第四十三話 危地
日常は淡々と過ぎた。はじめて予知夢らしきものを見てから一週間近く経ったが、あれ以来、夢見はごく普通で何事もなかった。
「なあチェルージュ、夢遊病ってわかるか? 本人に記憶はないんだけど、寝てる間に徘徊してるとか」
決まった目的地もなく、真新しい家々や建築現場が立ち並ぶ開拓村を歩きながら、俺はチェルージュに尋ねた。
「ボケちゃったおばあちゃんがしたりするあれ? 母さんがやったことあるから、何となくわかるけど、それがどうしたの?」
そういえば、チェルージュの母親の死因は老衰だった。
「もし俺が歳取ってボケたとして、夢遊病になったとしてさ、チェルージュには俺が変なところをふらふらしてるとかってわかるもんなのかな。ほら、瞳を通してそっちに情報が行くじゃん」
「わかるよ? 本人が意識しててもしてなくても、こっちには情報が来るから。どうしたのさ急に?」
「いや、俺が夢遊病になっても、チェルージュが異変に気づいて止めてくれるかなって」
「なにそれ。今から老後の心配してるの? しかもひょっとして私を宛てにしてる?」
「はっはっは」
「笑って誤魔化さないの。寿命が違うんだから老後の話題なんて軽く出すものじゃないよ?」
誤魔化しているのはその通りなので、すまんすまん、と軽く詫びておく。
確かに、世間話の一環として出すには適当でない話題だったかもしれないが、確かめたいことは確認できた。
あの夢は、実際に起きたことではなさそうだ。もし俺がふらふらと一人で迷宮に潜っていたら、チェルージュだったら引き留めるなり警告してくれるなりするだろうから。
だとしたら一体何だというのだろう。既視感で片付けるには、記憶がはっきりしすぎている。夢の中で見た木と、迷宮に潜っているときにエマが傷つけた木は、本当にそっくりなのだ。それこそ、木の輪郭や根の張り具合、闘斧で抉られた木の洞の細部まで。
(――ん?)
近くの小屋の中から、ちらちらと俺たちに視線が注がれていることに気づく。
考え事をしていたから、見過ごしてしまうところだったが、明らかに俺たちを注視している気配があった。
「ジルってば、また考え事? 最近、私といるときに上の空なことが多いよ?」
チェルージュがむくれたので、俺は慌てて機嫌を取る。怒らせると怖いのである。それに、別の用事も出来てしまったようだし。
「デートの最中にすまないんだが、ちょっと用事ができそうなんだ。寄り道してもいいか?」
「えー?」
ぶうぶうと不満を漏らすチェルージュである。
それもそのはずで、先週は大人数でここ開拓村にやってきたので、今週はデートするにあたり、もう少し細部まで二人でぶらぶらと見て回ろうという俺の提案でわざわざ馬車の旅をしてきたのである。
いざ開拓村に到着してみれば俺は上の空で、それを指摘すると更なる用事に付き合えという。不満を漏らしながらも仕方ないなあ、と承諾をくれるチェルージュはできた女だと思う。
「んじゃ、ちょっとあの家に行こう。俺に用があるみたいだから」
俺は、先ほどから俺にちらちらと視線を寄越していた人物がいるであろう、小屋へと近づいていく。
ちなみに、このあたりは一般人の住む住宅街である。
開拓村を四角形に例えると、四隅に見張り櫓と、常駐する衛兵の宿舎がある。わざわざ四方に分けてあるのは、魔物の襲撃があったときに迅速に駆けつけられるように、らしい。
東の端には湖があり、近くにはボーヴォの別荘やリカルドの持ち家がある。
とはいえ湖の付近は、いわゆる開拓村の中での高級住宅街にあたるらしく、人家もまばらだ。
四角形に例えた開拓村の中央付近を、今俺たちは歩いている。横一文字に線を引き、中央南側が住宅街、中央北側が商店街や職人街などの商業地区に分かれていた。
(建築ラッシュの真っ最中だな)
一般人の住む住宅街は、景観がちぐはぐである。建築済みの家屋と、間に合わせで建てた小屋、土地だけを確保してある更地などが入り混じっているのだ。将来的な都市計画はあるらしく、土地の広さは均一で、隣家と空き地の境目は地面に打ち付けられた板で区切られていた。
あちこちに建築材料と思しき土砂の袋や木材が積まれている。
(先ほど視線を感じたのは――あそこか)
