第四十二話 予兆
こつ、こつ、こつ。
履きなれた鉄板入りの革靴で石畳を歩いている音だけが、やけに耳に響く。
街には、人影がない。四六時中、視界のどこかに必ずいるはずの他人の姿が一つたりともない。
静まり返った無人の街を、俺一人だけが、悠々と歩いている。
こつ、こつ、こつ。
自分の足音以外、一切の音が世界から切り離されてしまったかのようだ。
身体の自由も利かない。指一本、自分の意思で動かすことができない。足の裏が地面を踏む感覚もない。
それなのに、俺は歩いている。足音だけの世界を、黙々と俺が歩いている。
こつ、こつ、こつ。
空は漆黒の闇に覆われている。方々に焚かれた松明も、闇空を焦がすには至らない。
迷宮城の広場にも、誰もいない。ここには深夜であろうとも常に冒険者ギルドの職員が何名か待機していて、迷宮に足を踏み入れるための順番待ちの列をさばいているはずだが、いくつもの机が並んでいるだけだ。
深夜に冒険に赴く変わり者の冒険者の姿も、冒険者ギルドの職員の姿も、ここにはない。
やけに広く感じる無人の通路を、俺は進む。
こつ、こつ、こつ。
鈍い銀色に輝く皮鎧と、愛用の長剣を腰に吊ったまま、赤茶けた洞窟の中を歩いていく。
洞窟の中には、誰もいない。他の冒険者もいない。魔物もいない。
こつ、こつ、こつ。
黙々と、俺は洞窟の中を、より深く、より下層へと、歩いていく。
ただの一人も、ただの一匹にも出会うことなく、俺は中層のベースキャンプへと辿りついた。
やはり、ここにも誰もいない。いくつもの天幕や机、かがり火、人を通さないために張られた荒縄、それらはいつも通りなのに、人の気配だけがなく、しんと静まり返っている。
こつ、こつ、こつ。
無造作に一つの降り口を選んで、俺は下り階段を進んでいく。
淡く光る薄紫色の結晶で覆われた中層の道を、俺は歩いていく。
通路、部屋。
通路、部屋。
通路、部屋。
部屋の中に広がる林には目もくれず、真っすぐに奥へ奥へと進んでいく。やはり生物の気配はない。
こつ、こつ、こつ。
いくつの部屋を通り過ぎたのだろう。
とある森の前で、俺は立ち止まった。一体何に傷付けられたのか、平地から森への入り口には幹が抉れた一本の木が立ち枯れていた。傷つくそばから自力で治す迷宮の樹木も、枯れることがあるのだろうか。
じっと俺はその木を見つめている。
「――夢?」
ベッドから上半身を起こした俺は、そう呟いた。
締め切られた窓の隙間から、うっすらと朝の光が差し込んできていた。小鳥の囀りが聞こえる。
こきこきと、首を回してみる。特にどこかが凝っていたりはしない。
ベッドの横に目をやる。銀蛇の皮鎧と鈍魔鋼の長剣は、昨日片付けた位置そのままで、動かした形跡はない。
ただの夢だったのだろう。内容をはっきりと思い出せる、珍しい夢だった。
「あら、今日は早いですね。おはようございます」
「ん、夢見が微妙でな。なんか目が冴えちまった」
エリーゼはすでに起き出していて、黒の長髪を梳いているところだった。
俺とエリーゼの間には、エマとエミリアがそれぞれ自分のベッドで眠っている。
昨日は晩飯を食べ終わった後、俺のベッドに侵入しようとしてくる二人を説得するのに骨を折った。二人を女性として意識するためにはまず肉体的な接触を減らすことが必要だ、という謎の理論によって大人しく自分のベッドに戻させることに成功したわけだが、変な夢を見た原因はこの二人なのではなかろうか。
襲われまいとする本能が、知らず知らずのうちに夢へと現れた――そんなわけないか。
そもそも何かから逃げるような夢でもなかったし。
「今日はお昼からですか?」
