第四十八話 訪問
「こういう場合は、何と言えばいいのだろうか。おじさん、ちょっとハッスルしちゃった、で良いのかな」
謹厳そのものを体現したかのような、への字に固く結ばれた岩のような唇で、新冒険者ギルドマスター、人類の最高権力者であるところのカヌンシル氏はそう語った。
とっさに顔を背け、音を立てて口元を抑えたのはミリアムである。面白かったらしい。俺としてはそんな台詞を言うような人物だと思っていなかったので、呆気に取られてしまった。
「む、面白くなかったか。フィオリナからは、冗談の一つも言えるようになりなさいとしばしば叱られていてな。人の上に立つようになったのが良い機会だから試してみようかと思ったのだが、失敗か」
にこりともせずに冗談を言われても、笑って良いところなのか判断に苦しむところだと思う。そう告げると、ようやくカヌンシル氏は表情を崩して苦笑した。
「もしかして、フィオリナさんというのは」
思い当たる節があったので、俺は彼に尋ねてみた。名前の響きからして女性名である。
「おや、旧知だと聞いたが――? そうか、愛称の方が通りがいいのか。グランマのことだ」
なるほど、と頷く俺たちである。エマたちは俺の後ろに控えて目を輝かせていた。憧れのグランマが選んだのはどういう男なのかと興味津々なのだろう。
そういえば、彼女たちはカヌンシルの変人っぷりを直接目の当たりにしていなかったっけ。
「アークノーラも、今回は失敗だったようだな。『開拓者』ボーヴォ氏にゆかりがあると知っていれば、君を排除しようとせず丁重に扱うであろうから、私が冒険者ギルドマスターに就くこともなかっただろうに。耳の良いやつらしからぬ成り行きであったな」
「俺としては、ボーヴォとの繋がりを声高に言いたくはないのですがね。自分が偉いわけでも何でもないし」
「ふむ、自立志向が強いのか。結構なことだ」
昨晩、俺の監視役であるところのフレディ氏から政変があった旨の報告を受けた後に、俺の宿、鯨の胃袋亭に一通の書状が届いた。
内容は、魔血蜂を連れ帰った一件についての処分を伝えるので、翌日に冒険者ギルドまで出頭してこいというもので、書状の末尾には冒険者ギルドマスターとしてカヌンシルの名前が記されていた。一字一字丁寧に書き上げる、真面目さが伝わってくる筆跡であった。
その翌日、つまりは今日、俺はエマたちを連れて冒険者ギルドへとやってきたというわけである。
案内されたのは冒険者ギルドマスター専用の執務室であった。
玄関ホールなど、雑多な人々が集まる喧騒とはほど遠い、冒険者ギルドの奥にある静謐な区画である。廊下の絨毯や重厚な木材の壁など、すべてが落ち着いた雰囲気をかもし出していて、その静けさを俺たちが乱しているようで何とも尻のすわりが悪い。
「冒険者ギルドマスターへのご就任、おめでとうございます」
一歩前に進み出て、カヌンシルに向かってミリアムが一礼した。
なぜこの場にミリアムがいるかというと、なんとカヌンシルのご指名である。
監視役のフレディ氏から、ミリアムが俺たちと旧知であるとの報告を受けたカヌンシルが、同席を許可してくれたのだとか。
俺としても、勝手のわからぬ役所の手続きめいたものが必要になってきたときに
頼れる人がいるというのは有難く、そんな俺へカヌンシルが配慮してくれたのかもしれない。
「私としては、めでたくはないな。人の上に立つなどというのは、私には荷が重い。研究の時間も取れなくなるしな。今回の一件の後始末を終えたら、誰かに譲ろうと思っているよ。生産系の各ギルドに話を通すためにいくらか見返りを確約したのだが、市場を混乱させるのは本意ではないので、そのあたりの調整もしなければならん。仕事が山積みだ」
ミリアムがしきりと頷いているが、政治に関しては俺は門外漢である。
この街で暮らし始めて長いわけでもないので、特に暮らしぶりへの不満があるわけでもなし。
