45 . ウサギくん
本当にすぐそばまで悪霊は迫って来ていたようだ。
散々気配で捉えていた奴は今は目と鼻の先。
ここにきて、初めて互いの姿を認識する。
「………………え?」
相手のフォルムをしかとこの目に入れた瞬間、腹の底からなにかが湧き上がってきた。
あまりに禍々しい気配から勝手に姿を想像していたから?
張り詰めたこの場に似つかわしくなさすぎたから?
この感情の理由なんてなんでもいい。
とにかく今、千景がすべきことは、この場の空気をぶち壊さないことだ。
《───緊張感皆無だな》
いち早く千景の異変に気付いた朱殷が、誰にも聞こえない極々小さな声で呟きを落とす。
《ククッ、なに呑気なこと考えてはりますの?》
銀も呆れきったようにくつくつ笑い、自分たちと悪霊を包み込む程度、半径数メートルほどの結界を張る。
そしてその上から被せるように七々扇が別の結界を張る。
悪霊と対峙してほんの数瞬のうちに二重結界が出来上がった。
七々扇の手際は見事なものだった。
薄紫の数珠を片手にはめてブツブツと呪文を唱え、複雑なものにも関わらず一切滞ることなく結界が展開された。
彼が呪術を使うところを見るのはこれが初めてだが、綺麗な男の無駄のない所作は見ていて楽しい。
感嘆ひとつ、礼のひとつでも送るべきなんだろう。
けれども残念ながら、今の千景に口を開く余裕はない。
ぷるぷると肩を震わせ、口元を手で抑える。
かろうじて親指を立ててありがとうを伝えた。
突如刺激された笑いのツボ。
この場にそぐわず一人小刻みに笑う千景だが、そもそもの原因は全て悪霊の外見にある。
さて頑張ろうと気合を入れて悪霊と対峙したその瞬間、目に飛び込んできたのは、どぎついショッキングピンクのウサギの着ぐるみ。
一応どう立ち回るかとか攻撃されたらどうするかとか細かく考えていたのだが、それらすべては見事に吹っ飛んだ。
───……なぜ?
脳内を占めるのはとめどなく量産されるハテナマーク。
次いで湧き上がる抗いきれないほどの笑い。
結果、もともと人任せではあったがさらに人任せな使えない千景が誕生した。
一体誰が想像しただろうか。
邪悪な気配だけはビシバシと飛ばしていた悪霊の正体がこんなショッキングピンクウサギだったことを。
まるで風船を配るためだけに生み出されたようなこんな生物にずっと追いかけ回されてたと思うと、こう、笑える。
さらに、こんな奴にいいように弄ばれていた術師会連中を思うと可笑しさ倍増だ。
「…ふ……くくっ、…」
「笑ってる場合じゃねえだろ」
「ちょ、ふふ、ごめん。まじごめん。ちょっと落ち着くから。ちょっとまって…」
青玉から放たれた絶対零度の視線が突き刺さる。
なんとか肩で呼吸を整えながら、目尻に薄く浮かんだ涙を拭う。
普段ならこれしきのことで笑うほど千景のツボも浅くはない。
けれどもこの場で、この状況で、あのフォルム、あの色。
これを笑わずしてどうしろというのか。
途中、じっとこちらを見据えるウサギの円らな瞳と目が合い、笑いのツボが決壊しそうになったが、これはなんとか耐えた。
朱殷も銀も七々扇も悪霊も、示し合わせたかのように誰も動かない。
一言も発しない。
必死に心を鎮めようとする千景の呼吸だけが繰り返される。
混沌とした状況がさらに一層深まったが、幸いにもそれを気に留めるような繊細な奴はいなかった。
深呼吸を繰り返しすぎて逆に冷静になりすぎた千景は改めて悪霊と対峙する。
周りが呆れきった空気を醸し出しすぎるせいで結構な時間が経ったように感じるが、実際はほんの数秒程度。
千景とて、敵を前にして長時間無防備を晒すほど呑気ではない。
「どーもウサギくん。初めましてかな?」
ニコリと着ぐるみウサギに笑いかける。
そもそも言葉が通じるかは定かではない。
しかしずっと気配で捉えていた奴の行動から察するに、この悪霊は感情があり、しかもかなり理性的だ。
少なくとも本能のままに動く有象無象とは違う。
「随分と愉快な格好で追いかけ回してくれてたみたいだけど。用があるのは私かな? それともこいつら?」
