32 . 不老不死の泉〈八〉
◇ ◇ ◇
まず目に入ったのは木目調の天井だった。
そして全身を優しく包み込んでくれる肌触りの良い敷布団。
「…………気を失ってからの場面転換、多くね?」
《目覚め一番で言うことはそれか》
この部屋に千景一人でいるとは思っていなかったが、間髪入れずにこの声が聞こえるとも思っていなかった。
「……あー、どんくらい寝てた?」
《安心しろ。数時間程度だ》
「ああ、そう」
室内は薄暗い。
夕方と表現するにはもう少し時間が経っていそうで、かといってとっぷり日が沈んだというわけでもなさそうだ。
夏に差し掛かったこの時期だと午後六時から七時前後といったところだろう。
枕の上で軽く首を捻ると真っ赤な蛇の目と視線がかち合った。
《体調は》
「怠い。ていうか疲労感」
《何か代償は》
「まだ、……わかんない…」
千景は緩慢な動きでのそりと布団から起き上がり、軽く右手を動かす。
感覚はある。体も動く。ちゃんと視えるし、音も聞こえる。
今のところ身体的外傷も欠陥も見つからない。『生命に著しく関わるものでない』という山神の科白は信じても良さそうだ。
身の安全を確認したところで、千景は室内を一瞥した。
ここは泊まっていた旅館の一室のようだ。どうやら怪異入り混じる山の中からは無事に帰ってこれたらしい。
「銀と志摩は?」
《外に出ている。狐は付き添いだ》
「元気だねえ」
そのまま布団から抜け出た千景は黒に包まれた自身の格好を見下ろす。
しばし思案したのち、着替えがわりに衣装盆に置いてあった浴衣を手に取った。
「温泉入ってくる。お前は?」
返事の代わりに足元からしゅるりと上ってきた朱殷に促されるまま、千景は気怠い体を引きずって大浴場へと向かった。
湯上りの体にはちょうど良い夜風を浴びながら、広縁の椅子に腰掛けた千景は窓の外を見下ろす。
温泉を楽しんでいたうちにどうやらすっかり陽も暮れたようだ。
宵に灯る橙が温泉街を煌びやかに照らし、往き交う人々は和気藹々とその非日常を楽しんでいるように見えた。
楽しそう、とは思うが、自分はその外側から眺めているくらいがちょうどいい、とも思う。
俗世界に混ざりたくない。自らを蚊帳の外に追いやって隔絶した空間で楽に息をしたい。
そういう思考に陥るときは決まって疲れている証拠なのだ。
はぁ、と無意識のうちに溜め息が漏れて窓外から視線を外そうとしたとき、パチリと部屋の明かりがついた。
窓に映る自分の顔はより明るく鮮明になり、そのもっと背後からはズカズカという足音とともに金髪の男前が姿を見せた。
「おお、起きてんじゃん。はよっすー」
今度は実物を見るために振り返ると、手から紙袋を提げた志摩が上機嫌な様子で部屋に入ってきていた。
その肩からぴょんっ、と飛び降りた銀はそのままとてとてと近づいてきて千景の膝に飛び乗る。
瞬間的に激しい動悸に襲われながらも、ふわふわもふもふの体毛を優しく撫でる。
「やっぱ温泉街っていいよなー。露店楽しいしウマそうなもんいっぱいあるしよ。霊さえ割り切ればマジ楽園」
「私が寝てる間に随分楽しんできたみたいで何よりですよー」
「まあそう言うなって。ほいこれ、戦利品」
志摩は紙袋から箱を取り出して次々と包装を解いていく。
てっきり志摩の家族や友人に買った土産物だと思っていたのだが、どうやら全て自分たちのために買ってきたものらしい。
温泉饅頭とプリン、あとはちょっとした酒にちょっとしたつまみ類がテーブルに並ぶ。
チョイスは完全に志摩の嗜好だが、どこか食べ物の好みが似通っている節がある千景にとっても大歓迎のものばかりだ。
「適当に見繕ってきたぜ。土産は明日帰る前にチカも行くだろうからそん時寄ればいいしな。疲れてる時こそ糖分補給、だろ?」
「ナイスチョイス」
