あなたと私、仲良く
ガス灯の柔らかな光が夜を照らす。
眩しいようなくすぐったいような、なんとも言えぬ淡い光。
お天道様も見えない夜に足元を照らしてくださるなんて、まあなんともありがたいことだ。
松明持って走っていたあの頃に比べてみりゃ、煤けないし熱くもないし、ずいぶんといい時代になったもんさ。
そう、いい時代になったんだ。たくさんの犠牲はあったが、いい時代になったんだよ。
そう思いましょうや、じゃなきゃ…
春は麗らかだ。
花も木も。人も川も。犬も猫も。
そして、うちの執事達も…
「やばい…」
そう、やばいのだ。
入校してから一ヶ月と半分、遅刻は三回目。
入学式で校長先生がおっしゃっていた「一回目は注意、二回目は罰則、三回目は退校」の言葉…やばい。
うら若き乙女と呼ぶに相応しい自分だが、今は全力疾走中だ。
髪の毛は乱れ、息はあがり、汗は顔を伝う。
数人が何事かとこちらを見る。
気にしないでください、後生ですから見ないでください。
明治も数えれば二桁を越えています。
着物じゃ絶対間に合わない、袴文化最高、文明開化万歳です。
人力車のおじ様が私を見て感心しているのが横目に入った。
ええ、そうです。小さい頃から足の早さにだけは自慢があります。
近所の男の子だって私に勝てませんとも。
そんな私が全力疾走、これはもう絶望的な起床時間だったのですよ。
遠くから僅かに聞こえる鐘の音。
最悪だ、今日は最悪の日だ。
ああ、苦しさに負けそうになり歯をくいしばって立て直す。
いつの日か歯を噛み締めれば加速できるような時代が来ないかしら。
鐘の音と一緒に最後の角から鉄門を閉じる耳障りな音が聞こえてくる。
老齢な庶務主任が門を閉じたまさにその瞬間。
「…間に合いました」
門に手をかけ閉まった門を開ける。
「…間に合っておりません」
老齢な庶務主任はため息混じりにもう一度門を閉じようとする。
「江戸には人情がつきものですよ」
笑顔で必死に門にしがみつく。
「仏の顔も三度までと言います。三度目ですよね。」
門から私を引き剥がそうとする。
「あら、お年のわりには細かいことを覚えていらっしゃるのですね、向こうの車止めに行って交通整理されたらいかがですか」
必死に門にしがみつき体を入れようとする。
「入学早々にこれだけ遅刻をされれば嫌でも覚えます。車止めには別の者がいますので」
年齢の割りには力強く私を門からはがそうとする。
「実は三日ほど前から父が病で看病を」
足の先だけでも入れようとする。
「昨日の夕刻偶然お会いして挨拶いたしました、お元気でした」
素早く足先を門の外に止めようとする。
「途中で具合の悪い老婆が」
負けじと足を上げる。
「前回も前々回も言われていました、何人いらっしゃるのですか?」
すぐさま足をすくおうとしてきたので避けた。
「えーと」
余所見しつつ左手の先を入れようとする。
「諦めなさい、昔の武士は腹を切ったものですよ」
左手の進路に体を置いて邪魔をする。
「武士は食わねど高楊枝とも言います」
右手の先を入れようとする。
「まったく関係ありません」
これも防がれる。
「入れてあげてください藤田主任」
私と庶務主任の駆け引きの均衡を破ったのはメガネをかけた男性教師だった。
「見ていてあまりにも不毛ですので…まだ始業まで時間もありますから」そう言った男性は門を静かに開ける。
「しかし武田先生…」まだ老齢な庶務主任は不服そうな顔をしている。
その横を私は素早く通りすぎ門の中に入った。
「さあ、行きましょう花さん」にこりと私に笑いかけ先生は前を歩いて行く。
「はーい」いつもより高い声で私は返事をしてついていった。
ああ!今日はなんていい日なんだろう!
学園の一番人気である武田先生と一緒に教室まで行けるなんて!
スラッとした長身に温和な表示、わずかに漂うオオデコロンの香り。
こんな殿方と恋になったら…まるでシェイクスピアの戯曲のようです。
本当にさっきまで全力疾走していたときの絶望なんて吹き飛びました!
良い日です。今日は良い日です。
「あ、花さん」
「は、はい、なんでしょうか先生」
「髪」
「髪…?」
「髪…走ってきたからすごいことになっていますよ」