第四十五話 予兆 その2
こつ、こつ、こつ。
履きなれた鉄板入りの革靴で石畳を歩いている音だけが、やけに耳に響く。
街には、人影がない。四六時中、視界のどこかに必ずいるはずの他人の姿が一つたりともない。
静まり返った無人の街を、俺一人だけが、悠々と歩いている。
こつ、こつ、こつ。
自分の足音以外、一切の音が世界から切り離されてしまったかのようだ。
身体の自由も利かない。指一本、自分の意思で動かすことができない。足の裏が地面を踏む感覚もない。
それなのに、俺は歩いている。足音だけの世界を、黙々と俺が歩いている。
(また、この夢か――)
以前にも一度、この夢を見た。自分が夢の中だということはわかっていて、意識もはっきりしているのに、起き上がることも、自らの意志で歩いている俺の行き先を変えることもできない。
(何とかできないかな? 起きろ俺。夢から覚めろ。あるいは動け。走れ)
どう念じても、黙々と歩いている俺に一切の行動の変化はない。
身体も、見えている視界も、すべて俺自身のものだというのに、指一本たりとも俺の自由にならなかった。
こつ、こつ、こつ。
無人の街、無人の迷宮を、俺は歩き続ける。
前回と同じく、中層のベースキャンプに辿り着いたあたりで、俺は念じるのに疲れてしまった。何とかして俺の身体に影響を与えようと頑張ってみても、何一つとして俺の行動に変化はない。
俺の身体なのに感覚がないというのは、なんだか変な気分である。
まるで劇場の登場人物を客席から見ているような感じだ。
こつ、こつ、こつ。
俺は歩き続ける。いくつもの部屋を抜け、いくつもの通路を通り、より迷宮の深部へと、足を止めずに一定の歩調で歩き続ける。
エマが闘斧で叩き割った、幹の抉れた樹木の部屋すらも、今回は通り過ぎた。
(おいおい、もっと奥に行くのかよ――)
前回は、今の部屋で俺の身体が立ち止まったところで目が覚めた。今回もあの部屋で立ち止まるかと思ったら、もっと奥の部屋へと行くつもりらしい。
こつ、こつ、こつ。
俺は歩みを止めない。俺たちのパーティにとって、すでに未踏破の地域にまで俺の身体は足を踏み入れている。もちろんのこと、景色だって初めて見るものばかりだ。今までよりも更に広い部屋だし、森とか湖ぐらいしかなかった今までの部屋と違って、岩場や沼地といった新しい構造の部屋もあった。
俺としては物珍しく、ゆっくりと景色を観察していたかったのだが、俺の身体は頓着せずに先に進んでいく。
夢から醒めたら、この景色が本当に迷宮の中にあるかどうか、迷宮に入ったときに調べてみるのもいいだろう。もしこの景色そのままの部屋が現実にあったとしたら、それは一切入ったことのない部屋の情報が夢の中で得られているということになる。明らかに異常な事態だと判断が付けられるだろう。
こつ、こつ、こつ。
俺はさらに進んでいく。まるで人も魔物も、この夢の中の世界には存在しないことがわかりきっているかのように、一切の歩調を変えず、俺は黙々と歩み続ける。
エマが砕いた樹木の部屋から、すでに五つは部屋を通り過ぎている。俺たちのパーティが潜ったことのある中層の深度は五部屋目までぐらいなので、その倍の距離を俺は歩いている計算になる。
こつ、こつ、こつ。
一体どこまで歩き続けるのか見てやろうという気になり、俺は黙って景色を眺めていた。が、俺がそんな気分になって間もなく、俺の身体は足を止めた。
俺は、部屋と部屋の間にある通路から、次の部屋の方をじっと眺めていた。
視線の先を微動だにさせず、じっと。
いくばくかの時間が経ったころ、何やら羽音が聞こえてきた。弱々しい、びちびちという羽音だ。
人も、魔物も存在していないこの夢の中において、初めて俺以外の生物との邂逅である。
突然、次の部屋から、手のひらサイズぐらいの生物が通路へと飛び込んできた。勢いよく飛び込んできた割には飛行の軌跡がめちゃくちゃで、ぎいっ、という鳴き声とともに、その生物は自らの身体を地面へと打ち付けた。
