魔怪(まかい) 1
ゾクリ。
背筋に悪寒が走った。
「…はあ」
直人は深いため息をついた。
横断歩道の反対側の桜の下に、一人の色白な少年が直人をじっと見つめている。
「まったく」
一人愚痴ると直人は、青になった信号を渡り出す。
少年に近づくにつれ姿が薄れているのが解かる。
無視を決め込んだ直人を見つめる少年が、ニタリと笑いその場から掻き消えた。
気配が無くなるのを確認すると直人は再びため息をついた。
「前途多難だ」
直人は腕時計に目をやった。
「まずい。今日は、さすがに遅刻は出来ない」
言うと直人は桜並木の下を走り出した。
例年よりも暖かい陽気に恵まれ、少し早い桜の開花が春の訪れを告げていた。空は冬のなごりか青く何処までも澄みきっている。
“第四十八回卒業式”
私立若宮学園高等学校は緋桜市の中心から少し離れた山間にあった。今日卒業を迎える生徒達がいた。県道から学校に続く道には五分咲きの桜並木、その下を今日の門出を祝う卒業生の父兄たちが正門をくぐり、会場である体育館へと足を運ぶ。卒業生たちは最後の制服に身を包み、開式までの時間をそれぞれの教室で思い思いの時を過ごしていた。普段通り騒いでいる者、テレビや雑誌の話題で雑談する者。また、好きな相手への告白などの一大決心を茶化されて浮かれている者など様々だ。だが、教室内には気の抜けた様な生徒も所々にいた。
そんな中の一人、窓際の席で暖かい日差しを受けて頭髪が栗色に光る少年は頬杖をついていた。
神崎直人も心ここに在らずと言った風にただよく晴れた空を眺めていた。
「先も決まらず卒業とか。まったく俺は…」
直人は頬杖をついてため息をついた。
受験に失敗したのだ。
せっかくの門出だと言うのに、鮮やかな空の青や淡い桜色に彩られた世界がやるせない気分のせいで色あせて見える。
外では何やら詰襟の男子生徒とセーラー服の女子生徒達が数人で体育館へと急ぎ折り畳み椅子を運んでいる様子が見て取れた。参列予定の在校生が足りなくなった父兄用の椅子でも運んでいるのだろうか。
「ご苦労な事で」
気の抜けたような独り言。
直人は日差しを受け茶色がかった瞳を細めてまた一人ため息をついた。
「何か言った? 神崎君」
その時、直人の脇を通りかかった女子生徒が明るい声で尋ねてきた。
「いや、何でもない」
あまりにも唐突な質問に直人は我に返った。
「そうなの? あんまり深刻な顔して一人事言ってるから心配しちゃったよ。ちゃんとご飯食べてきたの? 朝食は一日のエネルギー源だよ。ちなみに私はハムエッグ」
得意満面にエクボのかわいらしい少女は言う。
……そんな事は聞いてない。
直人は形のいい眉を歪ませ、げんなりとした。
深山ゆかり。この少し能天気な子は、直人と二年から一緒で、何かと話し掛けてきた。
小柄でクリクリしたタレ目。最近では見かけなくなった…と言っても時代遅れな感じのないポニーテールがよく似合うかわいらしい女の子。性格も明るく、周囲に気を配り同性にも受けが良い。その上、勉強もできクラス委員までこなす優等生である。異性にモテる要素を持っている子だ、一つの要素を除いては。
「何か悩みでもあるの?」
何気なく腕を組み、ゆかりは聞いてきた。
「悩みなんて山程あるよ」
直人はうっとうしそうに答える。
確かに悩みはある。受験に失敗した事、直人の付き合っている彼女、竹下博子の事。最近、博子との仲が何故だかギクシャクしてきていた。
「ほらぁ! また深刻な顔してる」
ゆかりがまた心配しているように言った。
「いいだろ! ほっとけよ」
深山ゆかりはお節介なのだ。
直人の脳裏に「小さな親切、大きなお世話」または「ありがた迷惑」などという言葉が浮かぶ。
ゆかりのこう言うお節介なところが直人は嫌いだった。そのせいで少し強い口調で言ってしまった。しかし、一人で居たい時と言うのは誰にでもある、直人は今そんな気分だったのだ。
ゆかりはびっくりした顔をして直人の側から小走りに去ってしまった。
それを見ていた隣のクラスの杉森隆司がニヤニヤしながら寄って来ると直人の肩に手を置いた。
「だめだなぁ、直人。女の子に怒鳴っちゃ。いつも言ってるだろう、女子には優しく接するもんだって。ゆかりちゃん泣きそうな顔してたぞ」
「分かってるよ。ただそんな気分じゃなかったんだ」
「なるほど。受験に失敗して、卒業だもんなぁ。解かるわかる…でもなぁ、長い人生のたかが一年や二年が何だって言うんだい」
隆司がうんうんと頷きながら芝居がかった口調で言った。
「おい。誰が二年もなんだ! 誰がっ」
人の気持ちも知らないでよく言う、と直人は思った。
隆司とは一年から二年まで同じクラスで何となく気が合った。今では馬鹿を一緒にやる直人の悪友だ。
長身で、少し年より老けて見えるが、本人は後々に若く見えるようになると豪語している。
