88 . 視えない高校生の苦悩
◇ ◇ ◇
ひやりと冷たく、静謐とした空間。
穢れが入り込む隙のないこの場所は心地がいい。
中央に座す千景はするりするりと紙に筆を走らせる。
時折、紙が擦れる音がするだけで、終始無音のまま時だけが刻まれていく。
伏せた視線は手元に落とされる。
長方形の紙に複雑な文字と符号を描く筆の動きに迷いはない。
参考資料も手本も必要とせず、脳内に留めた記憶を、そのまま紙に写していく。
一文字一文字に念を込め、一枚一枚丁寧に書き上げる。
呪力が戻った千景が、まず真っ先に尋ねたのが『御津前神社』だった。
目的はひとつ。
すでにストックが底をついていた護符を作るため。
正直、自宅でもどこでも護符は作れる。
しかし気持ちの問題として、千景は護符などの御守り関係は神社のような神聖な場所で作るようにしていた。
だからその際に、千景はいつも御津前神社の本殿を貸してもらっていた。
参拝客のいない夕方過ぎ。明成からの快諾も受けている。
ある程度の枚数を仕上げたところで筆を置く。
トントン、と紙の端を合わせ、その出来にひっそりと満足した。
ぐぐっと伸びをすれば、至るところで凝り固まっていた関節が音を鳴らす。
腰元からは何やら這い上がってくる感覚。
朱殷がいつものように巻きついてきていた。
護符を作るときだけ、朱殷は千景の体から離れる。
邪な存在から身を守るための御符を作るのに邪な存在が近くにいては意味がないとでも思っているのだろうか。
朱殷がそんなことを慮るような白蛇でないことは百も承知だ。
きっと何かの気まぐれが発動しているだけだろう。
もうひとつ気配を感じて振り返ると、琥珀の瞳がこちらに向いていた。
なめらかな体毛の白狐。
千景が護符を作り始めた時はいなかった。
知らぬ間に戻ってきていたらしい。
片手を伸ばして招き寄せればすりすりと手のひらに頬がすり寄せられた。
日も落ちかけた外は薄暗い。
手元の燭台の火だけがゆらりと揺れる。
他の明かりをつけていたなかった本殿内も気づけば暗くなっていた。
「………けほっ…」
千景は机に広げてあった道具一式を片付け、外に出る。
本殿の扉の鍵を閉めて外の空気をいっぱいに吸い込んだ。
日中に降っていた雨もすっかり上がっている。
今夜は綺麗な星が見れそうだ。
「こんばんはー」
「あら、いらっしゃい千景ちゃん」
鍵を返すために笠倉家にお邪魔すれば、まずは瑞紀に出迎えられた。
エプロンをつけてニコニコ笑う姿に今日も癒される。
「明成さんいますか?」
「たぶん居間のほうにいるはずよ〜。ゆっくりしていってね」
「どうも」
チャリチャリと片手で鍵を転がしながら向かった居間に、しかし明成はいなかった。
けれどもその代わり、笠倉家の息子が二人、テレビを見ながらケラケラ笑っていた。
「お邪魔しますよー」
「んお、チカか。もういいのかよ」
「うん。どーもね」
一人は言わずもがな。
笠倉家の長男、志摩だ。
最近はなんだかんだあってあまり顔を合わせていなかったように思う。
懐かしい、というほどではないが、久々に眩しい金髪を見た気がする。
そしてもうひとり。
「あ、千景。久しぶり」
「はいはい久しぶり。あといつも言ってるけど呼び捨てにすんなよクソガキ」
笠倉冬真。
現在、高校生を謳歌している思春期真っ只中の次男坊だ。
明成と瑞紀の血を引いているだけあってさすがに綺麗な顔をしている。
ここの兄弟は三男だけやや系統が違うが、志摩と冬真は似ている。と、勝手に千景は思っている。
「明成さんは?」
「親父ならさっきまでいたけど……そういやどこいった?」
「フラッといなくなんのはいつものことでしょ。境内にでも行ったんじゃねえの」
「入れ違いになっちゃったかー」
やや間が悪かったらしい。
とりあえず明成が戻ってくるまで待たせてもらうことにした。
その間に、今しがた作り終えた出来立てほやほやの護符を数枚、志摩に渡す。
千景が呪力を失っていた間は紫門にもらった護符や煉弥に作ってもらったものを渡して繋いでいた。
志摩自身も、いつも無遠慮に頼っていた千景が無力化したことで、多少のことでは相談しづらくなっていたかもしれない。
ひとまずこの数ヶ月の間に志摩に大きな被害がなくてひと安心だ。
「不便かけて悪かったね。また普通に頼ってくれていいから」
「ん。サンキュ」
志摩は千景から受け取った護符を懐に仕舞う代わりに、別の符を千景に渡す。
二人にとってはすでにお馴染みの黒く染まった護符だ。
今回も派手に霊障を被ったらしい。
今までは千景が作ったものしか渡したことはなかった。