地面に落ちてしばしもがいた後に、その生物は俺の存在に気づいて何とか肢を広げて立ち、弱々しくぎい、ぎいと威嚇の鳴き声を出し続けている。
生物は、蜂だった。手のひらサイズほどの、蜂。初めて見る魔物だが、おそらく魔血蜂であろう。二対四枚ある羽のうち一枚が半分ほど折れてなくなっており、六本ある肢のうち二本は欠けている。満身創痍であった。
俺は、何を思ったのか、弱った魔血蜂に手のひらを向け、淡く光るマナを浴びせた。みるみる魔血蜂の傷が治っていく。小回復をかけているのだ。
失われた羽と肢が再び生え、満足に動けるようになってからも、殺人蜂は動こうとしなかった。俺を襲ってくるでもなく、じっと俺のことを見つめている。
がばとはね起きるも、真っ暗闇だった。
しかし、闇に目が慣れていた俺は、ここが鯨の胃袋亭の二階、いわゆる自室であることがわかった。布団やエマたちの匂い、慣れ親しんだ自室の空気だ。
開け閉めできる木の窓は、就寝時には閉め切っている。わずかな枠の隙間から光りは漏れ出ていない。まだ炎帝が姿を現していないのだ。早朝にもなっていない深夜なのであろう。
(今回の夢は、前回にも増してヘンテコだったなあ)
三人の少女たちのささやかな寝息が聞こえてくる中、声に出さず俺は考え込む。
迷宮の中を歩いていたら突然手負いの殺人蜂が現れて、それに回復をかけるという夢だ。
あまりに突拍子もない夢であったが、前回エマの闘斧による一撃で、夢そっくりに樹木が抉れたという前例があったので、気のせいだと笑い飛ばすのも何か引っかかる。
(考えてもしょうがないか)
どのみち、今日は休日ではないし、エマたちも特に体調を崩してもいないので、迷宮に潜る日なのである。あの夢が予知夢だというのなら、今日にでもその真偽はわかるはずだった。
少し喉が渇いていたので、エマたちを起こさないように起き上がり、室外へと出る。水場までやってきたところで、俺は人差し指を自分の口内に入れた。
「作水」
淡い光とともに、俺の人差し指からじょぼじょぼと水が溢れ出し、喉を潤した。作水の魔法で出てくる水は純水である。洗濯などに使う以外にもこんな用途がある、便利な魔法であった。
音を立てないように室内へと戻り、自分の布団に再びもぐりこもうとした俺は、部屋の隅にいるために今まで視界に入ってこなかったエリーゼのベッドを見て噴き出す。
寝ている方向が百八十度回転していた。枕をがに股で抱え込みつつ、うつ伏せの大の字になりながら、ベッドの隅をがしりと抱え込むようにして彼女は寝ていた。普段のおすましエリーゼからは想像もできない寝相である。
(ひょっとして、いつも早起きしてるのって、これを見られたくないからか?)
忍び笑いをしながら俺は自らのベッドに寝転がる。笑いのせいで少し意識が覚醒してしまったので、再び寝付くには時間がかかってしまいそうだった。
「なんだこりゃ?」
中層のベースキャンプにやってきた俺の第一声が、それだった。
ざわめきながらも中層への入り口に粛々と冒険者を飲み込んでいく、いつものベースキャンプではない。賑わっていた。明らかに段違いの活気があった。
元々、素材の簡易的な買取もやっているベースキャンプは普段から賑わっているものだが、今日は人口密度が跳ね上がっている。迷宮入りの順番待ちの列も長く、それ以外の通路にも人がごった返している。人々の表情も困惑や歓喜など様々だ。
事情はすぐに判明した。梯子のてっぺんに腰掛けた冒険者ギルドの職員が、高所から声を張り上げていたからである。
「四番入り口からおよそ五百メートルほど進んだ先に、魔血蜂の巣が確認されました。繰り返します、魔血蜂の巣が確認されました。女王蜂は健在で産卵期に入っており、兵隊蜂の攻撃性と行動範囲が向上しています。すでに付近のエリアに兵隊蜂が漏れ出しているという情報が入っています」
(――ふむ)
蜂の巣が見つかったせいで、このような騒ぎになっているらしい。
夢の中で魔血蜂らしき魔物に出会ったが、もしかしてこの一件と何かの関係があるのだろうか?
