弐
「最悪だ」
最悪の気分だ。せっかく遅刻はなかったのに憧れの武田先生の前で髪は乱れているわ、着崩れはしているわ、汗だくで真っ赤な顔しているわ…
「自業自得だよね」小さな声が聞こえる。
隣に座る赤石茜が私を見て微笑んでいた。
「茜…わかっているのよそんなこと…」
「わかっていれば遅刻なんてしないよ」
真顔で正論を言われれば喉も詰まってしまう。
このいかにも可愛らしいお嬢様の口の悪さといったら、どこから出てくるのだろうか。
「わかった…今はあんたの相手する気力は残っていないの…」
乙女心にはあまりに大きな傷。
立ち直るのにはしばらくかかりそうだった。
「それで帰りもそんな顔してるのか」
授業を終えて校門で待っていた岩崎静江と帰路をともにした。
「花さんずっとこんな感じ、こっちも気が滅入る」
茜の容赦ない言葉が胸に刺さる。
「あんな恥ずかしい姿見られたら、誰でもこんな気持ちになるよ」
「遅刻ギリギリの姿はいいのか…」
呆れた顔で静江は私を見た。
「このせいで算術もいまいちだったしなあ…今日はいいことない」
「遅刻免除で運はいいと思うけどな、って何している?」
静江の顔の近くで匂いを嗅ぐ私に間合いを取る。
「静江、今日おはぎ食べたでしょう、匂いがする」
「相変わらず犬並みに鼻がいいな…教師室に行ったときに偶々坂本先生がお茶うけで用意していたからご馳走になったんだ」
坂本先生は静江の組の担当教師でお茶の指導もされている。
お茶の指導に使うお茶うけで用意したのだろう。羨ましい。
「お腹空いたなあ」考えてみれば今日は朝から全力疾走するわ、武田先生に恥ずかしい姿見られるわで疲れきっていた。
疲れれば人は糖分が欲しくなるものだ。
「決めた」
「途中で三松屋のどら焼?」
「亀屋の饅頭じゃないか?」
流石は我が親友とも言える二人だ、私の気持ちをわかっている。
ただこの場合私が選ぶ選択肢は
「両方ね」
亀屋は日本橋から少し離れた老舗の饅頭屋だ。
この饅頭を買うためにわざわざ遠くから来る人もいる。
本当は買い食いなんて駄目なんだけど、花の乙女に甘いものを我慢する方が無理というもので、代々こっそりと花の乙女が買いに来る由緒正しい店なのだ。
大通りから一本中に入った道にあるのだが、今日はどこか雰囲気が違う。
もともと人通りは多くないのに、なぜか色々な人が忙しそうにしている。
「なんか騒がしいよな」静江も周りを見て不思議に思ったらしい。
「あれって…警察じゃないかな?」茜の指す方向を見ると確かにそこには制服姿の男が何人も動いていた。
「なんだろ」
近づこうとしたその時だった。
中年の制服警察官が笛を吹いて私たちのところに来た。
「近づいちゃいかん!帰りなさい!」
警察官は私たちと近くにいた人も掴んで後ろに下げた。
「何があったんですか?」静江の問いに警察官は面倒くさそうな顔をした。
「あの…怖いけど大丈夫ですか」
茜がすかさず涙目で聞く。この子は本当にどこからこういう仕草が出るのか。
「大丈夫だよ」
中年警察官は茜を見て急に親心でもついたのか優しく言う。
「な、何があったんですか」
茜の震えた声に中年警察官はますます親心がついたようだった。
「心配ないよ、ちょっとね…そこの堀で遺体が見つかったんだよ、大丈夫だから帰りな。」
遺体…なんとなく背中がゾッとする。
「さあ、下がって」
警察官は他の警察官と一緒に野次馬を下げた。
私たちも下がるしかなかった。