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なみだがこぼれそう

 気が付けばハチの八回目の誕生日が過ぎていた。

 それを覚えていたわけでもないだろうけれど、尚義から連絡があったので思い出した。近いうちに時間取れない? とだけ送られてきた一方的なメールで、彩芽はうんざりなのと、どこか嬉しいのとで胸の中がぐるぐるする複雑な思いで眉を寄せる。

 黒と白のハチワレ猫も誕生日を忘れられていたから拗ねている、というわけでもないだろうが姿を見せない。どこかの部屋の隅でまるくなっているのか。

 仕事を終わらせて家に帰って来た頃には、八時過ぎになっていた。今年の夏は猛暑続きで酷暑などとまで言われていて、例年名物のようになっていたゲリラ豪雨も一切なく、それでも九月に入ってどうにか雲行きが怪しい日がちらほらと見られるようになってきた。それでもざあっと降るということはなく、湿度だけ高くなって蒸し暑い。

 くうううう、と、ジャケットを脱いで大きく伸びをする。ハンガーにかけるのすら面倒くさく、水を飲むついでの台所で椅子の背にかけた。そのまま自分も座り込む。夏物の薄手だとはいえ、日中の長袖は暑い。彩芽の仕事は保険のセールスレディで、いわゆる保険のおばさんだ。比較的よく歩かなくてはならないし、他の会社などにも出入りするのであまり適当に格好はしていられず、黒のパンツスーツばかりになっている。

 もっと若ければ、と彩芽はつい思う。綺麗めのスカートとブラウスで軽やかにお客様訪問を、と想像しかけて、首を横に振る。

 夜も寝苦しい日が続いていたせいか、この夏は随分寝不足のままだった。疲れが取れない。仕事は慣れていてもつらいときはつらい。

 尚義のメールが悪い、と思いつつ、ブチ切れて連絡先を消去してしまうには勇気と勢いが足りない。タイミングを逃してしまった、と思う。あの時、尚義を怒鳴り、泣き損ねてしまったように。

 なんの根拠もなく、けれど漠然と二十八、九歳で結婚をしたいと思っていた。二十六のときに付き合い始めたひとつ年上の恋人が高村尚義で、彼もまた三十くらいで結婚したい、と日頃から口に出していた。

 結婚すると思っていた。疑いもしなかった。小さい頃から動物が飼いたかったけれど、親がアレルギーなので諦めていた彩芽に、譲渡会で猫をもらいに行くと言い出したのは尚義だ。生後四ヶ月になる白黒ハチワレ猫を決めたのも彼だった。同棲するためにペット可のマンションを借りた。

 結婚しよう、しよう、と言いながら、もう少し金がたまったら、とも言っているうちに、尚義の浮気が判明した。しかも相手の女の子を妊娠させていて、まだ二十代前半だったその子を彼は選んだ。ハチワレのハチも、なんの未練もなく彩芽に押し付けて。

 あれから六年。彩芽は次の恋人ができるでもなく三十六歳になっていて、妻が三人目を妊娠中だという尚義は悪びれもせず彩芽に会いたいと連絡を入れてくる。別れた一年目ほどはそれでも静かにしていたのに。嫌いで別れたのではないから、というのが彼の理由で、バカじゃないの、と憤りながらも拒めない彩芽も彩芽で自分はバカだと分かっている。

 でもねえ、と誰に聞かせるわけでもないのにつぶやいた。

 三十六歳、尚義と別れてから恋人どころか、そういう間柄に発展しそうな男の人とも出会うことがない。今から出会って結婚して、子供を産むとして……と考えると気が遠くなる。次に出会う人とこそ結婚、と思ってしまうと、むしろ躊躇する。その前になにより出会い。出会いがない。けれど結婚相談所に駆け込むか、というところまで切羽詰まっているわけではない気もするし、そういうことにガツガツするのは浅ましいと思ってしまう。

 プライドが高いんだろう、きっと。見栄っ張りなんだ。分かっている。

 結婚相談所に駆け込むなんて、自分を卑下してかなり下に見て、結婚して下さいお願いしますお願いします、と土下座しているように思えてしまう。そこまでして結婚したい? と自問すれば、別に……と自答が返る。

 それでも誰からも思われないのは淋しい。人肌が恋しくなるときもある。

 別れた男、しかも不倫? と自分の中で自分をバカにする声も聞こえる。分かってる。分かってるけど。プライドが高いとかってなに、と笑う声。本当にプライドが高いなら、自分を捨てて既婚になった男のお手軽な不倫相手に収まってるはずがないのに。 

 結婚は必ずしないといけないものなのか、どうしてある程度の年齢になると人は相手を見つけてきてなんだかんだ言いながら結婚するんだろう。自分だって結婚するはずだった、あのまま結婚すると疑いもしないでいたのに、いきなり足場を外されたから、高い塔の上から降りて来られなくなったまま途方に暮れている状態だ。

 長くて長くて深いため息だけが出てくる。取りあえずスマートフォンを眺めて、メールの返信を迷う。迷う、振りをする。

 どうせ自分は、いつなら空いているよ、と返事をしてしまうだろう。やっぱ彩芽がいい、だとか調子のいいことを言う尚義と寝るのだろう。下手すればホテル代もこちら持ちで。せめてもの意地で、ハチには会わせていない。マンションにも彼を入れていない。けれど、それがなんなのだろう。