「本題を片付けてしまおうか。冒険者番号212844、ジル・パウエル君」
俺は背筋を伸ばす。ちなみに冒険者番号というのは、血の紋章に記載されている番号のことだ。正式な場所では、この番号が俺のことを表すらしい。
「貴重な研究材料である、調教に成功した可能性のある魔血蜂の個体を
迷宮から連れ帰ったことを賞し、街への多大な功績を認め、ここに記す。本日付け、冒険者ギルドマスター、カヌンシル」
何やら、一通の賞状のような紙を手渡された。
見れば、今カヌンシルが読み上げた通りの内容が書かれているだけであり、俺は首を傾げる。この紙が一体何だというのだろう。
「要するに、冒険者ギルドマスターが良いことだって認めたことの証明よ。ジルは無罪になるってこと」
「ああ、なるほど」
横から小声でミリアムが耳打ちしてくれたので、俺は納得する。
「うむ、これで良し。一件落着となったところで、例の魔血蜂は今日は連れてきているのかな?」
「ええ。今は背嚢の中で寝ているみたいですが」
背嚢の中で持ち運ぶことが数回あったせいか、どうも巣だと認識されてしまったらしく、魔血蜂は寝るときにわざわざ俺の背嚢にもぐりこむのである。
今朝もまだ寝ていたので、そのまま背嚢ごとここに連れてきていた。
誰もいない鯨の胃袋亭に置いていくわけにもいかないし。
「あの魔血蜂の処遇についてなのだが、しばし魔法ギルドで研究させてもらうわけにいかないかね? まさかあの蜂を連れて迷宮に潜ろうとしているわけではないのだろう?」
「そこが悩みの種なんですよね。生活費を稼がなければならないのでいつまでもこのままではいられませんし、誰か一人を世話役として蜂と一緒に宿に残しておき、残りの三人で迷宮に潜ろうかと思っていましたが」
「ふむ。私としては、何らかの事故が起きてその魔血蜂が失われてしまうのが恐ろしい。どうかね、衣食住の面倒を見るし日当も出すから、しばし私が研究に使っている館で住み暮らしてくれないかね?」
思ってもいなかった申し出に、俺とエマたちは顔を見合わせる。
「いいんじゃない? 生活費の面倒を見てくれるなら、断る理由もないでしょう。そもそも庇護された形なんだし、できるだけ言うこと聞いておくべきよ」
エミリアの一言で、俺は申し出を受け入れることを決めた。
カヌンシルに借りが出来ていると言われてしまえば、確かにその通りである。
「では、その通りにさせて頂きます。宿にしばらく外泊する連絡を入れて、身辺整理を終わらせたら伺いますよ」
「おお、そうしてくれるかね。場所は後で伝えよう。いやあ、楽しみだ。じっくりと研究に取り掛かりたいし、これは早いところ雑務を終わらせねばな」
破顔して立ち上がり、机から乗り出してくるカヌンシル氏であった。
「おお、忘れるところだった。ジル君、褒賞は何がいいかな?」
「褒賞、ですか?」
「うむ。街へ多大な貢献をした者には、冒険者ギルドがそれを賞し、賞状と記念品を渡す通例があってな。迷宮から魔血蜂を調教状態で持ち帰り、新たなる発展のきっかけを作ったことに対して、その褒賞を渡したいのだ。賞状は先ほど渡したので、記念品は何が良いか、ということだな」
記念品と言われても、返答に困る。どんなものを指定できるのかがわからない。
「そうだな、一例を挙げると、ボーヴォ氏には何回も褒賞が出ているが。500,000ゴルド大金貨であったり、最高級の魔石であったり、赤魔鋼の短剣だったりしたな。形式的な褒賞としては賞状で済ませて、目に見える形での利益として記念品を与える形になるから、今困っているもの、欲しいものを言ってくれて構わない。可能な限り意向には沿おう」
ふむ、やはり率直に欲しいものといえば、金銭であろうか。
奴隷身分からの脱却を目指しているエマたちにとって、金はいくらあっても困ることはないだろう。
そう思い、では金銭で頂ければ――そう言いかけて、ミリアムの金髪が視界に入った。まさに天啓であるかのように、突如としてとある考えが俺の脳裏にひらめいた。