「現在は一番から七番までの入り口を封鎖していますが、巣から遠くても兵隊蜂が出現する可能性があります、迷宮に入られる冒険者の方は重々ご注意下さい。また、女王蜂の首に賞金がかかっています。繰り返します、女王蜂の首に賞金がかかっています。巣の討伐を狙う冒険者の方には、巣まで直行できる四番付近の入り口を開放していますので、こちらの列にお並び下さい」
俺と同じく、ベースキャンプに来たばかりのパーティが、俺たちの後ろで声高に相談を始める。声の主は、興奮を抑えきれないといった様子だ。
「おい、聞いたか。賞金が出るって話だろ、やろうぜ。魔血蜂ぐらいなら俺らでもやれるだろ」
「馬鹿、やらねえよ。女王蜂がいる群れはランクが上がるんだよ。いつもみたいに二、三匹出てくるのとは訳が違うんだぞ。凶暴化した魔血蜂の群れが何十匹と襲ってくるんだ。とてもじゃねえが無理だ」
「ううん、板金鎧を着てる俺でも無理かな?」
「無理だろうな。全身を蜂に張り付かれてみろ、兜の隙間や首周りから刺されるかもしれないし、そもそも魔血蜂の針はかなり鋭いから、刺され方が悪いと鎧も貫通するかもしれないぞ? それに兵隊蜂が何とかなったところで、女王蜂はどうするんだよ。知性があるから魔法使ってくるらしいぞ?」
「うえ、マジかよ。そりゃあ無理だ」
「だろ、諦めとけ。にしても女王蜂になるまで成長する魔血蜂なんて珍しいな。よっぽど運が良くて、長いこと冒険者に出会わず成長できたのか」
彼らの話はまだ続いているが、俺の知りたかった情報が聞けた幸運に感謝し、内心で頭を下げる。俺たちは女王蜂ところか、魔血蜂自体にも出会ったことがないので、危険度がわからないのだ。
彼らだけではなくて、パーティで列に並んでいる冒険者のほとんどが、蜂の話題を口にしていた。彼らの関心の大半は、賞金額と、どのパーティが女王蜂を巣ごと討伐するかという予想で占められているようだった。流れ出てきた兵隊蜂の対処を練っているパーティもいる。
(うーん)
俺としては、夢の内容が頭に引っかかって仕方がない。魔血蜂と出会う夢を見た翌日にこんな騒ぎになっているというのは出来すぎである。
魔血蜂の巣が確認されたという四番入り口の岩肌をじっと凝視する。
「ご主人様、もしかして巣の討伐に向かおうと思われてますか?」
エリーゼの声にはっと俺は我に返り、首を横に振った。
「個人的に気になることがあっただけだ。俺たちのパーティじゃ力不足だろう。行く気はないよ」
「では、今日はいつも通りに?」
「ああ。普通に狩りをしよう。戦闘中にはぐれの兵隊蜂に乱入されたときは俺とエリーゼで対処、エマとエミリアで正面の敵を片付ける方向でいいかな。まあ臨機応変に」
了解、という少女たちの返事を背に、俺は行列の順番が来るのをじっと待つ。頭の片隅には夢の内容が引っかかっていたが、生死の危険を冒してまで巣に突撃することはできない。
もしかしたらあの夢は、魔血蜂の巣へ向かえと俺に示唆していたのかもしれないが、確証もない以上勝手なことはできない。俺はエマたちの命をも預かっているのだ。
何か突発的な事態が起きるかもしれないと身構えていた俺の心配は杞憂だったようで、何事もなく狩りは進んだ。
俺たちの狩場はベースキャンプの十六番入り口から六つほど部屋を進んだ森である。俺たちのパーティの中だけで通じる分類としては、レベル3の部屋だ。これぐらいの深度から、毒大蜘蛛や大毒蛙が出始める。
一番から七番までの入り口が封鎖されているため、自然と他の狩場が混雑してしまっていたが、運よく六つ目の部屋に差しかかったときに前任のパーティが迷宮から帰り始めていたので、これ幸いとばかりに譲り受けて陣取ったのだが、この部屋は当たりだった。百薬草が生えていたのである。
「よいしょっと――これでようやく背嚢三分の一ぐらいか。先は長いな」