 晩ご飯を食べたいと思うけれど、作る気がしない。だけどお腹は空いている。非常用のカップラーメンでも食べてしまおうか。冷凍してある菓子パンを解凍するか。買い置きのファミリーパックのチョコレートは手を付けたらそのまま一袋いってしまう……とため息を吐こうとしたとき、フギャギャギャギィニャアオオオウ! とすごい声がした。考えるよりも前に腰を浮かしていた。

「ハチっ?」

 ギィニャアアアアアア! という声はまだ聞こえてくる。

 慌てて声を頼りに走ると、洗面所の方からそれは聞こえてきていた。なんで洗面所、と思いながら飛び込むと、トイレットペーパーや猫のトイレ用の砂を置いてある棚が片方落ちているのが見えた。斜めになって、乗っていたものもすべて傾いている。一応目隠しにと突っ張り棒を買ってきて、レースのカフェカーテンをかけていたのだけれど、どうもそのレース部分にハチの後ろ足が引っかかっているらしい。爪が抜けないのか、もがいて暴れている。

「なにしてるの……」

 呆れたものの、これは一大事だ。突っ張り棒ががしゃんがしゃんと音を立てているが、百円ショップの品であるこれがまた意外と頑丈で外れない。ハチが余計に暴れる。

「待ってよ、助けてあげるから。ほら、なんでそんな棚の上に上がって――」

 何気なく手を出したのが悪かったと、後悔はまさしく先に立たず。

 怒り狂って暴れるハチは、そのまま彩芽の左の人差し指に思い切り牙を立てた。

 死に物狂いの獣に、うかつに手を出した方が悪いとはいえ、彩芽は自分の指がなくなるのを一瞬覚悟した。痛みより、空白が先にきた。痛覚が一度すべてシャットダウンする、熱い、と思って、噛まれているのは見えているのにまるで他人事のようにも思えた。

「ハチ――!」

 咄嗟に浮かんだのは、赤ん坊を産んだ友達の言葉だった。歯が生えかけてきて授乳中に乳首を噛まれるのよ、と嘆いていた友達の。引っ張ると傷になるから、そういうときは逆に乳房を赤ん坊にぎゅっと押し付けて、息苦しくなったところで口を開けたらさっと離れるのだと教えてくれたあれ。

 赤ん坊どころか結婚の予定もないのにそんなアドバイスをもらっても、とその時は愛想笑いをしたけど、それが今だと思った。

 彩芽はハチに、噛まれている指をぎゅっと押し付ける。猫は興奮しながらも、アガガガ、と力をゆるめて口を離した。今だ、と左手を引く。その後放っておけばいいものを、うっかりハチを助けようとしてまた手を出してしまった。今度は右の親指の付け根を噛まれる。

 ぼたぼたと血が垂れるのは、左の人差し指の方だった。ズキン、ズキン、という拍動痛が出てくる。取れた、と無意識に出た彩芽の声と共に、ハチの足が抜けて猫は飼い主の手から口を外した。

 そのまま、バタバタと逃げていく。

 誰に文句を言えるわけでもなく。彩芽は左の人差し指の根元を押さえた。傷口を洗って、確か前に抗生物質入りの軟膏を買ってあったはずだからあれを塗っておいて、と頭の中でパパパッと算段を立てる。

 なんて日だろう、と彩芽はがっくりする。血はまだ垂れている、後で床を拭かなくてはならない。なんて日だ。ハチを怒るわけにもいかなくて、ため息しかこぼれない。じわじわと哀しくなってきてしまう。涙がこぼれそう、と彩芽は色のない声でつぶやいた。


 次の日仕事が終わってから、近所の整形外科に向かった。六時までやっている病院だ。抗生物質入りの薬も塗ってることだし、と思っていたものの、なんだか腫れてきてしまって第一関節が曲がらなくなったので慌てて来た。

 猫に噛まれた、と告げると、動物咬傷は整形外科で診ることができないんです、と受付で申し訳なさそうに言われてしまった。

「どうぶつこうしょう……?」

 受付の女性が少々お待ちくださいと、奥から医者を連れてきてくれた。白髪のおじいちゃん、といった感じの医師は彩芽の手を見て、腫れてるな、とつぶやいた。

「動物から噛まれたっていう外傷は、整形外科だと診られなくてねえ。悪いけど外科に行ってみて。ああ、でもこの辺りは外科ないんだよなあ……君、相田病院分かる? 総合病院の、駅の方だからちょっと遠くなるけど」

 友達が出産した病院なので、見舞いに行ったことがある。分かります、と返事をすると、このまま行きなさいと言われてしまった。

「あの、ひどいんです……?」

「腫れてるでしょ、指、曲がる?」

「曲がらないです、あ、でも家にあった軟膏はつけてるんですけど、」

「猫の口、雑菌だらけだからね。そんなんじゃ意味ないわ」

 意味ないんですか! と思わず叫ぶと、白髪の医師が頷いた。

「猫の噛み傷、怖いよ。相田病院の救急救命センター、あそこなら時間関係ないから。今から行っといで」

 救急救命センター。そんな緊急じゃないし、と躊躇ったが、いつ噛まれたのかと聞かれて昨日の夜だと答えたら、すぐ行きなさい、とまた言われてしまった。

「一日経っちゃうと結構大変だから。行きなさい」

「行った方がいいですか」

「破傷風のワクチンしたりしないといけないからね」

「破傷風!」

 そんな大変なの? と思わず大きな声を出すと、医師と受付の女性が大きく頷いた。それで心配になって彩芽はタクシーを呼んでもらい、その足で総合病院へとそのまま向かった。

