1-3
※この作品は5月6日開催の文学フリーマーケット東京(https://bunfree.net/?tokyo_bun26)にて頒布予定作品の前読みです。
1
朝起きて、今日は月曜日だなと思った。今日の講義は二限からだ。もう少し寝ていたいけど、あんまりだらだらもしていられない。
重い布団をはねのけて無理やり体を起こすと、私は寝間着のままでキッチンへ向かう。パンを機械的にトースターに放り込むと、焼きあがるまでの間に簡単なサラダとインスタントスープを用意する。出来上がった朝食をもそもそと食べながら、賑やかしに点けたテレビを私はぼうっと眺めた。今日の日本列島は移動性高気圧に覆われて、全国的に秋晴れの天気となるでしょう。ハツラツとした予報士の声は、やっぱりどうも演技くさい。
食べ終わったら食器を洗って、部屋に掃除機をかける。古い掃除機はなかなか埃を吸ってくれなくて、私は2LDKをゆっくり時間をかけて回る。あまり散らかってないし、汚れも一人分しかない。部屋だって少し大きすぎる。それなのにせっせと掃除をするなんて、なんだか馬鹿らしい気がした。
掃除が終わると、もう大学に行く時間になっていた。慌ててベースメイクと目元だけ整えると、私は急いで家を出る。忙しい一週間の始まりだ。
2
大学の昼休み、次の講義の教室は人がまばらだ。私は毎週そこで、ゼミの友達と一緒に購買のお弁当を食べることにしている。
「ねえ、朋花は彼氏作らないの?」
彩希は唐揚げを頬張りながら尋ねてきた。テニスサークルに入っている彩希は食べっぷりがいい。
「えっ、いきなり、何?」
とぼけたフリをして私は尋ね返す。食べようとしていたミニトマトを取り落とす演技付きだ。
「朋花はなんか隙があるから、気にしている男とか結構いると思うよ。それにね、最近友達で彼氏ができた子がいたから、朋花はどうなのかなって」
「別に、彩希がいるから彼氏なんていらないな」
「うわぁ、今日も嬉しいこと言ってくれますな」
ホント、朋花は私の癒しだよ。嬉し泣きをするフリをして彩希は目頭を押さえる。同じ女の子だけど、かわいいなと思った。
彩希は大学に入った頃からずっと一緒の友人だ。学部学科が一緒なのとたまたま入学ガイダンスの教室で隣の席に座ったことで知り合った。三年生の今でも同じゼミ生としてつながっている。
「でもさあ、朋花可愛いんだから。だから彼氏作った方がいいよ。作らないの?」
んー、と私は曖昧な返事をする。とりあえず考えておくフリもする。別に男が欲しい気はしなかった。それは私が枯れているからなのだろうか。
「じゃあ、好きなタイプは? どんな感じ?」
「あんま無いかなぁ」
「えー、いーじゃん。教えてよ」
いーじゃん、っていうのは、友達だからいーじゃんってことなのだろうか。それで私は、なんて答えたら良いんだろう。ご飯を食べながら考えていたら、彩希の肩越しに教室のドアが開くのが見えた。入ってきた人を見て、私はなんとなくつぶやく。
「紺野くん」
「えっ、なに?」
「紺野くんみたいのが、タイプ。たぶん」
教室に入ってきた紺野くんは、きょろきょろと空いている席を探しているようだった。彩希も紺野くんに気がついたのか、振り返ってなるほどとつぶやく。やがて紺野くんは私たちの席から離れた前の方の席に座った。
紺野くんも同じゼミの仲間だ。あんまり話したことはないけど、真面目で優しいイメージがある。
「……わかるな。ていうか、紺野くんみたいな人と朋花って絶対相性良いよ。包容力っていうの? 紺野くん優しくておおらかだから、朋花みたいに癒し系の子と合うよ」
彩希がしきりに紺野くんを推しはじめる。私はそうだよねと薄い相づちを打った。打ちつつ、前の席に座る紺野くんを盗み見る。別にカッコイイわけじゃない。どっちかというと地味で目立たなくて、それでも誰にでも優しいところとか。単純だけどそういうところが、やっぱ良いなと私は思う。
「だけど、紺野くんって彼女がいるらしいよね。なんか後輩っぽい女の子といるの見るし」
たまに駅のホームで、彼女と一緒に電車を待つ紺野くんを見かけることがある。そういう時、私はわざわざ違う車両に乗り込んでやり過ごす。彼女持ちの紺野くんとお近づきになる機会なんて、私にあるわけがない。
「そうだよね。なんか、サークルの後輩らしいよ。遥奈ちゃんとか言ってたっけ」
遥奈ちゃんっていうのか。私は紺野くんの隣にいた彼女の顔を思い出してみる。栗色のショートのせいか小動物のような、そんな愛らしさを備えた女の子だった。
じゃ、頑張って紺野くんみたいな人見つけるんだよ。私も探してみるから。彩希はそう言って応援してくれた。ありがとうとうなずいて、私は鮭のムニエルを口に運んだ。
3
マンションの扉を開けると、私はただいまと中に呼びかける。家に人がいるんじゃない。私の「ただいま」は単に防犯対策のための、そんなつまらない「ただいま」だ。
部屋に上がって最初にやるのが洗濯物の取り入れ。次に風呂を沸かして、待っている間に米を洗って炊飯器にセットする。しばらくしてお風呂が沸いたチャイムがしたので、私はいそいそと風呂に入る。
シャワーで体を軽く流した。シャワーは最初冷たかったけど、だんだん温かくなって肌になじんでくる。その時、私はなんとなく隣のリビングが気になった。リビングではきっと、シャワーの音が寂しく響いている。
私の家にはほとんどの時間、家族がいない。父は仕事の関係で不定期に家を空けるし、母は私が中学生の頃に離婚して家を出たからだ。
