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怨みつらみの愉快日録  作者: 夏風邪
第一章
3/103

3 . 成仏



 老人の案内でやって来たのは、人通りも車通りもやや少なめの道路沿いだった。


 雑居ビルが多く立ち並び、年季の入った店構えの商店がいくつかある。

 良く言えば懐かしい、悪く言えば古ぼけた、そんな感じの通りだ。


 この付近をたまに散歩コースにしているらしい老人は、どことなく昔の街並みを残すこの通りがお気に入りなのだと言う。


「あの辺りだね。私がボタンを拾ったのは」


 老人が指差したのはちょうど横断歩道がある辺り。

 一応信号機が設けられてはいるが、先ほどから信号が変わらないところを見るに、押しボタン式のようだ。


 遠目でもその道脇に花束のようなものが供えられているのがわかった。

 ここで事故があったのは間違いないようだ。



《……アア゛…ッケイコ…ケイコォ……、アウ゛ゥ…イタイヨオ…ケイコォ…》



 実を言うと、先ほどから少し霊の様子が変わっていた。

 感情のままただ叫び散らすのではなく、どこか冷静な部分も出てきているように感じる。


 そして時々混ざる「ケイコ」という名前。

 恐らく女性の名であろうそれは、もしかしたらこの霊が未練を感じている理由の一端であるのかもしれない。


 だとしたら、成仏の糸口はもう少しで掴めそうな気もするが。


「お嬢ちゃん、あそこ。誰か手を合わせているよ」


 どうしたものかと悩んでいる千景にそう呼びかけた老人。

 その指差す先を辿ると、確かに供えられた花の前に膝をつき手を合わせる女性の姿があった。


「さっきまではいませんでしたよね」


「どうやら今来たみたいだよ」


「少し話を聞いてみましょう」


 長い間手を合わせていた女性を邪魔しないように近づき、彼女が立ち上がったタイミングで千景は声をかけた。


「こんにちは。どなたかのお参りですか?」


「……えっと…」


 見知らぬ人間にいきなり声をかけられて驚くのは当然だ。

 けれども女性は次第に目元を和らげ、力なく笑った。


「こんにちは。ええ、主人のね……もう、二ヶ月くらいになるかしら」


「そうなんですか…」


 ここで亡くなった男性の婦人だというこの女性。

 事故があったのはもう二ヶ月も前のことのようだ。


(…奥さん…ケイコさんか?)


 霊が呼び続けている名前の持ち主がこの女性だと仮定するならば、生前はこの女性と夫婦関係にあったということ。

 今も口惜しげにその名を呼ぶ霊を見るに、成仏できない理由も「ケイコさん」にあるようだ。


 一か八か、しかし限りなく正解に近そうな仮説を立てた千景は、思い切って女性に切り出した。


「…あの、間違ってたらすみません。もしかしてケイコさん、ですか?」


 まさか初対面の人に自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。

 女性は驚いたように何度か瞬きをして、控えめに頷いてみせた。


「……ええ、そうですけど。私のことをご存知なの?」


 それにどう答えるべきか、千景は幾許か迷ったのち、心の中でごめんなさいと唱えつつ流暢に言葉を紡いだ。


「知っているというか、人伝に聞いたことがありまして。実は以前、貴女の旦那さんとお会いしたことがあるんです。そのときに嬉しそうに貴女のことを話していて、これが奥さんだと写真も見せて頂きました」


 悲しそうに、それでもじっくりと手を合わせて亡き夫と言葉を交わす女性と、霊になってなお愛おしさに溢れた声で奥さんの名を呼ぶ男性。

 彼らの夫婦仲がとても良好なものであったことはすぐに分かった。


 この男性にとって何が未練で心残りなのか、なんとなく分かった気がした。


「あらまあ、ふふ、あの人ったらお嬢さんにそんなことを話していたのね。恥ずかしいわ」


 困ったように笑うケイコは、それでも嬉しそうだった。



《……ケイコ…ケイコッ…、……ヒトリノコ、シテ……ゴメン…ケイコォ…》



 少しずつ正気を取り戻している霊の声が虚しく響く。

 悲痛なその声音からは、突如として幸せな日常を奪われた深い悲しみが痛いほど伝わってくる。


 けれどもその声は、一番言葉を交わしたいはずのケイコには聞こえない。届かない。

 だからこそ、視える千景にはその言葉を伝える役目がある。


「……ひとり残してごめん」


「…え、…」


「旦那さんは、……そう言っているような気がします」


 気がする、ではなく、実際にそう言っている。


 彼の潰れてしまった目にケイコの姿が映っているかはわからない。

 血に濡れた耳に彼女の声が届いているかはわからない。

 それでも、今目の前にいることはわかっていると思う。


 ただ一心に彼女の名を呼び、謝罪を絞り出す。


 痛いくらいのこの想いが、ほんの少しでもいいから、彼女に伝われば。


「……ふふ、そうね。私もそんな気がするわ。あの人は本当に優しいから、きっと私を一人残してしまったことを悔やんでいるに違いないの。…だから、あの人にも伝えてもらえないかしら」