 相田病院は病床数四六十床で、地域では大きな病院になる。小児科、産婦人科などから、眼科や耳鼻科、リハビリ科やリウマチ科などもある。二十四時間受け入れ態勢のある救急救命センターが最近増設されて、病院で所有している救急車も二台あるらしい。屋上にはヘリポートも作られた。

 そんな病院の救命救急に、猫に噛まれたくらいで行くの……と彩芽は申し訳なさいっぱいにもなる。受付で制服姿の女性に「他の医療機関からの紹介状がない患者様は、保険適用外で選定療養費の五千四百円を別途お支払いいただくことになりますが、よろしいでしょうか」と告げられた。医療費の他に五千四百円、と、一瞬躊躇したものの、だったら帰ります、というわけにもいかず彩芽は頷く。

 体温計を渡され、血圧を計っておいてください、と待合室の脇に置かれている血圧計を示された。

 近所の整形外科に行って、ちょっと消毒をしてもらって帰る、くらいに考えていたので、ジーンズによれたTシャツという格好だ。ハチのトイレは片付けてきたけれど、そういえば水を替えてやるのを忘れた気がする。猫のハチは昨日思い切り飼い主の指を噛んだというのに、今日は悪びれもせず人の顔を見て可愛く尻を振っていただけだった。

「……あ、」

 そういえば、尚義のメールに返事をしていない。

 すっかり忘れていた、指を噛まれると意外となにをするにも不便で、しかも人差し指の方は見ればさっきよりも腫れている気がする。今日は仕事中も絆創膏をしていたものの、どうもズキズキと痛みがある気もしてどこか上の空だった。鎮痛剤を飲んだけれど、効いたのか効かなかったのか。

 メールを返しておこうか、病院でスマホは使ったら怒られるだろうか、と迷っているうちに名前を呼ばれた。山岸彩芽さん、と声がする方を捜すと、濃い赤紫色をしたセパレートタイプの白衣を着た人が呼んでいた。大きな白いマスクをしている。医師なのか、看護師なのか、スタッフなのか。分からずも腰を浮かすと、トリアージ室へどうぞ、と手招かれた。

 狭い室内に入り、確認のため生年月日とお名前をお願いします、と言われたので答える。

「はい、山岸彩芽さん。今日はどうされました?」

 昨日の夜飼い猫に指を噛まれ、今日近所の整形外科に行ったけれどここでは診られないから相田病院の救命救急センターに行けと言われた、と説明すると、傷を見せて欲しいと言われた。

 左手と右手を差し出す。

「両方?」

「はい」

「わ、そりゃ大変でしたね。痛みは? 一から十で言うと、えっと十が『もうダメ、今すぐ死んじゃう!』くらいの痛みとして、どの程度です?」

 もさもさとした頭の人だった。マスクが大きすぎて、目の部分しか見えない。絆創膏取っちゃいますけどいいです? と聞かれたので頷いた。美しい手、というわけではなかったけれど、切り揃えられた爪は短すぎるくらいで、触れた指先はあたたかかった。男の人にしては、声がそう低くない。そう背の高い人ではなさそうだからか。

「痛みは、多分一以下だと思うんですけど……右の親指の方はほとんど痛くもないです、腫れてもいないと思いますし」

「うん。あ、人差し指は結構腫れちゃってますね。関節は? 曲がります?」

 彩芽は指を曲げようとして、首を横に振る。

「曲がりにくいです、あの、すごくむくんだ時の曲げにくい感じで」

「動物咬傷ですもんねえ」

 また言われた。ドウブツコウショウ。彩芽がきょとんとしていたからだろう。噛まれた傷、ってことです、とその人が教えてくれた。

「猫、口の中に結構菌を持ってるんですよ。あ、ちょっと右の……人差し指にしようかな、酸素濃度計りますので出していただけますか? うん、ちょっと伸ばして、はい、ありがとうございます。パルスオキシメータ挟みますね、痛くないですから緊張しなくて大丈夫ですよ」

 すぐに、ピ、という音が鳴る。

 指に挟んだ水色の小さな機械が取られて、傷をもう一度見られた。

「今日は抗生物質の点滴をしていくことになりますね、それと破傷風のワクチンと」

「破傷風の注射……やっぱりするんですね」

「あ、もう聞いてました? 今日打って、一か月後に打って、それから三回目が一年後です」

 忘れそう、とつぶやいたら、濃い赤紫の白衣の人がひっそり笑った気配があった。

じゃあまたお呼びしますので、と一旦トリアージ室を出される。

 待合室の淡いピンク色の椅子は、ざっと見たところ二十席ほどあるものがほぼ埋まっていた。点滴をつけたままの人も、車椅子の人もいる。小さな子供をつれた人も、お年寄りも、高校生くらいの男の子も。

 壁には、緊急性を要する患者さんを優先しますので診察の順番が入れ替わる場合があります、と書かれた紙が貼られていた。猫に噛まれたくらいで来てしまったと、彩芽は多少心配になる。

 トリアージ室に別の人が呼ばれたのを、なんとなく目で追った。小さな部屋のプレートに、本日のトリアージ・佐藤雅征、と書かれているのが見えた。


 六年前にあっさりと彩芽を捨てた青木尚義は、とりたててものすごく格好いいだとか、驚くほどいい会社に勤めているとかいうことはなく、太っているわけではないけれど、筋肉より贅肉の方が多い感じのふわふわした体型をしていた。