俺たちの視線の先にあるのは、建築済みの家に挟まれた、目立たない小屋である。小屋自体はそう大きくもないので、周囲には土地が余っていて、中の様子がわからないように、小屋の玄関には簡素な板仕切りが立てられている。
この小屋の人物は、この板仕切りの隙間から、俺にだけわかるように手招きをしていたのだ。
「何か用か? ディノ」
仕切りの裏にいたのは、冒険者ギルドの案内人、ディノ青年である。普段の制服姿ではない、頭まですっぽりと覆う私服のローブ姿から、緊迫した表情が覗いていた。
口元にしっと指を当てて、彼は板仕切りの隙間から周囲を警戒する。
元狩人だっただけあって、動作はすばしこく、目付きは鋭い。
手招きされるまま、板の色も真新しい小屋の中へと足を踏み入れる。
薄暗く、小屋というだけあってさほど広くもない家の中には、意外なことに家具が豊富で、ろくに物の入っていない木棚や食器棚が並んでいる。
「ジルさん、戸を閉めてください。キリヒト、出てきていいぞ」
ここのところ顔を見ていない人物の単語が聞こえたかと思いきや、小屋の隅に積まれていた棚の一つがずずっと横にずれ、無精ひげで顔を覆った一人の男が現れた。
ひげは伸び、頭髪もぼさぼさで、着ているものもこれまた目立たないようにか顔を隠せるローブだったが、その顔は紛れもなくキリヒトそのものであった。
ディノとキリヒト、スラム街育ちの先輩後輩コンビである。
俺がこの街に来て間もないころに世話になった、一時期は飲み仲間でもあった。
「一体どうしたんだ? こんなに人目を避けるように、しかもなんでこんなところに?」
「その前に、念のために確認させてください。お連れの女性は、信頼できる人ですね? 恐らくは朱姫様だろうと見当は付けていたのですが」
狭い小屋の中に、男が三人。普段は涼しげな印象のディノ青年であるが、さすがにここにチェルージュが加わると、狭くて暑苦しい。そんな環境でありながら、何に興味を惹かれたのか、チェルージュは目を輝かせている。
「そうだよー。直接会うのは初めましてかな、ディノ君。それにキリヒト君もね。チェルージュ・パウエルだよ、種族の説明はいらないね?」
二人とも、加護の詳細を知っている数少ない知人である。もっとも、今の俺にはもう加護はないが。
「その様子だと、私が冒険者ギルドから失踪したのも知りませんね?」
簡単な自己紹介の応酬が終わった後に、ディノ青年はそう口火を切った。
まったくの初耳である。そういえば、ミリアム女史の姿も最近見ていない。
「ああ、知らなかった。最近冒険者ギルドに行っても姿が見えないなあ程度には思っていたが。冒険者ギルド、やめたのか?」
「ええ。辞表は置いてきましたが、無断で去りましたので、その後どういう扱いになっているかわからなかったのですが。今はこうして人目を忍ぶ日々ですよ」
それはまたどうして、と聞きかけた俺を、キリヒトが遮った。無精ひげでわかりにくいが、痩せて少し頬がこけていた。元は好青年というか、少年の面影が残る童顔だったのに、すっかりむさくるしくなってしまっている。
「ディノ先輩、後は僕が説明しますよ。まずは、ジルに礼を言っておくね。先月あたりのことだけど、見ない振りをしてくれて助かった、ありがとう」
心当たりがなく、俺が首を傾げていると、キリヒトは苦笑した。
「竜の息吹のパーティに僕が参加してたとき、知らぬ振りをしてくれたでしょう? ボーヴォ氏に声をかけてるジルさんを見かけて、エディアルドとかと一緒にジルさんを煽ったときのことですよ」
「ああ、ああ。思い出した。確かテンとかって名乗ってたんだっけ、キリヒト。当時はなんか事情があるんだろうぐらいに思ってたけど」
確か、街で暮らせる地盤を作りたいとかで、チェルージュからの依頼でボーヴォに顔つなぎに行ったんだ。あのときにボーヴォと初めて話したんだっけな。
「で、それが今のこそこそしてるのと繋がるのか?」
「そうだね。途中経過は省くけど、ちょっとした詐欺を働くためにエディのパーティに潜入してたんだ。リカルドさんが予想より早く事態を収めちゃったから、僕としてはもう少し信用を得るための時間が欲しかったんだけどね」