「どうだろうな。エミリアが弁当作りの練習したいから、これからは朝から迷宮に行こうって昨日言ってたけどな。エミリア次第になりそうだ」
今までは、昼飯を食ってから迷宮に潜っていたのだが、それを繰り上げて朝からにしたいと言う。弁当作りの練習と、早めに金を溜めて奴隷身分から脱却したいという思惑もあるのだろう。
そういうことであれば、応援するのもやぶさかではない。
俺と恋仲になりたいという目的はともかくとして、奴隷ではなくなりたいという意志は歓迎すべきだ。俺は一つ伸びをして、今日の予定を考え始める。
肉の腸詰め、燻製肉の薄切り、乳脂で炒めた卵、牛乳。
朝っぱらから、がつがつと胃に重たいものを食べ続けているのは、俺ではない。エマとエミリアである。
「よく食うなあ」
俺とエリーゼは呆れ顔である。俺も健啖家であるとは自負しているが、彼女たちの剣幕にたじたじであった。ぎりぎり見苦しくない速度で、鯨の胃袋亭ご自慢の大飯を平らげていく二人である。
昨日までは食いきれない分の量を減らしてもらっていたのだが、今日から一人前を食べ始めていた。理由を聞いたところ、肉付きを良くしたいんです、とのことらしい。どう声をかけるべきか迷う理由であった。
あまり食いすぎると太るぞ、などと声をかけようものなら、刺さるほどに冷たい視線で睨まれる気がする。見えている罠は避けて通るべきだろう。我ながら成長したと思う。
「で、今日の予定はどうするんだ? 朝から行くのか?」
「そうしてみたいわ。もう少しで厨房も手が空くだろうから、食事が終わったら一時間ほど待ってくれない? お弁当持って迷宮に行きたいわ」
「ん、了解だ。ドミニカの迷惑にならないようにな」
商売道具でもある炊事設備を貸してもらうのである。そのうち礼を言っておかねばなるまい。
「大丈夫よ、結構気に入られてるから。いつでも来なさいって言ってくれてるわ。
長逗留の客だから向こうも邪険にはしないでしょうし、私があそこの扱いに慣れたら忙しい日の晩に助けてくれって言われてるから、それでおあいこよ」
「ふむ。そんなもんか。ドミニカの旦那には礼儀正しくな、影の支配者だから」
「え、そうなの? ドミニカさんに尻に敷かれてるようにしか見えない、あの影の薄い人が?」
「うん。多分、あの人は怒らせると物凄い怖いはずだ。丁重にな」
「信じられないけど、了解だわ。それにしても、今日のお弁当は何作ろうかな」
膨大な量の朝飯をパクつきながら昼飯の献立を考え込むエミリアは、どこか楽しそうである。
「勢いよく朝から迷宮に来たのはいいものの、部屋、空いてないなあ」
「空いてないですねえ」
肩をすくめる俺とエリーゼである。中層のベースキャンプでは順番待ちの列は少なかったというのに、狩場には意外なほど人がいて、どの部屋も使われてしまっていた。
「レベル3まではこりゃ埋まってるか。どうすっかな」
レベル、と呼んだのは、中層の深さを現す目安である。
同じ中層でも出現する魔物の種類は深度によって異なるので、目安としての呼称が欲しいと俺たちが話し合った結果、暫定的にレベルという表現をすることにしたのだ。
レベル1は、骸骨剣士や異常茸が主に出没する地域。
レベル2は、上記に加えて魔角牛が出没し始める地域。
レベル3は、さらに毒大蜘蛛や、大毒蛙などが出没する地域。
なお、対象の部屋のレベル以下の魔物すべてが湧く可能性がある。例えばレベル3の部屋であれば、レベル1、2、3のどの階層の魔物も出没するのだ。
「もっと深い階層に行くなら、もう少し俺たちが成長してからがいいな。安全圏は多めに取っておきたいし」
もう加護はないのである。不測の事態が起こりやすい未知の魔物との戦闘は、俺たち自身のレベルをもう少し上げてからにしたかった。
