始まりの相談。
梅雨特有のじめじめとした朝。学校の廊下にて。
「下ネタは美学と思わないか?」
「思うわけないわよアンポコタン」
今日も佐那河内海陽のアホさ加減は絶好調だ。朝早くから栗色の髪をひょこひょこ揺らし、にこにこと笑って下らん話を投げつけてくる。もう喋るのすら億劫になってくるのだけど、幼馴染だとか親が仲良いとか、そういう理由で顔を突き合わせなければならないのがもどかしい。
「ふむ、美波はまだまだ調教がなっていないようだな。どう? 一晩かけて僕が調教してあげブッ」
「口を開かないで。水虫ができそうになる」
「なんだそりゃ」
はは、と笑って私が殴った頬を押さえる海陽。いつものことすぎて泣きたい。周りの子は『石井さんと佐那河内くんって付き合ってるんでしょ? いいなぁ~、アタシも彼氏欲しい~♡』なんてほざいてるけれど、断じてないと言い切れる。コレと付き合うくらいなら、通り魔に襲われてあっけなく人生の幕を閉じる方を私は選ぶだろう。
あ、石井って私のことね。石井美波。『美しい輝きを放つ波のように、穏やかで聡明な子になれ』という両親の想いが込められているとかなんとか。しかし、
「どうして美波はこんな子に育ってしまったんだか」
「は? 五月蝿いわね水虫」
「僕は水虫じゃない! 人間だ!」
「帰りにブテナロック買わないと」
とまあ、穏やかとはかけ離れた奴になってしまった。八割は海陽のせい。ということにしておいてください。
「穏やかといえばさ、やっぱ羽ノ浦さんじゃね? あと津田君」
「津田君は穏やかっていうか怜悧っていうか……。でも、ゆっきーが穏やかだったのは認めるわ」
ゆっきー。羽ノ浦由岐。私の友達にして親友。今年になってから転校してきた子で、その真っ白な肌や儚げな印象は、当時『雪姫』などと噂されたものだった。
いやまぁ、今はクラスにも慣れて本性見えたっていうか、まったく『雪姫』じゃなかったっていうか、実は結構ノリが良かったりだとか、まさかそんな、
「あ、おはよう美波ちゃん。昨日の深夜二時頃に自室で素数を数えていた美波ちゃん」
これが、羽ノ浦由岐の本性だ。
「おはよ、ゆっきー」
苦笑いで言葉を返す。海陽もにこにこ笑顔で挨拶。
「おはよう羽ノ浦さん。今日も絶好調のようで」
「いやいや、下ネタマスターの佐那河内くんには及びませんよ」
「あははは」
「おほほほ」
「あんたら気持ち悪い」
とりあえず海陽の頭をチョップ。「なんで僕だけなのさ!」と抗議の声が聞こえるが無視。
「ところでゆっきー。津田君の話してたんだけど」
「ああ、な……津田くん?」
「そうそう。いっつも静かじゃん、あの人。本読んでるか勉強してるかのイメージしかないし。イメージ通り成績も良いし。でさ、ひょっとしてゆっきーなら津田君についてなんか知ってるかなぁって」
「なんて脈絡のない……んん、でもそうだな。津田くんについての相談ならある」
「おお? ゆっきーが相談とは珍しい。聞かせて」
「いいよ。ただし」
「海陽は抜きで」
「ご名答」
視線を海陽へと向ける。
「……ちぇ。まあいいぞ。存分に二人で百合百合してらっしゃい。僕は他の友達のとこへ行ってきてあげる」
「うっせぇバーカ」
拗ねながらもこの場を去るあたり海陽らしい。物わかりのいい奴は好きだ。
「で、相談とは?」
「ええと……耳貸して」
私は頷いて、耳をゆっきーの口元へ近づける。息がかかって少しくすぐったい。
「わたし――津田くんが、好きなんだ」
口から溢れ出ようとする言葉をなんとか押しとどめ、暴れる心臓を押さえつけ、私は平静を装う。怒涛の展開だった。
「へ、へぇーそうなんだー。でもそれと相談にどういう関係が?」
「協力してほしいの。わたし、今のままだと喋ることすらままならないから……きっかけ作りだけでいい。お願いします!」
ぱちん、と手を合わせられる。おまけにウィンクまで。私はぱくぱくと声にならない声を上げてから、決断を下した。
「……はぁ。いいよ。それくらいだったら、一肌脱いであげる」
「やった! ありがとう美波ちゃん! 愛してるぅ!」
「はいはい」
渋々そう言ったかのようだったけど、まったく悪い気はしなかった。むしろ楽しみですらあったのだ。ゆっきーと津田くんがカップルになれたら、それはとても嬉しいことだし。キューピッドというのもたまにはやってみたい。
そう。
まだ私は、この決断のせいで『私』が揺らいでしまうということを知らない。
そして、私たちにとってかけがえのない夏が、一度きりの夏が――幕を開ける。