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※この作品は5月6日開催の文学フリーマーケット東京(https://bunfree.net/?tokyo_bun26)にて頒布予定作品の前読みです。
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私のゼミは毎週金曜日に行われる。主な研究は近現代の日本文学で、ゼミ生の発表を中心に活動している。今週は私の発表だった。
発表自体はそこそこの出来だったと言っても良い。レジュメもちゃんとまとまっていたし、教授から借りた『ボヴァリー夫人』の本にも内容は沿っていた。だから万々歳なのだが、うちのゼミはそれだけじゃない。発表者にはその後の飲み会が必ずセットになってやってくるのだ。
ゼミが終わって荷物をまとめていると、さっそく院生に捕まった。椎名さん、今日の発表良かったよと言われるけど、ありがとうございますとかそんな気の利かない返事しか私にはできない。ここで先輩に捕まってしまったから、飲み会コースはどうやら絶対らしかった。アルコールはあんまり飲まない方なんだけど、仕方がない。
まあ金曜日だし。明日は休みだし。夕飯を作る手間がなくなったと考えよう。そうやって無理やり自分を納得させ、私は飲み会に行く人の列に加わる。その時、飲み会に行く人の中に紺野くんが交ざっているのに気がついた。それだから何かあるわけじゃない。あるわけじゃないけど、この間彩希に好みだと伝えたから、なんか気まずいことになったら面倒だと思った。
飲みに行ったのは、ゼミの先輩行きつけの居酒屋だった。教授と発表者は流されるようにボックス席の上座に座らされ、私はとりあえずジンジャーエールを頼む。もうこの時点で帰りたかった。やっぱり、飲み会は苦手だ。
「朋花、お疲れ」
せめてもの救いは、隣に座った彩希だった。差し出されたコーラのグラスに私のを合わせると、かちんと涼やかな音がした。
あおったジンジャーエールは喉に刺さるように辛かったので、二口目からは舌先で舐めるようにして飲む。横の教授は、いや良かったよ椎名さん。でももっと踏み込みがあるとさらに良かった、うんぬん。とか言っている。さすがに相手は教授なので、そうですか、じゃあ今度は○○な観点で、××なアプローチでやってみます。だとか、自分でも意識が高いんだがよくわからない返事をしてみる。教授は満足そうに笑っているから、たぶんこれでいいんだと思う。
運ばれてくる料理を取り分けたり、申し訳程度に巨峰サワーも飲んだりしているうちに、宴もたけなわになってくる。いつの間にか席の移動が始まっており、教授の周りには院生、彩希の周りには男の子が集まっていた。
あ、これはいつものやつだな。と、すぐに分かった。アルコールが入ると、すぐにみんな飲み会を装い始める。いや、アルコールのせいっていうより、アルコールを言い訳にして、みんなが思い思いに動き出すのだ。
彩希の隣に陣取ったあの男の先輩は、彩希に近づきたいのだろうか。わかんないけど、何か猥雑な話で盛り上がっているのが聞こえる。彩希だってまんざらじゃなさそう。教授は研究のことを話せて嬉しいのか、気前よく度数の高い日本酒をあおっている。院生も向こうで議論をしてて楽しそう。でも私は、巨峰サワーを壁際で舐め続けている。時々テンション高めに話を振られても、薄い答えしか返せない。気分が乗らないのだ。
こういう空気が、私はなんとなく苦手だ。構われてる彩希がうらやましいとか、そんなんじゃなくて。こうやって泡のように膨らんでいく歓声が、なんだか気持ち悪くてしょうがない。大きく見えて、実は中身なんか全然無い、ただの馬鹿騒ぎという形が、なんとなく居心地が悪い。充足感が得られなくて、だから私はいつもこの空気に乗ることにためらってしまう。
家に帰りたいな。巨峰サワーの水面に浮かんだ顔がそう言っていた。でもまだまだ飲み会続きそうだし。それに一応、私をねぎらうために開いてるんだし。だから我慢しよう。そんなどうでもいい応答を一人で繰り返し、私は巨峰サワーを飲む。飲み下す。その時だった。
「椎名さん、発表お疲れ」
私の隣の隙間に誰かが滑り込んできた。グラスを置いて顔を上げると、そこには紺野くんがいた。
「……どうも」
グラスを差し出されたので、私は控えめに自分のと合わせる。紺野くんが飲んでいるのはどうやらカシオレらしかった。あんまり男の子っぽくないんだけど、ちょっと似合ってる。