隆司は既に整備士学校に入学が決まっていた。学校に内緒で中型免許と単車を持っている。本人は「好きこそ物の上手なれ」と言うことで進路を選んでいた。
直人も隆司の影響で何となくバイクに乗っていたがそれほど熱中してはいなかった。しかし、アルバイトをして中古車だが乗りたいと思っていたバイクを購入する事も出来た。何だかんだ言っても以外と直人もオートバイという乗り物を気に入っているのだ。今日も高校最後の日と言う事で兼ねてより計画していたバイク通学を強行しようとしていた。見つかれば卒業を取り消されるかも知れない。しかし昨日、予定が入ってしまいそんな気分ではなくなってしまった。
「ははは。冗談だよ、ジョウダン」
「まったく、心無い発言しやがって」
「それより今日、卒業式終わったら仲の良い連中と、パーっとカラオケでも行こうかって企画があるんだけど、直人はどうするよ?」
「いやちょっと、これから博子と会う約束があるんだ」
昨夜遅く直人のスマートフォンに、博子から連絡があった。
話があるので卒業式が終わったら、校舎の屋上に来てほしいと言う内容だった。
「そっか。それじゃ、しょうがないな。もし来れるんだったら博子ちゃんと一緒に来いよ。高校最後の日だぜ。な!」
「ああ、行けたらな」
直人は気の無い返事をした。
「何だよその気の抜けた返事は。駅前の「カラオケ・デシベル」だからな! 頼んだぞ」
「分かったよ」
「直人」
「分かったって言ってるだろ」
「違げーよ! もう少し暖かくなったら、またバイクでバトルしようぜ」
「ああ、そうだな。お手柔らかに頼むよ」
一瞬、その言葉に隆司はムッとしたように見えたが直人は気づかなかった。
二人がそんなやり取りをしていると、担任が入ってきた。
卒業式は滞り無く進んだ。校長の門出の言葉、在校生の祝辞、卒業生の答辞、卒業生の各クラス代表に卒業証書授与、蛍の光、仰げば尊し。周りからは、すすり泣く女子生徒の声。ボソボソしゃべる声、居眠りする者、真剣に集中する者。皆それぞれに高校最後の時を過ごしている。そんな独特の空間は二時間ほど続いた。
式が終わり、教室に戻ると雑談する間もなく担任が卒業証書を手に入ってきた。出席順に名前を呼んでは労いの言葉を言って証書を渡した。カ行の直人は比較的に早くに呼ばれた。
しばらくして全員に証書が渡り、担任の贈る言葉に耳を傾けた。そして最後に、ここ二年程の間に多発している通り魔や猟奇殺人を話題に上げ「深夜の外出は慎むように」と付け加え担任にとって神聖な儀式に終わりを告げ卒業式は完了した。
直人は、博子との約束の場へと急ぎ教室を出た。三階建ての校舎の三階に直人の教室はあった。急がなくとも屋上へは踊り場が一つあるだけの階段だ。
廊下を走り、階段につくと足取りが重くなった。
直人は一段一段ゆっくりと足を運んだ。なぜか分からないがやけに屋上が遠くに感じる。そんなことを思いながら更に進んでいく。
今日、博子が呼び出した理由は何となく解かっていた。
昨夜、電話の向こうから聞こえてくる真剣で今にも泣き出しそうな博子の声。
「何だってんだ。何でこうなっちまったんだ! ちくしょう」
直人は知らず呟いた。
気がつくと目の前に、屋上へ出るための冷たい鉄の扉がそびえ立っていた。
錆びかかった扉の音を不快に思いながら、直人は屋上へと出た。
空は青くどこまでも澄み渡り、冷たい風が頬に当たる。
「寒い」
いくら例年を上回る陽気とは言え、やはり三月の風は冷たい。
直人は屋上を見回した。
「博子はまだか」
屋上と言っても、出られる範囲はそれほど広くはない。階段からの扉を開けば全体を見渡せる。卒業式の後にこんな所に来る物好きもそうはいない。
直人はそんなことを考えながら、おもむろに制服のポケットから煙草とライターを取り出し、手すりに寄りかかりながら火を点けた。
「ふう」
煙を肺に深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
直人は喫煙癖があるわけではない。ただ何となく格好で吸っているだけだが、その姿はなかなか様になっていた。
煙草が吸い終わり吸殻を床に落として踏み消したと同時に、鉄の扉が再び鈍い音を立て見知った少女が姿を現した。
「あらたまってどうした? 飯でも食って帰るか」
先に直人が口を開いた。
無意識に不安を押し殺すように強い調子で軽口を叩いてしまった。しかし博子はうつむき黙ったまま、直人の傍にゆっくりと歩み寄って来る。
竹下博子。
直人が彼女を知ったのは高校に入学して間もない頃だった。
直人の家は、この緋桜市から電車で二十分ほど揺られた浅黄市にある。そして博子もまた同じ街に住んでいた。
最初に見かけたのは、下校中の電車の中だった。
