89 . 愉快な難解人たち
「おや。楽しそうなことしてるね」
タイミングを見計らったかのように居間の扉が開いた。
「…げっ、父さん…」
「こんばんは、明成さん」
「やあ。私を探していたんだってね。ちょうど空けていて悪かったね」
やってきたのはここにいる兄弟たちの父親であり、千景の目的の人物。
その表情はいつもより割り増しで穏やかに見えた。完全に親の顔だ。
これは、つい先ほどまでの三人の会話を聞いていたとみて間違いない。
ぽん、と冬真の頭に手を置いた明成は思春期の息子に振り払われる前に手早く離し、その隣に座った。
咄嗟に文句を言おうとした冬真の睨みも笑顔ひとつで宥める。温厚そうに見えて、というか実際に温厚なのだが、やはり父親は最強だった。
「あ、これ。ありがとうございました」
「お役に立てたようで何より。千景ちゃんなら好きな時に使ってくれて構わないからね」
「どーも」
明成に本殿の鍵を返す。
本殿含め、御津前神社の敷地はわりと頻繁に使わせてもらっている。
以前、合鍵でも用意しようかと、此処の主人である明成から提案があったのだが、それは丁重に断らせてもらった。
親しき仲にも礼儀あり。
あくまでも千景は部外者だ。もちろん鍵をもらったとしても好き勝手に使うつもりはまったくないが、使用許可とその旨は毎回伝えるのが礼儀と誠意だ。
それに、鍵の貸し借りを毎回行うことで明成と顔を合わせる機会も増える。
こういう対面で言葉を交えたコミュニケーションは大事だと思っている。
いつものごとく夕飯に誘われたが、今日は遠慮させてもらった。
店番も家事もすべて押しつけてきた万能人間がきっと夕飯も用意してくれているはずだ。
ずぶ濡れの状態で一度家に帰った時はカウンターで専門書を読んでいた。
ちらりと寄越された視線から、もしかしたら千景の変化には気づいていたのかもしれない。
その場は何の状況説明もせずにまた外出した千景だったが。
彼にはこちらの状況を教えておく義務がある。
ということで、今日は早いとこ帰宅することにした。
万能すぎる同居人こと煉弥が作ってくれた夕飯で腹を満たしたあと、洗い物だけは千景が請け負った。
今晩の献立はチキングラタンとミネストローネ、ポテトサラダ。
煉弥は見た目ががっつり和風男子なので和食のイメージがあるが、実際は和でも洋でも何でも作る。出来は言わずもがな文句なし。
人に教わるとは考えられない無愛想人間で、料理にも興味はなさそう。
なのにこれほど高性能なこの男はいったいどこでそんなスキルを身につけたのだろうか。
聞けばたぶん教えてくれるが、それを問うたことはなかった。
色々やってくれるんだからまあいいじゃない、と。
「…けほ…けほっ…」
シンクを綺麗に片付け、コーヒーを淹れる。
ついでに冷凍庫からアイスも取り出せば食後の至福のひとときに突入だ。
「ああ、そうだ。言い忘れてたけど。私、呪力戻ったから」
「今さらだな」
口内の冷たい甘さを苦いコーヒーで中和しながら、千景は思い出したようにそう言った。
あれほど煉弥に話そうと思っていたのに家に入った途端のいい匂いに空腹が刺激され、今の今まで忘れていた。
千景の内的変化にはやはり煉弥も気づいていたようだ。
なんの驚きもなく淡々とリアクションを返された。
一般的に、術師であろうと他者の呪力量やその変化までを窺い知ることは難しい。
故に、一般人か術師かの区別はしづらいとされている。
もちろん術師の中には感知に優れた人間もいる。
例えば西園寺閑であったり、市松真耶であったり。
しかしながら、そういった術師の数は非常に少ない。
多くの術師にとっては、己以外の術師が本当に術師かどうかは、実際に呪術を扱うところを見るまでは確証が持てない。
だからこそ感知タイプの術師は様々な場面で重宝されている。
煉弥がどういったタイプの術師なのか、まだわからないことも多い。
けれどもまず間違いなく感知には優れていると断言できる。
今思えば、千景との初対面時に朱殷と銀のことを容易く見抜いていた。
あれは直感や雰囲気からの推測も多少は混ざっていたのだろうが、霊体特有の霊力や瘴気を的確に感じ取り、確かな裏付けを伴った発言だったのだろう。
煉弥は他にも、調伏系や護身系など、幅広い呪術を扱う。
こういうのをまさにオールマイティーというのだろう。しかもその全てにおいてレベルが高い。
なるほど確かに”天才”と呼ばれるに相応しい。
