第四話 血の紋章
一時間ほども飛行を楽しんだ頃、街へは着いた。
街のど真ん中で降ろされて、こうもりに連れてこられた男として目立つのは嫌だなあと思っていたが、ちゃんとこうもりは空気を読んで、街から少し離れた草原に降ろしてくれた。
「ありがとうな。チェルージュにもよろしく」
言葉がわかっているのか、こうもりは小さな首をかしげて、飛び去っていった。
街までは数分も歩けば着くだろうが、こうして一人っきりになってみると、少し寂しくもある。これから、身寄りもない街で暮らしていくのだ。弱気になっていてはいけないと思い、軽く自分の頬を張って気合を入れる。
歩き始めてすぐに、十メートルはありそうな巨大な壁が見えてきた。
空を飛んでいる時も、街は小さいのに壁は立派だなあと思ったが、こうして間近で見るとその大きさはやはり圧巻だった。
はるかな上空からこの街を見おろしたあの光景を、俺は忘れることはないだろう。中心部にドーム状の建物があり、そこから渦を巻くように商店が広がっていく。広場があって、噴水があって、蟻みたいに小さく見える人の行き交う様があって、露店が見える。
中心から左奥、職人街らしき町並みからは煙突からいくつもの煙が立ち昇っており、左端にはひときわ巨大な城のようなもの、手前と右側には住宅街が並ぶ。右側の住宅街の方が、家も大きくて綺麗なものが多い。
それら街の周りを、巨大な壁がぐるりと取り囲んでおり、壁の外、つまり街から出ると街道や畑が広がっているのがわかる。それ以外のほとんどの大地が、森や草原だった。
チェルージュのところから飛んできたせいか、当初はこの街がとてもちっぽけに見えた。圧倒的なまでに広い森に比べて、この街は爪の先よりも小さい。
それでも、歩きで街の端から端まで歩けば一時間はかかるだろう。人口は百万人もいないぐらいだろうか?人口密度はかなり高そうだった。高層建築物は少ないのに、広場は人の行き交う様で、床が見えないほどだったから。
(さて、どうやって街に入ったものか――)
自慢ではないが、客観的に俺の姿を見ると、怪しいことこの上ないだろう。何せ、手ぶらの上に着の身着のまま、肝心の服は泥で汚れていて小袋一つ持っているだけと来た。
現金もないから、入場料を出せと言われたら事情を説明せざるを得ないが、身分証明もできない。
いざとなれば、記憶喪失で何もわからないと開き直るしかないと思っている。
そんなことを考えながら歩いていると、すぐに街の入り口が見えてきた。
ぐるりと街を囲むようにそびえたつ城壁の上にはところどころ弓を構えた鎧姿の衛兵が立っており、街道は城門へと続いている。すべての城門には見張りの衛兵がいるようなので、街に入るには彼らと接触しなければならないのは確定のようだ。
出入りの少ない城門なのか、俺の他に街の人間は見当たらない。ありがたかった。人にジロジロ見られながら兵士とやり取りをするのは気が重かったのだ。
「止まれ」
城門に近づくと、案の定兵士が槍を向けてきた。
さて、どうやって説明したものかと俺が考えていると――
「板に手をかざして犯罪歴と唱えろ」
見れば、兵士は小脇に抱えていた、銀色の板を差し出してくる。
兵士の言われるがまま、その板に手を押し付けて、「犯罪歴」と喋ってみると、うっすらと板が光り輝いて、何やら文字のようなものが浮かび上がってきた。
兵士はそれを俺から取り上げてちらりと眺めると、
「犯罪歴なしか。行っていいぞ」
と道を開けてくれたではないか。厚さ1メートルほどの城門の奥には、街並みが広がっているのが見える。
(え、それだけ?)
