覚醒 3
「もう疲れたわ…」
安西玲香が前を進む無口な男に言った。
男は何も言わず振り返った。
「…はあ、何とか言ってよねぇ」
しかし男はやはり無言のままだ。
「私、疲れたの。先を急ぐのは分かるけど少し休憩しましょう」
男はただ、じっと玲香を見た。
「もう、分かったわよ。先に行くんなら私を負んぶしてよ」
ヤケになった玲香は男を困らすような事を言ってみた。
男は黙って玲香の所へと歩み寄る。
「な、何よ。何か文句ある…私はあなたの上司よ」
少し脅えた風に玲香は悪態をついた。
スッ
突然、男は背中を向けるとしゃがみ込み、玲香を見て「乗れ」と言うように手を差し出した。
「ホントにいいの?」
キョトンとした玲香は男に尋ねる。
男は無言で見た。
「あ、ありがとう…」
玲香はそう言うと男の背中に負ぶさった。
「きゃっ!?」
男は立ち上がると疾風のように山道を駆けだした。
この男は何? 人なの? 一体、被験体って何なのよ!
玲香は夜風に当たりながら登山道を男に背負われ駆け上がって行った。
真夜中の登山道に心細い明かりが一つ。
どれだけの距離を歩いたのだろう。
懐中電灯を手にした朝倉はふと、そんな思いに捕らわれた。
スッ
小さな明かりが突然消えた。
「くそっ」
数年前に購入し車に入れたままで、電池も初めから入っていた物がそのままだったのだ。長時間、明りが持つ訳がない。
冷たい夜風が朝倉を笑う。
「こんな事なら、換えの電池でも持って来るんだった…」
靴を履く暇すらなかった朝倉が換えの電池など持っている訳もなく、独り愚痴をこぼした。
”備えあれば”何とやらが聞いて呆れる。
先を急ぎたい朝倉だが、目が闇に慣れるまで一息つく事にした。
「…俺はこんな真夜中の山奥で何をやってんだ?」
ふと、脳裏に十二年前、山中で死んだ刑事を思い出し、朝倉は暗く無音の世界で孤独を感じていた。
「…寒い」
溜息が漏れる。
ザッ
その時、今まで朝倉が登ってきた登山道の方から微かな音が聞こえた。
「何だ?」
朝倉は音の聞こえた方に目を凝らす。
ビュウッ
「うおっ!?」
突風。
突然、朝倉の目の前に黒い影が現れた。
熊!?
朝倉は一瞬そう思った。
「テッちゃん見ーっけ!」
あからさまに場違いな明るい声。
「…あ、安西?」
朝倉はこんなにも早く追っ手に発見された事よりも、玲香が黒服の男に負んぶされている事に驚いた。
「いやーん。安西なんて言わないで玲香よ、レ・イ・カって呼んでちょうだい」
玲香はおどけた調子で言った。
「…れ、玲香って…何言ってんだ、あんた?」
朝倉は呆れて玲香に返した。
「うふ、「玲香」だってちょっと聞いた」
そう言うと玲香は男の背中をバシンと叩いた。だが男は無言のままだ。
「くっ!」
先に動いたのは朝倉だった。
「ひゃっ!?」
玲香の小さな悲鳴。
朝倉はズボンのベルトに押し込んだガバメントを咄嗟に抜こうとした。が、男の素早い動きがその腕を掴み、次の動作を封じた。その際、背負っていた玲香は支えを失い地面に尻餅をついた。
「くそっ。離せ!」
朝倉の声に男は反応しない。
ゾッとした。暗闇の所為か男の目にはまるで生気が無い…むしろ死人のような目をしている事に朝倉は恐怖を感じた。
「痛ったーい…何するのよ!」
玲香の声に男は反応し振り返った。
その隙を狙って朝倉は男の側頭部に拳を繰り出す。しかし、男はその動きを読んでいたのか振り返ると同時に朝倉の左拳を掴み、拳銃を掴んでいる右腕をひねり上げた。
同じ轍は踏まない。
「うがああああああ!!!」
堪らず朝倉は声を上げた。
「はい、ホントにゲームオーバー。ご同行…いえ、連行ね。公安当局がその身柄を拘束します。残念ね朝倉君」
ゆっくりと立ち上がりながら玲香は言った。
ダンッ
その時、玲香の目前に黒い物体が舞い降りた。
獣…いや、人だ。だが、額に妖しく揺らめく一本の角…鬼。
赤い眼が玲香を捕らえた。
シャッ
鬼が玲香を払い除ける。しかし、その瞬間無口な男が朝倉を離し玲香を抱き抱えてその場を跳んだ。鬼はそれを確認する事なく夜空に高く跳び去った。
その手には黒い剣。
