29 . 不老不死の泉〈五〉
「え、何その目」
「ほんとお前の体力なんなの。底無しすぎてカーネルさんも溺れちゃうよ?」
「は?」
「いやなんでもない」
志摩は霊から逃げる最中も、千景の言いつけ通りずっと呪文を声に出して唱えていた。
それにプラスして、足場の悪い道をせっせと走っていた。
なのに一切呼吸が乱れていないのはなぜだろうか。
怖がっていたことなどまるでなかったかのように、涼しい顔で数分前の過去を振り返っている。
一般人としての心肺機能しか持たない千景は山道を走ったことで、当然の如く息を切らせているというのに、この差は一体なんなのか。
やはりただの人間は、人間を卒業した体力オバケには逆立ちしたって勝てないようだ。
とりあえず川の水を志摩に掛けておこう。
「うお冷てっ。いきなりどうしたよ」
「先に断っとくけどこれは決して嫌がらせとかじゃないから。お前はとりあえず水で身を清めろ」
「どゆこと?」
「それと護符も出して。新しいのあげるから」
「え、おう」
終始ハテナを浮かべる志摩には諸々の説明を省く。
手っ取り早く状況を教えるためにも、いつも護身用に持たせている護符を出させた。
ポケットから出てきたそれは案の定、黒一色に染まっていた。
とてもじゃないがこれ以上護符としての効力は期待できそうにない。
自分の身代わりとして霊障を受け続けた護符を見て、志摩は一瞬にして自分の置かれた状況を把握した。
一目散に靴を脱いで川に入っていく姿は単純に面白かった。
「どこまで浴びたらいいっ?!」
「本当は川に突き落として全身浴を楽しんでもらいたいところだけど。服がびしょびしょになっても動き辛いだろうし、とりあえず手と足と、あとは風邪を引かず濡れても許せるところまで」
「りょーかい!!」
パーカーとシャツを脱ぎ捨てた志摩は豪快に水浴びを始めた。
陽の下に晒された逞しい上半身には洗練された筋肉がよく目立つ。
シックスパックに割れた腹筋は見事としか言いようがない。
着痩せするタイプらしい志摩の身体は、普段は服に隠されているが、一度衣服を脱げばアスリート並みの仕上がりを見せるのだ。
それをアルバイトにしか使わないなんてもったいないと、その筋肉美を見るたび、千景は思うのだった。
水には体の穢れを浄化させる作用がある。
簡単に清める程度なら蛇口から出る水道水でも構わないし、全身にシャワーを浴びればそれなりの効果もある。
家に帰ってきたら手洗いうがいをするように。
一日の汚れを洗い流すために風呂に入るように。
水浴びは菌や土埃といった物理的な汚れを綺麗にするほか、目に見えない身体の穢れを祓う役割も担っている。
そのため、生活の一部に組み込まれているそれらの行為は、心身を清らかに保つためにも、両側面から実に理にかなっていると言える。
こうして直接悪霊の祟りを被ってしまった場合には、やはり川や滝など、自然界に存在する水を使わせてもらったほうが効果は高い。
自然の恩恵はより強い浄化作用が期待できる。
そこらの下手な護符よりも浄化力が強いと信じられているのだ。
「てか、チカならあれくらい祓えんじゃね?」
「そりゃあもちろん」
水浴びを終えた動物のように、志摩は体をふるって水気を飛ばす。
「えー、じゃあなんで俺ら逃げてんの」
「こっちにもいろいろ事情があんだよ。ただ力任せに祓えばいいってもんじゃないの」
思い返すのは先ほどのアレ。
妙な気配を感じつつも、初めは一体だけかと思っていた。
しかし、実際にいたのは六体。
いや、正確には”目で視えた”のが六体だった。ただ視えないだけで、もしかしたらもっと多くの霊がいたのかもしれない。
あそこはいくつもの空間が複雑に混在している場所だった。
視点をずらせば、見える景色が変わる。存在する霊が変わる。
我々人間がいるこの世界を三次元の空間とするならば、まるで四次元に住む住人がちらりとこちら側を覗いているような、そんな空間。
もしかしたらこの瞬間にも。
誰もいないと思っていた隣の空間には、四次元の住人がピタリと身を寄せているのかもしれない。こちらが何も見えていないだけで、向こうには全てを見られているのかもしれない。
そう考えると、恐怖とも興奮ともつかない鳥肌が全身を駆ける。
(──…これだから山は面倒なんだよ)
自分で立てた仮説を笑い飛ばしてやりたいところだが、そういった怪異が平然と起きてしまうのが山という神聖な異界空間なのだ。