「ど、どうも」
会釈をして、街の中に足を踏み入れる。ここはまだ郊外にあたるのか、民家もまばらで、のどかに畑が広がっている。
ぽつぽつと、幾人かの農夫が畑にクワを振り下ろしていた。農家といえば老人がやっているものと思い込んでいたが、どの農夫も若者から中年で、中には細身の身体で豪快にクワを地面に突き立てている女性もいた。痩せているように見えるのにやたらパワフルである。
中心部へと続く道を歩きながら、街に入れたんだな、という実感がいまさらこみ上げてきた。もっと苦労すると思っていただけに、楽でありがたかった。
(ていうか、警備ザルじゃなかったか? いいのかな、あれで)
城門の兵士がやったことといえば、魔法の板らしきもので俺の犯罪歴を調べただけである。もっと詳細な調査をされるものだと思っていたが、出入りする人間を全員調査してたら時間が足りないのだろうか。
「まあ、ともかく」
まずは、市街の中心部に行こう。遠目にも、中心部に建物が集中しているのが見え、街道もそこへ続いているようだ。
(やるべきことは、魔石の換金と宿屋の確保、それと冒険者になる方法の調査)
それと、飯だ。
「腹減ったなあ」
先ほどから間断なく、腹の虫が空腹を訴え続けている。
(早いところ、腰を落ち着けたいよ)
歩き続けながら、そんなことを考える俺である。肉体的な疲労はほとんどない。しかし空腹は別である。思春期の若者にダイレクトなダメージなのだ。
だからこそ、客の呼び込み競争激しい中央街へと足を踏み入れた時、すさまじい喧騒の出迎えに俺は喜びを隠せなかった。
「いらっしゃいな、宿屋『鯨の胃袋亭』は残り三部屋だよ、名前通りの大飯が売りさ、食い倒れていきな!」
「『百薬草の菜園』は中級までの回復薬なら街下随一の格安です!ぜひおまとめ買いをどうぞ!」
「戦士ギルドはありとあらゆる近接武器を君に教えよう! 君も明日からいっぱしの前衛だ!」
「食堂『庶民の見栄亭』は迷宮素材をふんだんに使った美食が自慢だよ! 今日のお勧めは魔角牛の極鬱金ステーキさ!」
熱気、熱気、熱気。人ごみと喧騒。
ぼうっと突っ立っていると、道を行き交う人々と何度もぶつかる。人が多くて満足に歩けないほどだ。
「そこの綺麗なお姉さん、悪いんだが魔石を換金できる場所を教えてくれ! 後でたらふく食いに来るから!」
「あいよぉ、道案内一丁! この路地をまっすぐ行って――」
お世辞にもお姉ちゃんとは言い難い、恰幅のいい呼び込みの女性を捕まえて声をかける。人の良さそうなおばちゃんだ、と感じた俺の目は間違っていなかったようで、丁寧に冒険者ギルド本部への道を教えてくれた。魔石の換金は、冒険者ギルドで行っているらしい。
人の流れに沿って歩きながら、道中の看板を掲げている店名を眺める。
「山鍛冶の酒場」「高級魔法薬『不死鳥の翼』亭」「万金買命『神杯の一滴』」など、様々な屋号を見ているだけで飽きない。
迷宮で成り立つ街だと聞いていた通り、街中にもちらほらと板金鎧を着込んだ戦士や、弓を手に矢筒を背負った狩人らしい姿が見える。ただし、雑踏の中で装備をしているのはマナーのいい光景ではないらしく、全身を板金鎧で固めた戦士は、行き交う人々から嫌そうな視線や舌打ちを浴びせられていた。
わたわたと謝るその戦士が、兜の面頬を上げると、そこから覗いた素顔は驚いたことに細面の女性のものだった。この世界ではごく普通に、女性も冒険者として戦うらしい。
(すごく重そうに見えるんだけどな、あの鎧)
足取りも重々しい、板金鎧を全身に身にまとって平気そうにしている。
筋骨隆々とした農婦といい、この世界の女性はみんなああなんだろうか?
商店街らしき先ほどの路地を抜けると、石で舗装された道路は横幅が広くなり、人も先ほどよりは減って進みやすくなった。それでも少なくない人が道を行き来しているが、普段着よりも武器防具を装備している人の割合が増えた気がする。迷宮が近くなったせいだろうか?