「それじゃあ、横に進んでみますか」
「そうだな。レベル4には進まずに、横移動で空いてるレベル3の部屋を探そう」
横の部屋への通路が出現するのも、レベル3の階層からだった。
他の冒険者たちが魔物と戦ったり、湧き待ちをしている中を、俺たち四人は通り過ぎる。男一人に女三人という俺たちのパーティは、やはり奇異に見られることが多く、冷たい視線を浴びがちだ。
稀に好意的な視線に遭遇することもあるが、そういうのは大抵遊びなれていそうな兄ちゃんがほとんどで、笑顔で親指を立てながら腰をくいくいと振って励まされたりする。エマたちの教育に悪い環境であった。
「お、やっと空き部屋にありつけたかな」
いくつもの部屋を素通りした末にたどり着いたのは、迷路などの特殊な構造ではない、普通の部屋だった。
部屋の外周は通路を兼ねた平地になっており、それ以外の中央部分がすべて森という単純な構造だ。
「よし、ここで狩りをしよう。エリーゼは索敵を頼む」
「了解です」
猫のようにしなやかな動きで、するするとエリーゼは森の中へ入っていく。
いくらか遅れて、俺たち三人も森の中へと入っていった。付かず離れず、基本の陣形である。
「それにしても、この森って来たことあったっけ? どうも見覚えがあるんだが」
木々の配置や、地面の起伏、部屋の形に妙な既視感を覚える。
中層のベースキャンプからの降り口は何十もあるとはいえ、ずっと迷宮に潜り続けていればそのうち馴染みのある部屋ができてもおかしくはないのだが。
「いえ、初めてだと思いますよ?」
「私もそう思うわ。見覚えないもの」
エマとエミリアの二人に言われると、俺も自信がなくなってくる。
「気のせいか。森の構造なんてどれも似たようなもんだしな」
エリーゼからの手振りで魔物を発見したという報告が送られてきたので、俺は頭を振って違和感を打ち消した。何はともあれ、戦闘だ。余計なことを考えている暇はない。
魔物は、異常茸だった。
木の股や根の突起などにうじゅうじゅと菌糸を巣食わせた、半軟体の茸である。
魔術師が少なかったり、狩人がいないパーティにとっては気づかずに縄張りに踏み込んでしまう厄介な魔物なのだろうが、全員が攻撃魔法を使える上に、索敵にも不安のない俺たちにとっては楽な相手だった。
「火矢!」
「火弾!」
三本の火矢、それに遅れてエミリアの火弾が命中する。轟音とともに火弾は爆発し、一匹の異常茸を消し炭に変えた。
以前見たときよりもさらに爆発半径と炸裂音が大きくなっている気がする。エミリアも成長しているのだろう。
「睡眠茸か。胞子が紫色だ」
マナを感知した睡眠茸は、勢い良く胞子をばら撒きはじめる。
焼かれる順番が後か先かの違いしかないし、知性もなさそうな魔物であったが、必死に自衛を試みているようだ。
「以前やったときと一緒でいいや。エミリアは無傷のやつに火弾、俺たちは火矢で攻撃続行。予備のMPを残しておきたいから、第二射が終わったら後退して休憩」
全員の了解という声、発射される二射目。エミリアが計二匹、俺たちが一匹の睡眠茸を撃破し、俺たちはその場から離れる。
そろそろ全員が森から出ようかというころ――索敵係のエリーゼが鋭く叫ぶ。
一拍遅れて、俺も魔力感知スキルに敵の気配が引っかかった。
「魔物湧き! 森の奥から接近、気づかれてます!」
俺たちは緩みかけた緊張の糸を張りなおす。森の奥に敵がいると仮定して、散開して陣形を取る。
何かが迫ってくる気配は、急速にこちらへと近づいてきていた。しかし、足音や草むらをかきわけるような音はしない。
