#1 オタクはいつも自分の好きなものの話をしたい
『俺の名はハーディ。このランプに住まう精霊だが、“サマ”はつけなくていーぞ』
まさか本当にランプから“出て”くるとは思わなかった。ランプを持ったまま、リーは自称精霊を凝視してしまう。
精霊は端整な顔だちをした青年だった。この国ではあまり見ない褐色の肌に陽光で織ったような金髪、それから海の色をした目。背はリーより頭ひとつ分ほど高い。別の場所で会っていたら、その神秘的な容姿にリーは見とれていただろう。
が、精霊は裾のほつれたシャツに前開きの上着、足首を出したパンツにサンダルといった、暇を持て余して真昼間から町をぶらついている近所のにーちゃんのようないでたちをしていた。どことなく俗っぽいというかスレている雰囲気と合わせて一気に神秘性半減といった趣だ。
『反応うっすいなーおまえ。ランプから精霊が現れたんだぞ、もっと驚けよ』
言いながら、精霊――ハーディがふと、何かにひっかかったように片眉を動かした。リーをのぞきこみ、「女か」とひとりごちる。
『で、願いはなんだ? その貧しいボディラインをもっとロマンティックにしてえとか、どんな野郎も一瞬でおまえの虜になるような美女になりてえとかか? いいぞいいぞ、軍隊なんかなくても一晩で一国を落としちまうような美人にしてやる』
ハーディがえっへんと胸を張った。とりあえずランプを床に置き、リーは首をかしげる。
「…なんで店のおじさんがこすったときは出てこなかったの?」
『そら、俺みたいなのがほいほい出て来たら世の中がおかしくなるだろ』
「制限がついてるんだ。すごいね」
我知らず笑顔になった。新しいお話をねだる子どものように身を乗り出し、リーはハーディに顔を近づける。
「“ランプもの”のパターンには二つあって、一つはランプが自分を長年大事に使ってくれた持ち主に恩返しをするために願いをかなえるパターン、もう一つが、ひとびとを困らせていた精霊をこらしめるために魔法使いが精霊をランプにとじこめるパターン。後者の場合は、ランプから出してくれたお礼や、ランプの呪いから解放されるための条件として願いを叶える。あなたはどっち?」
『覚えてるかよ、そんなもん。生まれたときから“こう”なんだからよ。てかおまえ願いごとは』
「“モンザ・ケビーラ”」
窓の外で海鳥が鳴いた。リュックから紙の束をひっぱりだし、リーはそのうちの一ページをハーディに見せてやる。
白黒の走り書きのような絵は冒険者オルドビス・デーンが描いたイメージ図だ。位置の逆転した海と空に挟まれて巨大な都市が浮かんでいる。
「ケビーラ教の聖典に書かれている伝説の国の名前。ヴァスラの書といって、この国最古の歴史書だよ。モンザ・ケビーラはそのなかで“いつか帰るべき故郷”として説かれている。『神の国』、『理想郷』ともよばれるよ。モンザ・ケビーラ実在説の最初の提唱者でもあるオルドビス・デーンは、伝説時代よりもっと以前、人間はここに住んでいたのではないかと考えた」
伝説時代というのは、現存する文献以前の時代として定義されている。
リーは絵の端に描かれている翼のある人間を示した。
「絵が途中で破られてるの、わかる? 理由はわかってないけど、おそらく“人間”たちが都市から落ちている様子が描かれていたんだろうって言われてる。わたしたちはこのひとたちの子孫だっていうのが彼の主張だよ」
『へえ、その絵の通りなら、おまえにも翼があるわけ?』
「ないよ。そもそもモンザ・ケビーラを“在ったもの”として扱っている歴史書はヴァスラの書しかない。だからモンザ・ケビーラは、ケビーラ教の始祖がひとびとに説くために創作した理想郷、つまり創作上の存在として扱われてきた」
『そりゃそーだ、そいつの頭ン中にしかねーんならフィクション以外の何物でもねーだろ、普通に。世界ってのは共有することでなりたつんだ。あー、わかったぞ、それが願い事なんだな。もう現実なんか嫌だ、フィクションの世界に逃げたいってやつ。オタクあるあるだよなー』
白けた表情でリーの話を聞いていたハーディが、にわかにひらめいた、という表情で膝を叩いた。オタク。初めて向けられた単語に、今度はリーが困惑する。
(オタク…)
否、道を究めんとする者にとっては最高の賛辞であるはずだ。オタク結構。なのにどうして自分はこんなにダメージを受けているのだろうとリーは頭を悩ませる。
ハーディが得心したようにうなずいた。
『そーかそーか、ガキなのに苦労してるんだな。いいぞいいぞ、この俺様といえどさすがに世界を創ることはできねーが、夢を見せることくらいなら――』
「待って」
ハッと顔を上げ、リーはハーディを止める。
「誰か呼んでる」