何にせよ、この一帯は広く、整然と建てられた、家というよりは役所のような建物が多い。政庁のような場所なのだろうか。
冒険者ギルドは、空から見た中でも一際目立っていた、見張塔のついた大きな建物がそうだった。装飾の多い城などとは趣を異にしていて、必要以上に華美ではなかったが、すべての壁や歩道が石造りで舗装されており、質実剛健といった体で、威圧感を覚えるにはじゅうぶんな大きさがあった。
人の列を飲み込んでは吐き出している、アーチ状に組まれた柱が入り口らしい。
(たかっ)
建物の中に入った俺は、さらに驚くことになった。天井が見上げるほど高く、おそらくジルの身長の十倍は超えているだろう。
明かりとりの窓から差し込む光と、何十個ものランプが集まったようなぶら下げ式の燭台は、施設の隅々までを照らしている。
施設案内が書かれた看板があちこちに据えつけられているので、目的である魔石買取のカウンターはすぐに見つかった。
「買取を頼む」
チェルージュからもらった小袋をカウンターに置く。一瞬だけ、俺の身なりを見て訝しげに眉をひそめた受付の女性は、それでも袋を受け取って中を改める。銀色のトレイに袋の中身を出した彼女は、転がり出てきた魔石を見て息を飲んだ。
「――失礼ながら、換金額が大きいので血の紋章を確認させて頂きます」
そう言いながら、彼女が目配せしたことにより、すっと俺の近くに別の職員が近づいてきた。
(これは、盗品か何かだと警戒されてるか?)
近づいてきた職員は、場慣れた雰囲気のする、若い男性だった。受付の女性も、この男性職員も、純白のローブのような共通の制服を着ていて、胸元に炎帝を象った金色のネックレスが輝いている。冒険者ギルドのシンボルなのだろうか。
「こちらへ」
優男そうな見かけによらず、俺の背中に添えられた手は思いの他、力強かった。失礼がない程度に力を入れている、といった感じか。
不安に思わなくもなかったが、まあ、こんな身なりの奴がいたら誰だって怪しく思うに決まっているので、特に抗わない。実はさきほどから、好奇と嫌悪の視線があちこちから刺さってちょっと痛いのだ。
広間の隅にある椅子に座り、若い男性職員と向かい合わせになった。彼は懐から何枚かの紙を取り出す。
「冒険者ギルド、案内人部署のディノ・クロッソです。早速ですが、血の紋章を提示頂けますか?」
「協力は惜しまないつもりだ。だが、非常に胡散臭い話になるが、いいか? 俺は大真面目なんだが」
首をかしげながらも、先を続けるように促してくるディノ青年である。公的機関という側面があるせいなのか、ここの職員はみな対応が丁寧である。
「まず、俺は記憶喪失だ。昨日から前のことは一切思い出せない。文字は読めるんだが、常識とかがすっぽ抜けてる。血の紋章っていうのが何なのかもわからないし、身分を証明できるようなものは持っていない。街の入り口でやった、犯罪歴を調べるようなものはやってくれても構わんのだが、俺はどうしたらいいかね?」
「なるほど、確かに信じがたい話ですね。血の紋章というのは、血液を付着させて、本人の情報を調べる身分証です。お持ちでなければ、50,000ゴルドで作って頂いても構いませんか? 各ギルドに所属する際には必要なのと、迷宮の入場証も兼ねているので、冒険者として活躍されている方は必ず所持されています」
「受付のお姉さんに渡した魔石以外は無一文でな。ついでに言うと、ゴルドっていうのが通貨の単位なのか? 50,000ゴルドっていうのがどれくらいの高さなのかがわからん。教えてもらってもいいか?」
「簡素な宿屋に一日二食付で一ヶ月泊まれるぐらいの金額ですね。雑穀パンが一斤で100ゴルドです。持ち込まれたのがかなり質の良い魔石のようでしたので、お渡しする代金から引く形で血の紋章を作成してもよろしいでしょうか? 恐らく換金額の一割にも満たないはずですので」
ということは、500,000ゴルド以上もの価値がある魔石だったのか。
一年以上暮らせるものをチェルージュはくれたことになる。
「貰い物なんだが、そんなにいい魔石だったのか。血の紋章って奴は、いずれ必要になるらしいし作ってくれ。当面の生活費が残るなら問題ない」
「ご理解頂けてありがとうございます。作って頂けなければ、ちょっとそのままお返しできないところでした」