ほどよく湿った頭に、私はシャンプーの泡を乗せる。長い毛先も手のひらで丁寧に洗う。お風呂は好きだ。自分をいたわることができる、そんな不思議な場所だ。
髪を洗った後は体を洗う。洗いながら私は、じっと自分の体を観察してみる。腕の細さ、胸のふくらみ、お腹の白さ。これらを見るたびに、記憶の中のお母さんに似ているなと思った。お母さんもこんな体で、小さい頃は体を洗ってもらった。
やっぱり、私はお母さんの子だ。ひと洗いごとにそう気がつき、私は少しだけ複雑な気分になる。そして、お母さんが出て行った時のことを思い出す。
私のお母さんが出て行ったのは、お母さんの浮気が原因だった。誰も知らないうちに外で男を見つけ、知らぬ間に逢瀬を重ねていたのだ。それを知った中学生の私はすごくショックだった覚えがある。
お母さんの浮気を知った日の夜。一人娘の私を抜いてお父さんとお母さんはリビングで話し合っていた。私は自分の部屋に避難していて、時々聞こえるお父さんの大きな声に怯えていた。怯えながら、なんとなく私はお父さんがフリで怒っている気がしてならなかった。お父さんは普段から怒らない。怒ったとしても、あんなに怒鳴り散らすようなことはしない。だいたいお母さんや私のすることには無関心だ。だからお父さんはあの時、一家の長だから怒った、そんな気がした。
話し合いはたった三日間で終わった。三日後の夕方、学校から帰ってくると、家で待っていたのはお父さんだった。その場で私は、二人が離婚すること聞かされたのだった。
体を洗い終わると、私は湯船に浸かった。ご飯を作らなきゃいけないから、あんまりゆっくりはできない。白々とした体をさすりながら、この体もいつか男に触られる日が来るのかなと考えた。好きな人に触られて、お母さんみたいに、泣きたくなるくらい嬉しいと思うのだろうか。でもそれはなかなか想像しにくいことで、考えるたびに頭がこんがらがってしまう。結局、想像なんか仕方ない。なるようになるのだと思って私は考えを切り上げる。同時に湯船も飛び出して、体を適当に拭きながらダイニングに出た。
今日のメニューはポトフだ。にんじん、じゃがいも、キャベツ、しめじ、玉ねぎを切って、コンソメスープで煮るだけの簡単なものだ。すっかり体に染み付いた手順で私は調理を進める。包丁を動かしていると、そのリズムに乗って思い出すのはやっぱりお母さんのことだ。
お母さんもよく、台所に向かって料理をしていた。料理自体そんなに好きではないと言っていたけど、家族のために頑張って作ってくれていたらしい。そんなお母さんの料理で私が一番好きだったのは、何のひねりもないけれど、肉じゃがだった。
肉じゃがはお父さんも好きな料理だった。お父さんもというか、食べるたびにお父さんがおいしいというので、それで私も好きになった気がする。お父さんが肉じゃがを食べておいしいと言い、私も真似しておいしいと言い、それをお母さんが嬉しそうにみている。それが我が家の幸せな週末だった。
でも、数年もしたら浮気で離婚しちゃうんだもんな。お鍋でコトコトと野菜を煮ながら、私は残酷に思い出を終わらせる。そろそろ野菜も柔らかくなってきたので、私はウィンナーを加えた。ウィンナーは切らずに丸ごと入れるのが我が家流だ。そして塩コショウを適量。これで完成。
片手間に作ったみそ汁と、副菜に添えたほうれん草の煮びたし。お茶碗にご飯をよそって、私は席に着く。ご飯を食べながら、私はテレビをつけて適当なバラエティーの番組を見た。テーブルには二人分の椅子があるくせに一人分のご飯しかないこの状況で、私はなんとなく思う。
たぶん、お母さんは寂しかったのだと思う。仕事で家にあまり戻らないお父さんを家で待っているのが、寂しくて仕方がなかった。だから、他の男の人にすがった。ひとりでご飯を食べるようになってから、だんだんその気持ちがわかる気もした。だって、ひとりで食べるご飯は食べた気がしない。空腹が満たされた感じがあまりしないのだ。
空っぽ。そんな言葉を頭の中で反芻する。そう、たぶんこれは、空っぽと呼ぶんだ。最近私はそのことに気がついた。
お母さんも空っぽだったのかなと想像してみる。空っぽな家の中で、空っぽなお母さんが、空っぽなままお父さんを待っている。そして今、私が空っぽだ。ひょっとすると私も、いつかお母さんみたいにどこかの男にすがるのかもしれない。寂しいから、誰かの温もりを求めるのかもしれない。
そこまで考えて、こんな想像をしているなんて、今日の自分はずいぶん変だなと思った。でも、ありえることかもしれない。だって私の体は、日に日にお母さんに似てきている。血の半分だってお母さんと同じものだ。寂しさに耐えられなかった血。誰かの温もりを求めた血。親戚の人に淫乱と陰口を言われた血。
その時、私は笑ってしまった。冷めかけたポトフをひとさじ、すくって私は口に運ぶ。
そうだ、私にもインランの血が流れている。
〈近日次話公開予定〉
こんにちは、伊奈と申します。かなり最低な恋愛小説の始まりです。
去年の頭辺りから書いていてやっと最近書き終わったという、なんとも難産な作品でした。本当、何回泣きそうになったか……。おかげでちょっと思い入れのある作品に仕上がりました。お楽しみ頂けたら幸甚の至りです。
追記
ただいま小説家になろうにて他の作品も掲載しております。よろしかったらお読みくださいませ。またTwitter(@ina_speller)にて掲載情報、創作、日常のことをつぶやいております。