日中は山で散々動き回った挙句まだ夕食前ということもあり、そろそろ空腹が限界値に達していた千景は迷わず饅頭に手を伸ばした。
枯渇していた糖が全身を巡る感覚はなんとも心地よい。
他は夕食後にということでポイポイと冷蔵庫に収めていく志摩の後ろ姿を千景はぼんやり眺める。
口を開きかけ、しかし幾許か悩んだのち閉じる。
それを何度か繰り返し、今度は視線を外すように背もたれに頭を預けて目を閉じた。
投げかけたい内容は決まっている。ひとつしかない。
しかしその声に乗せる言葉が見つからない。
しばらくは瞼の裏の暗闇と対峙する。
そして、再び口を開いた。
「……お前、体は」
気がかりだった。
あの時───不老不死の泉を封じる際、志摩には山神の声や意向を聞かせてはいないし、六芒星にも近づかせはしなかった。
しかし、神秘を封じるその直接的な現場に術師ではない人間がいたというのもまた事実。
これがただの調伏現場とかであればこのような懸念を抱かずに済んだのだ。
だが今回ばかりは相手が相手だ。当事者の意思に関係なく、山神の影響がどこまで及んでしまうかはさすがの千景も予想できない。
泉を封じることで生じる不利益を被るのは術をかけた本人だけで十分だ。
千景だけで十分なのだ。
しかし、もしかしたら。
あの時近くにいた志摩にも飛び火してしまった可能性は決してゼロではない。
もう少し気を配るべきだった。
千景自ら守ると言っておきながら、その目の前で神を相手取ったことは迂闊だったとしか言いようがない。
先刻目を覚ましてからじわりじわりと感じていた自身の不調。
変化というほど大きなものではないけれど、体には確かな違和感がある。
それを自覚するたび、今度は志摩の身への懸念が募っていくのだ。
今更自分の行動を悔やんでも仕方がないのだが、千景にとって志摩が大事な存在であるからこそ後悔と申し訳なさが先立つ。
「なあ、チカ」
名を呼ばれ、暗闇に耽っていた視界を開く。
真上から覗き込むようにこちらを見下ろしている志摩の双眸には微かな笑みが浮かんでいた。
「俺はこの世界が怖えよ。霊がいるし、追いかけられるし、襲われるし。少し気を抜くとすぐに取り憑かれて魂ごと奪われちまいそうだしよ」
日々の苦悩を鮮明に思い出したのか、顔を顰めた志摩はお手本のような苦笑いを披露する。
その様が面白くて、千景もクスリと笑ってしまった。
「でもな、チカがいるから俺は外を出歩ける。怖くてたまんねえはずのこんな山奥にだって遊びに来れる。今お前が何を考えてんのかは知らねえけど、いつもお前が守ってくれっから俺は安心して生きていけんだよ。残念なことに男としてはくそダセェけどな。だから、今更お前の行動の末に俺に被害があったとしてもなんとも思わねえ。むしろ今まで分の感謝のほうがクソほどでけえわ」
千景の真意を正確に読み取った志摩からの胸中の暴露と感謝。
これまでも「ありがとう」は幾度となく聞いてきたが、ここまで言葉にされたのは初めてかもしれない。
(らしくないことを……)
とは思いつつ、親しくしている人間に心からの感謝を伝えられて嬉しいと思わない奴はいないだろう。
不意打ちで思わず照れてしまったのを隠すように「あっそ」と素っ気なく返事を返す千景に、志摩はなんとも満足げに笑った。
「ちなみに俺は超健康体だぜ。だから俺のことで、あんま気に病むな」
千景の気掛かりを一つ一つ取り払っていくその笑みに、これまで何度気持ちを楽にしてくれたことか。
日々誰かを護る立場にいるのは千景であり、術師である限りそれはこの先も変わることのない事実。
しかし、相手によっては千景もまた。
”まもられる”立場になることも変わりようのない事実であり──。
「んじゃ晩飯でも食いに行くか」
いつも通りの明るい声音に千景は口元を綻ばせた。
◇ ◇ ◇