キリヒトは悪い商売をしていますから、というディノ青年の言葉が、脳裏に蘇ってくる。ジル君をお前の商売の対象にするなと、ディノ青年がキリヒトに釘を刺していたことも、思い出した。
「そういや、そんなこと言ってたな。悪い商売してるって」
「あっははは。普段はもう少し上手く溶け込んで、証拠を残さないように仕上げるんだけど。今回は焦って失敗しちゃった。本当は竜の息吹のギルドハウスに溜め込まれてた物資を頂く予定が、リカルドさんが戻ってきて手を出せなくなっちゃってね。まとまったお金が急ぎで必要だったから、ケツまくるわけにもいかなくて。しょうがなく路線変更して、強引に事を進めた結果、犯罪歴が付いちゃってさ」
言いつつ、キリヒトはローブの懐から血の紋章を取り出し、起動してみせた。
もとは銀色の板だった紋章は、血がにじんだキリヒトの人差し指が触れるなり、真っ赤に染まる。
「重犯罪者の色――」
俺は絶句した。
軽犯罪では、血の紋章はこの色には染まらない。五件以上の未遂犯罪があるか、あるいは殺人クラスの重犯罪でもしない限り、別の色になるはずだった。
「僕は、エディたちのパーティの、固定メンバーだった。彼らを、痺毒蛾の群れに誘いこんだんだ。もちろん、連中を魔物に始末してもらって、残った武器や防具を売りさばくために。そのときに、ドジ踏んでね。エディアルドは逃がしちゃったし、麻痺したメンバーは僕自ら手を下さないといけなくなって犯罪歴が付いちゃうし、散々さ」
キリヒトは、肩をすくめてみせた。
「ジルのところに、竜の息吹のメンバー、何人か詫びを入れに顔を見せたんだって? ジルのところに詫びに行ってなくて、なおかつ消息がわかんないメンバーは、エディ以外は多分全員死んでるよ。四人、殺ったから」
街と、開拓村ぐらいしか、人の生きていける環境はない。山間に根城を作っていたウキョウたちの赤の盗賊団は、ベテラン二名の力量及び、街にいる協力者から送られてくる物資を軸に成立した例外だ。
逃げ出したエディアルドたちは、スラム街にでも潜んでいるのだろうと思っていたのだが――俺の与り知らぬところで、そのほとんどが死に絶えていたらしい。
「そんなわけで、もう街じゃあ暮らしていけなくなっちゃったから、こうしてディノ先輩に匿ってもらってるってわけさ。立場上僕には肩入れできないから、見捨ててくれればいいのに、冒険者ギルドをやめてまで僕を助けてくれてる。頭が上がんないよ。スラム街のみんな、怒るだろうなあ。ディノ青年を巻き添えにしたって」
「ったく、面倒かけやがって」
苦い顔をしているのは、ディノ青年である。ごく軽く言っているが、冒険者ギルドで働くことは、スラム育ちであるディノ青年の憧れだったと以前語っていた。それすらも投げ打って、ディノ青年はキリヒトを助けているということなのか。
心底から嫌がっているわけではなく、その声色にはしょうがねえな、といった照れの感情が混じっていた。
「スラム育ちの仲ですしね。自己責任だと突き放すのは簡単ですが、見殺しにしたら寝覚めが悪い。やれやれ、せっかく上流階級の仲間入りってところだったのに、こういうところで育ちが出ちゃうんですよね」
口調はこんなではあるが、卑下した様子はない。むしろ、立場より後輩の世話を取ったことを、誇らしく思ってさえいるかのようだ。
「まあ、確かにな。見殺しにするのも何だ、何か手伝おうか? 犯罪歴が付かない手伝い、例えば買出しぐらいならできるぞ」
「おっ、話が早いですね。買出しは僕でも出来ますので、一つ頼まれて頂けませんか? たまたまジルさんを見かけたので声をかけるつもりになったのも、実はそれを頼みたかったからなんですよ」
「おう、いいぞ。何をすればいいんだ?」
どんと来いとばかりに、俺は鷹揚に構える。
「なにぶん急な話でしたので、ミリアムに話を通さずに出てきたんです。迂闊に連絡を取ると、僕らの居場所がバレかねませんので、お揃いで持っていた念話の指輪も壊してしまいましたし。街に戻ったら、細かい事情は話さずに、お尋ね者になったんで別れることにしたって伝えてもらえません?」
「じゃあな、俺に手伝えることはないかもしれんが、元気でな」