「恩赦を」
「ん?」
研究が出来るという期待に満ち満ちて、カヌンシル氏は謹厳な顔を崩してにこにこしている。いま、このときぐらいしか、この提案を受けてもらう機会は来ないのではないだろうか。
「殺人罪に問われている、重犯罪者の知人がいます。血の紋章も、赤色に染まる男です。いまは、衛兵の目を逃れて、隠れ住んでいます。その彼の罪を、恩赦によって消して頂くことはできませんか?」
「ふむ。法を曲げろというのかね? 例えばそう、アークノーラのように」
いつの間にか、カヌンシル氏の笑顔は消えてしまっていた。
俺が言い出したことの内容を考えれば当たり前ではあるが、交渉できる限りは交渉したい。
「残念ながら、冤罪でもなく、誰かに嵌められたわけでもなく、私の知人は罪になると知っていながら金銭目当てで殺人を犯しました。殺した相手は、素行に問題のあった冒険者たちのパーティです。それなりに汲める事情がありますが、罪は罪だということは理解しています。しかし私は、彼に恩義があるのです。私が迷宮に潜り始めたころ、彼や彼の友人に幾度となく助けられました。二度と罪を犯させないことを条件に、彼の罪を一度限り、消して頂きたい。それが望みです」
「ふむ。その彼がもしもう一度罪を犯したならば、君も連座して罪に問われる覚悟はあるかね?」
「構いません」
しばし、口元に手を当ててカヌンシル氏は考え込んだ。
「その口ぶりだと、被害者は複数なのかな? 遺族の心情を考えると、恩赦は出しにくいな。自分がその立場だったらと考えてみたまえ。身内を殺した人間が、のうのうと街を歩いているのだぞ?それにお墨付きを与えたギルドを憎く思わんかね?」
俺は言葉に詰まった。言われてみれば、その通りである。
深く考えず、衝動的に口に出してしまったが、浅はかだったかもしれない。
「軽犯罪者ならば奴隷労働で済ますところだが、血の紋章も赤色か。法に照らすと死刑は免れんな。すまんが、その希望は叶えてやれん」
「いえ、無理を申し出てすみませんでした」
ぺこりと頭を下げた俺の横で、ミリアムが意を決したように口を開いた。
「ギルドマスター。私からもお願い致します。ジルの希望、叶えて頂けませんか?」
目を見開き、驚いた表情のカヌンシル氏である。
「ミリアム君まで一体どうしたというのか。言っていることがわかっているのかね?」
「わかっています。カヌンシル様は、ディノ・クロッソを覚えていますか?」
「彼か。もちろん覚えているよ。目立たないように振舞ってはいたが、仕事ぶりに遺漏がない青年だった。所属ギルドこそ違ったものの、好印象を持っていたよ――君との間柄も知っている。噂話に疎い私ですら知っているぐらいだ、誰でも知っていただろう。昨今、失踪したと聞いていたのだが?」
「ジルが恩赦を願い出た犯罪者とディノは、旧知でした。犯した罪の片棒を担いで、ディノはこの街にいられなくなったのです。恩赦は、間接的にディノをも救うことになります。恩赦を頂けたなら、私の実家も再犯の防止に尽力致しますので、ご再考願えませんか?」
「君の実家といえば、豪商のサジバン家であったか。父君は、一代で富を築いた英傑であったな。ふむ、つまり恩赦の暁にはサジバン家からの支持を得られると」
しばし、カヌンシルは瞑目して考え込んだ。
ミリアムが良いところの娘だというのは聞いていたが、大きな商家の娘だったというのは初耳である。
やがて、カヌンシルは閉じていた瞼を開いた。口元をぎゅっと結んだ、頑固な男の顔である。
「駄目だ。利害を気にして法を曲げることがあってはならん。今の私は、人類の範たるべき立場にあるが、例えそうでなかったとしても同じ結論を出しただろう。斟酌すべき事情があろうと、罪は罪として罰せられるべきである。さもなくば、道徳は失われるであろう」