俺たちが到着するなり、すぐに湧いた骸骨剣士と死霊を危なげなく倒し、俺たちは百薬草の採取に取りかかっていた。次の魔物が湧いてしまうと戦闘になるので、湧き待ちをする時間で採取をする。効率的な行動である。
迷宮の植物であるからして、百薬草は黒ずんだ灰色の植物である。回復薬の原料となる卵型の葉は、一枚一枚が手のひらほどの大きさであり、何枚も束ねるとそれなりにかさばる。
軽いために背嚢いっぱいに積めるのは利点であるが、そこまで高値で引き取ってもらえないという欠点もある。一本の低級回復薬を作るために、何枚もの葉を搾らねばならないため、らしい。
中級以上の回復薬を作るためには、百薬草の成分を濃くするために何十枚もの葉を使う必要があるのだとか。
それでも、背嚢一つにぎっしりと詰め込めばそれなりの値段にはなる。
迷宮の植物は成長が早く、その上に群生することもままあるので、前任者が取りきれなかった百薬草はまだ小さな畑ほども残っていた。俺たち三人が背嚢いっぱいに取ったとしても、まだ取りきれないだろう。
「よっ、よっ、ふう」
面頬を上げているとはいえ、板金鎧を着込んだままのエマは疲労が早い。
背嚢からときおり手ぬぐいを取り出して顔の汗を拭っているが、その表情は溌剌としていた。
エリーゼは見張り役であるので、採取作業は俺とエマ、そしてエミリアの三人で行っている。奴隷身分の返上という目的があるせいか、下着姿で俺に詰め寄ってきた例の晩以降、この二人の士気は高く、収入を上昇させることに積極的であった。
「いい調子ね」
エミリアも額を汗で濡らしながら笑顔を浮かべる。
悪い方向の変化ではなく、むしろ意欲の向上に繋がっているので、俺としても言うことはない。
二回目の魔物湧きは、異常茸の群れであった。
もちろん、危なげなく焼いて戦闘はすぐに終わった。
「確かに、順調だな」
油断は禁物であるが、百薬草の収穫も着実に進んでいるので文句の付け所がない。これで魔角牛でも出てしまうと、素材を腐らせないために帰還する必要があるので、できればそれまでに背嚢を百薬草で一杯にしておきたいところだった。
「接近、一人!」
次の魔物湧きまでしばらく時間があるなあ、などと考えていたために、鋭く叫んだエリーゼの報告は、俺たちの意表を突いていた。
俺たちが狩りをしている部屋に、他のパーティが入り込んでくることだってもちろんある。大抵は俺たちが占有している状況を見て他の部屋に移動するが、万が一、賊の類であったときのことを警戒して一応は作業の手を止めて警戒態勢に入ることにしていた。
俺が驚いたのは、その人数である。パーティで挑戦することが多い迷宮の中層において、一人だけしかいないというのは稀有であった。すぐにその疑問は氷解することとなるが。
「魔血蜂の巣は退治されました。繰り返します、魔血蜂の巣は退治されました。女王蜂は討伐されました、散った兵隊蜂を見かけたら処理をお願いします。繰り返します、魔血蜂の巣は――」
なんと、声高に叫びながら隣の部屋へと続く通路を駆け抜けていったのは、冒険者ギルドの見知らぬ職員である。服装も、いつものローブ姿であった。
「あんな姿で中層を走り回って、平気なんでしょうか、あの人」
エリーゼも拍子抜けしたような表情である。確かに一見危険そうに見えるが、同じ冒険者ギルドに所属しているディノ青年のレベルは2000を超えていたことだし、意外と冒険者ギルドは武闘派なのかもしれない。
なおディノ青年といえば、昨日は最終的にディノ、ミリアム、キリヒト、ジェノバの四人を集めて今後のことを話し合い、例によってチェルージュの鶴の一声でボーヴォの別荘にみな住むことに決まった。状況がどう動くか、しばらくは様子見することにしたらしい。
