72 . 悪霊狩り〈一〉
どうして時が過ぎるのはこうもあっという間なのだろうか。
子供の頃はそんなこと考えもしなかった。
はやく大きくなりたい。はやく一人前になりたい。
そんな思いで毎日成長するのに忙しく、時の経過など気にもならなかった。
歳を重ねるごとに時間が短く感じるという。
この歳でこれほど時の速さを実感しているというのに、では老後の生活はいったいどれほどのスピードで過ぎ去っていくというのか。
一日。
一週間。
一ヶ月。
一年。
きっと人間の命など、気づけばあっという間に尽きてしまうのだろう。
「拝啓──初秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」
「は?」
移り変わる季節。
過ぎゆく時間。
「あれ、カレー食べたのいつだっけ? 一昨日くらいだったよね」と尋ねて、返ってきた答えが「一週間前だ馬鹿」。
こうして日々、時の短さを日常の中から実感していくのだろう。
気にしたが最後、人生のゴールテープまで直通エスカレーターだ。
「我が命、実に儚し。ああ、なんと悲しきことか──敬具」
「拝啓と敬具いらねえだろうが。文になってねえよ」
的確なツッコミに、ああたしかに、と脳内を切り替えた千景は、横に立つ男と、それから目の前の荘厳な門を見比べた。
そしてもう一度男を見てから、遠慮なく首を傾げた。
「ねえ、煉」
「あ?」
「ほんとに来ちゃったけど。よかったの?」
「今更だな。お前のほうこそいいのか」
「それも今更だね」
来る者を威圧するかの如くどっしり構える門。
それを潜ってしまえば、その先はもうあちら側の縄張りだ。
だいぶ涼しくなってきた今日この頃。
こうして、千景と煉弥は”術師会”の屋敷に足を踏み入れたのだった。
* * *
八月の第一週を最後に、大学は夏休みに入った。
それからずっと店を開けたりふらっと出掛けたり、千景はなんてことない平和な日常を送っていた。
そういえば滝川臣からは、伝授した丑の刻参り含め、呪術関係はうまくいったと報告があった。
自身に関わるたびに件の同級生に不吉や災難を生じさせ、無事ウザ絡みから解放された、と。
日々を充実させている未生とも何度か遊びに出掛けた。
そろそろ甘味の食べ過ぎで太りそうという具合だ。
志摩は相変わらず定期的にやって来るし、相変わらず護符の消耗が激しい。
紫門にもらったものなので幾分か効力は続くが、もともとストックが少なかったそれらはすでに底をつき、今は煉弥に作成してもらった護符を渡している。
時には友人たちと戯れ、時には霊騒ぎに遭遇しながらも、千景の周りは比較的穏やかな日々だった。
だがやはり、問題がひとつ。
いくら時が過ぎようとも、未だ呪力は戻らないまま。
そろそろ転職でも考えたほうが利口なのではないかとも思うが、呪力を失ってからまだほんの二、三ヶ月ほど。呪術的に見れば、まだまだ短い期間と言える。
ではもうしばらく様子を見るかという方向で、むしろ自身の異常事態を楽しんでいる千景の脳内会議は閉幕したのだった。
「………え、なんて?」
「だから、一度術師会に行って来ようと思う」
季節は夏と秋の境目。
九月に突入して数日が過ぎた日。
夕食後にリビングで茶を啜っていたとき、煉弥からの思いもよらない発言にさすがの千景も思わず聞き返してしまった。
家を貸しているからといって、千景には煉弥の考えも行動も縛る権利はない。
というかそもそもそんな不自由を強いる気もまったくない。
何を考えどんな行動をしようと本人の自由というのが基本スタンスだ。
しかし、こればかりは詳細説明を求めたい。純然たる好奇心から。
「術師会にとって俺は貴重な”力”だ。だからあいつらは絶対に俺を放っておかねえし、実際これまでも行方を探されていたはずだ。だが、目立ったリアクションを起こしてこないということはまだ消息は掴まれてねえ」
「全てを把握した上で様子を見られてるって可能性は」
「それはない。主だって動いているのはおそらく俺の父親だ。もしこちらの居場所がわかったのなら即刻連れ戻しにかかる。俺の力を知っている親父が、余裕ぶって少しでもこちらに猶予を与えるような真似はしない」