だから、ここまで霊障を受けるのは千景の呪力と関係があるのではないかとか、もしそうだったら申し訳ないなとか、いろいろ思った時期もあった。
しかし今回は呪術界でも屈指の術師である紫門と煉弥が呪力を込めた護符だ。
にも関わらず、こうしていつも通り黒く染まっている。
ということは、きっともう誰が作ろうと関係ない。
志摩の引き寄せ体質の前ではどんな護符も消耗ペースは段違いということだ。
「…………」
そんな兄と千景のやり取りを、ジトっとした目で見ている青少年がひとり。
千景と志摩がオカルトチックな話をするのはいつものことだ。
そして、それを冬真がジト目で見ているのもいつものことだ。
「お前も相変わらずだなぁ。胡散臭げな目なんかしちゃって」
「胡散臭いと思ってるから」
「視えるようになればわかるよ」
「それは一生お断りなんだけど……」
笠倉家で霊が視えるのは志摩だけだ。
両親も、弟たちも、視える人間はいない。
明成と瑞紀は幼少期から志摩を見てきただけに、いろんなものが視えてしまう志摩の苦労を知っている。
だから彼らは、視えないながらも霊の存在は信じているし、術師だという怪しさ満点の千景の言動も真実としてすべて受け入れている。
しかし冬真の場合は半信半疑だ。
たぶん霊が視えるという志摩と千景のことを半分くらいしか信じていない。
すべてが虚言だ妄想だとするほど全否定はしないが、やはりそんなものいるわけないじゃないかとは思っているのだろう。
これが視えない人間のいたって普通の反応だ。
オカルトなんて所詮はただの作り話。
ましてや完全に二次元に足を突っ込んだ発言をする千景なんて、きっと冬真の中ではただの厨二病患者だ。
一般的に見れば大人びている冬真もまだ十七歳。
自分の知らない世界観を達観できるほどの経験値はなくて当たり前だ。
「これってよく陰陽師とかが持ってるやつだろ。マジで効くの…?」
ただ、興味だけは津々らしい。
「だから視えるようになればわかるって。なんならお前にもあげよっか」
「いやいらねーし」
口でも本心でも信じていないことは確かだが、こんなにも間近でゲームやアニメの世界観の話をされれば、純然な男子高校生ならば興味は持つものだ。
「まあ、お前も志摩とおんなじ血が流れてるわけだしね」
「いつか視えるようになるかもな」
「……マジで勘弁して…」
信じていない上にそんな話をされたところで現実味はまるでない。
しかし冬真にも思うところはあった。
兄や両親がこういう嘘をつくような人間でないことは知っている。
まだ数年の付き合いの千景が、こういうしょうもない作り話をするような人間でないことはわかっている。
もしも、もしも本当に、二人が視える人間だとして。
兄たちが交わす霊に関する話は幾度となく耳にしてきた。
いつも胡散臭いと思いながら聞き流していたそれらが、もしもすべて事実だったとして。
そんな世界がいずれ自分の目にも映ってしまったら。
そう思うと、確かな恐怖も感じてしまう。
可能性はゼロではない。
父親は神職。兄は霊感持ち。
だったら自分にだってそういう資質はあるということだ。
決してすべてを信じているわけではないが。
いつか来るかもしれないその時を、冬真はずっと怖いと思っていた。
「───大丈夫だよ」
ポンポン、と冬真の頭に手が乗った。
「大丈夫だから。そんなに心配そうな顔しないでよ」
「……、…」
冬真の心情をひとつひとつ解きほぐすように。
千景のてのひらが柔らかく冬真の頭を撫でる。
千景の笑みに一瞬気を取られた冬真は、しかしすぐさま手を振り払った。
気恥ずかしげにそっぽを向いた耳はほんのりと赤く染まっていた。
「………べつにンな顔してねーし…」
「ふはっ、不安でたまんねえって顔してんぞお前」
「うっるせえなクソ兄貴」
「あはは、高校生は楽しいねぇ」
「…千景も黙ってろよ…」
ここぞとばかりにケラケラ笑う年上二人からの揶揄いに、冬真はぐぐっと顔を顰めた。
たった三歳。
されども三歳。
学校では落ち着いているだの大人だだの言われる彼も、何かと人生経験豊富な二人の前ではただの年相応な高校生でしかなかった。
仏頂面をつくる冬真だが、もうそこに不安な表情は見当たらない。
口ではなんと言おうとも、冬真にとって志摩と千景は頼れる存在だ。
本気で助けを求めれば、きっとすぐに手を差し伸べてくれる。見捨てるなんてことは絶対にしない。
面と向かって助けてと言えるほど素直な人間ではないけれど。
それでもこうして二人が近くにいてくれるだけで、随分と気持ちは楽になる。
頬杖をついてさりげなく隠した口元を、冬真はゆるりと綻ばせた。