そろそろ姿が見えていないとおかしいほど気配は近いというのに、魔物の姿はどこにもない。
「――!」
ちらと上を向いたエリーゼが、弾かれるようにその場から跳び退がる。
一瞬前までエリーゼがいた場所に、毒大蜘蛛が足を広げてぼとりと着地した。急な回避行動だったために、エリーゼは地面に倒れこむ。
エリーゼはすぐに起き上がろうとするが、毒大蜘蛛もすぐさま上半身をもたげ、
八本の毛むくじゃらの大足を広げてエリーゼへと踊りかかる。
そこに、エマが闘斧を振りかぶって斬りかかった。生意気にも毒大蜘蛛は足を下げ、伏せるようにしてエマの斬撃を回避する。狙いの外れた闘斧は、毒大蜘蛛が落ちてきた木の幹に深々とめりこんでしまい、抜くのに手間取っている。
俺は突進して毒大蜘蛛に長剣で斬りつける。上段に振りかぶり、力の限り斬り降ろしたというのに、がぎん、という硬質な音がして、刃が少し背中にめりこんだのみで両断するには至らない。
「くっそ、こいつ腹は柔らかかったのに、背中の骨は硬いのか――」
またしても、蜘蛛の黒真珠のような四つの瞳と目が合う。前回戦ったときもこんな感じじゃなかったか、と既視感を覚えている暇もなく、やはり毒大蜘蛛は八本の足を広げて俺に抱きついてきた。
せめて急所から遠いところに攻撃を食らうべく、俺は武器を握っていない左手で蜘蛛の噛み付きを防御する。やはり銀蛇の皮鎧といえど毒大蜘蛛の咬撃には耐え切れないらしく、ちくりとずぶりの中間のような鋭い痛みが左手に走った。
俺は空いている右手に持った長剣で蜘蛛を攻撃しようとするが、密着していて距離が近すぎるので思うように力が入らない。切っ先で突こうにも、身体が固定されてしまっているので、右腕だけの力では大した威力が乗らないのだ。
「ふッ!」
エリーゼが身体ごとぶつかっていくように、全体重を乗せた短剣の切っ先を毒大蜘蛛の横腹に突き込む。
足を広げれば人よりも大きく見えるとはいえ、胴体部分は1メートル強しかない蜘蛛のことである、心臓のあたりまで刃は届くかと思われたが、しかし横幅のせいで急所まで刺し通せなかったようだ。
毒大蜘蛛は俺に絡みつかせた足を離すことなく、噛み付いた左腕にどんどんと毒液を注ぎ込み続けた。
(これ、ヤバいかも)
毒大蜘蛛と以前戦ったときに食らった毒の症状を思い出す。
ほんのわずかな時間噛まれただけであんなにも激しい苦しみであるのなら、こんなにも長時間噛まれ続けた今回の戦闘での苦痛はいかほどであろう。
今はまだ、傷口から熱いものが広がり始めている程度で済んでいるが、すぐにも症状は出始めるはずだ。というか、このまま毒液を注入され続けていては、早々に致死量を超えてしまいかねない。
ふと、俺の右手に握った長剣がもぎ取られる感覚があった。
「おおおおおッ!」
吠えながら、エマが俺の長剣を握り締め、横合いから蜘蛛のどてっ腹に切っ先もろとも体当たりしていった。
体重に優れ、そして武器にも優れたエマの刺突は、エリーゼのそれの威力をはるかに上回り、反対側の胴体まで突き抜けるのではないかというほど深く毒大蜘蛛に突き入れられる。
さすがの毒大蜘蛛も、俺を拘束していた手足を離し、胴体に長剣を突き込まれたまま、暴れ始める。
エマはまだ、長剣の柄から手を離していない。バーベキューの串焼きよろしく、
長剣の先に毒大蜘蛛を刺し通したまま、円を描くように長剣を振り回した。
柔らかい腹を斬り破って毒大蜘蛛の体内から長剣が飛び出てき、毒大蜘蛛はそのまま地面に倒れてもがきはじめる。
「繭、素材。傷つけるな、よ」
すでに毒が体内に巡り始めていて、呂律も回らなくなってきていたが、何とかその言葉だけを振り絞る。
「解毒!」