ザッ
朝倉の前に一陣の風。
「隆司いいいっ!!!」
山道の脇から少年が現れ、鬼と同様に跳躍をする。
「か、神崎…直人?」
朝倉はその名を口にすると我に返った。
「降魔必中っ…くっ!?」
二人を追い、少女が茂みから現れ矢を放とうとしたが、落下する隆司と飛翔する直人の背中が重なり放つ事が出来ずその場を跳び去った。
「な、何よあれ…?」
玲香は三人の跳び去った方向を眺めて言った。
ダッ
「何!?」
男は無言で立ち上がると、この場を去った者達を追い森を掻き分け駆けだした…アレもまた人の動きではない。朝倉はそう思った。
「ちょ、ちょっと…どこ行くのよ!」
玲香は走り去った男を呼び止めるがすでに姿はない。
「深山ゆかり…神崎!」
「待ちなさいっ!!!」
朝倉は人非ざる者達が消えた森に駆け込もうとしたが、玲香に身体を後ろから抱き止められた。
「離せっ」
「あなたは知っているはずよ!」
「何だと!」
朝倉は玲香を振り返る。
「あれが何だか…」
脅える玲香の瞳。
「…知っているさ! あれが神崎直人で深山ゆかり…そして、鬼だ!」
玲香を振り放そうと朝倉は叫んだ。
「解っているなら、ここまでにしなさい!」
「何故だ! あれは俺の仇だぞ!!!」
なおも朝倉は喚く。
「知っているわ。でも君は知らないっ…今、ここは現場!」
「…現場…」
玲香の言葉で少し朝倉は落ち着きを取り戻す、やはり”現場”という言葉に刑事として反応したのだ。
「そうよ。ここは今、闇風の特鬼戦…特殊鬼動戦闘員の戦闘領域、私達の様な普通の人間が紛れ込んだら一溜まりもない異界なのよ!」
なおも玲香はしがみ付く。
「何だと。あんた”闇風”じゃないのか!」
「そうよっ、私は”闇風”よ。でも正しくは公安警察に所属する闇風諜報機関の人間よ!」
「…どういう事だ?」
ようやく動きを止め朝倉は尋ねた。
「私…安西玲香は公安警察に籍を置く闇風のエージェント」
本物の鬼に脅え任務を忘れたように、玲香はゆっくりと語り出した。
「…意味が分からん」
「つまり、私は国家の対魔封殺機関闇風の諜報部、環境領域安全課の情報管理班に属する人間…」
「何だそりゃ、何かの冗談か?」
「冗談ではないのよ、実際にそう言う組織は存在する…そして私は公安警察に身を置いている闇風の一員…」
安西は自ら取り乱し、己の素性をターゲットに話してしまった事に気がつき目を逸らした。
「何で公安に籍があるんだ?」
「公安に属していた方が行動に何かと便利なのよ…そうね闇風からの派遣、出向みたいなもの。扱うのは妖魔災害だけではなく、一般的な政治色の強い事件…まあ、公安だから特殊な事件も担当するわ。でも闇風からの指令は国からの…勅命と同じ事なの。だから、あらゆる枠から外れた権利を持つ公安が、一番都合が良いから私のような人間は正式に配属されている。正式と言っても公表はしない。闇風は存在しない組織、そして公安は秘匿主義だから成立する裏の密約…それに、”鬼”を相手にするって意味では同じでしょ?」
玲香は静かに語った。
「なるほど…同じ穴の狢か…驚きだな。結局、”闇風”ってのはどこにでも精通している国の特務機関て訳か。昔風に言えば…まるで”秘密結社”だな」
一瞬の間をおいて朝倉は合点がいった。
かつて、日本では国家の体制に異論を唱える者やその反対勢力を服わぬ者、”鬼”と呼び討伐してきた…そう言った意味では公安警察も同じである。現代の「鬼」と呼ばれる者達の呼び名が「過激派」や「テロリスト」に変っただけで鎮圧するという意味では闇風と大して変らない。
朝倉の言葉に玲香は無言で頷いた。
「だから、これ以上の介入は危険なのよ。私自身、知識として知ってはいたけど”鬼”を見たのも初めてなら”特鬼戦”を見たのも初めて…今まで、こんなニアミスなんかした事無かったのに…それにあの男。一体? あれは聞いていた特鬼戦の動きだったわ…」
玲香は感慨深げに言った。
「あの男? 連れの男の事か」
朝倉も死んだ目をした男を思い返した。
無口だがあの動きや気配、確かに並の人間ではない。部屋で朝倉が男の顎に拳がヒットしたのは本当にまぐれだったように思えた。