ミリアムとジェノバの女性陣は、毎週末に別荘に通いつつ情報収集することにしたようだ。キリヒトが街へ戻れる可能性はないが、キリヒトの罠から逃れたエディアルドの消息がわかればディノが街に帰れる可能性は出てくるためだ。もしエディが死んでいれば、殺人犯の肩をディノが持った事実は闇に葬り去ることができる。
顔を見られたならちゃんと始末しないと、などと言いつつ淡々とエディアルドの対処法を画策していたミリアムが一番物騒だった。彼女は良家の子女だとディノから聞いたことがあったのだが、最近の良家の子女とやらは実にダーティである。
なお、ディノ青年の辞表は上司が一存で手元に留めてくれていたそうだが、やはり事情が事情だけに街へはしばらく戻れそうにないため、受理されることになりそうとのことだった。
無職になってしまいましたね、などと笑うディノ青年と、なぜか嬉しそうなミリアムである。私も仕事辞めてこっちに住もうかしら、などと呟いていたのが思い出される。
「魔物湧き、十番! 数は一!」
エリーゼの警告に、弾かれたようにエマとエミリアは走り出す。作業を中断する速度にも無駄がない。ずいぶんとこの狩りにも慣れてきているようだ。もちろん俺も即座に作業を中断して森の中へと駆け込んだ。
魔物シリーズ図鑑の十番は魔角牛である。森を抜けた先の通路に現れたらしい。
エマの目配せに、俺が頷いて答える。
目と目で行った会話の内容は、「私が先に行く」「了解」である。
面頬を降ろしたエマは、下段に闘斧を構えながら走り続け、森を抜けた。
その視線の先は、二十メートルほどの先、通路で地面を掻きながら威嚇をしている魔角牛である。
「ふうッ――!」
気合を入れながら、エマは魔角牛に向かって駆ける。以前よりもさらに筋力が増し、走る速度も上がった。闘斧も、もはや地面に引きずることなどない。両手でしっかり柄と鎌首を握り締め、エマは走る。
本来であれば、俺が先行するべきである。エマよりも身軽な俺ならば、すれ違いざまに足を斬りやすい。動きの鈍った魔角牛に、後から追いついてきたエマが強烈な一撃、という流れが理想である。
しかし、今回エマは自分から行きたいと言った。俺もそれを認めた。
よしんば失敗したところで、それをカバーできる地力が今の俺たちにはある。
「せいッ!」
魔角牛の突進と正面衝突する寸前、斜めに避けつつエマは闘斧を振った。
避けつつ体重の乗った攻撃が出来るほど、まだエマは身体能力が成長していない。
それでも、双方の勢いが乗った闘斧は、俺たちから見て左――魔角牛の右脚の付け根部分にめり込む。がくりと一瞬体勢を崩すが、魔角牛はそれだけでは倒れない。頑丈さと耐久力は折り紙つきだ。
そこに、俺が走りこむ。無事な方の左前脚、その蹄付近の一番細い部分を狙って、長剣を叩きつける。
両前脚を傷つけられ、走る勢いそのままに前方へと倒れこんだ魔角牛に、エマが上段に斧を振りかぶって走り寄る。
まだ荒々しい生命力を宿し、上体を何とか起こそうとする魔角牛の首元に、全力の斬撃が叩き付けられた。どぱんっ、という刃物を打ち付けたとは思えない鈍く重い音とともに、闘斧の一撃は深々と首筋を断ち割った。
鮮血を溢れさせながらもがく魔角牛であるが、その動きにもはや生彩はない。戦いは終わったのだ。
「うん、慣れてきたな、エマも」
魔角牛の胴体を板金鎧の脚で踏んづけながら闘斧を引き抜いたエマは、面頬を上げてえへへ、とはにかんだ。褒められるのが好きなエマは、俺の言葉でやる気を出す、もっと頑張る、さらに俺が褒める。好循環である。
「それじゃ、いったん上に帰ろうか。百薬草も結構集まったろ?」
「背嚢に七、八割ほどは溜まってるわ。もう少し粘れば採れるけど、魔角牛と引き換えにする意味はないわね。いい頃合だったわ」
今回は出番のなかったエミリアであったが、覚えたての視野阻害をいつでも唱えられる準備はしてくれていた。万が一エマが失敗して魔角牛の突進に弾き飛ばされても、視界を奪ってその後の追撃を妨げられるようにはなっていたのである。
