25 . 不老不死の泉〈一〉
ちゃぷんと乳白色の湯に肩まで沈める。
さほど大きな声でなくとも自然と反響してしまう見知らぬ親子の会話を小耳に挟みながら、大きな窓から外の景色を一望する。
夕刻過ぎということで外の木々はライトアップされていた。
徐々に輪郭を現していた月もそろそろ綺麗に見える頃だろう。
日中の歩き疲れを癒すように湯の中で軽く脚を揉み、首と肩周りもほぐしてやる。
はてさてこの湯の効能はなんだっただろうか。
一通り目を通したパンフレットに書いてあったような気もするが、残念ながら覚えていない。
「…ふぅ……きもちー……」
しみじみとした感嘆心の奥底から漏れる。
やけに音を撥ね返す壁にぶつかる前に空気中に消え、他の入浴客に届くことなく霧散する。
聞こえていたとしても、この声が届くのは千景の体の一部と化している朱殷と銀くらいのものだろう。
侍衛か装身具か、もはやその位置付けに迷う朱殷はもちろんのこと、銀でさえも入浴時について来ることは多い。
幼少期から同じ生活を続けているため、彼らがオスだとか擬人化すれば成人男性だとかそういうことを問題視する思考はすでに両者にはない。
そもそも男である前に二匹は動物なのだ。感覚としては猫や犬と一緒に風呂に入るのと相違ない。
それゆえ裸を見られて恥ずかしいなどといった感情は千景にはなかった。
いくつもの種類がある風呂を順々に回り、最後に選んだ一際大きな湯船をのぼせる前に上がる。
火照った体をパタパタ仰ぎながら浴衣を纏い、髪を乾かし、女湯の暖簾をくぐった。
「お待たせ」
「んー。ほい」
「さんきゅ」
投げ渡された冷たいミネラルウォーターを乾いた喉に流し込む。
一足先に湯を上がって涼んでいたらしい志摩も千景と同じように浴衣姿だ。風呂上がりで暑いのか両袖を肩まで捲り上げている姿がなんとも志摩らしい。
なんてくつろぎタイムはさて置き、なぜ二人がここにいるのかと言うと。
この週末、千景と志摩はとある温泉街に旅行に来ていたのであった。
というのも、ことの発端は先日久瀬の依頼を無事完遂したことにあるのだ。悪霊を祓ってくれたことへの礼にと依頼報酬とはまた別にこの旅館の宿泊券を貰ったというわけだ。
ちなみに久瀬に請求した依頼料は、ざっと大手企業勤めサラリーマンの月給数ヶ月分ほどだが、久瀬は二つ返事で快諾し次の日には口座に振り込まれていた。
彼はやはりなかなかの資金力を有しているとみて間違いない。
一日目はこうして温泉街を散策したり大浴場を満喫したりと、思う存分楽しませてもらった。
思い返してみれば、誰かと旅行に行くというのも実に高校の修学旅行以来だ。
友人をたくさんつくってわいわい騒ぐようなタイプでもない千景にとって、修学旅行とはそこまで重要なイベントではなかった。
せいぜい神社仏閣見物が楽しかったという記憶があるくらいで、思春期特有の薔薇色の思い出なんてものはこれっぽっちもない。
人に言わせれば枯れた高校生活だったことは間違いないだろう。
しかしなんら変わらないことがあるとすれば、それはその地特有の霊的存在にビビる志摩が一緒にいるということだろうか。
やはり気心の知れた相手との旅行は心身のリフレッシュにちょうどいい。
「そうそう、お客様方。不老不死の泉の話はご存知でしょうか?」
部屋に運ばれた高級料亭並みの料理の数々に舌鼓を打ち満足感に浸っていると、食器を下げにやって来た仲居からやや気になる話が持ち出された。
「……不老不死の泉、ですか?」
「ええ。ここの裏手の山には、それはそれは大層美しい泉があるらしいです。その泉の水を一口飲めば不老不死が得られるとかなんとか」
お喋り好きなのか、それともこちらが興味を示したことに気がついたのか。
その仲居は愛嬌のある笑顔でその続きを話す。
「なんでもその泉には、神秘的な力が秘められているという噂があるんです。その昔、戦場で大怪我を負った武将がその泉に入ったところ、擦り傷や刺し傷はたちまち癒え、その水を飲んだところ、永遠の命を授けられて今でも生きながらえているらしいと。この噂のおかげで観光客も増えてはいるんですが、その反面、お偉い様方や興味のある方々が絶えず入山しているので、自然保護やゴミといった面で様々な問題も起こってしまっているんですけどね」
その不老不死の泉とやらは、ここの温泉街にとっても一種の観光資源となっているようだ。
しかしどのご時世も権力者というのは不死という言葉に惹かれるらしい。
仲居は苦笑いを零しながら、困ったものですね、と溜め息を吐いた。
「その泉を見つけたって人はいるんですか?」
「いいえ。今のところそのようなお話は聞いておりませんね。たとえ見つけたとしても、人に言いふらす方がいるかどうか」
「ですね。普通なら独り占めしたいって思いますもんね」
「もしご興味がおありでしたら山に入ってみては如何でしょう。もともと登山道が整備された山ですし、森林浴としてもとても人気なんですよ」
