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彼女は、すっかりおじいさんのところに入り浸るようになってしまった。
ここの領主の娘であることが知られていないことが、こんなに役立つなんて思いもしなかった。フリウム伯領地での彼女は、病弱で療養中ということになっている。実際は健康体で、病気なんて知らないような娘だ。なぜ彼女が病弱な設定になっているのかというと、父がとんでもなく過保護だからである。婚約者はもちろん、恋人もいない。病弱な女と結婚したいなんていう貴族はいないのだ。つまりは、父が彼女を嫁に出したくないが故の嘘なのだ。父は王都で仕事中であるから、母が町での生活を知ることも大切だと毎日の外出を許してくれている。
いつものようにベルの意味を為さない錆びたそれの垂れた扉を開ける。
「おはようございます!フェリスさん!」
元気よく入ってきた彼女を、優しく微笑むおじいさんが出迎える。
「いらっしゃい。リディー」
「今日もお願いします!」
「あぁ、頑張ろう」
彼女は、彼から魔法を教わっている。この国では魔法は珍しくない。王都に行けばそれなりにどこでも見られるものだ。彼女は魔力持ちの伯爵家の娘。だが、家督を継ぐのは弟のヴィタリーである。父曰く結婚はさせてもいいけど婿だから!身分は問わないから!長男はやめてね!補佐に長けている人がいい!そして僕よりも強いやつで!幸せにするやつだからね!らしく、私は嫡男とは結婚できない。なにもできない娘にはなりたくないので、唯一の取柄である魔法を特化させることに決めたのだ。それゆえ、古書店のオーナーであるフェリスさんに指導して頂いている。彼はとんでもなく魔法を扱うのが上手い。王都でも稀なほどに。その腕は、若ければ宮廷魔術師に抜擢されるんじゃないかというほどだ。
「さぁ、リディーまずは復習から」
「はい!」
フェリスさんが張った防御壁の中で魔法を発動する。店の中でやると、本が売り物にならなくなるので裏庭で魔法を教えてもらっている。フェリスさんのお店は町の端にあり、隣接する店はない。裏庭と言ってもうちの領地の山に面した場所だ。
両の手に意識を集中させ、柔らかな光を生み出す。ゆるりと手を翻すと、その光は小さな矢に身を転じる。フェリスさんが的を作り出す。そこを目掛けて、彼女は指を動かす。ひゅんっ、と高い音を出しながら的に向かう矢は前よりも随分と命中するようになった。
「刺さったのは4本か、まぁ及第点だ。次!」
「はい!」
次に彼女は、右手をぐっと握りこんで彼の懐に向かって突進する。彼は、ひらりとそれを躱す。彼女は足にも身体強化をかけ、彼からくるであろう攻撃を宙返りで躱す。すれすれで躱したそこには、大きくへこんだ地面が広がっている。彼は彼女がここの令嬢であることを知らないから、彼女に全力でぶつかってくれる。この時ほど父の嘘に感謝したことはない。
「躱すか。反応も早くなってきたな」
「ありがとうございます」
彼女は、専らの攻撃特化魔法派であった。攻撃は最大の防御であると思っているのだ。そのためには、防御魔法よりも強い攻撃を繰り出さねばならない。彼の魔法を習得したい、それが彼女のお願いであった。
何度も彼の懐に突っ込み、躱され躱すというのを続けていれば魔力切れの前に体力の限界が近付いてくる。肩で息をする彼女とは対照的に、彼は涼しい顔でこちらの出方をうかがっている。そう、ここまでは昨日の復習なのだ。ここから、どうやって彼の懐にある小さな飾りを奪うかが今日の課題だ。体力の限界をどう使うか、彼女は彼と対峙しながら頭をフル回転させる。
「どうした?来ないならば、こちらから仕掛けるぞ」
息も乱れていない彼に真正面から行くのは得策ではない。死にに行くのと同じだ。
「…いい、んですか?そん、なチャンス」
息も絶え絶えに口の端を持ち上げる。彼女はふっと力が抜けたように前に倒れる。彼は、目を瞠って彼女を抱きとめる。大丈夫か、と声をかけようとして彼はふっと力を抜いた。
「__取りました」
「……ふっ、負けたか」
彼女の手に握られているのは、課題であった小さな飾り。彼は見事に彼女の作戦に掛かった。
「フェリスさんに、しか、通用しない、技です」
「そうだろうな。敵にやれば真っ先に死んでいる…今日の課題は合格だ。お疲れ」
「…ありがとうございました」
彼女の手を取って立たせると、彼女はへへ、と嬉しそうに笑う。その子どものように屈託のない笑顔につられて彼も微笑む。
「約束通りに、しよう」
「やった。頑張った甲斐があります」
彼は困ったように笑う。
「リディー、明日からよろしくな」
「精一杯働きます!フェリスさん!」
彼女は、魔法を習いながら、課題をクリアした時の約束を取り付けていた。それは、彼の古本屋で働かせてもらうことだった。