さっきまで笑いこけていたのが嘘のように、今はもうどれだけ目を合わせようともピクリとも感情が動かない。
ポケットに突っ込んだ両手。
手に触れるのは小瓶の感触。
もしも話す余地があるのなら、少しでも情報を引き出したい。
それが無理なら速攻封じるつもりだ。
それに、朱殷の言葉も気になる。
───……『彼奴──我と同類かもしれん』。
千景が全幅の信頼を寄せる白蛇がそう感じたのならばそうなんだろう。
同類というのはつまり、単に邪な存在、悪霊同士ということか。
それとも、あるいは──。
(……あの家絡み、か)
どちらにせよ、ゆっくり正体を探る必要がありそうだ。
だからこそこのチャンスに悪霊を捕えておきたいところ。
この場ですべてを暴くこともできなくはないが、術師会が蔓延るこんな場所にこれ以上いたくはない。
それ以前に呪術が使えない今、悪霊と対等にやり合うのは無理だ。
できることなら呪力が戻ってから、自分で対処できる手段を手元に置いてから、ゆっくり向き合いたい。
「ふふ、だんまりかよ」
意図的に体の力を抜いた千景は、今度はふらりと悪霊に歩み寄る。
一歩。
二歩。
背後で息を呑む気配にも構わず、自ら相手の間合いに入り込む。
手はポケットに入れたまま。あくまでもにこやかに、友好姿勢を貫いて。
手を伸ばせば届きそうな距離まで来て、やっと足を止める。
幾ばくか上にあるウサギの目。
瞬きもしなければ眼球が動くこともない。当然どこを見ているかなんてわからない。
けれども直感できる。
このウサギの目に、いや、この傀儡に宿る悪霊の目に映っているのが紛れもない自分であることを。
空気の流れからウサギの片腕が動いたことがわかった。
けれども千景は動かない。
千景の目線の高さまで持ち上げられたショッキングピンクの大きな手は、そのまま意志を持って目の前まで迫ってくる。
けれどもやはり、千景は動かない。
いつものように薄っすらと口元に笑みを浮かべるだけ。
すぅっと細めた瞳に相手の姿だけを映して。
(ああ、これ。触れたら呪い殺されんね)
身に迫る危険を余すとこなく理解して。
けれどもそれが千景を動かす動機になることは決してない。
自らが動く必要がないことを知っているから。
ウサギの指先が千景に触れるその直前で、ピタリと動きが止まった。
《……───コイツを、そう容易く呪えると思うなよ》
あ、普通に喋るんだ。
最初に思ったことは、そんなどうでもいいことだった。
千景とウサギを隔てるようにして間に入り込んだ白い蛇。
細長い身体を器用に回してウサギの腕を締め上げる朱殷に容赦はない。
もしこのまま触れられていたら、無力な千景は間違いなく死んでいただろう。
けれどもその危惧が行動につながることはなかった。
もしかしたら死んでいたかも、なんて状況は微塵も考えなかった。
何故なら。
千景に危害が加えられるその様子を、この白蛇の形をした恐ろしい悪霊が黙って見過ごすはずがないのだから。
加圧に耐えきれなくなったウサギの腕はぐしゃりと潰れ、ショッキングピンクの布地に皺が寄る。
それと同時に、もう用も興味もないとばかりに朱殷が千景の首元に戻ってくる。
ひと仕事、と言うほど朱殷の手を煩わせたとも思えないが、一応労わりを込めてあとでネズミをプレゼントしよう。
もちろんいろいろと手助けをしてくれた銀にも油揚げの献上を忘れずに。
「さて、ウサギくん。私の言葉は通じてるのかな?」
一度呪い殺されそうになったにも関わらず、相変わらずの近距離で千景は笑う。
成り行きでウサギの腕をへし折ってしまったが、きっと中身の悪霊には傷ひとつついていないだろう。
(できることなら本体の腕もへし折ってやりたかったけど)
そんな思いが伝わったのだろうか。
───フフフフ。
愉悦を多分に含んだ低い笑い声が聴こえた。
千景の知らない声で、知らない笑い方。
どうやらやっと口を開いてくれる気になったらしい。
《───嗚呼、やはり面白い。小生は楽しいぞ》
知らんわ。
思わず悪態じみたレスポンスをしてしまったのは仕方ない。