 いわゆるイケメンではない、どちらかといえば誠実そうで真面目そうで、だから彩芽は彼を「結婚用の男」として見ていた気がする。

 恋愛向けではない、多少退屈だったとしても結婚して家庭を持って子供が産まれたらいいお父さんになりそうな男の人。付き合っているときも彼はやさしくて、頼りがいがあるように思えた。

 結婚だ、と思っていた。

 この人と結婚をする。妻になって子供を産んで、母親になって。未来の予想図を完璧に描いていたわけではない、それでもおぼろげながらにふわふわと、考えていた。結婚。そのレールに乗ってしまえばまあ人生とりあえず安泰なんだろう、なんて思っていた。

 まさか、誠実そうな恋人が浮気をする人だとも思わず、相手を妊娠させてそちらと結婚してしまうなどとまったく想像もしないままに。

 人は見た目に寄らない、というより、自分が勝手に理想を押し付けて期待を膨らませていただけなのだろう。それでも、尚義から別れ話をされたときは頭が真っ白になったし、その後彼が当たり前のように連絡してきたときに、ついすがってしまった。

 正直に言えば、勝った気がした。

 ほらごらん、妊娠なんて姑息な手を使って尚義を手に入れたって、結局彼は私のところに戻ってくるんだから、と、見たこともない彼の妻を鼻で笑った気分になった。

 笑い者は自分の方なのに。

 お手軽な浮気相手に降格されて、それでもまだ相手が自分を愛してくれているなんて勘違いしているバカな女。

 戻れるなら三十過ぎの、別れた尚義から連絡があったときに喜んでしまった自分を引っ叩きたい。彼の妻に対する優越感はまったくの見当違いも甚だしいと、自分を怒鳴りつけてやりたい。

 その前に、浮気相手を妊娠させたんだ、と言って別れ話を切り出したときの尚義を全力でぶん殴ってやりたい。ふざけるな、と蹴り倒してやれば良かった。あのとき、どうして自分はなにもかも分かっているような顔をして、泣くこともせず、「だったら仕方ないね」と別れ話をすんなり受け入れてしまったのだろう。

 あのときちゃんと怒っていたら。怒鳴っていたら。彼を殴り飛ばしていたら。 

 今、こんなみじめな未練をただただ垂れ流しているだけの状態では、なかったかもしれないのに。


 尚義からのメールに返信をまだしていない。

 近いうちに時間取れない? という一文。近いうちに、と言いながら、時間調整するのは向こうだ。奥さんに言い訳をして、仕事の暇を見て、子供の面倒を他の人に押し付けて。そんな男に会いたい? と頭の中で自分の声がする。多分、自分の声。それでも会いたい、と即答する声と、自嘲の哀しい笑い声と、会いたくて会うわけじゃないわよ、と怒鳴るような声とが混ざる。自分の心だって混乱中だ。昔の恋人は今の浮気相手。なんだそれは、と呆れてしまう。呆れてしまうのに、新しい出会いには尻込みする。だってもう私は若くないし、と彩芽は諦めなのか愚痴なのか分からない声をこぼしそうになる。

「山岸さん、山岸彩芽さん」

 呼ばれて顔を上げた。待合室のピンク色の椅子から立ち上がる、音量をかなり下げてあるらしいテレビに字幕がちかちかと流れていくのが目に入った。

 見回して、ポニーテールの女医がなにやら書類を持って人を捜しているのが見える。白いドクターコート着ているその人は、彩芽よりずっと若い。

「あの、山岸です」

「ああ、山岸さん! 担当の吉田です、すみませんお待たせしていまして。こちらの診察室へどうぞ」

 にっこりと微笑まれて、スライド式のドアを開けられた。待合室の後方にドアは三つあって、第一診察室、第二診察室、第三診察室、と白っぽい字で書かれていた。

 第二治療室に入って、座らされる。問診があり、名前と生年月日とどういう状況でどんなケガをしたかを話す。膿盆が置かれて、手を入れるように言われた。

「生理食塩水で洗いますね。傷口をちょっと診ないといけないので、麻酔しちゃいますね」

「……傷を診るだけでも、麻酔しないといけないんです?」

「うーん、猫ちゃんに噛まれたということなので、傷の奥もね、ちょっと洗うんですよ」

「傷の奥、」

「ぐりぐりっ、と、ちょっと痛いかな、って」

「ちょっと、」

「……うんと痛いかも、なので、麻酔します!」

「お願いします!」

 頑張ります! と医師が微笑む。研修医なのかもしれない。ぴちぴちに若くて、そして少しだけ手元がおぼつかない。注射しましょう! と張り切って言われると、医師が自分自身を奮い立たせているようで、彩芽は苦笑いになる。

 左の人差し指の付け根に注射を打たれた。麻酔効いてきました? と聞かれても、指の付け根の痛みが結構あってよく分からない。注射痛いですね、と言うと、すみません、と謝られてしまった。謝るより、麻酔の注射は痛いんですよね、とか、こんな部分に注射ですもんね、と言って欲しかった。そうでないと、医師が未熟だから痛みを与えてしまったように思えてしまう。

 効いてない気がして告げると、もう一本追加された。指の一本にもう一本? と思ったけれど、嫌とも言えない。医師は指先に麻酔ゼリーというものも塗ってくれた。自分の腕にまだ自信がないのかもしれない。

 傷のひどい左の人差し指は、時間を置いてから綿棒と消毒薬でごしごしとこすられて、痛みがある気もしたけれど彩芽は必死で黙っておいた。右の親指は傷が浅そうなので、と、処置はしてくれたもののそこまで痛みのある治療法ではなかった。