すぐさまエミリアが魔法をかけてくれるが、光が収まった後もまだ体内に毒が駆け巡っている実感があった。立っていられなかったので、とっくに俺は地面に倒れ伏している。
「エミ、リア、すまん。もういっ、かい、かけれるか?」
「大丈夫、後一回分だけマナはあるから――解毒!」
二回目の解毒を受け、ようやく体内から毒は消えたようだ。
「あんがと。はあ、死ぬかと思った」
毒が消えた後も、立ち上がる体力が残っていなかったので、俺は自分に小回復の魔法をかける。
頭がくらくらするが、どうにか上体を起こして座れる程度には回復した。
「ジル!」
泣きそうな顔で、正面からエミリアが抱きついてくる。俺が死にそうになったのが心配だったのだろうか。体力の残ってなさから言って、このまま押し倒されてしまうかと思ったが、俺の後頭部にごつんと硬質なものがぶつかった。
「いた、いたたたた。エマ、痛い。俺死んじゃう」
背後から全身鎧もお構いなしに俺に抱きついてきているのは、やはりエマであった。背中から胸へと腕を回してぎゅうと抱きしめられているものの、今のエマは鉄の塊であるからして単純に痛い。
普段ならば銀蛇の皮鎧が衝撃を吸収してくれているのであろうが、今の俺は病人のようなものであり、些細な衝撃で身体が痛む。
放っとこうか、と言わんばかりに、エリーゼは毒大蜘蛛の腹部を短剣で切り開いて素材の回収にかかっていた。
「ほら、エマも、闘斧を回収しないと」
結局、闘斧をとっさには引き抜けなかったので、俺の長剣を使って戦うという選択をしたらしい。
そのおかげで助かったといえる。もう少し継続的に毒液を咬み口から注入され続けていたら死んでいたかもしれない。少し毒を食らっただけでも致死量であるということは変わらないが、毒が多ければ多いほど体組織の破壊も急速に進むだろうから。
ひと段落したといえ、魔物が出没する戦地であるということを思い出したのか、エマは素直に俺から離れ、木の幹にめり込んだ闘斧の方へと歩いていく。
「ふんぬッ! ぬッ!」
木の幹に足をかけて、エマ思いっきり闘斧を引っ張る。二、三回もやるうちに、めきめきと幹が砕ける音がして、ずぼりと闘斧は引っこ抜けた。勢いそのままに、闘斧もろともエマは後ろに倒れこむ。
その姿を笑おうとして――俺の笑いは引っ込んだ。
闘斧を叩き込まれ、そして強引に引っこ抜かれた木の幹は、洞のようにぼろぼろになってしまっていたが――その抉れ方が、今朝の夢の中で見た立ち枯れた木にそっくりだった。
まじまじと見つめてみるが、やはり記憶違いではない。
あの木は、夢の中に出てきた枯れ木の傷と、細部まで寸分違わずそっくりだったのだ。植物として死んだこの樹木が枯れれば、ちょうどあんな風になるだろう。
すっと、背筋に冷たいものが走る。あれは、予知夢だったのだろうか?
「ジル、もう小回復分のマナ溜まってない? 疲れたんなら、もう少し離れたところで休みましょうよ」
エミリアの声に、我に返る。一体どれほどの時間、俺はあの木を見つめていたのだろう。
「あ――ああ、そうだな」
俺は混乱しつつも、自分に小回復をかけ、立ち上がる。
とっくに毒大蜘蛛の糸繭は回収し終わっていたらしく、死体も迷宮に吸収されて跡形もなかった。
「もう少しで次の魔物が湧いちゃうわ。みんなMPも少ないし、そろそろお昼にしましょ」
ぼうっとした頭で、言われるがままにエミリアに付いていく。どうやら魔物が湧かない通路で弁当を広げるつもりのようだ。
俺は、今一度、振り返って木の幹を眺める。
気のせいなんかじゃないぞ、と言わんばかりに、傷ついて枯れるのを待つばかりとなった迷宮の樹木は、堂々と立っていた。




