6-7
※この作品は5月6日開催の文学フリーマーケット東京(https://bunfree.net/?tokyo_bun26)にて頒布予定作品の前読みです。
なぜかまだ薄暗い頃に目が覚めた。浅い意識の中で、お尻に布団が直で当たっている感触が新鮮で、妙に生々しかった。
隣では紺野くんが小さないびきをかいて寝ていた。胸のあたりに頭を寄せると、こもった匂いがしてちょっとだけ落ち着いた。私は目を閉じて昨日のことを思い出す。
昨夜、紺野くんの部屋についたのは十時過ぎだった。駅から私たちはほとんど無口で、時々お互いを見てはぎこちない笑みを交し合った。途中に寄ったコンビニでは、妙な後ろめたさを覚えながらレジを通った。
部屋に着いて交代でシャワーを浴びた。使い慣れないシャンプーで髪を洗っていると、本当に男の部屋に来てしまったんだなという気がした。明るすぎる照明の下で体を磨いているのが死にたくなるほど恥ずかしくて、私は熱いお湯を被りながら泣いていた。本当なら爪も毛もちゃんと整えておきたかった。
お風呂から出た後は、流されるように二人で一緒のベッドに入った。初めてだった私は、泣きそうになりながらずっと紺野くんにしがみついていた。キスだって初めてだった。行為中、紺野くんは「ごめん」と何度も言っていた。私になのか彼女さんになのか、どちらに言っているのかは分からなかった。
ふと見上げると、紺野くんの顔がそこにはあった。剃り残しなのか、アゴの裏に一本だけ飛び出た髭があった。それがなんとなく可愛くて、私はそっと触れてみる。薄いイメージだったけど、ちゃんと生えてるものなんだなと思った。
その時ちょうど紺野くんが目を覚ました。眼をこする紺野くんにどう接するか迷って、私はおはようとだけ言った。紺野くんはぼうっと私を見ていたけど、やがて目を手で覆って小さく唸った。
「……ごめん」
また謝った。何に「ごめん」なのだろうか。わからないけど、そうつぶやく紺野くんはいやに可哀そうに見えた。生真面目そうな青年のくせして、陰を隠し持つその顔貌に私はそっと手を添える。
「大丈夫だよ。きっと」
二人でしばらくじっとしていた。やがて紺野くんは深いため息を吐いて、起きる? と訊いた。うんとうなずくと、ゆるゆると紺野くんは体を起こす。何も着ていなかったから、空気にさらされた肌が悲鳴を上げた。私がのろのろと下着を身に着けている間、紺野くんはどこからか厚手のパーカーを取り出して貸してくれた。
顔を洗って私は、ふとキッチンの前で立ち止まった。二つ口のガスコンロに小さな流し、その間の窮屈そうな調理台はいかにも一人暮らしという感じで、少し面白かった。そのせいだろうか、ほんの気まぐれで私は紺野くんに尋ねる。
「ねえ、朝ごはん作っていい?」
自分がやると紺野くんは言ったが、何回かお願いをするうちに折れてくれた。それならばと私は冷蔵庫の中身をのぞき込む。卵と牛乳があったので、おかずはスクランブルエッグに決まった。
まずフライパンで食パンを焼く。焼きあがったパンを皿に移して油を敷くと、次は塩コショウと牛乳を加えた溶き卵を流し込んだ。
出来上がったスクランブルエッグを皿によそっていると、紺野くんがお湯を沸かしてインスタントコーヒーを作ってくれた。私はミルクたっぷりのを、紺野くんはブラックを不揃いなマグに注ぎ、それぞれローテーブルに着く。
「……いただきます」
なんとなく手を合わせて私たちは食べ始めた。スクランブルエッグは普段とあまり変わらない味付けだけど、妙に美味しかった。顔を上げると、紺野くんもスクランブルエッグを食べていた。美味しいと紺野くんは言うと、少しだけ笑った。私も嬉しくて、もう一口食べながら笑った。夫婦みたいだなと思った。
朝ごはんを食べ終えた後、二人でベッドに座ってウトウトしていた。だけど時計が七時半を過ぎたところで私は腰を上げる。
「そろそろ帰るね。昼からバイトもあるし」
ん、と紺野くんは眠そうな顔を上げた。その時、ふと今なら訊けるんじゃないかなという気がした。私はパーカーを脱ぎながら、ねえ、と声をかけてみる。
「……そういえば、なんで昨日は私を連れて帰ったの」
紺野くんの顔は一瞬陰を落としたけど、すぐにごまかすような苦笑いになった。