「本当は氷属性魔法色級の氷結があればもっと確実なんでしょうけど。色級だから高いのよね、手が出ないわ。それに比べて視野阻害はこの使い勝手でまさかの作級。安くて便利って素晴らしいわね」
少ない投資で多くの利便性が生まれていることに、ここ最近のエミリアはご機嫌である。さすが商人の娘であった。
「それではご主人様、もう帰還なさいますか?」
「そうしよう。帰還の指輪は俺が使うよ。みんな集まってくれ」
放っておくと、魔角牛の死体は迷宮に吸収されてなくなってしまう。
高値で売れる魔角牛は持ち帰るべきだった。
「わかりまし――敵襲、一体!」
もっとも索敵範囲の広いエリーゼが、何者かの気配を感知したようだ。
一回の戦闘が終わり、若干気が抜けていたことは否めない。まだ次の魔物が湧くまでには、かなりの時間的余裕があったからだ。慌てて俺たちは武器を構える。
やや遅れて、俺の気配探知スキルにも他の生物の気配が引っかかった。
「これは――隣の通路から、しかも人じゃない?」
気配を感じたのは、魔角牛の死体、つまり俺たちがいる場所のすぐそばにある隣の部屋への通路の先だ。要するに、気配は隣の部屋からである。
気配探知スキルには人間も引っかかる。他の冒険者がそのあたりにいるのかとも思ったが、それにしてはやや上方に気配はある。まるで、空を飛んでいるかのように。
つまり、通路を抜けたすぐ先、隣の部屋にいるこの気配は、魔物のようだ。
とはいえ、魔物は通路を抜けてくることは滅多にない。彼らは湧いた部屋を自らの縄張りだと認識しているらしく、そこから離れることはあまりない。戦いの最中であっても、通路を抜けて隣の部屋に逃げ込めば追ってこないことが多々あるらしい。
もちろん、魔物が頭に血を昇らせてしまっていたらその限りではないが。
「――ん?」
うっすらと、羽音が聞こえてきた。
それも、びちびちという一定していない、弱々しい羽音だ。
俺は、はっとなった。夢の中で見た光景にそっくりだ。よく見れば、通路の形状も似ている気がする。とすれば、ここが夢に出てきた場所なのだろうか。
そんなはずはない、と俺は頭を振った。
夢の中の俺は、もっと迷宮の奥の方まで進んでいた。具体的には、十部屋以上も深部に進んでいたはずだ。俺たちがいるこの部屋は、せいぜい六つ目である。それなのに、夢の中そのままの光景がここにある。
混乱しかかってきた頭を、左右に勢い良く振って雑念を振り払う。
「えっと、みんな。突拍子もない指示を出すけど、出来れば従ってくれ。これからこの通路に、弱りきった魔血蜂が現れた場合、先制攻撃は禁止。俺が前に出るので、もし刺されたら解毒を頼む」
「了解だけど、何なの? 弱った魔血蜂なんて、そんな限定的な状況、そうあるはずが――」
エミリアは台詞の途中で絶句した。
突然、次の部屋から、手のひらサイズぐらいの生物が通路へと飛び込んできたからだ。勢いよく飛び込んできた割には飛行の軌跡がめちゃくちゃで、ぎいっ、という鳴き声とともに、その生物は自らの身体を地面へと打ち付けた。
地面に落ちてしばしもがいた後に、その生物は俺たちの存在に気づいて何とか肢を広げて立ち、弱々しくぎい、ぎいと威嚇の鳴き声を出し続けている。
「魔血蜂――」
エミリアは魔物の名前を呟きながら、呆然とした。
夢の中で出会った蜂そのものだった。
二対四枚ある羽のうち一枚が半分ほど折れてなくなっており、六本ある肢のうち二本は欠けている。満身創痍であった。
エミリアの視線は、蜂から俺へと移される。
何か不気味なものを見るかのような視線は、少し刺さって痛い。
「さて、ここからはどうなるかわかんないんだよな。繰り返すけど、先制攻撃は禁止な。俺が刺されたらやっちゃっていいけど」
小回復、と声に出しながら俺は魔血蜂に魔法を浴びせてやる。