「発表良かったよ。来週は僕も発表だからさ、微妙にプレッシャー感じたっていうか」
紺野くんは冗談めかして言うけど、私は巨峰サワーを飲んでるフリで返事を曖昧にする。いつになく紺野くんに冷たい対応してるなと思った。紺野くんの優しい声がなんとなく苦しい。ごめん。私なんかに構わなくていいから、そこの先輩と話してきてよ。目でそう訴えても、優しい紺野くんはそんなことに気がつかない。
「ていうか、椎名さんが飲みに来るの珍しいよね」
「まあ、家で作った方が、安いし」
「そっか。僕は一人暮らしだから、一人で飯食ってるのがなんか嫌で、ついつい飲みに参加しちゃうんだよね」
一人暮らしなのか。私もお父さんが家に帰ってこないから、半分一人暮らしみたいなものだけど。
「一人でご飯って、確かになんか嫌だよね」
ほんの気まぐれで、私は自分から紺野くんに話しかける。それが私と紺野くんとの間で見つけた数少ない共通項で、その一点に指が引っかかっていれば、少しは紺野くんとの会話も楽しくなるのかも。そんな淡い期待をしてみる。
紺野くんはだよねと笑うと、カシオレを飲み干した。その表情は笑っているんだけど目は伏せていて、楽しそうなのに、一秒後には無表情に戻ってしまいそうな、そんな表情だった。
「なんかさ、食材の分量もめんどくさくてさ。食材ってあんまり一人暮らしを考えて売ってないよね。にんじん一本買ってもなんか余って、野菜室でしなしなにしちゃうとか。なんかそういう時、もう一人いたらなって思う」
紺野くんは一瞬気まずそうに顔を歪めると、カシオレのグラスを手のひらで回す。そこで話が途切れて、ちょっとした隙間が生まれた気がした。ふと、その隙間に私は手を伸ばす。
「……ちょっとわかるかも、それ」
私もにんじんを半分に切る時、もう半分を明日の自分に残すんじゃなくて、もう一人の誰かに食べてもらいたいって思う。そうするだけで、私はだいぶ気持ちが和らぐと思う。
「だからさ、ついつい飲みとか参加しちゃうの。特に、金曜の夜には」
「金曜の夜、ね」
紺野くんの言葉を繰り返して私は黙り込む。私は今まで、どうやって金曜の夜を過ごしてきただろうか。思い出そうとしても、妙に曖昧な記憶の断片しか拾えなかった。
その時、何してんの? と彩希が紺野くん越しに身を乗り出してきた。アルコールのせいか、彩希の目は潤んでいてちょっと可愛い。
「一人暮らしって大変だよねって話だよ」
「え? 朋花って実家じゃなかったっけ?」
まあ、ちょっとね。説明が面倒で、私は適当にお茶を濁す。たいして気にならなかったのか、彩希はそうなのと言ってうなずくだけだった。
5
飲み会が終わり、ゼミの人達と一緒にバラバラと駅前まで向かった。教授はお疲れと言って早々に改札をくぐって行ってしまった。下りの電車に乗るのはたった数人、私と女の子の後輩が一人、そして紺野くんだった。
三人で各駅停車に乗り込むと、後輩は私たちを気遣ってかしきりに話題を振ってくる。今日の発表良かったですよとか、来週の紺野先輩も頑張ってくださいね、とか。おかげで適度な親密さが三人の間にはあったけど、そんな後輩も途中のハブステーションで降りてしまった。それとは入れ違いで、ドッとサラリーマンの男達が電車に乗り込んできた。
「椎名さん、こっち」
紺野くんにそっと手招きをされ、私は開いた方とは反対のドア近くへ寄った。どんどん入ってくる人に押しつぶされる前にリュックを前に抱えると、紺野くんのシャツが右手の甲に触れた。
「……混むね」
「うん。たぶん金曜だから、みんな飲んでいたんじゃないかな」
目の前の紺野くんが苦笑いした。身動きができないくらいの人を詰め込んで、電車はやっとのことで発車した。手の甲は紺野くんに触れたままだ。
「椎名さん。そっち、狭くない?」
少しでもスペースを開けようと、紺野くんが体をよじる。隣のOL風の人が横目でにらんできたので、私は慌てて大丈夫と言った。朝のラッシュでも同じようなものだから、満員電車はそんなに苦手じゃない。それに、
「……こうやって人がぎゅうぎゅうに集まってるのって、ちょっと楽しくない?」
もちろん苦しかったり、変な人の近くは嫌なんだけど。でも、触れ合うくらいなら私は好きだ。
「普段は人肌に触れないからかな。こうやって集まってるとなんか安心する。寒い時期なら他人の体温とかもそこまで嫌じゃないし。それに隣の人の髪がいい匂いだったり、目の前の人が知ってる本を読んでたりすると、なんかラッキーな気分にもなれるし」