綺麗な女の子。
それが直人の第一印象だった。
車内のつり輪につかまり、振動で前後にゆれる細い身体。
直人の位置からでは横顔しか見えなかったが、素直に綺麗だと思った。
髪はストレートショートで肩に届く位の美しい黒髪、身長は女子にしては高く直人と同じくらい。目鼻立ちは端整でしっかりした造り。肌は透き通るような白。心なしか陰を思わせるガラス細工のような、そんな女の子に直人の目には映った。
その後、何度か電車で一緒なったり学校で見かけたりした。付けていた名札の色で同学年と知った。
二年に進級する時は、彼女と同じクラスになると良いと思った。が、クラスは違っていた。そんなある日、再び下校時に彼女と同じ車両に乗り合わせた。
一緒にいられる時間はたった二十分、直人はそんな思いに駆られ気が付いたら自然と彼女に歩み寄り「何年生、よく見かけるね。俺、地元は浅黄市なんだ。君もだよね」などと白々しい事を言ったのが始まりだった。四月の後半である。
それから、電車で見かけるとお互い話し掛けるようになり、学校でも自然に廊下や裏庭などで話をした。彼女も同じ浅黄駅で降りる直人が気になっていたという事が解かった。もちろん恋愛感情などではなくだ。
そのうち電話で話すようになり、博子の好きなアーティスト、見たい映画、行って見たい所、学校での出来事や悩み事などを話すようになっていった。
最初のデートは映画、二回目は遊園地、三回目はコンサートといった感じに休みの日は頻繁に会うようになっていた。
そして、夏休みのある日、二人は浅黄記念公園のプールへ行き、ファミリーレストランで夕食を済ませた帰り道に見つけた小さな公園で、初めてキスを交わした。
直人がそんな事を思い出していると博子が沈黙を破った。
「もう…嫌なの。だから私、決めたの」
博子の言葉に直人は、これで俺達も終わりか。そんな苦い感覚を味わった。
「何だよ。突然何でだよ」
覚悟して来ていたが、やはりこんな台詞が口を突いて出てしまった。
博子は、風にあおられた背中まである長い髪を手で押さえながら、目をそむけている直人を見上げた。
「時間て流れてるよね」
「ああ」
二人の間に冷たい春の風が流れた。
再び博子が、髪を押さえながら静かに言った。
「直人、変わったよね」
「俺が変わった? 俺は何も変わっちゃいない」
直人は博子の指す所が解からなかった。
「ううん、変わった。変わったのよ! どうして心はいつまでも同じじゃないの! どうして直人も私を置いて行くの!」
「博子?」
博子は進学に成功していた、むしろ置いて行かれているのは直人だった。
「私を一人にしないで…お願い私を捨てないで」
博子は泣き声になって叫んだ。
「何を言ってるんだ博子。意味が解からない。落ちつけ!」
「だから決めたの…直人は誰にも渡さない!」
博子の瞳がカッ、と見開き陽光に反射した戦慄が直人を襲った。
「なっ!?」
突如現れた凶器に、直人は反射的に身をかわした。
刃渡り十五センチ程の果物ナイフが直人の第二ボタンを切り取った。
「博子…何だよ、これ。何の冗談?」
目で確認しても頭で理解できない直人は、知らず後ずさった。
何が起きた? 目の前で起きている現実が飲み込めない。
「直人なんでよけるの。痛くしないよ、だから…ねっ!」
博子は微笑んでいるが、その目は正気の沙汰ではなかった。
「博子! 止めろ。何のつもりだ!」
首筋をつたう汗が風をうけ、より一層の悪寒が直人を攻めた。
「変な事言うのね。直人はわたしの物って言ったでしょう」
ニッコリと微笑み博子はにじり寄る。
一瞬、博子の身体から立ち昇る蒼く冷たい炎のような影を直人は見た気がした。
「く、来るな!」
後ずさる直人を博子の手にある凶器が迫ってきた。
しかし直人は、両手で突き出されたナイフをうまくかわし博子を脇に押さえ込んだ。そして上下に振りナイフを落とさせる。
「何するの! 放して…放して! 直人は私の物なの! いやあああ!!!」
「博子っ! しっかりしろ。博子!」
ありったけの力を込めて直人は叫んだ。
「直人、私…何を」
博子の錯乱が突如終わりを告げた。
「博子?」
「わ、たし…私?」
震える博子は、床に転がるナイフを凝視し言葉を止めた。
「…おい、博子」
直人が恐る恐る声をかけた。
「い、いやああああああ!」
悲鳴を上げ、直人を突き飛ばした博子はその場から走り去ってしまった。
直人の目には走り去る博子の姿が焼き付いた。
「…いったい何がどうなってんだよ。俺、博子に刺されそうになったんだよな。俺は」
直人は先ほど展開された殺人未遂を尻餅をつきながら思い出していた。
「なぜ」そんな単純な言葉しか頭には浮かばなかった。しかし、床に転がるナイフが「現実」だと言わんばかりに柔らかい日差しを受け白く光っていた。