一度結論を出したカヌンシルの顔は強固な意志を湛えていて、いかなる説得も通じそうに見えない。
「君たちの話を聞いたからといって、わざわざ捜索の手を増やそうとは思わぬ。それはジル君に与える予定だった、本人の希望に沿うという褒賞にそぐわぬからだ。
しかし、恩赦もまた、与えぬ。例えそのせいでジル君が翻意して魔血蜂の供出を拒もうと、あるいはサジバン家の不興を買おうと、最悪の場合、ボーヴォ氏が街に弓引くことになろうとも、結論は変えぬ。特に前者は狂おしいほどに心残りがあるがね。だが、欲望や権力に負けて通らぬ筋を通しては、アークノーラと変わらぬではないか?」
「出過ぎたことを申しました。お忘れ頂ければ幸いです」
一歩下がって、ミリアムは頭を下げた。
「すまんな。頑固だという自覚はあるのだが、私はそうやって生きてきた。君たちの提案を受ければ、八方丸く収まるのかもしれんが、私には飲めん。許せ」
「いえ、ご立派だと思います。カヌンシル様こそ、やはり冒険者ギルドマスターに
相応しい方だと再認識しました」
「俺としても――ああいや、失礼しました。私としても、恩赦が通らなかったからといって魔血蜂を引っ込めるとか、そういうことはしないんで。忘れて頂けると幸いです」
「それは嬉しい」
途端に、きらきらと星が飛ぶほどの笑顔を見せるカヌンシル氏であった。
その部分だけ見ればまるで子供のようである。
「ジル君の褒賞は、大金貨で渡すとしよう。それで良いかね?」
「構いません。魔血蜂を連れて、屋敷には後ほど伺います」
「うむ。それでは、二人とも下がって良い。私の研究施設の場所は、後で職員から説明させよう。褒賞もそのときに受け取るといい」
二人して一礼した後に部屋を出ると、外には案内役の職員がすでに待機していた。これから別室に移り、記念品の授与などを済ませるらしい。
職員の先導で長い廊下を黙々と歩いていた俺に、エミリアがそっと耳打ちした。
「帰ったら、詳しく話してもらうからね」
彼女たちには、ディノとキリヒトを匿った一連の出来事を伝えていなかったのである。俺がいきなり恩赦などと言い出したので、寝耳に水といったところだろう。
この街の法には、偽証という概念がある。
例えば、ディノ青年には現状、犯罪歴が付いていない。血の紋章を確認しても、未だに犯罪歴は0と表示されるだろう。キリヒトから物品を受け取り、市場で売ったという行為のどこに犯罪性があったのか、現時点ではうやむやだから血の紋章も反応しないのだ。
しかし、公的な立場の人物――冒険者ギルドの職員なり衛兵なりから、犯罪者と知りつつキリヒトの片棒を担いだのか、と訊ねられてしまった場合、知っていたと答えれば殺人幇助の罪になるし、知らなかったと答えれば偽証の罪に問われ、犯罪歴がカウントされてしまう。ディノ青年が姿をくらましている最も大きな理由の一つがそれだ。
これはエマたちにも当てはまる。
彼女たちにすべてを教えておくことは簡単だが、その場合、公的機関の人間から事情を聞かれた場合、彼女たちが洗いざらい話さなければ犯罪になってしまうのだ。
なので、巻き込まずに済むなら事情は教えずに黙っていようかと思っていたが、俺の考えが甘かったようである。
「いらっしゃい。良く来てくれたわ。入って頂戴、お茶を淹れるわね。ジル君は麦酒の方が良かったかしら?」
「なんで、グランマがここに?」
街の中心部にひしめく公的機関、そのうちの一つである魔法ギルドの裏手に建てられた研究施設を兼ねたカヌンシルの別荘は中々に大きな建物だった。
俺たちが案内されたのは、その別荘の横に建てられた、こじんまりとしたカヌンシルの家である。小さなカヌンシルの家と、大きな研究施設兼別荘は隣り合わせに建っていて、両者の密着具合、距離からすればもはや別荘ではなく離れや別宅と呼んだ方が良いかもしれない。