「さらりと脅すんじゃない。まあ、気持ちはわかるよ。どこからどう見ても怪しいもんな」
意外と話がわかる方で助かります、などとディノ青年が言い、ははは、と笑い合う。
彼が受付の方に指のジェスチャーで何事かを伝えると、先ほどの受付の女性が十センチ四方ほどの、乳白色の平べったい板を持ってきた。
「この短剣で指の先を刺して、この板のどこでもいいので血を押し付けてください。終わった後は、机に備え付けてある回復薬に浸した布を触って頂ければ傷はふさがりますので」
言われた通りに親指を刺し、乳白色の板のど真ん中に押し付けると、うっすらと板に文字が浮かび上がってきた。
もう結構ですよ、というディノ青年の言葉に指を離すと、押し付けた血糊は吸い込まれるように消えていき、くっきりと文字が現れる。
【名前】ジル・パウエル
【年齢】16
【所属ギルド】なし
【犯罪歴】なし
【未済犯罪】なし
【レベル】180
【最大MP】5
【腕力】7
【敏捷】5
【精神】6
『朱姫の加護』
手渡された血の紋章を見ながら、ディノは驚きを隠せない表情である。
「加護持ちというのも驚きですが――記憶喪失というのは、本当だったのですね」
「そりゃそうだが、わかるのか?」
「日常でささいな嘘を吐くぐらいならともかく、公の場で冒険者ギルドの職員に取引に関する嘘を吐けば偽証罪が付きますから。血の紋章は偽造できない仕組みになっているので、これでジルさんの身分は証明されたことになりますね」
「正直に言っておいて良かったぜ。記憶喪失なんて信じてくれるとは思ってなかったから、適当に理由をでっちあげることも考えてた」
「それは賢明でしたね。ミリアム――ああ、さっきの受付です――が魔石の査定が終わるまでお暇でしょう。私で良ければ話し相手になりますが」
「ここの人らは親切だな。助かるわ。聞きたいことは山ほどある。まずは――」
複数の魔石が入っているせいか、ミリアムの査定はかなり時間がかかった。腹の虫を鳴かせていると、ディノ青年は笑いながらお茶請けの甘い菓子を持ってこさせてくれたので早速パクつく。何から何までいい奴である。いずれ恩は返そう。
「これが通貨のゴルドですね。大別して銅貨、銀貨、金貨に分かれていて、さらに同じ銅貨でも四種類の大きさがあります。ちょっと中金貨以上は持ち合わせていませんが」
そう前置きして、ディノ青年は自分の財布から小銭を取り出して机に並べてくれた。
1、5、10、50ゴルドまでが銅貨。100、500、1,000、5,000ゴルドまでは銀貨。同じように、金貨も10,000ゴルドの小金貨から500,000ゴルドの大金貨まであるという。それぞれのコインには額面と、何やら人の顔のようなものが彫られていた。
「ディノって、説明上手いな。若く見えるけど、ひょっとしてお偉いさんだったりする?」
「お偉いさんではないですが、冒険者ギルド自体が他のギルドを束ねていますので」
一瞬苦笑して、それからすぐに真顔に戻ってディノ青年は続ける。
「そうか、記憶がないのでご存知ないのですね。この街はいわゆる、王様はいません。戦士ギルドや魔法ギルド、商業ギルドなど、それぞれのギルドマスターが集まる議会で冒険者ギルドのマスターが選出されます。迷宮の運営や、法令の布告、戸籍の管理などは全て冒険者ギルドで取り扱っています。いわば、冒険者ギルドはこの街の運営者です。自慢に受け取られると恐縮ですが、冒険者ギルドに配属されることはとても名誉なことで、一握りの人間だけがここで仕事をしていますね」
すげー、などと言いながら拍手をする真似をすると、ディノ青年はまたも苦笑する。さすが選良階級である。お世辞もスルーし慣れている。
「それじゃあ、言葉遣いもちゃんとしないとまずいのかね。あまり丁寧な言葉って得意じゃないんだが。お役人様に無礼を働くと首刎ねられちゃう?」
「良いのではないですか? 冒険者の方は荒っぽい方が多いので、大抵の職員は慣れていますから」
「そりゃ助かる。どうもこの話し方が気に入っててな。変える気にならんのだ」
「釘を刺しておくと、ギルドマスターとか、本物のお偉いさん相手だと話は別ですよ。仮にですが、森人などの他の種族と、種族長同士の面談を要請された場合、人間の代表は冒険者ギルドのマスターになりますからね。人間の代表が小馬鹿にされていたら示しが付きませんから」