 茶色い軟膏――ポビドンヨードと書かれていた――をたっぷり塗りつけた後で、傷口はガーゼが巻かれ、包帯をされた。一気に重傷人になってしまって、彩芽はまた苦笑する。

 傷の痛みはさっきまでほとんどなかったのに、今は麻酔のせいで人差し指の全体がぼわんとしている。麻酔なんてしたことあったっけ、と彩芽は考えて、何年か前に歯医者で虫歯の治療に麻酔を打たれたことを思い出した。あのときは歯茎にだった。数時間ぼわんとした感じがあって、正座で痺れた足のようになっていた記憶がある。

 点滴は別の場所になりますので、と診察室を出された。破傷風のワクチンカードを渡されて、注射をしたら記入してもらってくださいね、と言われたが、そちらの注射をするのはこの医師ではないのか。

 救命救急なのに、救急でも救命ってほどの大ケガでもない自分がいて申し訳ない、と彩芽は若干猫背になる。

 待合室で字幕のテレビを眺めていた。どれくらい経っただろう。名前をまた呼ばれた気がして、きょろりと見回した。トリアージ室のドアが開いていて、さきほどのもさりとした頭の人が呼んでいた。濃い赤紫の白衣。さっきの医師は中に似たような形の、青い白衣を着ていた。見れば赤紫の人達と、淡い黄緑の人が多くいる。黄緑の人は車椅子を押したり、ベッドを運んだりしているので介助スタッフだったりするのかもしれない。だとしたら、最初に傷を診てくれた赤紫の人は看護師か。

「すみませんね、今日混んでて。処置室が全然空かないんです、申し訳ないんですけど待合室で点滴でも大丈夫です?」

「え、あ、はい、点滴って、」

「抗生剤点滴します。で、流しちゃうんです」

「流す?」

「猫に噛まれて、菌とかが体内に入ってしまってるかもしれないので。抗生物質を点滴して、ざあっと」

「ざあ、っと、」

「流し洗いする感じで」

「……洗えるんですか、身体の中って」

 ものの例えです、と大きなマスクのその人はにっこりした。目がすごく細くなったので、口元はマスクで見えていないけれど、きっとそういう感じで笑ったのだと分かった。佐藤さんだ、と思い出す。佐藤雅征さん。トリアージ室のプレートに名前が書かれていた。今日の担当がこの人なら、この部屋に入る人は佐藤さんだろう。

「処置室って、」

「ベッドが六つ置いてあって、本来ならそこで横になりながら点滴が受けられるんです。が、ちょっと症状の重い方が今日は多くて。すみません、そういう方がどうしても優先になってしまうので」

「……猫に噛まれたくらいで来ちゃって、申し訳ない気がしてるんです」

 選定療養費の五千四百円も取られてしまう些細なケガだ。他の病院からの紹介状もない程度の。そういえばこういう大きな病院は、風邪程度の軽い病気やケガでほいほい来られても捌き切れずに困るので、そういう料金設定をして気軽には来られないようにしている、と耳にしたことがある。ほいほい来てしまう程度のケガだったのに。

「そんなことないですよ」

 やさしい声が、けれど力強く放たれて、彩芽はいつの間にか俯き加減だった顔を上げた。

「……え、」

「動物咬傷って怖いんですよ。今は狂犬病って犬のワクチン接種がきちんとしてるからなくなってきましたけど、発症したら死んじゃいますからね。あれ、犬に噛まれて移るだけじゃないんです、他の動物でも移るんですよ。菌を保有している個体でしたら。猫の口内は雑菌多いですからね。そうそう、猫の口の中の雑菌って、空気を嫌うやつがいたりするんです。だから、絆創膏とかで密閉しちゃうと元気になっちゃうんで、ほら」

 佐藤さんが彩芽の左手を取った。なんだか分からなくて、彩芽はきょとんとまばたきをする。

「包帯してますけど、この下、軟膏塗ってガーゼ巻き付けただけじゃなかったです?」

「あ、そういえば……」

「通気性良くしてあるんです。明日また、こちらの形成外科に来ていただくことになりますけど、」

「えっ、明日?」

 ご都合悪いです? と、目の前の看護師――だと思われる人――が窺うような目になった。大丈夫ですけど、と答えながら、猫に噛まれただけなのに、と思ってしまう。結構大変なことなのか。

「今日、軟膏とガーゼが出ますので、絆創膏でぴっちり巻いたりしないでくださいね」

 ドラッグストアなんかで、通気性のいいガーゼ絆創膏みたいなものも売ってますから、と付け足される。病院での処方はないらしい。

「じゃあ点滴と破傷風のワクチン、しましょう」

「あ、はい。え、ここで?」

 はい、と佐藤さんがまたにっこりする。小さな目はくっきりとした二重だった。目と目が少し離れている。頭はもさもさしていて、美容院に行く時期をかなり逃しているのだろう。大きなマスクで顔の半分は隠れているから、表情はよく分からないけれど、雰囲気でなんとなく、よく笑う人なのかと想像させられる。そんなふうに、思う。

「筋肉注射、されたことあります?」

「え、筋肉注射?」

「破傷風のワクチンって、筋肉注射なんですよ。静脈注射と違って、ちょっと痛いんだな、これが」

「痛い……?」

 さっきの麻酔注射を思い出して、彩芽は尻込みをする。ん、と声がこぼれたほどには痛かったのだ、それを二本も打たれた。それより痛かったら嫌だなあ、と、眉を寄せたのを見られたらしい。