「…追うぞ」
朝倉は言った。
「え? 何言ってんの君正気。私の言った事理解したの? 特鬼戦を追うのはとても危険な行為なのよ! あれが何だか知っているんでしょう君は…鬼よ! 国家最重要機密の魔怪なのよ!」
玲香の顔から血の気が失せていた。
「解っている! だからこそ知りたいんだ。平井さんは死んだ。神崎直人とは何者だ、深山ゆかりとは誰だ。そして鬼が何なのか、なぜ存在しているのか。何より鬼は俺にとって仇だ!」
浅倉は渾身の力で哮えた。しかし、瞳は玩具を与えられた子供のようにキラキラと輝いていた。
「…き、君は…憑かれているの?」
「何!? いや…そうかも知れない」
玲香の言葉に朝倉はハッとした。
確かに俺は何かに憑かれているのかも知れない。色々、刑事としての大儀を掲げていても、本当はこの”鬼”の件がスリリングの連続で楽しくてしょうがないのかも知れない。「道を外すなよ」署長の言葉が朝倉の脳裏に甦る。
刑事失格。
俺は、もう…。
「ねえ? ちょっと何とか言いなさいよ。急に黙ちゃって…怖いじゃない」
玲香は朝倉の様子がおかしい事に気がついた。
「…退けない」
「何?」
「退けないんだよ! 俺はもう!!!」
パーンッ
マズルフラッシュ。
朝倉は手にしていたガバメントのセーフティーを外し地面に9ミリ弾を撃ち放った。
「ひっ!?」
安西は一瞬硬直した。突然の発砲、場合によっては”鬼”にではなく自分は刑事の放つ凶弾に倒れるかも知れないと思ったからだ。
「これは試射であり、あんたへの警告だ」
拳銃に動作不良はなかった。
これなら…イケる。
”鬼”と戦える。
朝倉はそう確信した。
「…そう。君の決意は解ったわ。でも私にも任務があるから「はい、そうですか」なんて君を見す見す逃がす訳にもいかないの」
玲香の瞳は至って冷静だ。
先程の発砲が公安警察としての自覚を取り戻させたのだろう。
「では、どうする?」
カチャリと朝倉は銃を玲香に向けた。
「私も君に同行するわ」
「何だと!?」
計算外だった。朝倉は銃で脅せば、このまま行かせてもらえる。と、考えたからだ。事は映画のようにはいかない…いや、むしろこの展開こそが映画か。と朝倉は苦笑した。
「…いいだろう。あんたが居れば何かと役に立ちそうだ」
朝倉は銃を納めた。
「さっすが私が見込んだテッちゃん」
なぜか楽しそうに玲香は言った。
「…テッちゃんて言うな」
「それじゃ、闇風特製の暗視ゴーグル!」
”ビカビカ”っと交換音を入れたくなるような、どこかの子供向けアニメの真似を玲香はした。そして首にずり落ちていたゴーグルを朝倉に渡す。通常の暗視ゴーグルとは僅かな光を機械的に増幅させ闇を昼間のように映し出すカメラのような物だ。こんなに軽量で薄くは出来てはいない。
「暗視? そんなスキーゴーグルみたいのが暗視な訳無いだろ」
「ノン、ノン。君、公表されているテクノロジーはほんの氷山の一角って言うでしょう? 特に軍事技術は。さ、騙されたと思って掛けてみなさいよ」
朝倉は玲香の言われるままに顔にゴーグルを当てた。
「なっ!? 嘘だろ…」
朝倉の視界にまるで昼間のような景色が現れた。
「それと…」
ピッという電子音。
玲香はスマートフォンのモニターを眺めた。
「何をする気だ? こんな山奥じゃ、電波も入らないだろう…」
ゴーグルを外した朝倉が夜の闇に目が慣れない状態で玲香に言った。
「電話じゃないわよ。GPSであの男の現在位置を見ているの」
「分かるのか?」
「ええ…彼の位置はここから南東に向かって移動中」
なぜ、闇風は彼に発信器なんか付けていたのかしら…こうなる可能性があったの? 本部は…科学研究班の連中は何をしているの。玲香は徐に思った。
「それで、俺を追ってきたって訳か」
「ええ、そうよ。さあ、グズグズしてられないわよ! きっと彼の行き着く所に君の求める物があるわ」
玲香が促した。
「ああ、あんたやっぱり役に立つな」
朝倉は言うとゴーグルを装着し玲香と共に常識を越えた異界へと足を踏み入れて行った。