灯台の入り口からリーの名をせわしなく呼ぶ声に、とてもとてもリーは心当たりがあった。しかも、声のようすから察するにものすごく怒っている。あわてて荷物を片付けながら、リーは投降と逃亡を天秤にかける。
ハーディが不思議そうにそちらを見た。
『なんだよ、知ってるやつか?』
「おねえちゃんだよ、二番目の」
『ねーちゃん』
刺すような太陽の光を背に負い入り口に立っていたのは、案の定次女のタトラだった。黒髪にリーと同じ赤銅色の瞳。目の覚めるような青いドレスと金のヒジャーブは貴族の令嬢たちの間で流行しているスタイルだ。
駆け足してきたリーをぎろりと睨み、タトラは形のいい眉を動かす。
「今日は特別な晩餐会だから出かけちゃダメって言ったはずだけど、おかしいわね、大小300以上といわれる国内の遺跡の名前と、書庫にあるあの気が遠くなりそうな量の考古学関係の本をすべて暗記しているあなたが、そんなことも忘れちゃったかしら」
「……」
「先代国王にはご意見役として重きを置かれ、現国王においては家庭教師を務め、先代のときと同じように重んじられているお父様の娘であるという肩書と、トリアス・ゼノン教授以来の天才という評判。加えてあなたは今年で十六になったわね、リー。社交界に自分がどう見えているのか考えたことは?」
「…ないよ」
リーは正直に答える。だって貴族たちの会話ときたら今は何が流行していて、誰と誰が婚約しただのどの家にどんな功績を成した、あるいは地位の男性がいるかだのそんなことばかりで、退屈で退屈で仕方がなかった。何が好きかときくから答えただけなのに頭がおかしいとか言われるし。
「わたしは考古学者になるから結婚はしない」
「だけど貴族の後ろ盾なしで生活ができると思って、リー? あなたの尊敬するゼノン先生だってたくさんのスポンサーがついているのよ。どうしてだと思う? 先生がきちんとそういう場に出ておつきあいをしているからよ」
知っているでしょうとタトラに言われ、リーはうつむく。リーはゼノンの研究室に所属しているので、何度か彼の手帳を見せてもらったことがある。スケジュール欄はほとんど夜会で埋まっていて、それを口にしたリーに、ゼノンは困ったように笑んだのだった。
タトラが続けた。
「あたしが来たのは、家のひとたちじゃあなたが“お嬢様”の立場を利用して逃げるからよ。この意味がわかるわね」
「…誰かお父様にとっても大事な人がくるの?」
「そんなのいつもよ、リー。今夜のメインはあなた。セドリック団長がね、じきじきにあなたと話がしたいってお父様にお願いしたんですって」
「セドリック団長?」
リーが首をかしげると、タトラは「やっぱりね」というように肩をすくめてみせた。
「セドリック・クラーレン団長。あなただってさすがに歴史ある王下騎士団くらいは知ってるでしょ。とても神秘的で姿かたちのうつくしい方だけど、あなたから見たら少し年上になるかしらね。でも、お父様の個人的なお知り合いみたいだから、あなたとも話が合うんじゃないかしら」
さあ帰るわよとタトラがリーの腕をとる。大変だな、とそれまで二人の様子を見ていたハーディが言った。これはなんだ? とタトラの乗ってきた車を指さして問う。
「車だよ」
車が動き出すのを待って、リーは彼に教えてやった。どうやらタトラにも運転手にもハーディの姿は見えないらしい。走行中の車の音は怒鳴らないと会話も満足にできないほどだが、さいわいハーディには関係ないようなので、リーは小声で続ける。
「四駆式といって、ガソリンで動く。最大乗員数は運転手を含めた大人三名。周辺国とのさまざまな技術格差を憂えた先代の国王の時代に開発・製造された」
一般普及までを目標とした着手ではあったが、まず車の操作には特別な技術が必要であり、日常的な整備と燃料の確保が必要になる。前述の通り運転中の騒音がとにかくひどく、タイヤが小石を踏むだけで大きく車体が揺れたりエンストを起こしてしまう。ガソリン以外の材料も他国から輸入しなければならず、そのため一部の富裕層にしか購入できないような販売価格になる等の理由から現在では製造が停止されている。
『その“一部の裕福層”がおまえんちか。そのねーちゃんの話でだいたい事情は察したが、大変な家に生まれたもんだな、えーと、』
運転の様子や車の前輪をのぞきこみながら、ハーディが返した。返して、何かに思い至ったようにリーを見る。そういえばまだ名乗っていなかった。うなずいて、リーは答えた。
「“リー”でいいよ」
『改めて名乗る。ハーディだ。よろしくな、ご主人サマ』
車がガタゴトと爆音をばらまきながら、灯台からの坂道をくだっていく。好奇心旺盛な子どもたちが次々と車を指さしては歓声をあげた。