俺はくるりと背を向けた。聞かなかったことにするべく思って小屋を出ようとするが、元ベテラン狩人はがしりと俺の肩をつかんで離さない。
「やめろ、離せ、離すんだ! 痴話喧嘩に巻き込むんじゃない!」
じたばたと暴れるも、ベテラン冒険者の握力によりがっしり両肩は固定されていた。
「あーあ、新人時代に結構面倒見てあげたのになあ。恩着せがましい言い方はしたくないけど、ジルさんがそういう人だとは思わなかったなあ」
耳元で囁くディノ青年である。無精ひげのキリヒトが横で、僕もムカデの剥ぎ取り教えてあげたのになあ、などとわざとらしくため息を吐いている。
「くっ、それを言われると弱い。確かに恩は山積みではあったがこんな形での返礼を強要されるとは――!」
「いやあ、恩に着ますよジルさん。ミリアム、怒ると結構怖いんですよねえ。下手したらここに乗り込まれかねないので、僕らの居場所はミリアムには口外厳禁でお願いしますよ」
怒って怖くない女性などいない。それは俺が身をもって体験済みである。
「しょうがねえな。まあ、伝言ぐらいならやってやるよ。そんなことより、ディノたちはこれからどうするんだ? いつまでもこの生活は続けてられないだろ?」
「問題はそこなんですよね。キリヒトと違って、私はまだ犯罪歴が付いていないので、帰ろうと思えば街には帰れるのですが、キリヒトはしばらくここで生活でしょうね。逃がした獲物からどう情報が漏れてるかわかりませんし、犯罪歴のチェックがあるので街への入場ができませんから。キリヒトを強引に太らせるなりして面貌を変えさせて、この開拓村で一生を過ごさせるしかないかなと思っています」
「ふむ。エディのパーティを潰したときに、剣とか鎧とかを手に入れたんだろう?
無事に売れたのか? 手持ちの金があるなら、家の代理購入ぐらいならできるが」
「キリヒトから連絡を受けて、遺品については私が引き取って売りさばきました。
恐らくその件からも、辿ろうと思えば私とキリヒト、更には持ち主だった竜の息吹の冒険者まで辿り着けてしまえるので、私もあちらに顔を出さない方がいいと判断しています。遺品を売ったお金については、キリヒトが使ってしまったので、ほとんど手持ちはないですね。私の貯金は、この土地をとりあえず確保するのに半分近く使ってしまいましたし」
「こんな短期間で使い切ったって、何に使ったんだ、キリヒト?」
「それ聞くのは野暮じゃない? 博打でスったってことにしといてよ」
野暮、という単語から、男女関係を連想した俺は、キリヒトの馴染みだとかいう未亡人の話を思い出した。まとまった金が必要とも、先ほど言っていた。
キリヒトの表情には、この一件については無事に終わっているというニュアンスがあったし、そっとしておいても問題なさそうだ。
「しかし、隠れながらじゃ金を稼ぐどころじゃなさそうだな。生活費、大丈夫か?」
俺が心配したところ、快活にディノ青年は笑った。
「冒険者ギルドでの仕事、そこそこお給料良いんですよ? ミリアムとの結婚資金を溜めていたので、数年は何もしなくても食っていけます。オラ、そんな顔すんな」
ミリアムとの結婚資金と聞いて、キリヒトの顔がくしゃりと歪む。
「ごめんよお、先輩。俺のせいでミリアムさんと」
「気にするな、そんな巡り合わせもあるさ。それともお前、やったことを後悔してるのか?」
「パーティメンバーを刺したことは、後悔してない。でも、先輩に迷惑をかけたのは、後悔してる」
「じゃあ、いいよ。後輩を助けてやるのは先輩の務めだ。うじうじすんな」
目頭を抑えるキリヒトの肩を、そっと叩いて慰めるディノ青年である。
スラム街育ちの彼らには、余人にはわからない結びつきがあるのだろう。
彼らが考えて、行動した結果なら、友人として俺も受け入れてやるべきだった。
伝言という用事も出来たので、開拓村での滞在は早々に切り上げることにした。
ミリアムに伝えるのはいつでもいい、とディノ青年からは言われていたが、こういうのは早い方がいいだろうと思い、街に着くや否や、俺は真っすぐ冒険者ギルドに向かった。
余談であるが、開拓村から帰るのにも、馬車を使った。チェルージュ曰く、空を飛べば一瞬だそうだが、がたごと揺れる馬車の中で食事をするのも悪くない、とのこと。