 ケイコは心のどこかではわかっているのかもしれない。


 姿は見えずとも、この場には最愛の夫がいることを。

 人間と霊、互いに触れ合うことの難しい存在同士の架け橋を千景が担ってくれていることを。


「『あなたがいなくて寂しいけれど、私は大丈夫よ。いずれ必ずそちらに行くから、あなたは気長に待っていてほしい。今まで一緒に生きてくれてありがとう。ゆっくり眠って』…と」


 だから彼女は、千景に言葉を託す。


「はい。必ず」


「ありがとう」


 変わらず悲しげに、それでもどこか嬉しそうな表情でケイコは微笑む。


 

 深くお辞儀をして去って行くケイコの後ろ姿を、千景と老人はずっと見つめていた。


 きっと明日も明後日も、新しい花を持って彼女は此処にやって来るのだろう。

 深く長く思いを紡ぎながら、最愛の夫の名を囁いて。


「……じゃあ、こっちも終わらせましょうか」


「よろしく頼むよ、お嬢ちゃん」


 ケイコやその夫の霊と同じように、老人の顔もどこか晴れやかなものになっていた。

 たとえ霊が視えずとも、声が聞こえずとも、自身に取り憑いた存在が穏やかになったことがわかったのかもしれない。


「では、少しの間でいいので座っててもらえますか」


「ああ、わかったよ」


 老人は言われた通り胡座をかいて地面に座る。


「ゆっくり目を閉じて、ゆっくり深呼吸をしてください」


 取り憑いた霊の事情は粗方理解した。

 間接的とはいえ、最愛の人の声を聞いて言葉を交わしたことで、彼の中に巣食う後悔や未練は吹っ切れたように思う。


「これから貴方を黄泉へと導きます。大丈夫、痛みも苦しみも感じることはありません。だから、ケイコさんの望み通り、ゆっくり眠ってください」



《……ァアア…、ア……アリ、ガ…ト……》



 霊の声を聞きながら、千景も目を瞑る。


 暗闇の中から彼の魂を探し出すように。

 両手を組んで印を結び、呪歌を(しょう)する。



「──死霊を切りて放てよ梓弓、引き取り給え経の文字」




 一陣の風がサアッと吹き抜け、千景の髪を揺らした。








「お嬢ちゃん、今日は本当にありがとう」


「いえいえ、困った時はまた来てくださいね」


 憑き物が落ちたように、いや実際には本当に物理的に憑き物が落ちたのだが、いつもの老人の明るい表情が戻って千景もほっとした。


 初めから自身の手で処理できる程度の案件だとはわかっていたが、実際に親しくさせてもらっている老人の元気な姿を見たことで、心の底から安堵が込み上げてきた。


「今日お嬢ちゃんが何をしていたのか、そのほとんどが私にはわからなかったが……そうだね。お嬢ちゃんが見ている世界を、私も知りたくなってしまったよ」


「ふふ。機会があれば、いずれ」


「また足繁く店に行かせてもらうよ。その時は話し相手になってくれるかい?」


「もちろんです。美味しいお茶を用意してお待ちしていますよ」


 老人からも深く感謝の言葉を述べられた。

 柄にもなく少し照れくさい気持ちが芽生えたことを自覚した千景は、それを隠すように微笑み、遠ざかる老人の背を見送った。



 空にはやや茜色が広がる。

 太陽もだいぶ傾いてきたようだ。



《お疲れやすぅ千景はん》


《………》


「なんだよもう……人がいなくなった途端喋り出しちゃってさ。てか朱殷(しゅあん)も喋れや。お疲れさまは?」


《知るか》


《まあまあ二人とも。早う帰りましょ》


「……はあ、疲れた。今日何食べよう」


《なんでもええけど、そういや冷蔵庫の中カラでしたわぁ》


「うっそまじかよ。まずは買い物か…」


 しばらく夕食について議論していた一人と二匹。

 人のあたたかさに触れ、程よく力を消費した今日は、より美味しくご飯を食べられそうだ。


 

 

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