「いい? 普段なら祓えるか祓えないかの単純な二択で事足りる。けど、それが山ともなると話は別だ。二択のその先に、祓うべきか祓わないべきかのさらなる選択を迫られる。闇雲に手を出してもキリがないし、全てを片付けようとすればとてもじゃないけど体力が持たない。それに、こういう場所には神と呼ばれるものも多く存在する。下手に触れて手に負えない祟りを被る場合もある。だから逃げられる状況であれば全力で逃げるね。そもそも私って結構怖がりで慎重なんだよ。それこそ蛇の如くね」
体に巻き付く朱殷に手を添わせ、千景は悠然とした笑みを浮かべる。
到底臆病には見えねえんだけど、なんて苦笑した志摩には気づかないふりをして。
「まあ、これは山に限った話じゃないけどね。海でも墓地でも、異界と繋がりやすい場所はいろいろ厄介なんだよ」
「とりあえず術師が思った以上にファンタジーを生きてるっつうことだけは理解した」
「お前もそのファンタジーに片足突っ込んでるってこと、忘れるなよ」
小休憩を終えた千景と志摩は、再び木漏れ日が心地よい森を進むことにした。
川を離れた後も先ほどの悪霊の気配はどこにもなく、ひとまず難を逃れたことに安堵する。
しかしその代わりとでもいうように、妙に嫌な感じが辺りを包み込む。
どこがどういう風に嫌なのか、それを言葉にすることはできない。今のところ直接的な害があるわけでもない。
けれど確実に、チクチクと神経を刺してくるような不快感が肌に纏わりつく。
「気持ちわる……」
一難去ってまた一難。
別になんというほどでもないけれど、なにかある。
ざっと周囲を見渡してみても、これといった原因は見つからない。
ただ、漠然とした鬱陶しさがさらなる不快感を誘うだけだ。
気のせいだと言ってしまえばそれまでだが、過信しない程度には自分の感覚を信じているからこそ、これが気のせいではないと絶対の自信が持てる。
《───ほんま、腹立つなぁ》
微かな苛立ちを孕んだ呟きが小さく銀から零れた。
一瞬千景に向けられた言葉のように解釈しかけたが、どう間違えてもこの白狐が千景に毒づくとは思えない。
それさえ分かっていれば、銀のこの静かな悪態が向けられる対象は限られてくる。
《───あかん。それ以上進んだらあかんよ》
制止の声に、頭より先に体が反応してピタリと足を止めた。
次第に追いついてきた思考が、今度は現状把握に取り掛かる。
数メートル先の木の幹に貼られた呪符と、そこから円状に展開された支配空間。
あと一歩踏み出していたら、おそらく空間への侵入者として、こちらの位置情報が術者に知られていたことだろう。
「結界か」
漠然と感じていた”嫌な感じ”の正体は十中八九これだ。
ひとつだけならまだしも、視認できる範囲で六つ。
よくよく気配を辿れば数十個にも及ぶ。
結界といっても、空間規模でいえば、ひとつの結界符に対して半径十メートル程度だ。ここが広い山の中だと考えれば、ごく小さな範囲にも思える。
しかし、それが隣接するように幾つも展開されているとなれば、多少なりとも息苦しさを覚えずにはいられない。
何より、これほど近づいてもなお、銀に言われるまで結界が張られていることに気づかなかった自分に嫌気が差す。
ここが山の中だから、なんて理由は、たとえ事実であったとしても言い訳にすらならない。
「……無粋な真似を」
決して人間のものではない自然界。
そこに、さも当然とばかりに我が物顔で縄張りをつくっていく。
これを無粋と言わずになんというのか。
思わず忌々しげな悪態が口をついた。
誰が何の目的で結界を張ったのか。
大体の予想はついている。
しかし、だからこそ、余計に。
「ちょっと様子見てくるから、お前はここに…、」
「待って俺をひとりにすんなクソほど怖ェ」
「仔犬か」
「仔犬でもいいから俺も行く」
「じゃあちゃんと私について来いよ」
「おう」
銀と朱殷の感知補助を借りながら、慎重に結界の隙間を縫って進む。
ただの術師が遊び半分に結界を張りまくっているだけなら、見ず知らずのこちらの位置情報をあげても構わないし、ここまで警戒する必要はない。
しかし、この結界の妙な精巧さ。厭らしいまでの徹底ぶり。
極め付けに、感覚を研ぎ澄ませたことで千景の感知網に引っかかった複数の人間の気配。
持ち合わせた情報と覚えのあるやり口から、導き出された答えは──……。
「───誰ですか。今すぐそこを離れて下さい」




