81 . 悪霊狩り〈十〉
悪霊が飛び退いたことで物理的にも精神的にも身体が軽くなった千景の視界に、今度は見慣れた美丈夫が映り込んだ。
太陽の光にすら溶け込まない漆黒の髪が風に吹かれ、綺麗な青玉が嵌め込まれた目元を見え隠れさせる。
その青玉に宿るのは呆れの一色だった。
「だから遊ぶなと言っただろうが」
「あは、ごめんね」
差し出された手を取れば、強い力で引っ張り起こされた。
なんだか首元がもの寂しいと思ったら朱殷がいない。
いつのまに移動していたのか、少し距離を取ったところで悪霊を締め上げていた。
自分から動くなんて珍しい、と思いつつ、そうやって動きを封じてくれているのは有り難い。
「体は」
「大丈夫。あんがとね」
服についた汚れを払い落とす。
若干の草と土ぼこりがパラパラと舞う。
「いやぁ危なかった。もう少しで取り憑かれちゃうところだったね。それもそれで面白いけど」
「………」
「うそうそ。冗談だってば」
今回アソビ過ぎた自覚は本人にもあった。
千景が万全の状態であったならまだしも、半人前とすら言えないこの状況下でアソビ相手に選ぶにはややリスキーな相手ではあった。
とはいえ煉弥が止めに入るだろうことはわかっていたし、実際こうして助けてくれた。
ただ、彼は果たして誰を止めるべき対象として認識していたのか。
それには言及しないでおこう。
先ほどまであれほど余裕をかましていた悪霊も、朱殷に自由を奪われ、地に這いつくばることしかできなくなった状況にさすがに焦りと怒りを覚えている様子。
暴れど暴れど朱殷の拘束が緩むことはない。
それも当然のことだ。
仰々しくも『Sランク』と格付けされている悪霊だが、”悪霊”としての常識の範囲内でしかない奴と、白蛇の皮を被った”化け物”とではそもそもの格が違う。
暴れる悪霊を問答無用で押さえつけてくれているのはいいが、果たして朱殷の気まぐれがいつまで続くのか。
移り変わりやすい白蛇の気が変わらないうちに片付けてしまうのが賢明だ。
だがしかし、厄介事というのは次から次へと転がり込んでくるのが天の定め。
むしろ天に目の敵にされているとさえ思う千景の元には、殊更強く、嫌がらせなのではと感じるほどに転がり込む。
「───おい。そこの女」
長く深い溜め息を吐きたい気持ちを千景はぐっと堪えたのだった。
庭の真ん中で、Sランクの悪霊がいて、七々扇煉弥がいて、得体の知れない女と白蛇がいて。
ただでさえ注目を集める要素で溢れかえっているというのに、その上さらに人目を引き連れてやってきた人物にうんざりする。
遠目から見たときは特に何も感じなかったが、こうして近くで見てみるとやはりどこか似ていた。
精悍なその男にも面影がある。雰囲気もピリピリと鋭く冷たい。
だがやはり千景が知る息子の方よりは人間らしいと感じる。
ただ、和装が恐ろしく似合うという点においてはそっくりだと思った。
「お前は、誰だ?」
視界の端で捉えた煉弥が鬱陶しげに眉を顰めたのを見逃さない。
(こいつ、なんだかんだ言って結構表情あるんだよなぁ…)
己の直感を確認するように煉弥を見れば、青玉を覆う瞬きひとつをもって肯定の返事が返ってきた。
どうせ術師会に足を運ぶなら一目見てみたいと、完全なる好奇心からそう思っていたが。
どうやら向こうから接触してきてくれたらしい。
「どーもはじめまして」
七々扇巽。
術師会の中枢を担う七々扇家の当主であり、煉弥の実父。
術師会との関わりを絶ってきた千景でさえ名前くらいは知っている人物だ。
挨拶など必要ないとばかりに巽は再び口を開く。
「もう一度聞く。お前は誰だ」
威圧を多分に含ませて、欲しい答え以外を言わせる気のない高圧的な口調。
場所と雰囲気も合わさってか、いつぞやの記憶と重なった。
例えばここで屈するような人間であったのならば。