ボーヴォハウスの住民が使う馬車は、クッションが豊富に使われた四頭引きの大きな馬車で、揺れの影響が少ないのである。
なお、街に戻ってきた俺が冒険者ギルドへと辿り着いたいま現在、チェルージュはまだ同伴中である。デートの最中であるにも関わらず、新たな用事が出来たことを、彼女は怒っていなかった。どうもこの一件に興味を惹かれたらしい。
「いやあ、ミリアムがどういう反応をするか気になってねえ。だって、理由も告げずにいきなり別れてくれって言われるんでしょ? しかも本人じゃなく、他人からの伝言で」
なぜかわくわくしているチェルージュである。知人の恋愛関係に興味を示す近所のおばちゃんかお前は。
「私なら絶対納得しないなー。ディノ君ってあれだよね、女の子の扱い慣れてそうで実は鈍いよね」
きゃははと無邪気に笑うチェルージュである。反面、俺はこれからのことを思うと気塞ぎである。下手したら、本人不在の修羅場という謎の展開に巻き込まれるかもしれないのだ。
「さて、ミリアムは――発見、と」
先延ばしにしても気が滅入るだけだろうから、すぐ彼女が見つかったのは有難くはあったが、今からディノ青年からの伝言をしなければならないのもそれはそれでげんなりする。
恋愛が絡んだときの女性の行動は、測り知れないものだ。ビンタの数発は覚悟して、俺はカウンターへと向かう。
ミリアム女史は、冒険者ギルド一階の正面カウンター、いわゆる案内人部署の内側で、机に座って何やら事務作業をしていた。薄く化粧はしているが、目の隈が隠しきれていない。寝不足のようで、少しやつれてもいた。
ミリアムがこちらに気づいていなかったので、近くの女性職員に声をかける。
純白のローブの胸元に、炎帝の紋章。冒険者ギルドのシンボルだ。
「ちょっといいかな? ミリアムに用があるんだけど、呼んでもらえないかな?
知人からの伝言を預かってるんだけど」
「あ、はい。ミリアムさんですね。少々お待ちください」
とてとてと駆けていった小柄な女性職員が、うつむきがちに机に座っていたミリアムに二言三言話しかける。弾かれたように顔を上げたミリアムは、俺たちの姿を確認すると、とたんにすごい勢いで動き出した。残像が見えるほどの手つきで手元の書類を整理すると、椅子から立ち上がって近くの中年職員に向かって何やらまくしたて始めた。
それなりに距離があるにも関わらず、早退、という単語が聞こえてきたので、俺は肩を落とす。どうやら、ミリアム女史はとても気合が入ってしまったようだ。
「さて。お久しぶり、ジルさん。ディノから伝言を預かってるって聞いたけど、ほんとかしら?」
慌しく奥に引っ込んだかと思うと、ミリアム女史は私服に着替え、俺たちを一階ホールの隅にある歓談スペースへと連れ込んだ。初めてここ冒険者ギルドに訪れたとき、ミリアムとディノの二人に魔石を買い取ってもらった例の机である。
俺が小柄な女性職員に話しかけてミリアムを呼んでから、ミリアムが着替えた後に俺の腕をがっとつかみ、この歓談スペースに連れ込むまで、三分もかかっていない。身だしなみに時間をかける女性とは思えない、素早い行動であった。職業柄なのか、微笑みを崩していないのが、とても怖い。
「まあ、ディノからの伝言で合ってるけど。よくわかったね、さっきの子には知人からの伝言としか伝えなかったのに」
「共通の知人なんて、ディノくらいのものでしょう。で、ちょっと気が急いているの。申し訳ないけれど、早速聞かせてもらえる?」
ミリアムに詰め寄られて、俺は脂汗を流す。彼女は完全に臨戦態勢だ。
座っている椅子の位置関係も、出口に近い椅子にミリアム、隣に俺、チェルージュはその向かいであり、完全に角に押し込められた格好であった。逃がすつもりはないらしい。
「えっと。犯罪者になったので、別れよう」
伝言は、以上ですと消え入るような声で告げた俺と対照的に、ミリアムは微笑んだままであった。
そう、笑顔のまま、激怒していた。顔面中に青筋が浮き出る幻が見えるぐらい、怒りの念が伝わってくる。
「ジルさんは、事情を知っているのですね? 話して頂けますか?」
「申し訳ないのですが、口止めされています。言えません」