たしなめるところはたしなめる。メリハリのしっかりした、いい青年であった。
しかし、冒険者ギルドのマスターがいわゆる国家元首みたいなものなのか。すると、冒険者ギルドが政府ってところか。
(――あれ? そのギルドマスターが人間の代表になるってことは)
「お偉いさんの件はわかったんだが、ひょっとして、この街以外に人間の住んでいる国ってないのか?」
「ありませんよ? この街の付近一帯が人間住む唯一の地域です。開拓で序々に居住域を増やしてはいますが」
びっくりした。予想よりはるかに、人間の住んでいる地域は狭かった。このあたり一帯だけが人間の縄張りらしい。
「この街の人口ってわかるか?」
「およそでいいなら、五十万人ほどですね。毎年1%ほどずつ増加していますが」
「ずいぶん少ないように感じるな。やっぱり、迷宮で命を落とす奴が多いのか?」
「私は少ないとは思いませんが、何も知らないと、そういう反応になるのでしょうか。神話の時代に遡ってしまいますが、数百年前に、暗黒龍シンによって人間の国はほとんど滅ぼされてしまったようです。それ以前には、今よりもはるかに大きな王国があり、人口ももっと多かったらしいですよ。迷宮から得られる物資を核に、逃げ散った人々がこの場所に集落を作って何とか生き永らえてきたのが人間の歴史です。本からの受け売りで申し訳ありませんが」
「そうだったのか。人口増加率が低い理由はわかるか?」
「先ほど、私のことを頭が良いと褒めてくれましたが、ジルさんこそ、記憶を失う前は、水準の高い教育を受けていたのではないですか? すぐに人口増加率なんて単語が出てくるなんて。仰る通り、迷宮で若者が命を落とすということもありますが、迷宮外、すなわち街に魔物が襲ってきて死者が出ることもありますから。撃退できなかったことはありませんが、多産を奨励してもこの人口での推移なのですよ。減ったり増えたり、結果的には微増、といったところですね」
「人間、苦労してるんだな。よくわかった、ありがとうな」
「いえいえ――ジルさんは、身の回りが落ち着いたら冒険者に?」
「ああ、その予定だ。迷宮に潜って、命がけで魔獣を倒したりお宝を手に入れたりする。男なら憧れるだろう。どうも、身寄りもなさそうだしな。血の紋章って、偽名じゃなくて本名が表示されるんだろう?」
「ええ、そうですが? 念じながら撫でれば、名前と犯罪歴以外は隠しておけますが、必ず本名が表示されますね。覚えていない名前だろうと、身体に帯びているマナから情報を取り出していますから。戸籍からご家族を探しますか?」
「いや、いいや。多分だが、俺に親戚はいなさそうだ」
ジル・パウエルという名前は、今朝チェルージュから貰ったばかりだ。その名前が本名として血の紋章に表示される。
つまり、この世界に、俺の家族はいない。少し寂しくもあった。
「それなら良いのですが。私からも一つ、質問をいいでしょうか?」
「ああ、いいぞ。何でも聞いてくれ」
「血の紋章の備考欄にある、朱姫の加護という一文ですが。この加護は、どこで手に入れたかわかりますか? 人間に加護を与える以上、強力な魔物なのだとは思いますが、迷宮に入ったこともないようですし」
「先に質問を返して悪いんだが、加護っていうのはよくあることなのか? この加護をくれた奴には恩がある。話すことで、先方に不利益が出るなら黙っていたい」
「よくあるどころか、極めて稀です。迷宮の深部にいる、強大な力を持つ魔物などが、自分たちと敵対しないかわりに冒険者に加護を授けることがあるとは聞いていましたが。今までに確認できているものは、精霊の加護、龍の加護、不死鳥の加護、悪魔の恩寵の四つだけですね。どの加護を持っている冒険者も、それぞれ多大な名声を得ています。どの加護も非常に強力なものだったようですね」
残念ながら、俺の加護はむしろマイナスにしかならないものであるが。
「すまんが、誰に貰ったかは隠させてくれ。ディノにも色々教わった恩があるが、先方には命を救われててな。立場上、上に報告しなきゃいけないとかあるか?」
「いえ、私が言わなければいいだけなので大丈夫ですよ。見なかったことにしておきます。血の紋章も、次からは他人に見られないように加護の情報を消しておけば問題ないでしょう。念じながら指でなぞれば消せますから」
「そうか、助かる」
