41 . 苦労人の裏事情
何事も時間が解決してくれると、比較的楽観視することが多い千景であったが、今回はどうもそういう流れにはならないらしい。
「はぁ、だる……」
《ああ、そっちはあきまへん。術師がぎょうさんいてはりますわ》
「みんなしてさ、ほんとなに? こんないたいけな女の子を追いかけ回してなにが楽しいわけ」
《後ろから来てはりますよ。ほら、気張って逃げえや》
「もう変質者として警察に突き出しちゃおっか。ね」
《なにアホなことぬかしてますの?》
「ならお前の背中に乗せてよ。ファンタジーであんじゃんそういうの」
《わての用途はそんなんとちゃいますわぁ》
肩に張り付く銀の激励とツッコミを受けながら、千景はとにかく走る。
障害物を避けて、木々の隙間を縫って。
時には隠れながら。
まるで張り切りすぎた実行委員が考案した障害物競争を延々とやらされているような。
奇しくも走るの大好き土木工事の某オジサンの気分が少しだけわかった。あのMとか描いたクソダサい帽子をかぶっているオジサンだ。
ちらりと後ろを振り返ってみるが、そこに人影はない。
あるとすればもっと後方。相も変わらず禍々しい霊気を垂れ流している悪霊がいるくらいだ。
奴とかくれんぼ紛いの鬼ごっこを始めてから、どれくらい経っただろうか。
今更スマホで確認するのさえ面倒なので、ずっと前から時刻はわからない。
けれども、真夜中と分類される時間帯に突入しれいることは確かだ。
「ここまで悪霊が派手に暴れないのは奇跡だけどさ、こんなに動き回って誰にも見つからない私たちももう奇跡だよね。え、てかほんとに見つかってないよね?」
キャンプ並みに長時間野外活動をしている千景はすでに、心身ともに疲労の蓄積が大きい。何より強かな空腹の主張が鬱陶しい。
やはりバッグに入っていたキャラメルだけでは限界があるようだ。
だからというわけでもないが、先ほどからなんとなく、危機感と注意力が散漫になっているような気がしてならない。
《なに言うてますの。術師会連中も、自分ら以外に誰かいるっちゅうことにはとっくに気づいとる》
「はは、だよねー」
《そやけど、わかったとしてもそこまで。それがわてらやちゅうことは掴めてへん思いますわぁ》
「ああうん。そうだよね。そうじゃなきゃ困るよね」
最初は広いと思っていた園内も、いざ人目につかないように逃げ回るとなると途端に狭く感じる。
いずれ見つかるのは時間の問題であったとしても、今この時点でオッケーならば良しとしようじゃないか。
結局のところ、一貫して危機的状況にあることに変わりはないのだが、そんなことを延々と気にやむ千景ではない。
そろそろ悪霊の気配も近くなってきた。
さて、潜伏場所でも変えようかと、潜んでいた建物の陰から身を乗り出したとき。
「…え」
「……、」
ドンッ、と何かに、否、誰かにぶつかった。
あちゃー…、と嘆きを多分に含んだ銀の声が耳に届く。
あれ、この状況……デジャブ?
なんて思ったのはなにも自分だけではないはずだ。
* * *
「まだ見つからないのか?」
少しの苛立ちを含んだ男の問い掛けに、近くにいたもう一人が苦笑をこぼす。
「……あー…はい。未だ姿を視認できていないらしく…」
「悪霊の行く先を辿れば見つかるはずだろう」
「そうなんですけどね……どーも上手く躱されてるみたいで。なかなか姿を見せてくれないんですよ」
溜め息まじりの返答に、男──佐伯も思わず溜め息をつく。
あまり順調とは言えないこの状況に嘆きたくなるのも仕方ない。
同組織の人間が悪霊の封印を解くという、厄介極まりない問題を起こしてくれたのが、日中の出来事。
そのまま流れで現場の指揮を任されることとなった佐伯であったが、なかなか思うように進まない現状に辟易とし始めていた。
悪霊が足を降ろした庭園を封鎖し、結界を張ったところまでは良かったのだが、如何せん術師会の戦力不足がどうにもならない。
唯一の救いは、未だに悪霊が暴れ出していないことだ。
その霊力をこの目で確認した時点で多数の犠牲者を覚悟していたのだが、今の所命に関わる被害は出ていない。
なぜここまで大人しいのか。
なぜ素直に結界内に留まってくれているのか。
いくら考えたところで、悪霊の気持ちなど微塵もわからない彼にとっては、答えを出すことはできなかった。