エマたちが息を飲む気配が伝わってくる。そりゃそうだ、魔物に回復呪文をかけるなんて前代未聞だろう。淡い光が収まった後には、失われたはずの羽と肢を再生させた、無傷の魔血蜂が佇んでいた。
(――ふむ)
無言のまま、じっと俺と魔血蜂は見つめあった。
黒真珠のように艶やかな両の複眼が、じっと俺を見つめている。
しばしの静寂の後に、魔血蜂は飛んだ。それも、俺たち――いや、俺めがけて真っすぐに。
かちゃりと、エリーゼが短剣を構える音がするが、俺は振り返りもせずに後ろ手で押し留めた。
「嘘」
エミリアが再び、呆然となった声を上げた。
魔血蜂は、俺の肩に六本の肢で張り付いたのである。威嚇するでもなく、尻の毒針を使うでもなく、ここが俺の居場所だとでも主張するかのように、俺の肩に留まって羽を休めていた。
「魔物が人間に懐いたって話、聞いたことある?」
エミリアが眉をひそめながらエリーゼに訊ねるも、彼女も首を横に振った。
そりゃそうだろう、魔物は人間を見つけたら問答無用で襲うものというのが定説であるし、現にどんな人間も、ただの魔物の一体だって飼い慣らすことに成功したという話は聞かない。
「どうしよう、これ」
「どうしようって言われても、私だって困るわよ。追い払えないの?」
「ふむ」
迷宮の出口にいる門番に気づかれないように家に連れ帰ることは、できない。
魔物を眠らせるなどして迷宮外に持ち帰ろうとした輩が以前にいたらしく、必ず荷物検査が行われるからだ。
俺たち冒険者にとっては雑魚の一匹であっても、冒険者以外の街の人々からすれば、あっさりと自分たちの命を奪える猛獣である。しかも最初から自分たちに攻撃的であり、融和の余地はない。
それ故に、魔物の持ち出しは重罪である。強力な魔物であれば、たとえ一匹でも街に放たれようものなら大混乱が起きるからだ。
「お前、迷宮の中に帰らないか?」
がっしりと肩をつかんで離さない魔血蜂の肢を、一本一本引き剥がすようにして追い払ってみたが、しばしぶぶぶ、と宙を飛んだ後に、やはり俺の身体のどこかへ着地する。
「最悪の場合は、手にかけないといけないんだろうが。ちょっと気が引けるなあ」
俺を飼い主か何かだと思っているのか、完全に気を許している様子の生き物である。たとえ魔物であろうと、どうも進んで殺す気にはなれない。
「もしかして、持ち帰るつもり? 衛兵に止められるわよ?」
「話せばわかってくれないかな? 魔物が人間に懐く可能性があるって、すごい発見だと思わないかな。俺としては魔物の調教が出来るかどうかなんて興味ないけど、そういうのを研究してる人から見たら格好の研究材料なんだし、許されないかなって」
「無理だと思うし、結構な騒ぎになっちゃうと思うけど――ジル、連れ帰りたいのね?」
うん、と俺は素直に頷いた。夢の中で会ったということもあるし、追い払えない以上、殺すか連れ帰るかの二択である。前者は選びたくなかった。
「きっと、面倒ごとになるわ。そのうち甘いものでも奢ってよね」
諦めたような口調で、何やらエミリアは背嚢をがさごそと漁っている。やがて引き抜かれたその手には、小指ほどの太さの頑丈な荒縄が握られていた。
「せめて、これでジルの腕に結びつけておきなさい。迷宮の外に出てからその蜂に逃げられたら、言い訳ができないわ」
エミリアがおそるおそる触っても、魔血蜂は嫌がる素振りを見せなかった。この蜂が懐いたのは俺だけなのかと思っていたら、ひょっとしたら人間そのものに懐いたのかもしれない。
魔血蜂は、胴体を二回りするように荒縄を結ばれた。もう一方の結び目は俺の腕に巻きついている。荒縄の遊びは一メートルぐらいなので、ほんの僅かな距離――たとえば俺の腕から肩といったような短い距離であれば飛んで移動することもできる。
「大人しくしてるんだぞ」
言葉が通じているとも思えないが、俺の語りかけに対して、魔血蜂はじっと真っ黒な瞳で俺を見つめていた。