「自分だけでは気詰まりだろうから、話し相手になってくれって頼まれたの。あなたたちが来るからって、わざわざ私を呼んだのよ。食事だって、普段の彼はお腹に入ればいいって感じでろくなものを食べてないんだけど、あなたたちが来るなら
そういうわけにもいかないって思ったんでしょうね。あの人は不器用だし鈍いんだけど、そういう気配りができないわけじゃないの。悪く思わないで頂戴ね」
先に、カヌンシルの私的な家の方へと案内された俺たちを出迎えてくれたのはグランマであった。いつも通りの柔和な微笑をたたえ、落ち着いた品のある仕種で俺たちをもてなしてくれる。
「私、お二人の馴れ初めを聞きたいです」
目を輝かせつつ、丁寧な言葉遣いでグランマに訊ねたのはエミリアである。俺には敬語を使わないし、俺と一緒に外へ出たときには対外的なやり取りは俺に任せて自分は喋らないので、俺にとっては聞きなれぬエミリアの言葉遣いであった。
「あらあら。少し気恥ずかしいけれど、いいわ。後でお話ししましょう。でもね、男の人を放っぽって夢中になっちゃ駄目よ。まずはジル君の腰を落ち着かせて、彼が手持ち無沙汰にならないように気を遣ってあげないと」
「はあい。ごめんねジル、座って頂戴」
珍しく毒気のない、花開いたような笑顔で俺に椅子を勧めてくるエミリアであった。これはこれで違和感があり、何とも尻の据わりがよろしくない。
それに、グランマの口調が少しエミリアにうつっているような気もする。
「あ、座るといえば、ご注文の品を先に出しておかないと」
俺は背嚢の上垂れをめくり、口を縛っていた紐をゆるめて中をごそごそと漁る。
羽を傷つけないように胴体をわしづかんでそっと背嚢から取り出すと、魔血蜂は俺の手を離れ、ぶぶぶぶ、と羽音を立てて宙を飛んだ。
「あらまあ。その子が例の?」
「ええ。迷宮で会った魔血蜂です。紐で結んでおいた方がいいですか?」
「普段はそうしてないのかしら? 聞き分けが良い子ならそのままで構いませんよ。どれ、ご挨拶をしましょうか」
宙に静止しているように見える魔血蜂に、グランマはすっと片手を差し出した。
初めは手を伸ばし、ややあってから小鳥を泊まらせるかのように人差し指を曲げる。しばしその様子を眺めていた魔血蜂は、羽ばたきを抑えると、グランマの指に二本の前肢を引っかけ、ぶら下がった。
「あらあら、利口な子。この子にも何か出しましょうね。どんなものを食べるのかしら?」
「たまに生肉の荒挽きも食べますが、基本的には蜂蜜が好物みたいですね。水はあまり飲みません」
「普通の蜂は形のあるものは食べないのだけど、この子は食べるのね。そういうことをあの人に聞かせてあげて頂戴、すごく喜ぶと思うわ。あなたたちが食べるかと思って、魔角牛のお肉を用意してあるから、少しおすそ分けしてあげましょう。それと、魔血蜂の集めた迷宮産の蜜もあげましょうね」
俺たちの言葉を理解しているわけではないのだろうが、グランマの指に泊まってぶらぶらと揺れている魔血蜂は、どことなく楽しそうである。グランマの人徳なのだろうか。
「仕事が溜まっていて帰りが遅くなるってあの人は言ってたし、食事にしてしまいましょう。待つだけだと退屈ですしね。席に着いて待っていてもらえるかしら?」
「グランマの作る御飯」
エマとエミリアの二人が、きらきらと目を輝かせだす。
ちょうど、夜の食事時である。前回作ってもらったのは昼飯であったが、今回は晩飯を作ってくれるらしい。果たしてどんな美食が出てくるのか、大食漢の俺としても楽しみであった。
輪になって俺たちが座っている円いテーブルの前にグランマが指を差し出すと、
魔血蜂は机の上に着地した。
四本の後ろ肢で上半身を起こしつつ、二本の前肢を拍手するかのように打ち合わせ、魔血蜂はかちかちと大アゴを打ち鳴らした。
普通の蜂なら威嚇行動なのかもしれないが、瞳が赤く染まっていないので単純に好奇心からの行動だろう。
(――こいつ、本当に俺たちの言葉理解してないんだろうな?)