「点滴から先に針、入れます?」

 そっちもあった。

 つい上目遣いで恨めしそうに佐藤さんを眺めてしまった。すみませんねえ、と申し訳なくなさそうな明るい声が返ってくる。

「痛くないようにやりますから」

「……本当ですか?」

「注射、お嫌いです?」

「好きな人、いるんですか?」

「結構平気、って方はいらっしゃいますね。えっと、どっちにやろうかな。左が重傷でしたっけ、あんまり動いて欲しくないからな……利き手はどちらです?」

 右です、と答えると、じゃあ右にしましょう、と手を取られた。

 アルコール脱脂綿で右の腕を拭かれる。関節より少し下の辺り。すう、と空気を冷たく感じる。

「……見てなくていいです?」

「いいですよ、見てなくて全然、見てなくていいですから、見てなきゃいけない義務とかないですから」

 ぶふ、と佐藤さんは吹き出したらしい。マスクに息が吸い込まれて、湿った暖かい音がした。

「見てなくていいですよ、大丈夫です、見てなくても僕、真面目にちゃんと丁寧に針入れますからね」

「……別に疑ってるとかじゃないですけど、」

 彩芽も少し笑ってしまった。重病人でないので、こんな話もできる。緊急でもないのに来て申し訳なかったかな、と思った気持ちは、少しだけ薄らいでいた。

 そうしているうちに、わずかなちくりとした痛みが肘の内側にあった。思わず顔を向けると、透明な管が腕に刺さっていた。

「管を残して針は抜きますからね。ちょっと動かないでください。――っと、よし。テープで留めちゃいますからね、多少は動けるようにしますから、待っててください」

 佐藤さんが大きな透明の絆創膏のようなテープを、点滴の針を刺した場所にべたりと貼った。医療用のサージカルテープを小さく切って、彩芽の腕に管を留めていく。点滴用のスタンドはいつの間にかセットされていて、痛くないですか? と聞かれたので頷いた。

「これでよし、と。でも、動けるからって腕を振り回したりはしないでくださいね」

「振り回さないです」

 顔を見合わせる。くつんと笑う。

 じゃあ次はいよいよ破傷風のワクチンです! と芝居のかかった声で告げられる。ヒィ、と彩芽もうっかりこぼした。

「大丈夫です、痛くないように打ちますから」

「……今の点滴のよりは痛いです? さっきの先生の麻酔に比べたら、全然痛くはなかったんですけど、」

「筋肉注射ですからねえ」

「……うう、」

 くふふ、と佐藤さんが笑った。この人私より年下だろうな、と彩芽はなんとなしに思う。やわらかな雰囲気の人だ。救命救急という場所には、それこそ重症の人や重病の人が飛び込んできたりもするのだろう。救急車で運ばれてきたり。そういう患者達が不安になり過ぎないように、こういうやわらかな雰囲気を持った人がいるといいんだろうなあ、と彩芽は思う。重傷でない自分も、それでもどこか緊張していたのがいつの間にか気が楽になっている。適切な治療をしてもらった、という安心感からかもしれないが。

「おまじないをかけてあげましょう」

「……え?」

「痛くないおまじないです。特別です。効くか分からないですけどね、まあ、気休め程度に」

 佐藤さんはそう言って、彩芽のシャツの袖をめくり上げた。ぺちぺち、と二度ほど叩いて、二の腕を軽くつまんで持ち上げている。アルコール脱脂綿で拭かれた。消毒液、といった匂いがする。痛い注射、と、少し身構えた。

「――はい、おわり」

「……はい?」

 準備が終わったのかと思った。

「終わりましたよ」

「……え?」

「注射。あ、痛くなかったです?」

「え、注射……したんです? え、今? 点滴の方じゃなくて?」

 おまじない効きましたねえ、と佐藤さんが大きなマスクの下でにっこりする。どうしてこの人の笑顔は、見えてないのに見えているのだろう。

「全然……痛くなかった、です、」

「おまじない大成功でしたね、よっしゃ!」

「おまじないっていうより、魔法です? 全然、痛くないどころか注射されたのも分からなかったですよ!」

 すごい! と声に出したら、続けたくなってしまい、彩芽は何度もすごいすごいと繰り返した。照れますから、当たり前ですから、そんなすごくないです、と佐藤さんが頭をかく。

「研修時代に、同期相手に何度も練習した甲斐があったなあ」

「練習、するんですね」

「そうなんです、お互いに。もう、『ヘタクソ!』『痛てぇわ!』『看護師辞めちまえ!』とか罵倒の嵐」

 想像して彩芽はつい吹き出す。まだ若い看護師たちが、ああでもないこうでもないと互いを練習台にしている様子は、必死だろうし健気だろうし。本気で落ち込む者もいただろう、仕事だからと割り切ったのか、患者の為を思って頑張ったのか、いろいろと理由はあって頑張った人達。彩芽は自分が研修生だった頃をそのままつるりと思い出す。

 お客様への接し方や話し方、マニュアル通りだと思わせない対応などを頭に叩き込み、同期を相手に何度もシミュレーションしたものの、先輩に連れて行かれて実際のお客様のところへ行けばしどろもどろになったり、予定通りに進まなくて大失敗をしたり。

 どうして私は頑張ったんだろう、と彩芽は懐かしく思う。

 怒鳴られて、使えないと嘆かれて、嫌味を言われたり、そんなことも分からないのかと笑われたり、それでも少しずつ感謝の言葉がもらえたり、声をかけられたリ、顔を覚えてもらったり。