それに加えて、大きな問題がもうひとつ。
「なんか、こっちが仕掛けた感知網にも全然引っ掛かってくれませんし……もうお手上げ状態ですよ」
「だとしたら相手も術師である可能性が高そうだな」
「ですね。もしそうなら相当に厄介な相手ってことになりますけど」
「術師会ではない術師、か。悪霊だけでも厄介だというのに」
「偶然、ですかね?」
「そうでなければ逆に困る」
よりにもよって術師会の手に余る悪霊が解き放たれているこんな時に、勘違いでなければ園内をうろつく第三者。
その存在に気づいたのは、明らかに動きの変わった悪霊に疑問を持ち始めてから少し経った後だった。
それまで時間潰しとばかりに術師を弄んでいた悪霊であったが、なにを思ったのか、突然池を飛び立っていったのが日も暮れた頃。
その時はさすがに奴も本気になったのかと甚大な被害を想像した。
けれども、どうにもそうではないらしい。
結界外に飛び出すのかと思いきや、そのまま園内に留まる悪霊。
最初はただひたすらに動き回っているように見えたのだが、適当のようでどこか一貫性のあるその動きで、気づいた。
───悪霊は何かを探し、追っているのだと。
ではその対象とは一体なんなのか。
しかしそれを探ろうにも、容易には痕跡を掴ませてくれない”何か”。
やっとの事でそれが術師なのではないかと推測を立てるまでに至ったが、どうにも確証が持てない。
ただでさえ手に負えない悪霊がいるというのに、加えて得体の知れない存在。
なにも状況が進展しないまま、無情にも時間だけが過ぎていく。
思わず頭を抱えたくなる佐伯の気持ちも理解できるというもの。
「それで。あの悪霊の正体はわかったのか?」
「あ、先ほど本部から報告がありました。やつは長年術師会が封印を保ってきたSランクの霊物だそうです」
「……勘弁してくれ」
「どうやらここ最近、その封印が解けかかってきたために新たな封印術を施すかという議題が、九家当主の間に上がっていたそうですが、その矢先の出来事だったようです」
聞いただけで頭が痛くなる情報に、佐伯は思わず額に手を当てた。
その拍子に手首に巻いた数珠がシャラリと揺れる。
どんな術師も必ず持っているこの数珠。
いわば呪術を扱える人間だという証明のようなものだ。
術師の共通所持アイテムでありながら、各人で違いがあるとすればその色。
佐伯の手首に収まるそれは濃い青色をしていた。
佐伯とて、あの悪霊のランクの位置付けに異論はない。
けれどもSランクといえば、もはや世を揺るがす災厄レベルだ。
ランクというのは、術師会が霊的存在及び超常現象に対して、独自に設定したものだ。上からS、A、B、Cと続く。
同じように術師にもランクがあり、アルファベットランクと相応するようにS級、上級、中級、下級と、術師会所属の術師は分類されている。
もともと術師会は様々なランクの霊物を所持している。
その中には当然、いくつか高ランクのものもある。
だが、あのような得体の知れないSランク霊物があるという記憶はない。
佐伯が知らないということは、ほとんどの術師会術師も知らないはずだ。
けれども、それに関して九家───術師会上層部がなにやら絡んでいるとなれば、いち術師に情報が降りてこないのも頷ける。
そこでちらりと、杖をつく恐ろしい老人の顔が脳内によぎった。
「……全く、そんなもの相手にどう対処しろと」
「ですよねー。あ、俺が行ってきましょうか?」
「お前が行って相手になるのか?」
「全力でやれば十秒くらいは持ちますって。ていうか佐伯さん上級ですよね。一番勝機があるのって佐伯さんじゃないですか」
確かに佐伯の術師ランクは上級に位置付けられている。
相手のランクに見合わず、中級術師がほとんどのこの現場で、ランク的に見ればもっとも善戦できそうなのは佐伯だ。
けれども……。
「───術師ランクと実力が必ずしも釣り合ってるわけじゃねえもんなァ」
空気が、変わった。
声のした方。
ひやりとした悪寒が背中を撫でる。
「お疲れ様です。随分と手こずっているみたいですね」
続いて落とされた柔らかな声音。
毛色の違う二つの声を聞き、佐伯を含めこの場にいた全員が身を正した。
彼らの中にあるのは『もう大丈夫だ』という安堵と。
それから、どうしようもないほどの緊張感だった。