思わずそう疑ってしまうぐらいに、人間臭さのある仕種であった。
晩餐は、一品ずつ運ばれてくる形態で進んだ。
といっても、グランマの紹介で行った高級住宅街の料理屋のように、一品を食べ終えたら次の皿が出てくるのではなく、グランマが台所に篭もり、出来た料理を熱々のまま次々と運んでくるだけだ。
最初こそグランマが食事を摂る時間がないと遠慮していたのだが、持て成しとはそういうものですよなどと言われ、促されるままに食事を始めた結果、いつの間にかくつろいで料理に舌鼓を打つ俺たちがいた。主人役に気兼ねなく楽しめているのは、グランマの人徳であろう。
「おう、来ていたか。ゆっくりしていってくれ」
家の主であるカヌンシルが帰宅したのは、食事を始めてから一時間半ほども過ぎたころである。
大き目のカップに、パリパリに焼き色のついた皮が張られたシチューパイを各人が笑顔でつついていたところ、玄関の扉にぶら下がった小さな鈴の音とともに、外気をまとってカヌンシルは入ってきた。
「お帰りなさい、カヌンシル。先に始めていたわ」
「ただいま、フィオリナ。みな、良く来てくれた。私のことは気にせず、くつろいでくれ」
冒険者ギルドの制服であるローブには、魔法ギルドの所属を表す魔石の形ではなく、冒険者ギルドの象徴である炎帝をかたどったネックレスが光っている。
グランマに上着を預け、カヌンシルは家の奥へと一度消えた。着替えてくるのだろう。
「今のやり取りを見てると、やっぱり夫婦よね」
「ねー」
俺の横では、エマとエミリアがひそひそ声で含み笑いをしていた。
円テーブルの中央では、小さな皿に盛られた魔角牛の生肉の細切れと蜂蜜を、これでもかというほどの勢いで魔血蜂ががっついている。
こうして間近で見ると、液体状の蜂蜜を食べるときは口から伸びた細い管で、固形物を食べるときは大アゴで口の中に押し込んで咀嚼しているのがわかる。
「うむ、おお、これはなんと。魔血蜂まで同席して食事をしているとは」
去り際に、魔血蜂にちらと見た瞳が輝いていたのは見間違えではなかったらしい。
扉越しの奥の部屋から、どすどすと慌てたような物音が聞こえてきたかと思うと、一分もしないうちに私服姿のカヌンシルが戻ってきた。
地味な土色のシャツと短パンだけの、本当に楽な格好である。
薄く開いている扉の奥には、カヌンシルが脱ぎ散らかしたギルドローブが床でへたっていた。
「みっともないですよ、カヌンシル。研究熱心も結構ですが、お客様なのですから。大事な冒険者ギルドマスターのローブなのでしょう?」
「む、すまんすまん。ギルドではしっかりと外面を作っているから勘弁してくれ。家の中でぐらいはな――おお、なんと肉を食うのか。ということは、普通の蜂と違って歯があるのか? 固形物を消化できる胃腸器官を持っているということだな?
