62 . 廃校舎の怪〈三〉
不安と恐怖に蝕まれていた稀菜の表情は血色を取り戻す。
すっかりゆるふわ女子に戻ったみたいだ。
実際のところ、視えるだけの人間がひとり増えたところでホラーな現状が変わるわけでもない。
しかし『同じ目線で恐怖体験を乗り越える人がいる』という事実は、稀菜の恐怖心を緩和させるには十分だった。
奇怪な世界を生きているのは自分しかいないという孤立した心情を取り除き、同じ世界観を誰かと共有する。
ひとりではないと自覚させることが、いろいろと抱え込みがちな”視える人間”の不安を解消するには手っ取り早い方法なのだ。
高校時代、どこぞの金髪も同じ世界を見ている千景と出会ったことで慢性精神疲労から脱却できていた。
『ただし個人差があります』なんて例外事象への保険文言を添えることにはなるが、ある程度有効な手段であることはすでに証明されている。
「千景ちゃんとは今日がはじめましてなんだけど……実は私ね、ずっと前から知ってたんだ〜」
「え、まじ?」
どこかで関わったことあったかなあ、と、大学に入って以降の記憶の引き出しを手当たり次第開けてみた。
が、どうやらそういうことではないらしい。
「だって千景ちゃん目立つんだもん。学校に蛇くんと狐ちゃんを連れてくる人なんて千景ちゃんくらいだし。なにより美人さんだよねぇ。初めて見たときの衝撃はいろいろおおきかったな〜」
「ああ、うん、なるほど。理解」
これは志摩と同じパターンとみた。
視える人間か否かの判断要因である朱殷と銀に引き寄せられたパターンだ。
金縷梅堂での術師判別センサーのつもりが、思わぬところで効力を発揮してくれたらしい。
「ほかの人はなんの反応もしないし、これってみんなには視えないのかなぁって。だったら千景ちゃんは視える人なのかなって思ったんだ」
「ほぉん」
「ずっと前から声をかけてみたかったんだけど、本当にそうなのかもわかんなくって……だから、未生ちゃんの友だちだって言って部室に来た時はもうびっくりしちゃったよぉ」
えへへ、と笑う稀菜は本当に小動物のようで大変庇護欲がくすぐられた。
癒しとして一家に一台欲しいくらいに。
今日も今日とて装身具のように千景にくっついている二匹を間近で視た稀菜は目をキラキラと輝かせる。
勝手な偏見だが、稀菜のような癒し系はふわふわした動物とかキャラグッズとかが好きなイメージがある。
だからたぶんふわもこ動物の代名詞である銀はもちろん、爬虫類ではあるがしなやかな身体と赤い目が大変愛らしい朱殷は愛でる対象となっているはずだ。
けれども自称飼い主である千景としては、撫でてもいいよと軽率に勧めることはできない。
元来、この二匹は人間に触られることを好まない。
朱殷は普段の性格から見て分かる通りだし、比較的愛嬌も社交性も持ち合わせている銀でさえ、こう見えて軽々しく人の手に収まる性質ではない。
今でこそ気持ち良さそうに千景に体を預けてなでりこなでりこされている銀だが、貰い受けた当時はなかなか簡単にデレてくれなかった記憶がある。
加えて、二匹とも真っ白い風貌。
見るからに神聖性も高い。
朱殷はただの似非でしかないが、銀の場合は実は本当に稲荷大明神に近い存在だったりする。実は本当に神聖な生き物だったりする。
見た目に騙されて軽率に手を伸ばす人の子は、まず間違いなくこの腹黒狐に噛みつかれることになるだろう。
千景の前では愛でられ慣れた愛玩動物のようだが、こう見えて本当は気高く高貴な狐なのだ。
気安く家事とかをさせてはいけないくらいには。
「双葉ちゃんはいつから視えてんの?」
「稀菜でいいよ〜。視えるようになったのは中学生くらいの時だったかな」
「じゃあ初めから視えてたわけじゃないんだ。余計怖かったんじゃないの?」
「……うん。ある日突然変なものが視えるようになっちゃって……すごいびっくりしたし、怖かったなぁ…」
稀菜のように、後天的に霊が視えるようになる人間は珍しくない。
千景の場合は完全に遺伝による先天性のものだ。
だから途中から視えるというのがどういうものなのか、よくわからない。
ただ、視えるというだけでどれだけ苦労したのかは理解できる。
術師の中にも、霊力や呪力が後天的に目覚めたという人間は少なくない。
千景の知り合い術師の中にはどちらのタイプもいるし、先天・後天だからといってそこに有利不利が生じることもない。
素質さえあれば、強い人は総じて強い。
実力主義を謳う呪術業界にはなんともお誂え向きな特性と言える。
ちなみに千景の周りでいうと、志摩は生まれつき視える人間。紫門も霊力呪力ともに先天的なものだ。
まだ付き合いの浅い煉弥はどうだろうか。
訊いてみたことはないが、家柄や血筋から考えるに、おそらく先天的なものだろう。
こうして考えると周囲には生まれつき力を有していた人が多いように思う。
だからこそ余計に、稀菜のように後天性霊力覚醒者の話は貴重だ。
「稀菜が視えるってことを知ってる人って、周りにいる?」
「ううん。誰にも言ってないよ。お父さんとお母さんは知ると心配しすぎちゃうと思うし、友だちにもなかなか打ち明けられなくって…」
「そっかあ。ちなみに今まで霊被害にあったことは?」
「うーん、そういう実害みたいなものはなにもないんだぁ。姿は視えるし、ときどき声も聞こえるの。だけど、追いかけられたり襲われたりしたことはないよ。えへへ、やっぱりこれのおかげかな」
「これって?」
「小さい頃にお母さんにもらったんだ〜」
服の襟元から稀菜が取り出したのは、首にかけられたお守りだった。
五芒星と『御守』の文字が描かれた白地のそれは神社などで売っているタイプのものだ。
千景はするりとそれを手に取り、布地の表面を親指でひと撫でする。
少し表面がほつれて汚れてはいるが、年季の入ったお守りからは娘を慈しむ母親の心が感じ取れた。
「ふふ、いいね。しっかり守ってもらってんじゃん」
「うん!」
嬉しそうに頷く稀菜には申し訳ないが、実を言うとそのお守りに霊を退けるだけの力はない。
触れた時に確認してみたが、呪術をかけた痕跡もなかった。
呪力を持たない神主により御入魂されたお守りか。
それとも単なるグッズとして神職を通さず販売していたものなのか。
どちらにしろ、望む結果を得るために特定の効果を付与する”呪術”の介在は見られない。
あくまでも『信じるものは救われる』的な精神論での話だ。
けれども稀菜自身がお守りの効力を信じ、実際にこれまでも霊被害に遭わずに済んでいる。
親愛なる母からもらったものというだけで、稀菜にとっては絶大な効力を発揮するものとなる。
だから実効の有無など些細な違いでしかない。
(まあ、志摩みたいな引き寄せ体質じゃないみたいでよかった)
とりあえずはこれで千景がファンタジーを生きる呪術専門職であることを打ち明ける必要はなくなった。
わざわざ庇護下に置かずとも平穏な生活が送れるはずだ。
「なにか困ったことがあったら言ってよ。話くらいなら聞けるはずだからさ」
「うん、ありがとう千景ちゃん。ひとりじゃないって思うとすごく心強いね」
「おおーい、君たちも早く来たまえよー…」
距離をとっていた前方から、不甲斐ない声で呼びかけられる。
あははと笑って駆けていった稀菜の後ろ姿に、もう不安はなかった。
 