「迷宮で持ち帰ったものは、すべて冒険者のもの。自分の身は自分で守る。その鉄則がこの街では浸透しているので、嫌がる情報を無理に聞き出したりはしないのでご安心下さい。血の紋章で、任意で隠せる能力があるのもその一環です。犯罪者になるとはいえ、他人を襲って金品を強奪する輩もいますし、犯罪にならないように頭を使って人を殺める輩もいます。信頼できる人以外には、むやみに能力を見せない方がいいでしょうね。対策を練られて襲われないとも限りません」
「そのあたりはシビアなんだな。よくわかった。名を上げたいとは思ってるが、期待させても悪いから加護の内容は教えるよ。最大MPの一割を常に献上するだけの加護でな、戦闘にはまったく役に立たん」
なんとまあ、と呆れ顔のディノである。
「命を救われた、といっていましたね。その代償にしては、もしかしたら安いのかもしれませんね。命は一つだけです。迷宮に潜るなら、慎重すぎるほど慎重に行くといいと思いますよ。一番の死因は油断です」
「そうするわ。しかし今は何より飯が食いたいな。昨日から何も食ってないから餓死しかねん」
「そろそろ査定も終わる頃でしょうから、お腹いっぱい食べてきてください」
談笑していると、ミリアムがトレイに魔石を乗せて近づいてきた。見ると、魔石の一つ一つに金額が書いた紙が貼られている。
「総額で2,450,000ゴルドになります。任意で売らない魔石をお選び頂くこともできますが」
二百四十五万、という数字に、俺もディノも、ぴしりと固まる。予想をはるかに上回る数字だった。
細々と暮らせば、四年は生きていける計算になる。
「そんなに?」
ディノがミリアムに聞いている。話し方がフランクなので、仲が良い同僚なのだろう。
「マナの圧縮率が一番高い魔石が、かなり良い物で。というより、魔石の見本市みたいよ。粗悪な魔石から極めて良質の魔石まで、見事に段階を踏んで一種類ずつ入っているんだもの」
「面白いな。ジルさんの命を助けてくれた人ですよね、これをくれたの。半分でも摂取すれば、かなり強くなれますよ」
(え、摂取?)
「――魔石って、食えるのか?」
これには二人とも苦笑いである。彼は本当に記憶喪失なんだ、とディノが説明している。
「魔法の使い方は覚えておられますか? 感覚としては似ているのですが、魔石を覆うように掌にマナを集めて、魔石が身体の一部分になったように感じられたら、それを血管に吸収させるイメージなのですが」
試しに、250,000ゴルドという値札のついた魔石を手にとって、言われた通りに握ってみる。
マナを集めるというのがどういうことなのかわからなかったが、血液を掌に集めるようにイメージすると――
(お。これがマナか)
身体の中を流れる血液のようなものが、全身から少しずつ掌に流れこみ、魔石と同化しようとしているのがわかった。血液の流れとまったく同じような、身体を巡るマナの流れがあるのだ。思い返せば、チェルージュに魅了の魔法をかけられた時や、首筋に牙を突き立てられた時も、身体を流れる何かを感じたものだ。あれが、マナだったのだろう。
マナの流れは、意識して操ることができた。そのまま続けていると、握った魔石に違和感がなくなってきたので、マナで覆ったまま身体に戻そうとする。
(うおっ)
マナを通わせるだけでは何ともなかった魔石が、身体の中に取り込もうとした瞬間、すごい勢いで吸い込まれた。魔石を握っていた掌の中には、もう何もない。
今まで細々としか感じなかったマナは、魔石の分が加わったことで膨大な量となり、濁流のように身体中を駆け巡っている。
「マナの使い方は覚えていらっしゃるようですね。レベルが上がっているはずなので、血の紋章を確認されてみてはどうですか?」
言われた通り、小刀を借りて血の紋章を確認する。
【名前】ジル・パウエル
【年齢】16
【所属ギルド】なし
【犯罪歴】なし
【未済犯罪】なし
【レベル】230
【最大MP】7
【腕力】9
【敏捷】6
【精神】8
『朱姫の加護』
「レベルが50、上がってるな。MPとかも少し増えてる」
「レベルと呼んでいますが、要はその人の身体に取り込まれたマナの濃度のことです。5,000ゴルド分の魔石で、レベルが1上がるのが相場です。レベルが上がると、使い込んだ技能に応じて、腕力や敏捷なども上昇しますね。ちょっと力が強くなった気がしませんか?」