フィオリナはこの蜂とは初対面だったな、最初から友好的だったか? ふむ。なるほど、フィオリナが襲われなかったということはジル君たちに懐いただけでなく、人間を敵視していないのだな。ということは、社会性を認識しているということか。ジル君を群れの主、いわば女王蜂だと認識しているのか? 他の魔血蜂、あるいは人間から敵対行動を取られたときに反撃をするのかしないのか――?」
椅子に座りもせず、食卓に乗り出して魔血蜂をじっと観察するカヌンシルであった。
見られている魔血蜂はというと、当初こそ黙殺していたようだが、目と鼻の先にまでカヌンシルの顔面が近づき、食べていた魔角牛の肉片を指で突かれるに至り、ブチ切れた。
複眼を真っ赤に染め上げ、一際強いぶぶぶぶという羽音を立てながら宙を飛びつつ、ガチガチとアゴを打ち鳴らす本気の威嚇をカヌンシルに向ける魔血蜂であった。
「カヌンシル、失礼でしょう。この子だってお客様なのですから、ちゃんとそう扱ってあげないと。この子が怒るのも当たり前ですわ。うちの人がごめんなさいね、おいでなさいな」
ゆっくりと円を描くように宙を飛んでいた魔血蜂は、差し出されたグランマの手首へと降り立った。そのままわしわしとグランマの右腕を六本の肢で登り、細い肩にしがみつく。
いつの間にか瞳は黒に戻っていて、グランマの肩で羽を休めながら、失礼しちゃうわと言わんばかりにじっとカヌンシルの方を見つめる魔血蜂であった。
「――意思の疎通が取れるのか!?」
満天の星空よろしく瞳を輝かせ、さらに魔血蜂に近づこうとしたカヌンシルに、鋭い叱咤が飛んだ。
「やめなさい、カヌンシル。あまり聞き分けがないようなら、この子は連れて帰るわよ?」
「そ、そんな」
諾意を表したのか、ぱたぱたと一瞬だけ羽を振った魔血蜂に両手を伸ばしかけて、グランマの冷たい視線という見えない壁に遮られて泣きそうな顔になるカヌンシルであった。
「ううん、見事なる旦那の操縦術。私も見習わないと」
「気にするところ、そこ!?」
感じ入ったと言わんばかりのエミリアの呟きに、俺は思わず突っ込みを入れる。人となりを初めて知るのであれば、カヌンシルの変人っぷりか、魔血蜂とグランマのやり取りに注目しそうなものだが。
「いえ、ご主人様の感性で合ってます。大丈夫です」
ここのところすっかり影の薄いエリーゼに耳打ちされ、俺は安堵した。
グランマ信奉者ではないエリーゼは、常識を判断するための物差しとして非常に有用である。
「ふむ、しかしここまで落ち着いていてくれるのであれば、特別な実験などは必要そうにないな。さすがにこの家は狭いし、隣の研究棟でしばらく寝泊りしてもらおうか。なるべく時間を作って立ち寄るので、様子を見させてくれればいい。何か変わったことや、魔血蜂の変化があったら教えてくれ」
「わかりました。しかし、一人で出歩いて大丈夫なんですか? 失脚したアークノーラ、あまりいい噂を聞きませんし、身辺警護の若い人を連れ歩いた方がよくないですか?」
「ん? 私はいらんと思うのだがな、今も付いておるよ。気配を感じさせないように、家の外で隠身しつつあちこちにおるのではないかな。気詰まりなことよ」
気配がなかったのでまったく気づかなかった。暗殺対策はばっちりらしい。
「対外的には君らの監視もしなきゃならんのでな、それも兼ねて君らにも明日から護衛が付く予定だ。狩人ギルドから派遣されてくるらしいから、誰がその任に当たるかは私も知らないのだがね。視界に入らないようにしてくれるとは思うので、気にしないでくれると助かる」
「わかりました、そういうことなら」
「お話は終わったかしら? カヌンシルも晩御飯になさいな、温めてきますから」
「む、頂こう。確かに、これからいつでも魔血蜂には会えるのだしな。ジル君は酒はいけるかね? 研究棟の宿舎の準備はさせておくから、一杯どうかな?」
「お近づきのしるしに、ってやつですかね。頂きましょうか」
「うむ、ありがたい。自分で言うのも何だが、一つのことが気になると他に何も目に入らなくなるたちでな。友人が少ないのだ。誰かと飲むのは久しぶりだよ」
こうして人類の代表である冒険者ギルドマスターと笑い合うのは不思議な気分がしなくもなかったが、何はともあれ、それなりの付き合いになりそうなカヌンシルと上手くやっていけそうなのは僥倖である。
「ジル君は、カヌンシルと同じでお酒に合う料理に変えましょうかね。女の子たちはまだ食べられるかしら? いまお肉を焼いて持ってきますからね」
はーい、と声を揃える三人娘であった。
グランマの人徳のおかげか、みなくつろげているようで何よりである。