「なんだろ。椎名さんがもともと気になっていたのは確かだけど」
「彼女さんがいるのに?」
まあ、と紺野くんは気まずそうに視線をそらす。そんな彼に私は脱いだパーカーを手渡した。
「言い訳になっちゃうけど、彼女がいても気になる時は気になるんだよ。椎名さんだって、彼女がいるの知ってて家に来ただろ」
確かに。私たちは二人でくすくすと笑い合った。共犯者ってこんな気持ちになるのかもしれない。
「……あと、うまく伝えられないんだけど」
紺野くんは言いかけて急に口ごもった。頭の中で言葉を探しているのか、しきりに指先がベッドの表面を叩いている。
「……なんていうか、復讐したかったって言ったら、通じるかな」
「復讐? 誰に?」
「なんか、今までの自分とか、親とか、周りの人とか。
時々、無いかな。自分のいつもの行動や言葉が、なんか違う。しっくりこない。まるで誰かに強制されて動いているみたいで、気持ち悪い。そういう時に、何でもいい。普段の自分がしなそうなことを思い切ってやりたくなる。実際にやるのはすごく怖いんだけど、衝動が抑えられなくなる」
こういうのって、変かな。紺野くんは少し寂しそうに視線を落とした。私はさっきの言葉を頭の中で繰り返し唱えていた。復讐したい。反芻するうちに、不意に目の奥がしびれたように熱くなった。
歩み寄って、座っている紺野くんの頭を私は小さく抱きしめる。紺野くんは変じゃないと、言葉じゃなくて体温で伝えられたら、そうできたらどれだけ良いだろうと思った。
抱擁はたった数十秒だった。自分から離れて、私は荷物を持つ。紺野くんも立ち上がって、玄関まで送ってくれた。靴を履いてドアノブに手をかけた瞬間、紺野くんは待ってと言った。振り返ると、紺野くんは苦しそうな顔をしていた。
「ごめん……、わかっているとは思うんだけど。昨日のこと、誰にも言わないでほしい。ゼミの人とか、もちろん彼女にも」
言っている意味が最初わからなくて、私はきょとんとしてしまった。私は紺野くんを貶めるために抱かれたわけじゃなかった。自分でも分からない衝動が、あの時の電車から私を連れ出したのだ。
「……大丈夫。私、そんなつもり無いから」
それじゃ。私は手を振るとドアノブをひねる。吹き込んできた朝の空気はハッとするぐらい冷たくて、思わず身がすくんだ。なぜかすごく寂しい気分だった。このままこの部屋を出たら、昨日の何もかもが全部なかったことになりそうで、その想いが足に絡まって動けなかった。
ゆっくり振り返ると、紺野くんがなかなか出ていかない私を不思議そうに見ていた。ドアを閉めて、紺野くんに向き直る。息が苦しかった。どうやったら、どうやったらこの扱いにくい感情を伝えられるだろうか。やっとのことで、私はかすれた声で吐き出す。
「――私、二番目でもいい」
自分で自分のこと、気持ち悪いと思った。
7
寝不足なくせに、頭はよく冴えていた。バイト先のスーパーでレジに立っていたけど、いつもより冷静にお客をさばけた気がする。土曜は忙しくて小さなミスが出やすいのに、珍しかった。
休憩の時間になってバックヤードに引っ込んだ時、店長がパソコンに向かっていた。給料計算でもしているのかもしれない。その時、なんとなく店長と呼んでみた。
「店長、今日の私って、どっか変ですか?」
初老で男の店長は、振り返るといぶかしげに私を見た。
「なに? 髪切ったとか、そういうの全然わからないよ」
「切ってませんよ。そうじゃなくて、調子悪そうとか顔つきが変わったとか」
別に? 店長はそっけなく言うとパソコンに向き直る。その大きな後ろ姿を眺めながら、私は水筒のお茶を飲む。
実は昨夜、彼女持ちの男と寝てきたんです。それを聞いたら、店長はどんな反応を見せるだろうか。椎名さんみたいに良い子が、どうしてと言うのだろうか。そう考えたらおかしくて、私はうっすら笑った。
こんにちは、伊奈と申します。
ついに一線を越えました。でもまだまだ序盤です。中盤以降も主人公たちの苦悩が続きます。
追記
ただいま小説家になろうにて他の作品も掲載しております。よろしかったらお読みくださいませ。またTwitter(@ina_speller)にて掲載情報、創作、日常のことをつぶやいております。