魔怪 2
緋桜市の郊外にある、御鈴駅へと続く夕刻前の人道りの少ない商店街を走る影が一つあった。
博子は、ただひたすら走っていた。
犯してはいけない罪を犯しそうになった自分から逃げるように。
「ハア、ハア」
呼吸が上がり走る速度をゆるめ、歩き出した。頭の中は混乱していたが、事態を整理しようと博子は努めた。
なぜ、私は逃げているのか。どうして直人を殺そうとしたのかを自問する。
心の奥底で何かがモゾリと動いた気がした。声にならない声が大切な者を他人に奪われる前に、永遠に自分の物にしてしまえ、そう言った気がした。
「わ、私は、そんなこと出来ない…」
博子は知らず呟いた。
モゾリ、再び博子の心の中で何か動く感じがした。
そんな事は無い。私は出来る、直人を私だけの物にしてみせる。現に私は彼の命を奪おうとした。
博子の自問自答は続く。
「でも…」
自分の中でまた何かが動くのを感じた。
(直人の心の中から私が消えてもかまわないのね)
声無き声は言う。
「いやっ」
(なら簡単。彼を心の一部にしてしまえば良いのよ。幸せの為に、私の…)
「そんな…私」
モゾリ、何かが動き答える。
(昨夜の気持ちを思い出して、彼を奪うと決心した時の事を思うのよ。あの時の興奮を忘れてはダメ)
博子の中に在る自分が言った。
「狂ってる…私、壊れている」
(そう…私は狂気の世界を生きている。壊れた現実に身を置いている)
「…そうね」
博子は瞳を狂気の色に染めて呟いた。
そうよ。心の奥底で今度は一際大きく何かがモゾリと動いたのを、博子は強く感じ、これが私の現実…本当の気持ちなんだと信じ再び走り出していた。
直人は商店街を一人歩いていた。
何故、博子に殺されそうになったのかと言うことよりも、博子に殺されかけたと言う現実にショックを受けていた。ただ何も考えられずに直人は歩いた。
「神崎君」
後ろから呼ぶ声がした。しかし直人の耳には届かない。
「神崎君!」
今度は肩に手をかけられ名を呼ばれた。
その行為で現実に返った直人は、反射的に振り向いた。
「どうしたの。ボーッと歩いて…顔、真っ青だよ」
振り返った先には、深山ゆかりが心配そうに直人を下から覗き込んでいた。
「深山」
それが誰なのか、直人は理解するのに一瞬の間があった。
「何かあったの?」
ゆかりは瞳を曇らせて質問した。
その言葉で浮かぶ事柄は一つしかないと直人は思った。こんな時、深山の優しいお節介がこれ程ありがたいと感じた事は無かった。
「いや、ちょっと…ね」
「”ちょっと”でそんな顔になるの?」
「ははは…まあ、な」
力無く直人が笑う。
「やっぱり変だ」
確信したようにゆかりが言った。
「え?」
「だって神崎君、私が余計な事言うといつも「お節介だぁ」とか言って機嫌悪くしてたじゃない。今朝だってそうだよ。だから絶対に変だ」
「そうだっけ…そうだな。今まですまなかった」
直人は今、他人との会話で少し救われた気分になり自然に謝る事が出来た。しかしそれがゆかりを更に心配させたのは言うまでも無い。
「ほーら、またおかしい」
ゆかりは腕を組み頬を膨らませながら直人を覗き込んだ。
ポニーテールが揺れる。
「ぷっ」
そんなゆかりの態度が直人には妙に愛らしく感じたのでつい吹き出してしまった。
「あっ、今度は笑った。絶対おかしいよ神埼君、熱でもあるのかな」
そう言いながらゆかりは直人の額に手を乗せた。
「!? 熱なんかねえよ!」
ビックリした直人は、その手を跳ね除けた。まだまだ異性には恥ずかしい年頃である。
「あっ、いつもの意地悪な神崎君だ」
うれしそうにゆかりが言った。
「わ、悪かったな、意地悪な神崎君で」
「うん。元気になって良かった」
本当に直人を心配していたようだ。
ゆかりはニッコリと微笑んだ。
それを見た直人はドキッとした。
「で。深山はここに何か用事でもあるのか」
笑顔に動揺した直人は間抜けな質問をしたと後悔した。
「駅こっちだから。大丈夫?」
「…ああ、大丈夫だ」
「それに「カラオケ・デシベル」で卒業祝いやるって言うし。神崎君も来るんでしょ?」
そう言えばそんな話があったなと直人は、隆司の老け顔を思い出した。
「まあね。でも俺は今日、歌う気分じゃないんだよ。本当に」
「そうなんだ。じゃあ、私も今日はキャンセルしようっと」
はあ? と直人が不思議そうな顔をする。
「今日は神崎君と色々話しがしてみたいなぁ」
「俺と話し?」
「そっ。だって今まであんまり話し出来なかったから、ねっ。良いでしょ」
確かに深山とはあんまり話しらしい話しをしなかったなと、直人は思い反した。
「ああ、いいよ」
直人も今は人と話していたい気分だったので承諾しながら、心の中で自分の弱さに毒づいた。
二人はそのままファミリーレストランでお茶をしながらお互いの事を話し合った。ゆかりは卒業式の後、何があったのかと言う質問はしなかった。そして直人もその事について語ろうとはせず馬鹿な話を終始続けた。ただ、時折ゆかりは冷たい眼差しで直人を見つめる。まるで何か違うモノを見るかのようにだ。その事について直人が言うと、「女の子の日だから、たまにボーっとしちゃうんだあ」などとさばけた態度で直人を困らせ、そんなゆかりの新しい一面に驚かされた。
しばらくして外が暗くなった事に二人は気が付き、直人が時計を見ると既に夕方の六時を指していた。二人はそれからすぐに会計を済ませ、駅へと向かった。
「今日はありがとね。楽しかったよ」
ゆかりが最初に今日のお礼を言った。
「いや、俺の方こそすまなかった。今日はその…」
直人は出遅れた事を恥じた。
「ううん。いいの、本当ありがとう。でも私、欲しかったな神崎君の第二ボタン」
「第二ボタン?」
直人は自分の胸元に手をやりながら見た。確かにボタンが無くなっている。
瞬間、脳裏にギラついた目をした博子がフラッシュバックした。そのまま固まり言葉を失った直人にゆかりの言葉は続く。
「後輩かな? いや、そんな事は無いか。神崎君、部活なんかやってなかったもんね。同級生かな。あっ、隣のクラスに居た彼女? う~ん、それも変かぁ」
ゆかりの言葉に、ビクリとした直人は固く閉ざしていた口を開いた。
「博子だよ」
悲鳴を上げて走り去った博子の後ろ姿が直人の脳裏に浮かぶ。
その後、ゆかりが何を言ったのかよく分からない。ただ「またね」と聞こえたような気がした。しかし、今の直人はそんな事よりも再び思い出された悪夢のような現実に引き戻されてしまった事への憤りを感じずにはいられなかった。
「所詮、現実逃避もここまでか」
そんな言葉が直人の口から漏れ「はは」と乾いた笑いを漏らしながら人混みの御鈴駅へと消えていった。
だが、そんな直人を見えなくなるまで追っていた鋭い視線がある事を知るはずもなかった。