今という時代ほど「盗作」のやりやすい時代はない、、という視点・論点 (あわせて、、俳句の類句・類想句問題の検証)
ところで、、のっけから
今現代という時代ほど盗作が、実に、こんなに、やりやすい時代は在りません。
さて、、文学の盗作問題について論じる前に、、
まずは「研究論文系」の盗作問題について少々述べてみたいと思います。
今現代、、これだけネットが普及してもう、ネット検索すれば(ググれば)
いくらでも資料・文献。作品が無数に検索できるのですから。
もうほんと
自分の貧弱な?発想力で、、汗かいて、、、徹夜して、、しこしこと、、オリジナル論文なんて作るのがアホらしくなるというそんな時代なんですよね?
世間を騒がせたあの某美人研究者Oが研究論文で、、ついつい無断で孫引き(引用)したくなる真情もわかるというものですよね?
まさに、
今という時代ほど引用というか、丸写し、しやすい、、環境の時代もありません。
先ほども書いたように、ネット検索すれば無限に資料や文献がいくらでも、ごろごろと出てくるからです。
あなたはそれを
ただ、、コピーアンドペースト、、ドロップしてあなたの論文に適当に塩梅して?
たらしこめば
もう立派な「博士論文」の出来上がりなのです。
もちろん、引用しただの、丸写ししただのは
一切、内緒にしてですよね。
本来ならば、、
その文献の引用先を明示して「参考文献」として範囲を限定すれば、まあ引用としては許されるのですが、、、
それだと
「お前の論文って引用だらけでどこにオリジナルがあるんだい?」
ってことになりますから
ついつい、、引用をごまかす?というか、、引用してない?
、、、って装うんですよ。
つまり
これが、、
これって、、つまり「盗作」なのです。
研究論文の世界に限りません。
文学の世界でも「盗作」は日常茶飯事ですよね。
最近も某文学賞の候補作品が盗作だと騒がれていますよね。
ところで、、文学においては
研究論文と違って参考文献からの引用、、というのが、、ありえないのです。
というのは、、文学はフィクションであり、直ちに、想像力のたまものだからです。
ですから、、参考文献からの引用ですという詭弁が通らないのですね。
研究論文なんかですと巻末にびっしりと10ページにもわたって参考文献リストなんてのが
ついてるのがザラです。
「おいおい、これじゃあお前の論文ってほとんど参考文献からの引用だろ?」という突っ込みも入れてみたくなりますが、、それが実態なのです。しかもそれで、、通ってしまうんです。
引用先がはっきりと、明示されてれば、おとがめなしなんです。
でも、文学はだめです、なぜかというと、
文学はフィクションであり想像力の産物だから
参考文献として「引用」するということはありえないんです。
引用したら、、即、盗作なんです。アウトなんです。
そもそもあなたの創作小説の巻末にびっしりと「参考小説リスト」?なんてありえないでしょ?
もしそんなの付けたら、そんなの「盗作リスト」でしかないからですよ。
既存の研究論文の成果を検証しそこから自分の新見解を付与するというのは研究の世界ではアリですが、、
文学作品で、
他人の作品の想像力を参考引用する?、、というのがそもそも、ありえないからです。
なぜならそれは
その行為は「盗作」そのものだからです。
では二次創作とか
インスパイアー作品
オマージュ作品
続編
というのはどうでしょうか?
〇 二次創作
は古典文学とか古典童話などから
現代風にアレンジした作品が結構ありますよね。
これは原則OKです。
なぜなら古典作品は著作権が消滅していているからです、。
古典文学の二次創作ならOKです。
しかも古典ともなれば、誰でもこれが二次創作だと知ってるからOKです。
〇 インスパイアー作品
とは近代や現代の著作権のある文学作品にほれ込んで
原作者の許可を取って、自分なりにアレンジした作品です。
これも許可済みであればOKです。
無断だったら「盗作」になります。
〇 オマージュ作品
というのが結構微妙でして、、
近現代文学の著作権のある、お好みの作品を
「なぞる」というのか、、
これはパクリというか
丸パクリ?
だったらアウトだし
軽く?「なぞる」だけだったらセーフ?
いずれにしても敏感。。ですね。
もちろん
原作者の許可もとっておいた方が良いですね。
〇 続編
というのは
たとえば「風と共に去りぬ」の続編で
全く別著者が今現代に書いた「スカーレット」という作品がありますね
これは原作が中途半端に終わっていて、、そのあとスカーレットオハラがどうなったのか、
みんな知りたいわけですよ。
マーガレットミッチェルは続編を書かなかったので、
読者は続編を期待したわけですね。
で、、
こういう続編が書かれたというわけです。
この「スカーレット」という続編は、
もちろん、著作権の関係はマーガレット・ミッチェルの遺族の、許諾を得たうえでのことなのです。
許諾済みなのです。
無断でやれば大問題です。
〇俳句の類句問題について
さて
ここからは
俳句の世界の大問題?である
「類句」「類想句」について検証してみたいと思います。
最近もテレビの俳句番組で某お笑い芸人が
まるぱくり?した名句が
取りざたされていましたよね。
あれって一字しか違っていなかった、、って、
これはアウトでしょう。完全な盗作です、
例のお笑い芸人さんはあれこれと言い逃れしてるようですが、
これはだめです。完全にアウトです。
これでは「類句」どころのさわぎではありませんよね、
そもそも、、「類句」「類想句」っていうのはですね。
なんとなく雰囲気が似てるなあ、、っていう俳句のことなんですよ、
あれ?