「つまり、煉の居場所は掴まれていないし、私の存在も明るみになってはいないってことね」
「ああ、間違いないだろう」
術師会にこちらの詳細を知られることを望まない千景としては、煉弥の確信めいた推測はありがたかった。
呪術でできることはたしかに多い。
だが、決して万能ではない。
呪いや調伏は術師の専売特許だが、人探しにおいてはやはり限界がある。
芸能人並みにメディアに顔出ししたり頻繁にSNSを活用しない限り、日本国内から特定人物を探し出すにはそれなりに時間がかかるだろう。
けれどもやはり本人がどれほど徹底していようとも、外を歩けば必ず第三者の目につく。
こんな時勢だ。どこからどのような情報が発信されるかなんてわからないから。
四六時中人目につかない家に籠るでもしない限り、必然的に時間が経てばその分見つかるリスクも高まっていく。
「あれから約二ヶ月。この辺りが限界だろう」
同じことを考えていた千景も小さく頷いて同意を示す。
「バレる前に自ら出向くってか?」
「向こうの動向も把握しておきたい。間違いなく親父は怒り心頭だろうがな」
術師会の内部事情にあまり詳しくない千景でさえ『七々扇』は知っている。
この業界に身を置いていればよく耳にする術師一族のひとつだから。
そんな名実ともに優れた名家の中でも、とくに”天才”と呼ばれているのが七々扇煉弥だった。
実力主義の呪術業界においては、それはもう重宝される戦力だろう。
そんな人間がすべてを放り投げて突如姿を消した。
となれば七々扇家のみならず、術師会全体に影響が出るのは明白だ。
立場上、煉弥の監督責任を問われるであろう父親が怒るのも頷ける。
「そう考えると、やっぱお前って結構すごい人間なのな」
二ヶ月前まではこうして同じ家の中で顔を突き合わせるなど想像できなかったくらいには、この男は術師会側の人間だった。
「まあ、私は煉の行動に口出しなんてしないよ。やりたいようにやればいい。ただ、ひとつだけ確認させてほしいんだけど」
ちらりと見た煉弥の表情は、相変わらず何を考えているのかわからなかった。
「お前さあ、そのまま術師会に戻るつもりなの?」
術師会に行くと言った時点で煉弥が向こうに戻る可能性も十分考えていた。
あくまでもこの男は一時的な家出なのであって、いずれは元の場所に戻るのだろう。
決して煉弥の行動を縛る意はないが。
いっときでも家を貸している千景としては、そこらへんの本人の真意が気になるところではあった。
「俺がいないと困るのか」
「困るよ」
「寂しいからか?」
「似合わないこと言ってんな」
困ると即答した千景に、煉弥は珍しく口角を持ち上げた。
普段滅多に表情を動かさないぶん、無機質の中に唯一浮かんだ笑みは殊更強く印象に残る。
率直な千景の本心とその裏に潜む微かな情緒。
この二ヶ月という共同生活のなかで、無表情の中にある煉弥の感情を千景が読み取れるようになったのと同じように。
煉弥もまた、笑みで塗り固められた千景の仮面の下を覗けるようになっていた。
「最初から向こうに戻る気はねえよ」
「…あっそ」
「今後もここを貸してくれる気がお前にあればの話だがな」
「私が断らないってわかってて言ってんだろ……。いいよ。居場所はいくらでも貸してあげる」
ということで、もうしばらくは共同生活をすることが決まったわけだが。
「てか、術師会行ったりなんかして、あちらさんがちゃんと帰してくれんの? 話を聞く限りじゃ簡単に手を引きそうにないじゃん。はは、そのまま幽閉されたりとかして」
「かもな」
「随分呑気だこと」
千景とてなにも本気でそうなると思っているわけではない。
煉弥の身を案じるだけ無駄だとは思うが、もしも、万が一、囚われたともなればさすがに後味が悪い。
「そんなに俺が心配か」
「いやまったく。心配はしてないね」
相手は呪術界を牛耳る大きな組織なのだ。
ただほんの少しだけ、懸念を抱いているだけのこと。
しばらく宙を見つめていた煉弥だったが、なにやら名案を思いついたという顔で再び視線を戻した。
「そんなに心配なら…」
「だから心配はしてねえよ」
「お前も来るか?」
「……………は?」
* * *