 頑張ってきたかもしれない。頑張ってきた。みんな頑張って生きてるんだ、と改めて思ったら、深いため息が出た。

「じゃあすみません、点滴に四十分くらいかかりますので、待合室でお待ちいただいてもよろしいでしょうか。処置室が空いてなくて、本当に申し訳ないんですけど」

「私なんて猫に噛まれたくらいの傷なんで、そんな、」

 佐藤さんが彩芽の腕にテープで留めた管を確認するためなのか、静かに触れた。深爪になってしまうくらいきっちりと切られた爪の形は少し不格好で、指先は驚くほどあたたかい。

「確かに、命にかかわる重傷の方も、理由が分からないけれどとにかくずっと泣いてるからどうしていいか分からないと連れて来られる赤ちゃんも、救命救急の方には本当、他の病院が開いてない時間帯だから、っていろんな方がいらっしゃいますけど、みなさんどんな程度ではあれ、痛みを抱えて困っていらっしゃる人達ですから。人と比べるものではないと思います、すべての痛みをできるだけ取り去るために、僕達はいますから。山岸さんの痛みは、山岸さんが感じている困難です、この程度で、とかはないんです。個人個人の、比べるものではない痛みですから」

 無意識に、相手の顔を覗き込んでいた。佐藤さんと目が合う。

 やさしい言葉だと思った。

 なんだか不意に泣きそうになった。 

 やさしくされていると、思った。

 それがとても、嬉しいことだったと気付く。人からやさしくされること。淋しさを誤魔化すために寄り添って体温を分けてもらうのではなく、本当に心配してもらってかけてもらうやさしい声。言葉。


 ――悪い、大きいのしかなくて。払う前に言えば良かった、え、ごめん。貸しといてくれる?

 ――次はいつとか分かんない、だって仕方ないだろう? 家族がさ。いるし、でも彩が一番。本当に。嘘じゃない、あんなことがなければ今頃はお前とさ、なあ。

 ――電話してくれてもさ、出られないの分かるだろう? 悪いけど、夜なんかもっと無理だって。

 淋しい。

 淋しい、淋しい、淋しい。

 淋しくて、身体が膨れ上がっていく。それしか言葉を持たない生き物になる。淋しい。淋しい、淋しい、淋しい。淋しい。そして身体のどこかに穴が開く。しゅうしゅうと空気が抜けて、ぺちゃんこになる。淋しい。淋しくて、都合のいいように扱われているだけだと知りながら寄ってしまう。自分を騙す。あの人のことを本当に分かっているのは私、あの人が本当に好きなのは私。愛されているのは私。私がいないと。あの人には。責任を取ってもらわないと。結婚するって約束したのに。でも、責任ってなんだろう。結婚の約束だって、口だけのもので婚約とかじゃない。

 淋しい。

 あの人にとって、自分が代わりの利くものだったという事実を認めたくない。いらなかったものとして、過去としてゴミ袋に詰めて捨てられたりしたくない。不倫相手でも浮気相手でも、価値を見出して欲しい。そこまでして彼が好きかといえば、新しい恋をするのが、新しい関係を他の誰かと作ることが怖いだけだったりする。

 ぐるぐるする。

 だって、捨てられた女だし。だって、もうこんな歳だし。だって。だって、だって、だって。だって。

 尚義に捨てられたとき、誰もおまじないをかけてくれなかった。

 身体はびりびりになって痛くて、心も驚くほど血を流したはずなのに、泣かなかった。泣けなかった。誰もおまじないをかけてくれなかったから、痛いのを我慢して。大人だから泣いてはいけないと思っていた。これくらいで泣くのは恥ずかしいことだと。どうして恥ずかしいなんて思ったんだろう。理不尽な理由で恋人と別れることになって。もっと怒れば良かった。泣けば良かった。ふざけるなと、怒鳴れば良かった。

 なんの治療もせず、そのまま傷は放置されていたから、今こんなにも淋しくなっているのか。適切な治療をしないまま、だから安心もできなくて傷は怖くて確認することもできず、いつか治るでしょう、と自分に言い聞かせていた。

 会うたびに、傷は開いていたのに。

 かさぶたは剥がれて、あたたかい血が流れて、なのに言い聞かせていた。血が流れるほど好きなんだから! と。間違っていた、勘違いしていたかった。目を逸らしていた、自分できちんと、どんなに向こうが哀れっぽく誘ったとしても、もう会わないと口にする勇気を持つことに。


「山岸彩芽さん、山岸さん、いらっしゃいますか?」

 名前を呼ばれて、はっとした。見ると会計の事務員が人を捜す素振りをしていた。

 はい、と言いながら立ち上がる。右の腕に違和感があって、点滴をつけたままだということに気付く。一瞬躊躇う。それでも呼ばれたので、と点滴スタンドを掴んで向かった。邪魔にならないようにと待合室の一番奥に座っていたので、たどり着くまでに少しかかった。

「ああ、すみません! まだ点滴中でしたね、お会計が出てたものですから、もう終わっていたのかと。すみません、そちらが終わってからで結構ですので」

 あら、と会計の女性が彩芽の点滴袋を見た。終わってるかしら、と首を傾げる。

「スタッフを呼んできますね、ちょっと座ってお待ちください」

 やり取りを聞いていたのか、彩芽がピンク色の椅子に座ると同時に赤紫のズボンが目に入った。顔を上げる。

 佐藤さんだった。

 あ、と言われたので、彼の視線をたどる。自分の腕に刺さっている点滴のチューブに、血が逆流しているのが見えて驚いた。

「あ、急に動いちゃったからかも……」

「うん、大丈夫です。こういうのは珍しくないです、大丈夫」

 彩芽の前に佐藤さんが跪いた。ちょっと待って下さいね、と彩芽の手を取る。あたたかな手だと、また思う。あたたかい。体温が、やわらかい。

 テープをてきぱきと剥がしてもらうときも、元々粘着力の弱いものなのか、それとも彼の指先が丁寧なのか、引っ張られるような痛みは感じなかった。するすると剥がされて、じゃあ抜きますね、と告げられる。