これってあの有名なあの俳句の雰囲気そっくり、、って、俳句のことですね。
これもじつは、、アウトです
判明すれば俳句賞も失格です。
雰囲気を盗んだからです。
これも立派な盗作なのです。
ただ、、
俳句の世界では
この類句ってやつが
実に多いんですよ、
多いから騒ぐんです。
というのも
この類句問題の根が深いからです。
俳句に類句は付き物と断言できるくらいです。
俳句を見たら、、類句を疑え、、というくらいに横行してます。
類句なんてもう日常茶飯事です。
これは小説以上に俳句に特有の問題です。
小説ならばまだ、、あれだけの文字数ですから
最低でも1万字。。
長編ともなれば100万字
これだとマネばかりでは,、埋まらない?ってことですよ。
ところが俳句はたった17文字ですよ。
だから丸ごとそっくりって、、結構あるんですよ。
さっきの例のような一字しか違ってないような丸パクリ盗作は論外ですが
この
なんとなく「似てるなあ俳句は」もうそこら中にあるんですよ。
ありふれていますね。
故意か
無意識かは問いません。
この場合には
あとから作った類似句がボツになるのです。
ではなぜそうなのか?
そもそも、
俳句の世界で新境地とか
新しい味の俳句って
言うのは簡単ですが
いざ自分で作れってなると、
結局
あれ?
どっかで見たような俳句?
ていう結果になりがちなんです
その原因は、、、実は、、俳句自体の構造的な欠陥から起因しているのです。
そもそも俳句とは
たった17音ですから、、
17音しかないから
そんな短文に
そこに今までにないような
新風を吹き込むって
新境地を表現するって、、
そりゃあもう
不可能に近いくらい難しいことなんですよ。
たった17音ですよ
そこに新風を吹き込むって
ムリでしょ?
言葉も限られて
しかも俳句の歴史って明治から
数えても150年ですよ。
芭蕉までさかのぼれば、200年以上ですよ。
その間
様々な俳人が多数輩出して
様々な境地を詠んできたんですよ。
たった17音という限定の中にね。
これって単純に考えても
タネが尽きるでしょう。
もう飽和状態でしょ?
やりきってるでしょ?
ほとんどの題材は詠われ切ってるでしょ?
はっきり言って
もう新風なんてありえないんですよ。
もうどっかで詠われてしまってるんですよ。
まあ
かくして
今日もまた
あちこちの句会では
あれ?
どっかで見たような
ありきたりの
平凡な
使い古したような
俳句が
陸続と
詠まれ続けているんでしょうね?
ということで、
まあ
たった17音だから
結局は
類句のオンパレードになるしかないという哀れな俳句の実態なんですよ。
これが俳句の構造的なある意味
致命的な欠陥なんですよ。
これはどうしようもありません。
ですから俳句の世界では
類似句は日常茶飯事です。
そしてもし見つかった場合は
あとから作った俳句は
即。
ボツなのです。
その際には
故意か
無意識かは問いません
知らずに類似句を作ってもボツです。
というのはおそらく、、
どっかで
何時かに
そのオリジナル句を
見た?
読んだ?
のでしょうね?
それを本人はすっかり忘れてしまった?
それでも、、
無意識に
潜在意識にそのオリジナル句が残っていて
ある日、無意識に
類似句を作ってしまった
という場合があるからです。
これは、、まあ
言うならば
無意識の盗作?なのです。
ですからあとから作った俳句がボツです。
〇 いらずもがな?の、俳句の類句問題についてのあとがき
小説や
研究論文の盗作は絶対だめです
が?
こと俳句については
まあ、あれこれといらずもがな?なこと書いてきたけど、
ほんとのところは?
つまり本音は
もっと自由に、、、。
好きなように俳句作り(作句)すればいいよ。
まあ、
自由に作句したらいいですよ。、
でも
あんまりにも先人の俳句に似たような「マネ俳句」作りはやめようね。
少しは自分の独自性も出すようにしようね、
、、、、、、、って
この程度の軽い?いましめでいいじゃないのか?
俳句なんて自由につくったらそれでいいですよ、
だって俳句なんて、どうせそんなに大した代物じゃあないんですから。
俳句なんてものはね。
お遊びですよ、
言葉遊びですよ
俳句なんてね
だから、、
「類句・類想句を過度に恐れるな。」と、、あえて、、、私は、、この際、言いたい?
というのは、、
そもそも、
たった17文字ですから、どうしても類句だらけになってしまうんですよ。
こんな短文形式では似た言葉も入るでしょうよ、
人間だれしもおんなじような発想で句作するから類想もあるでしょうよね。
だから、、、、
「少しくらい似てたっていいじゃないか? 俳句だもの」
「丸パクリじゃなければいいじゃないか、俳句だもの」
と、、まあ
そんな程度でいいじゃないでしょうか?俳句なんて。
でも?本当の本音を言えば、、
そこを乗り越えて、
俳句のそういう縛りをどううまく諫めて?
独自の俳句世界を構築することができるか、
それがまああなたが本当の俳人たり得るかって証左になるんでしょうけどね。
それが俳句の
最終目標なんでしょうけどね。
でも
くれぐれも、
老婆心ながら
新風や
新境地を
せっかちに求めるのあまり
暴走してしまって
くれぐれも無茶ぶりの「奇天烈俳句」や
独りよがりの珍語だらけの「前衛俳句」だけには
行き着いたりはしないでね。
それだけはお願いしますよ。