千景はもっとずっと素直で可愛げがあって、きっと扱いやすい人間だったのだろう。
しかし、こんな時でさえおもてに現れる表情は驚きでも緊張でも恐怖でもなく。もちろん敬意でも羨望でもなく。
ただひたすらに、変わることのない綺麗な笑みだった。
「初対面で個人の詮索なんてさあ。烏滸の沙汰ってもんじゃない?」
世間では最低限の個人情報の開示は円滑なコミュニケーションの第一歩だが。
こと呪術業界においては軋轢への第一歩となる。
それを心得ていないはずもない人物が平気でその不文律を犯すのだから、これまたなんとも面白い。
「……ほう…」
名家の当主ともなれば、ひと回りもふた回りも下の人間にこういう態度を取られることもそうないのだろう。
巽はわずかに眉根を寄せた。
「まあいい。ここ最近、ウチのバカ息子が世話になっていたのはお前か?」
「世話? ああ、まあ…」
息子が世話になった、と言われても。
確かに千景は居場所を提供してはいるが、煉弥には店番をさせ、家事を手伝ってもらい、さらには呪術の面でもたびたび手を煩わせている。
むしろ逆に。
千景の方が世話になっていると言った方がしっくりくる。
元からいた万能狐と、そこに万能人間が加わったことで大助かりなのは実は千景の方だった。
「別に大したことはしてないよ」
「そうか」
曖昧に濁した千景の返答に納得はしていない。
というか、そもそも世話云々なんて話はどうでもよく、煉弥の話題をきっかけに千景の情報を探り出そうとしているように感じた。
考えすぎ、なのかもしれない。
だが、相手が術師会の人間で、しかも当主ともなれば、油断や気の緩みなんてものは千景にはなかった。
「お前は息子と親しいようだが、いったい、」
《……離せェ、離せよオォ! あのカラダはワタシのものだァ……!!》
「あれま」
もう少し千景から言葉を引き出させようとしていた巽を遮るように、思わぬ方向から横槍が入った。
未だ朱殷に締め上げられたまま、悪霊が叫ぶ。
血走らせた眼は千景を射抜き、自由の利かない体で必死に踠いて近づこうとしている。
完全に詰んでいる状況でも千景の体への執念が止むことはない。
道具として術師会の手中に収められた時点で悪霊の結末は決まっているというのに、尚も喚き散らすその姿は無様でしかなかった。
だが、巽との会話を打ち切るにはちょうどいい。
《…今に見てろヨォッ! あいつのカラダを乗っ取って皆殺しにしてやるからな…っ! ヒャハハハハハ………!!!》
耳障りな声で紡ぐ戯言はどこまでも愚かで滑稽だ。
最初は声を荒げることはおろか口さえ開かなかったというのに、いつの間にかこんなにも喧しい存在となっていた。
「随分と刺激的なラブコールだこと。照れちゃうなぁ」
くるりと身を翻した千景はゆっくりと悪霊に歩み寄る。
照れるという言葉通り、柔らかな笑みを携えて。
さてどうしようかと考えて、無表情で悪霊を見下ろす煉弥に近づいた。
すべてを任せることは簡単だが、ここはあえてもうひとつの手段を選ぶ。
きっと煉弥もそれをわかっていたからこそ、今すぐにでも始末できる悪霊に手を出さないでいたのだろう。
千景は背後から近づいて、その体に腕をまわす。
身長が高いので細身に見える煉弥だが、実際に触れて初めてわかる引き締まった身体。呪術だけでなく、しっかり体も鍛えている。
いつもふわりと感じていた香りがより濃く感じられた。
他者との接触を嫌いそうな煉弥だが、千景を振りはらうことはしない。
許容してくれていると勝手に解釈する。
背伸びをして耳元に唇を寄せた。
「ね、もちろん今日も持ってるよね?」
「普通に取りに来い」
「ちょーだい」
「お前は今日もポンコツだもんな」
「………」
ゴツンと強めに煉弥に頭をぶつけて、そして身体の前に回していた手を煉弥の懐に忍ばせる。
手品師の如く流れる手つきで抜き取った千景の手には呪符が四枚握られていた。