 逆流した血が少しこぼれて、彩芽の腕を赤くしたけれど、佐藤さんが持っていたペーパーですぐに拭き取ってくれた。アルコール脱脂綿で針の後をぎゅうっと押さえる。押さえててくださ……と言いかけて、いいや僕が押さえてよう、と彼が明るい声で言った。

 誰にでもそうするだろう。看護師として。痛みを感じている患者に対する親切として、仕事として。けれど彩芽は甘やかしてもらっているような気分になった。少し、嬉しい。傷のところに茶色い四角のパッチを貼ってもらう。

「形成外科の予約、取って行きましょうか」

「あ、えっと、明日の?」

「予定に合わせられますよ。明日がダメなら明後日でも、その次でも。ああ、あんまり間は置かない方がいいですけどね、そして予約で埋まってるところはねじ込めないですけど」

「明日で大丈夫です」

 仕事のことは考えていなかった。自分のことだ。仕事はどうにかしよう。幸い時間は作りやすい仕事なのだし、自分のことを大事にしてあげないと。そう思って、また、涙がこぼれそうになる。

 大事にしてなかった。自分のことを。淋しいのと、相手に嫌われたくないのと――二度も捨てられるなんて世界が終わってしまう、と思っていた――で、大事にしていなかった。

「分かりました、じゃあ予約取ってきましょう!」

「あ、えっと、どうすれば、」

「僕が取ってきますよ、全部のご期待には沿えないかもしれませんけど、ご希望の時間帯はあります?」

 お昼くらいがいいかも、とつぶやくと、もうちょっと座っててくださいね、と佐藤さんが頷く。あ、と彼が小さく言って、右腕の茶色い絆創膏に触れた。

「うん、ちゃんと貼ってあるな。これ、家帰ったら剥がしちゃっていいですからね」

「あ、はい」

「猫さん、多分飼い主さん噛んじゃってすごいショック受けてると思いますから。怒んないであげてくださいね」

「……ハチ、」

「ハチって、名前?」

 頷くと、男の子? と聞かれた。また頷く。そんな感じがしました、と、佐藤さんが目を細めた。

 濃い赤紫色の背中が、会計に向かっていくのをなんとなしに目で追いかけた。

 彩芽はぱっちりとゆっくり、まばたきをする。深く息を吐き出す。考える前に、バッグからスマートフォンを取り出していた。メールを開く。尚義からのメールに、返信、をタップする。

 ――もうあなたに会う時間は取れません。

 そう打とうとして、指先が微かに躊躇った。猫のハチ。あの人が飼おうと言い出した、白黒のハチワレ猫。やさしくしてもらったこともある、頼りにしたことも、一緒に居て楽しかったことも、いろいろ。たくさん。

 不幸なだけではなかった。たくさん、楽しかった。いいことばかりあったようにも思う。

 戻ってきた佐藤さんが彩芽を見て、どうしました? と声をかけてきた。涙目になっていると、自分でも分かっていたから、彩芽は首をそっと横に振る。

「抗生物質と鎮痛剤が出ますから。鎮痛剤は解熱効果もあります、熱のときも飲めます。予約、明日の十一時半から取れました。……あの、」

「……はい、」

「痛くなったりしたら、泣いても大丈夫ですよ。ティッシュとか、なければ持って来ますんで」

 看護師というのはここまで気を遣ってくれるのだろうか。怪我人、病人は心細くなるからだろうか。なるほど、白衣の天使、と言われたりするわけだ。

 大丈夫です、と答えて、返信できずに画面がスリープ状態に入ったスマホをバッグに突っ込む。

 痛くなったら、泣いても大丈夫。

 泣いても、大丈夫。

「ありがとうございました」

「会計は出てますんで、そのまま治療費のお支払いをしていただいて明日の予約表をもらったら帰れますよ」

「はい」

 痛くなったら、泣いても大丈夫。泣いてもいい。もう会わない、と、今夜返事ができるだろうか。まだ躊躇って、明日に、明後日に、と延ばしてしまうだろうか。

 好きだったのは本当の気持ちだったから。だけどそうだ。いつまでも治療しないままでいてはいけない。平気だと思おうとしていたって、身体中に悪いものが流れてしまっているかもしれない。

 涙がこぼれそう、と彩芽は思った。

 明日の再診でまたこの人に会えるのかしら、と、もう他の患者へと話しかけている佐藤を目で探して、すぐに会えないだろう事に気付く。ここは救命救急センターで、形成外科は別のフロアにあるからだ。

 会うことはないかもしれない。下手したら、もう二度と。どこかですれ違うことがあっても、あの大きなマスクがなければ誰だか分からないかもしれない。二、三日したら、小さいのにくっきりした二重の目も忘れてしまうかもしれない。

 彩芽は椅子から立ち上がって、会計へ足を向ける。

 それでもあの看護師の触れた指先の、あたたかな体温には慰められた気がする。

 彩芽は小さく微笑んだ。

 涙がこぼれそう、と、唇の形だけでつぶやいて。淋しいだけの自分ではない涙になるといいけれど、と思いながら。

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