ロイの腕を掴むとなんだか胸の真ん中がきゅうっと痛くなった。
まただ。最近時々こうなる。時間は何も関係ない。朝だったり、昼だったり、夜だったり色々。昼は少ない。
「リルさん? どうしました?」
「いえ、何でもありません」
胸が痛い。病気だったら困る。病気では追い出されない。でも、役に立たないのは忍びない。優しいから心配してくれそうなので、心配をかけたくない。
のんびり歩いて家に帰ると、ロイは「少し出掛けてきます」と玄関前で背を向けて、元来た道を引き返した。
時間がかかるのに家まで送ってくれたのだろう。私は家に入り、挨拶をして、着替えてから義父と義母を探した。義父、義母から返事はない。
義母は寝室で横になっていた。襖の隙間から覗いたら、目が合って、義母は体を起こした。
「リルさん、ちょっと」
「はい。お義母さん、具合が悪いです? さすったり揉んだり温めたり何かありますか?」
「昼寝をしていただけです。でもそうね、足湯をしたいわ」
「はい。すぐに用意します」
準備をして寝室に戻ると、義母は鏡台の椅子に座っていた。足元に平桶を運ぶ。
元気が出れば良いと思って、夕食の飾りに使おうと思った銀杏の葉をいくつか浮かべてみた。
「リルさんはこういう時にも粋なことをしてくれるのね」
「粋? ですか?」
「気が利くとか、そういう意味です。調べてみなさい」
「はい」
「お父さんがご近所さんを呼んでクロダイの魚拓を披露するなんて言うから、しんどいフリをしました」
クスクスと笑うと、義母は平桶の中に両足を入れた。
「疲れそうで嫌な時は、そういうことをすると良いです」
そうなの?
「まあ、あなたは新米嫁ですから、基本は何でもこなしてもらいますよ。仮病は見抜きますからね」
「はい」
義母は私の頭を軽く撫でてくれた。やはり優しい。嫁姑問題は全然勃発しなそう。
来週の日曜日にまた出掛けること、その為に今週と同じように家事をつめること、ヨハネが夕食をこの家で取ることを報告する。
「リルさん。あなたそんな安請け合いして」
義母に睨まれた。少し怖い。
「安請け合いですか? すみません」
「その女性をって、簡易見合いの仲人を頼みますってことですよ。あれかしら。ロイが、友人が結婚したから自分もそろそろ少しずつ縁談に向けて動くということですかね」
「そんな意味があるとは知らずにすみません」
「知らないと分かっていて頼んだんでしょう。そいで、私に選んで下さい言うことでしょうね。ヨハネさんか。あの家はうちより華族に近いし……」
義母が顎に手を当てて俯いた。
「まあ、考えて根回しします。男性と話す練習をさせたい家もありますし、ヨハネさんの家柄なら是非引き合わせて欲しいも……面倒です。もう少し人気のなさそうな人なら良いのに気苦労が増える」
「すみません」
「嫁が良いから頼もうとは誉です。あの家なら他にも何人も仲人を頼むでしょうし、気軽っちゃ気軽ですね」
そういうものなのか。ロイと私には仲人なんていなかった。
「まあ、勝手に探してきて決めることもありますけどね」
ペチン、と義母は私のおでこを軽く叩いた。優しい手つきだけど少し睨まれた。この意味はなんだろう。
勝手に探してきた……私を探してきたのはロイ。聞きたいけど聞けていない、なぜ長屋娘の私なのかという話。
日に日に聞き辛くなっている。ロイの中の「嫁の条件」にたまたま合った。
それを、なんだか彼の口から聞きたくない。考えると胸がキュッてなる。
「ポカンとした顔をして、いつかあなたも仲人をするかも知れないんですよ。私のように子どもの友人に頼まれたりです。母親に似たら何人産むやら。仲人について勉強しときなさい」
「はい。調べます」
「急がんことだから、色々な家の奥さんや嫁からゆっくり教わりなさい。家ごとに少しずつしきたりや考え方が違います」
「はい」
洗濯物は? と聞かれて慌てて立ち上がる。その日、ロイの帰りは遅かった。義母に先に風呂に入って寝てしまいなさい、と言われるほどに。
夕食もとらず、夕食を要らないと告げずに、どこへ行って何をしているんだろう。
花街、遊女、芸者の言葉が頭の中をグルグル飛び交うものだから、早く寝よう、早く寝ようと先に布団に入って目を閉じた。しかしロイが布団に入る気配がするまでまるで眠れず。
カン、と午前1時の鐘の音が聞こえた。