気が付けば敬語になってしまっていた俺である。蛇に睨まれた蛙、肉食獣に追いつめられた兎、修羅場に巻き込まれた俺。
彼女は、自分を落ち着かせるためなのか、机に肘をついて両手を組み、頭を乗せて何やら考え込んでいる。そうだ、そうしてくれ。できればそのまま冷却してくれるととても助かる。
「いま、ディノはスラム街にいるのですか?」
「いや――言えません。どこにいるかも、内緒にしてくれとのことです」
「今の反応からすると、本当にスラム街ではありませんね。焦った様子もないし、一瞬否定しようとしましたし。ディノの性格からすると、信用できない知人との同居は避けるはずだし、友人に迷惑をかけるぐらいなら一人で隠れ潜む方を選択するはずです。それに、冒険者ギルドに入ってから、スラム街の住人とは疎遠になっていると言ってたし――ということは、開拓村ですね。開拓村のどのあたりにディノはいるのですか?」
俺は、心臓が跳ねそうになった。脂汗が額から頬を伝って流れ落ちる。
「開拓村にいるかどうかも言えません。探さないでくれとの伝言です」
俺が頭を絞って考え出した台詞を、ミリアムは一顧だにしなかった。
「反応が遅れた上に、一瞬何と答えるか迷いましたね? 開拓村にいるのは確定、と。よくわかりました、後は虱潰しに探して行けば見つかるでしょう。伝言は確かに受け取りました、ありがとうございますね、ジルさん」
俺は目の前が真っ暗になった。普段、ディノ青年のそばでにこにこ笑っているミリアムしか見たことがなかった俺なのである。ここまで鋭いやつだったとは、想定外であった。
「ふむ、否定しない、と。開拓村で間違いないようですね。いえいえ、焦らなくても大丈夫ですよ。六割ぐらいの疑惑が十割の確信に変わっただけで、やることは変わりませんから」
鎌をかけられたのかと焦ったのは一瞬で、がたりと音を立てて席を立ったミリアムに、俺は必死ですがりついた。
「いやいやいや、待て待て待ってくれ。探されると本当にマズいんだ、落ち着いて座ってくれ」
手持ち鞄を引っさげて駆け出そうとしたミリアムは、俺の台詞に反応してちらとこちらを見る。
「事情をすべて話して頂ければ、考え直すかもしれません。言い渋るなら、こちらで探します。どのみち、私たちの事情は、私たちで解決します」
毅然とした態度のミリアムに、俺は顔面蒼白である。そんな俺を見て、チェルージュはけらけら笑っていた。
「ほらね? 私の予想、大当たり。ジルには腹芸なんて無理だよ。全部言っちゃえば?」
無責任に言い放つチェルージュと、敗北感にうなだれる俺であった。
「ミリアム、ちょっといい? もう一人、ご指名でお客さん来てるんだけど」
焦りで視野が狭くなっていたのか、このテーブルに近づいてきていた女性の姿に俺は初めて気づいた。先ほど、俺が声をかけた小柄な女性職員である。
「取り込み中だから、できれば勤務外だって断って欲しいんだけど――あの人?」
頷く女性職員の視線の先には、カウンターの前で所在なげに立っている、慎ましい身なりの妙齢の女性がいた。顔の造形が綺麗なので若く見えるが、歳は三十前半といったところか。来慣れていない場所で落ち着かないのか、不安そうにあたりをきょろきょろしている。
「それが、用件がちょっと微妙なの。ディノ先輩という方はいらっしゃいますかって。共通の知人が失踪したんだけど、何か知りませんかっていうの。だから、正確にはミリアムのお客さんではないんだけど――お断りする?」
俺は、脳裏に閃くものがあった。妙齢の女性、冒険者ギルドなど公的な機関に慣れていない住人、ディノ「先輩」との共通の友人で、失踪したとなると――間違いなく、キリヒトのことだ。
あの女性は、キリヒトが言っていた未亡人その人であろう。
関連人物が一気に集結してくるという予想外の事態に、俺は血の気が引いていくのを感じた。先ほどから胃と心臓に悪いことばかりが起きる。貧血で倒れてもおかしくない。
「いいわ、案内してちょうだい。どうも、彼女も関係者みたいだから」
そんな俺の様子をちらりと見て、ミリアムは未亡人をこの卓に呼ぶように伝えた。
俺にとってその台詞は、まるで死刑宣告のように耳に響いた。