言いながら、おかしい気がしてきた。普通は満員電車なんて嫌いな人の方が多いのに、なんでこんなことしゃべってるんだろう。そもそも、私はこんなにおしゃべりじゃなかったはずだ。
私は恐る恐る紺野くんの方をうかがった。紺野くんはきょとんとした顔をしてたけど、すぐにニヤッと笑って、分かるかもと言った。
「僕も、この体温の感じとか、妙な眠たさとか、ちょっと好きかな。あとさ、こんなに人がいるのにみんな他人には無関心ってのが、なんか居心地良くて」
だよね。そうだよね。思わず私は小さくうなずく。紺野くんの言葉には、私と同じことを思っているという感触がする。そしてなぜか、紺野くんに触れた右手の甲が熱かった。こんなに熱いと紺野くんに気がつかれるんじゃないかと心配で、私は少しうつむいた。
しばらくの間、私たちは黙って電車に揺られていた。車窓の外ではまばらな光が横ざまに流れて行くのが見えた。やがて前方から大きな光が迫ってくるのが見えた。それは駅の光だった。
金属の擦れる耳障りな音を上げながら、電車が止まった。ごめん、降りると紺野くんが言ったので、私はいったんホームに移って道を開けた。その時足元がフラついて、大丈夫? と紺野くんに笑われた。酔ってるからと私は笑いながら返した。
「じゃあ、気をつけて」
紺野くんは手を振ると、改札の方へ歩いて行く。その歩みは気のせいかいやに遅い気がする。電車の中に戻った私は、紺野くんの後ろ姿を見ながら、急に沸き上がった衝動をうっすら感じていた。
紺野くんが降りたスペースは、とっくに他の人で埋まっていた。私はドアぎりぎりのわずかな隙間に足を乗せている。発車のチャイムを聞きながら、私は目を閉じた。右手が外気に触れて冷たかった。
かくん、と片足が外に出る。そのまま体が前につんのめって、バランスを崩したみたいにホームへ降りた。早くなりだした鼓動を抑えようと、私は胸に抱えたリュックをきつくしがみつく。
低いモーターの音を出しながら後ろでドアが閉まった瞬間、ドッと疲労が押し寄せてきて膝が震えた。息を止めながら改札の方を見た時、向こうでこちらを見ている人がいるのに気がついた。紺野くんだった。
紺野くんはちょうど振り返った格好で私を見ていた。それに気がついて今更、耳まで熱くなりそうな恥ずかしさに襲われた。
これってどうなんだろう。私、今とても無様なんじゃないだろうか。カン違いした馬鹿な女と思われてるんじゃないだろうか。終電でもないから全然格好もつかないし。酔っぱらって電車から締め出されちゃいましたとか、あまりに混んでるから一本遅らすとか、そんな馬鹿な言い訳を必死に考えてるのに、うまく言える自信が無くて、それが余計に私をおろおろさせた。
改札に向かう人の流れに逆らって、紺野くんがこちらに歩いてくるのが見えた。なぜかその姿が怖くて、私は一歩後ずさりする。紺野くんが目の前に立ち止まった時に、私は自分の汚れたスニーカーの爪先を眺めていた。
「――どうしたの」
頭から声が降ってきた。紺野くんの声だったけど、紺野くんとは思えないほど無機質な声だった。
「……電車から、締め出されちゃったから」
やっとのことでそれだけを言った。自分でもお粗末と思う嘘だった。声もかすれていた。
紺野くんが何も言ってこなくて、長すぎる沈黙が流れた。遠くで電車の迫る音がしていた。この電車に飛び乗れば、とりあえずこの場からは逃げ出すことができる。その時だった。
急に右手をつかまれた。反射で顔を上げると、紺野くんがこちらを見ていた。苦しさをこらえるような、ひどい表情をしていた。
ひと呼吸置いてから、紺野くんは何も言わずに改札に向かって歩き出した。振りほどくこともできたのに、私は訳が分からないまま紺野くんに引きずられていく。どうして、が頭の中でいっぱいだった。緩んだ目頭から少し涙が出たけど、こぼれ落ちる前に冷たい風がさらっていった。
こんにちは、伊奈と申します。
前回が落語でいう“まくら”だとすると、今回は最初のクライマックスって感じですね。書いていた時、私も柄になくドキドキしながら書きました。
ちなみに、この主人公や紺野くんが最低と言う方もいると思いますが、安心してください。最高の人物なんて一人も出てこないです。全然安心できないですわ。
追記
ただいま小説家になろうにて他の作品も掲載しております。よろしかったらお読みくださいませ。またTwitter(@ina_speller)にて掲載情報、創作、日常のことをつぶやいております。