千景の呪力が戻ったことにも気づいていたようだ。
普段近くにいるだけにその変化に気付きやすかったというのもあると思うが、そもそも自力で気づける時点ですごいのだ。
「それで。全快したのか?」
「んー、たぶん元の呪力量までは戻ったと思う。呪力の性質も変わってないみたいだし、使える呪術も変化なしってかんじかな。まあ、色々試してみないと詳しいことはわかんないけど。お前から見てどう? なんか変化あるっぽい?」
「俺に訊くな。そもそも呪力があるお前を詳しく知らねえ」
「ああ。そりゃそうだね」
思い返してみれば納得だ。
千景が胸を張って術師を名乗れる状態で煉弥に会ったのは、それこそ初対面時だけだ。しかもほんの数分という短い時間。
それ以降、本格的に二人が関わり始めた時にはすでに千景に呪力はなかった。
千景は未だに煉弥の呪術や力量を詳しく知らない。
けれどもそれ以上に、煉弥も術師としての千景を知らなかった。
本人の言動から、呪術に造詣が深く、実力者であることはわかる。
だが、それはあくまでも煉弥の推測の域を出ない。
如何せん、それを確かめる機会がこれまではなさすぎたのだ。
千景の人間性はある程度理解している。
では、千景はどの宗派の呪術を扱い、どういった呪術を得意としているのか。
実はひっそりと、千景の呪力が戻る時を煉弥は待っていた。
それと同時に。
その時が来るということはつまり、二人の関係性の終了を意味する。
「なら、俺は出て行くべきか」
ノリとタイミングで始まった、本来交わることのなかった可笑しなこの関係。
その全ての根底にあるのが『利害の一致』だ。
千景は呪術が使えない。
煉弥は身を置く場所がない。
それぞれの問題点を補うべく提案されたのが、現在の同居生活だった。
千景は居場所を提供し、その対価として煉弥は呪術を提供する。
そうした互いの利害が一致していたからこそ成り立っていたものが、千景の呪力が戻った今、ギブアンドテイクの関係性は崩壊したと言っていい。
ならば、与えるものがなくなった煉弥が出て行くのが自然の流れというものだ。
ただ、そんな淡白を極めた利害関係など、この時点ですでに意味をなしてはいなかった。
もっと別の理由に拠る確かな繋がりが、すでに二人の間には構築されているのだから。
「行く当てはあんのかい?」
「ねえな」
考えるまでもなく煉弥は即答した。
それを聞いて、千景もへらりと笑った。
「なら仕方ないね。もうしばらくは此処に置いてあげるよ」
「いいのかよ」
「てか。呪力云々以前に、お前がいないと家事要員が減ってこっちも痛手なんだよ」
それは果たして本音か建前か。
これまでの数ヶ月で煉弥も気づいていた。
千景はごく自然に、本音も偽りも全て本心であるかのように言葉を回す。
千景の言動は言葉遊びそのものだ。誰に対しても決してその心の内を晒さない。その本心を探させない。
基本的に緩くて、しかし時々言葉遣いが悪くなる口調から千景の真意を読み取るのは骨が折れる。
そもそも現状ではそれをするだけの相互理解に欠けている。
だが、今はそれでよかった。
嫌ならきっぱり断りそうな千景が、どんな形であれ『まだいていい』と言っているのだ。
ならばここはそれを本心と受け取っていいだろう。
(…なーんて、思ってんだろうなぁ…)
目の前の無表情の男を見て、千景は余すとこなくその心境を読み解いていた。
相手は煉弥だ。目に見えて動いた感情もなければ、読み取れる表情もない。
これはただの想像で、直感だ。
けれども間違ってはいないと思う。
千景は自分の言動が他者にどう受け取られるのかを理解している。
ともすれば信用ならない人間と判断されても可笑しくないことも自覚している。
そう思いたい奴には思わせておけばいい。
それを知った上で、千景を信用するような物好きもいるのだ。
現に、おそらく煉弥も千景にある程度の信用を置いている。
そうでなければ、こうしてよくわからない相手の元に居候などしないだろう。
とことん難解で厄介な人間。
彼は千景をそう思っているのかもしれないが、それはお前も同じだと声を大にして言ってやりたい。
煉弥も相当に難解だと、きっと本人も自覚しているだろうから、そのまま愉快な人間でいてもらいたいものだ。
「悪いな。助かる」
「よく言うねえ。追い出される可能性をちらりとも考えてなかったくせに」
「知るかよ」
もうしばらくは退屈しなくて済みそうだ、と。
それぞれがそれぞれに思いを巡らせた───。