どうやら不老不死の泉の話は営業の一環だったようだ。
結局のところ森林浴を勧められ、では失礼します、と仲居は部屋を出て行った。
「どうする? 不老不死だってよ」
「どこにでもそういう噂は付き物ってことね」
「術師から見た信憑性は?」
「ぎりぎり20%ってとこかな。その泉が異界のものだとしたら、不老不死って話も考えられなくはないけど。そもそも噂話にしたってさ……どこぞの武将って、どこの武将だよって話よ。菅原道真の怨霊説然り、坂上田村麻呂の鬼退治伝説然り。昔はこっちの領分に踏み込んできそうな伝説話で溢れてるからねえ。そりゃ不老不死の言い伝えくらいあるだろうよ」
昔から人間が生きる世界とは異なる世界の存在はまことしやかに信じられてきた。
鬼や妖怪、霊的存在がその例として挙げられ、総じて異界の存在として認識されている。
つまり、幽霊や悪霊を相手取る術師は異界の住人と相対していると言っても過言ではない。
実際、陰陽道系の呪術には北東には鬼が棲むことからその方角を鬼門とする考え方もある。
ひとえに呪術と言っても悪霊以外にも様々な異界の存在を相手にしていることがわかるだろう。
押し並べて考えてしまえば、術師は圧倒的に霊的存在を相手取る機会が多いというだけで、鬼や妖怪といった類の存在と遭遇することもゼロではない。
だからたとえもし仲居の言うような不老不死の泉があったとしても、それは有り得ないと頭ごなしに否定はできないのだ。
たった数%だったとしても、そこには真実だという可能性は確実に残っている。
「なんか山から気配とか感じなかったのかよ。不老不死の泉ってことはそれなりに霊力……だっけか? そういう力を秘めてるっつうことだろ?」
「確かに自然界の超常現象は強い霊力を秘めてることが多いよ。それが生命に関係するものなら尚更ね。ただ、今回のはなんとも言えない」
「というと?」
「だってあの山一帯、強い霊力がゴロゴロしてて分別つかないし」
「………まじで?」
「うん、あのレベルだと結構なのがいると思うけどね。そもそも山には神や霊が宿るとされているし、妖怪とかの怪異も多く存在するから別に不思議じゃない。山といえば天狗伝説とかが有名だよね。異界の存在以外の可能性で言えば………てかあんたは何も感じなかった?」
「俺は気配とかは漠然としか感じ取れねえよ。ここら辺のは視えたしなんとなく感じたけど、あの山まではわかんねえわ」
この温泉街は山の麓にあるためか、それなりに霊も多い。
今のところ害をなすような悪霊はいないようだが、いたるところに死霊が佇んでいるのだ。 普段の生活から比べるとちょっとしたお化け屋敷状態だ。
もはやこれしきのことでは一切動じなくなった志摩は、道端に生える木でも見るかのような目で受け流していた。
しかしさすがに感じ取れるのは目に見える範囲とその周囲だけらしく、温泉街を含む山全体の綯い交ぜになった霊力には気づかなかったようだ。
知らぬが仏とでもいうのだろうか。
対処する術を持たない者が変に様々なものを感じて気に病むより、知らないままにしておいたほうがよほど人生を楽しめるというもの。
だから千景はあえて何も教えずそっとしておいたのだ。
「強い霊力が犇めいてるって言ってもその元がなんなのかわかんないし、その中に件の泉があるかもわかんない」
「……そいつらでも無理なのかよ」
「こいつらだってなんでも感知できてなんでも解明できるほどチートじゃないからね」
万能だが完全無欠とはまた違う朱殷と銀を茶化すようにひと撫でして、テーブルの上の温泉饅頭に手を伸ばす。
和洋どちらの菓子も好きな千景であるが、饅頭は和菓子の中でも二番争いには必ず入ってくる甘味だ。
ちなみに和菓子トップは堂々の豆大福。これだけは絶対に譲れない。
「こりゃ実際に近づいてみなきゃわからんね」
「本当にあんのかよ。その不老不死の泉とやらは」
「なに、興味あんの?」
「興味っつうかそういう二次元御用達の産物が実際にあるなら見てみてえだろ」
「ふうん」
饅頭の薄皮と甘い餡の調和を堪能しながらしばしの間思案する。
この温泉街は今日のうちにほとんど見て回った。
この旅行自体のんびりすることを目的としていたので、どこか遠くへ観光に行きたいというわけでもない。
帰るのは明後日の予定だ。
つまり明日は一日フリーということになる。
「それじゃ、明日は森林浴にでも行ってみますかね?」
「よしきた!」
テンションの上がった志摩も饅頭を口に放り込み、満足そうに口元を緩める。
この男もまた何気に甘味類、とくにどら焼きや饅頭などの餡子を使った和菓子が好きなのだ。
こちらにも寄越せと催促してくる動物二匹にも小さく千切って分けてやるとご満悦の様子。
本当にどうでもいいが、やはり甘味は世界に平和をもたらすと改めて実感した。