二の腕で力こぶを作ってみる。見た目は変わっていないが、力がみなぎる感覚があった。
「確かにな。魔石って売るだけじゃなく、買えたりもするのか? それだと、金で力が買えることになるが」
「割増になっていますが、ご購入頂けます。レベルを上げるだけなら魔石を買えば何とかなるというのは、その通りですね。実際、富裕なご家庭で育った方が迷宮に挑戦するにあたり、レベルを底上げするという話はよく耳にします。あまりいい結末は聞きませんが」
「どういうことだ? 身体は強くなるんだろう?」
「身体の強さだけで踏破できるほど迷宮は甘くはないということですよ。例えば睡眠茸という魔物がいますが、自分の縄張りに眠くなる胞子を撒いて獲物を待ち構えています。気づかずに縄張りに踏み込んだら、たちまち眠くなって、そのまま起きることもなく捕食されてしまうでしょうね。状態異常への抵抗率は経験によって高まるのですが、限度というものがありますし」
「そうか。迷宮を探索する技術が育たないまま先に進んで命を落とすのか」
「その通りです。魔石の事前摂取は、入り口に近い上層で死ににくくするための予防には有効ですが、頼りすぎると身を滅ぼします。本当に重要なのは、生き抜くために身についた技術ですから。それに、悪人から見るといい獲物でしょうね。それとなく罠の方向に誘導してやれば勝手に死んでくれますから、後は死体から身包み剥げばいいのです。これだと直接傷つけているわけではないので犯罪にはなりませんから、よく行われている手口です」
「えげつないなあ。警戒しなきゃならんのは魔物だけじゃないってことか」
「とはいえ、ろくに装備も整えられないまま迷宮にもぐって命を落とす冒険者が後を絶たないのも事実です。血の紋章を50,000ゴルド払って作ってしまえば、迷宮には入れますから。簡単に一攫千金が成る場所ではないのは、行ってみればすぐにわかることなのですがね。そういう意味では、ジルさんは恵まれていますね」
「そうだな。これをくれた奴にも感謝しないと」
そういえば、瞳を通してチェルージュに送る情報って意図的に遮断できるんだっけ。今は情報が送られてるはずだから、感謝の言葉も伝わってるだろ、多分。
「ちなみにだが、俺のレベル――230っていうのはどれくらいのものなんだ? 子供並とか、大人並とか」
「魔物を倒すことで、魔石を摂取しなくとも少しずつマナは吸収できるので、一概には言えませんが――迷宮にもぐらない成人男性の平均より少し低いぐらいですね。もちろんベテランの冒険者なのであれば、子供にも負けるでしょう。見た目で他人を判断しないことです」
「よくわかった。魔石だが、1,000,000ゴルド分ほど残して換金してもらってもいいか?」
「かしこまりました。圧縮率の高い魔石から順に残しておきますね。現金はすべてお持ちになりますか? バンクを作って預けることもできますが。手数料は月に1,000ゴルドで、口座から自動で引かれます。かさばらない貴重品なら預けられますので、武器や魔石もお預かりできますよ」
「色々と便利なんだな。200,000ゴルドだけ現金で、後はバンクに預けてくれ」
使いやすいように小銭も混ぜてあげて、などディノが横から口を出している。本当によく気が付く奴だ。
「では、初回手数料と血の紋章代を引いて899,000ゴルドと魔石をお預かり致します。引き出す際には、バンク担当の受付に血の紋章をご提示ください」
「では、もう他にはありませんか?」
「おう。二人とも色々と教えてくれて助かった。恩に着る」
「いえいえ。勘ですが、ジルさんは良い冒険者になりそうでしたから。今のうちに親切にしておけば、ベテラン冒険者になった時にギルドの事を粗略にはしないでしょう? 先行投資ですよ」
「ちゃっかりしてるんだな。まあ気長に待っといてくれ」
ずしりと重い硬貨の入った袋を懐に入れて、冒険者ギルドを後にする。
ずっと屋内にいたので、広がる青空に、吹き抜ける風が爽やかだった。
太陽――炎帝が中天に差しかかっているのを見て、目を細める。ちょうど、飯時だろう。軽く食うものを恵んでもらったとはいえ、空きっ腹は限界だ。
飯を食う場所は、もう決めてあった。道案内の恩義があった上に、店の名前が気に入ったからだ。早いところ、飯にありつこうと、俺は足を速める。




